一顆明珠~住職の記録~

尽十方世界一顆明珠。日々これ修行です。いち住職の気ままなブログ。ときどき真面目です。

ベニバナマンサク

2007年02月28日 | 写真館・花(境内)
庫裏の庭に咲いたベニバナマンサクの一種。

コヨリ状の細い花弁が寄り集まって咲きます。

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ボケ

2007年02月28日 | 写真館・花(境内)
ボケの花。

名前に似合わず鮮やかな朱色です。

今年は開花が早いですね・・・


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仏師 西村公朝師の仏画

2007年02月27日 | 休憩
天台宗の僧侶でもある仏師、西村公朝師の仏画が好きだ。

脱力系のユーモラスな姿態。

目と目が離れ気味のニコニコした慈顔。

まったく無駄な力が抜けている。

一言で言うと最高に可愛い。

観てるだけでホッとする。


実は師の彫った仏像はあまり知らない。

知っている限りでは、永平寺の「ふれあい観音」。

また、鹿児島の永平寺出張所・紹隆寺のご本尊さま(三世如来<現在:釈迦如来、過去:阿弥陀如来、未来:弥勒如来>)も師の手によるものだ。

いずれも、柔らかいタッチの仏様である。


ともあれ、こんな仏画が描けたらなぁと思う。


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子どもより大切な存在ってあるかしら?

2007年02月26日 | 思い・子どもたち
当寺では毎月ささやかながら「ユニセフ」へ自動引き落としの寄付をしている。

ほかには「SVA(シャンティ国際ボランティア会)」、「国境なき医師団」などなど。

特にSVAは個人会員もしている。

恐らく、こうしたことは人に言わないほうが徳になるのだろうが、ブログ上で分かち合うことの大切さをアッピールするのも悪くはないだろう。

水が高所から低所へ流れるようにはなかなかなれないが、できるだけの寄付はしたい。

持てる者が持たざる者へ分かち合う。

少しでも平に近づけば。


寄付をする時は自分の中のマナ識と話し合う。

少し気張って出した方があとでモヤモヤしない。


さて、実は今日、定期的に送られてくるユニセフの報告書の中に同封されていたリーフレットの表紙に眼が釘付けになった・・・。

アフリカンの赤ん坊を抱っこした年老いたオードリー・ヘップバーン。

赤ん坊を見つめる彼女の慈愛に満ちた眼差し。

そこに記された言葉。

「子どもより大切な存在ってあるかしら?」

Children・・is there anything more important than a child?

こいつは参った・・・

一瞬打ちのめされた。

生前オードリーが、ユニセフの活動に関わっていたことは知っていたが、ここまで深く子どもたちを愛していたとは・・・。

こういう言葉はパフォーマンスでは出てこない。

ローマの休日でも天使のようだったが、老いてさらに彼女は天使に近づいたようだ。


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人前の挨拶

2007年02月24日 | 思い・日常
今日は、地域の史跡町づくり推進委員会の会合に出席した。

会の趣旨は、当寺にきわめて関係の深い○○城の城址周辺を整備して顕彰し、歴史のある町づくりを推進していくというもの。

市民はじめ民間企業、行政を巻き込んだ大掛かりな運動になりそうだ。

それはともかく、住職・園長という立場をしていると何かと人前で挨拶する機会が多い。

今日も、なんとまあ雄弁な現役若手衆議院議員のあとに挨拶が回ってきたのだからたまらない。

原稿なし。

いささか緊張はしたものの・・・なんとか気持ちは伝わったとは思う。

最近周囲に、ずいぶん雄弁になった、中には皮肉を込めてご高説を垂れるようになったといわれることがある。

私にとっては、たとえ皮肉交じりであってもこういう指摘は嬉しいものだ。

実は、かつては上がり癖がついてしまい大勢の人前で話すことにかなり苦手意識があった。

今でも人前で話すのは決して得意ではないものの、「使命感」が少しづつ芽生えてきたせいか苦手意識を克服しつつあるように思う。

思い起こせば、中学3年の頃まではきわめて快活な性格で、授業でも積極的に発言したり、国語の授業の朗読などを得意としていたのだ・・・

嫌味な社会科教師にみんなの面前でからかわれたせいかもしれない。

いつの間にか周囲の視線を過度に意識するようになってしまった。

ま、すべては自分の責任なのだから、不毛な責任転嫁はやめるとしよう。


住職・園長という立場にある以上は、これから何度も人前で挨拶をする機会が巡ってくるだろう。

これは逃げられない「使命」だと観念するよりほかあるまい。

「使命」となったら、やるしかない。

やるからにはできるだけしっかりやりたいと思う。

まず、苦手(「ダメ」)だと思わないこと。

苦手だと思うと、逃げたくなる、先延ばししたくなる。

「今でもそれなりにいいけど、まだまだだな」→「よし!もう少し頑張れる、もう少し頑張ろう!」。

この繰り返しで人は成長できる。

この意識のベクトルを大事にしていきたい。

コスモスは、私に「使命」を自覚することで「成長」することを望んでいるらしい。

住職・園長ともに、生易しくはないが、大きな使命を与えられたことに感謝したい。


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至福のひと時(acquaさん、C神父との坐禅と語らいのひととき)

2007年02月23日 | 哲学・思想・宗教
昨日はブログをきっかけに親しくさせていただいているacquaさんと、イタリア人のC神父が当寺にお越しくださいました。

はじめに、うららかな陽だまりが射し込む本堂でともに約30分間坐禅をしました。

清々しい気に身心が満たされた、あっという間の坐のひととき。

坐禅が充実しているときは決まって時間が経つのが早く感じられます。

その後で一緒にゆっくりとお話をさせていただきました。

なんと!C神父は駒澤大学仏教学部の大先輩(もっともC神父は大学院の修士課程ですが)。
(acquaさんから以前聞いたかもしれませんが・・・すっかり忘れていました。)

宗門人なら知らない者はいないであろう、宗門の碩学、鏡島元隆先生、河村孝道先生、酒井得元先生、奈良康明先生から親しく仏教学、正法眼蔵を学ばれたとのこと。

卒論は道元禅師と聖フランチェスコの比較研究。

日本に来る前から仏教に大きな関心があり、来日してからは禅に惹かれて、ついに駒澤大学の門を叩いたとのこと。

参禅経験も長いようでとても坐り慣れていらっしゃいました。

C神父とお話をしていて感じたのは、すでにC神父の中ではキリスト教と仏教の間に、根底における霊性の相違を認めていらっしゃらないということ。

穏やかに、しかし明瞭に「表現の違い」と仰っておられました。

なんということでしょうか・・・。

なんて素晴らしいのでしょうか・・・。

ここにも思いを共有する宗教者がいるとは・・・。

イエスさまとお釈迦さまが用意してくださった出会い。

仏縁とイエス縁の巡り会いとでもいいましょうか。

私たちの心が開いているからこそ招き寄せた出会い。


もう宗教は対立の時代ではなく、対話の時代に入っています。

もっと言えば、「共感の時代」かもしれません。

お互いがお互いを認め合い、お互いを好きになる。

そして、交流を通して底に流れる霊性を共有するということ。


カトリックのacquaさんとC神父には当寺に参拝いただき、ともに坐禅をさせていただいたことを何より誇りに思います。

まさに法喜充満の体験でした。


夜は岡野先生のコスモス・セラピーの講座。

終わってミーティングルームで一杯。

MさんとO町で一杯。

これほど学びが充実した日は久しぶりです。


acquaさんの真っ直ぐな瞳と、C神父の純朴な温かい眼差しを思い浮かべながらの記事。

BGMにはリヒター指揮のバッハ「マタイ受難曲」を聴きながら♪(宗教的感情の密度が極めて濃い。感動します。受難なのになぜか元気になる。)

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ルース・ファー

2007年02月21日 | 音楽
ボーン・アゲイン・イン・ザ・USA
ルース・ファー
Pヴァインレコード

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坐禅の友、Mさんに頂いたアルバム。

なんと形容しようか・・・。

個人的には、これは現代風に味付けしたアメリカ版のT・レックス(※)だと思った。

アマゾンの批評には指摘されていないが、T・レックスの音楽性に近いものが感じられてならない。

独特の気だるさを伴うゆるさ。

とにかく、ゆるい、ゆるい。

退廃の香り。

半音使いまくり。

肩透かし。

ありえない曲の展開。

アレレ~こんなのありなのかね・・・っていう感じ。

どこか懐古的でありつつ、メチャ斬新。

これといった目立ったサビもないのに変に高揚感を覚える。

ロックの進化形?

とても奇妙で愉快なアルバム♪


しかし、Mさん、あなどれない中年だね・・・

だてに予備校の人気教師やってない


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学びの友との語らい

2007年02月20日 | 思い・日常
昨夜は、学びの友、MさんとOくんと三人でO駅周辺で飲みました。

はじめにMさん行き付けの超穴場的な沖縄料理屋さんで一杯。

Oの町にこんな雰囲気のいい沖縄料理のお店があったとは・・・。

お洒落でシンプル。

月曜日の夜なのに、こじんまりした店内はすぐに客でいっぱいになりました。

まずは近海で獲れた新鮮な刺身に舌鼓。

金目、スルメイカの身がほのかに甘い・・・。

ラフティーもなかなか。

定番のタコライスもさっぱりとしていて美味かったです。

唯一泡盛の『白百合』のインパクトは強烈でしたが・・・

名前と裏腹で全然優しくない・・・仁丹、龍角散を飲んでいるような味でした。

そして、さらにもう一軒。

つぎに行ったのは、当寺の檀家さんがマスターをしているレストランバー。

ここは私の行きつけ。

美味しい洋食とカクテルを出してくれるお店です。


学びの友たちと飲む酒は格別でした。

語らうことで元気が出る。

「よし!頑張るぞ!」という気になる。

勝友とはかくあるべし。

サングラハを通じた掛け替えのない出会い。


ちなみにその前の晩は高校時代の坊さん仲間と飲みました。

M兄晋山式の祝賀会です。

幹事のKちゃん、大変お疲れ様でした。

昔の友と飲むのも「あの頃」に戻っていい感じです。

自分も含めどうしようもない人たちの集まりなんですが・・・

お互いにいいとこもわるいとこも、恥ずかしいとこも知り尽くしているところがいい。


二次会は二手に分かれ、一方は私がネットで調べた韓国居酒屋に連れて行きました(自分の韓流ブームに付き合わせてる?)。

そこで禁断のサンナッチをいただきました・・・。

石屋さんのN氏に教わりました(Nさん、読んでますか~?)。

これが美味なんです。

罪悪感を感じながら・・・。


実は二日酔い続きの毎日・・・暁天坐禅が辛い・・・

体のために今日は晩酌をパスしました。。。


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フランクルの言葉―1

2007年02月20日 | 哲学・思想・宗教
人生はたえず、意味を実現するなんらかの可能性を提供しています。ですから、どんなときでも、生きる意味があるかどうかは、その人の自由選択にゆだねられています。人生は、『最後の息を引き取るときまで』意味のあるものに形づくることができるといってもいいでしょう。人間は、息をしているうちは、そもそもまだ意識があるうちは、人生が出す問いにそのつどそのつど答えていくという責任を担っているのです。それは、人間存在とは意識存在、責任存在にほかならない、という人間存在の重要な根本事実を思い出せば、なんの不思議もないことですが。(『それでも人生にイエスと言う』V・Eフランクル 春秋社)


しばしば人は、実存的な苦悩に目覚めたときに、「人生に意味はあるか?」、あるいは「人生にどんな意味があるのか?」という問いを立てようと試みます。
しかしフランクルは、私たちの人生そのものに、言わばア・プリオリ(先天的・潜在的)に何かの意味が内在しているのではなく、人生の方から私たちに意味を実現するよう、なんらかの可能性を提供しているのだと述べています。
なぜなら、「人生」は、私たちに意味実現の選択を提供せずにはおれない構えを本質的に有しているからです。
その源泉となる人生の構えとはすなわち、人生の「有限性」、「一回性」ということにほかありません。
そもそも、わたしたちの人生が有限でなく一回限りでなければ、「行動・態度を選択する」ということの意味がなくなってしまいます。
私たちはこうした人生の根本的構えにおいて、そのつどそのつど(一瞬一瞬)、体験を通して意味を実現することに責任を担わされた存在(責任存在)であるということを自覚しなければならないでしょう。

まとめましょう。
人生に意味があるのではなく、人生の方が私に一瞬一瞬、そのつどそのつどの意味実現の場を提供しているということです。
意味を実現するか否かは、この私の意識の選択にかかっているということ。
したがって、「つねに自分の人生に責任を持つ」ということ。
こうしたあり方こそは、先述した人生の本質から考えて、まさに私たちの「本来的な生」を開示しているのではないでしょうか。


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道元禅師鎌倉行化顕彰碑

2007年02月17日 | 写真館・その他
昨日は、幼稚園の仕事で鎌倉に行ったので、帰りに道元禅師の顕彰碑に立ち寄ってきました。

なにか、ついでのようで申し訳ないのですが・・・。

石碑の前で三拝して、ゴミがいくつか落ちていたので拾って帰りました。

これから折りを見て掃除に行こうと思います。


この顕彰碑は神奈川県内有志寺院の思いの結晶。

特に、実行委員の方々のご尽力には頭が下がるばかりです。

私も多少なりともお手伝いしていこうと思います。

宮崎禅師揮毫の堂々とした「只管打坐」の文字が、清々しく心に響きました。


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