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飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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万葉アルバム(奈良):桜井、忍坂

2010年08月16日 | 万葉アルバム(奈良)

秋山の 木の下隠り 行く水の
我れこそ増さめ 思ほすよりは
   =巻2-92 鏡王女=


 秋山の木の下を隠れて流れて行く川の水かさが増さるように、私こそ思いはまさっています。あなたがお思いになられるよりは。という意味。

 この歌は、天智天皇が鏡王女(かがみのおおきみ)に贈った歌に和して詠んだ歌。
鏡王女は、その墓が舒明天皇陵の領域内に営まれていることなどから、舒明天皇の皇孫と考えられている。
鏡王女は、臣下の藤原鎌足と結婚している。皇族が臣下と結婚することは、この時代では異例中の異例のことで、天皇家と鎌足家との間に血族的な繋がりを築くという重要な役割を、天智天皇に託された。鏡王女は、天智天皇にとって、最も気の置けない、そして信頼できる親族であったに違いない。

 この歌は、皇太子時代の天智天皇の歌、
  「妹が家も 継ぎて見ましを 大和なる 大島の嶺に 家もあらましを」
に和して詠んだ歌である。

 また鏡王女は藤原鎌足の妻であるが、額田王の姉といわれている。

 この万葉歌碑は舒明天皇、鏡王女、そして大伴皇女の眠る、奈良県桜井忍阪(おっさか)のこの静かな谷、まさに日本古代の「王家の谷」ともいえる場所に建っている。

万葉アルバム(奈良):橿原、畝火山口神社

2010年07月19日 | 万葉アルバム(奈良)

思ひあまり いたもすべなみ 玉だすき
畝傍の山に 我れは標(しめ)結(ゆ)ふ
   =巻7-1335 作者未詳=


 思いあまって何とも仕方がなくなり、畝傍山に、私のものだというしるしを結び付ける。という意味。

 「たまだすき(玉襷)」は美しい襷(たすき)を頚(うなじ)に掛けるという意で、「頚(うなじ)」と同じ音を含む「畝火(うねび)」にかかる枕詞。
「標結ふ」は場所の領域を示し、縄などで結んで印(しるし)としたり木をたてたりして立ち入りを禁止することをいう。
この歌の作者は標を結い、恋の成就を畝火の山神に祈ったと思われる。
好きな相手が自分にはどうすることもできない人なので、一途に神頼みに。

この万葉歌碑は奈良県橿原市大谷町の畝火山口神社(おむねやまくちじんじゃ)にある。
この神社は畝傍山(畝火山)の山麓に位置し、この地で応神天皇が産まれたという言い伝えがある。
御祭神は応神天皇の母、気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)・豊受姫命(とようけひめのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと)。
参道の傍らには国学院大学教授樋口清之氏によるこの万葉歌の歌碑がある。

万葉アルバム(奈良):大坂越え・竹内峠

2010年06月24日 | 万葉アルバム(奈良)

大坂を 我が越え来れば 二上に
もみじ葉流る しぐれ降りつつ
   =巻10-2185 作者不詳=


やっと峠を越えてきたのに、二上山は時雨が降りしきり、せっかく色づいた木の葉が散ってしまう。という意味。

「大坂」は奈良県北葛城郡二上山の北方を越える坂で、竹内峠であると思われる。
推古天皇21年(613年)冬11月、「難波より京へ大道を置く」と最古の官道の建設を示す記載が日本書紀にある。これをほぼ踏襲しているのが、竹内街道。二上山の麓の竹内峠を超えて大阪と奈良を結ぶ道・・悠久の歴史とロマンにあふれる道である。

聖徳太子もこの峠を越えて四天王寺と飛鳥を往復したとされる。また、遣隋使などの使節もこの峠を越えて飛鳥京を訪れた。当時は難儀をしてこの峠越えをしたのであろうか。現在は峠のすぐ北を深く掘り下げられ、国道166号が通っており、面影は薄れている。

この万葉歌碑は二上山雌岳山中に建っている。


万葉アルバム(奈良):橿原、畝尾都多本神社

2010年06月17日 | 万葉アルバム(奈良)

哭沢(なききは)の 神社(もり)に神酒(みわ)据ゑ 祈れども
我が大君は 高日(たかひ)知らしぬ
   =巻2-202 檜隈女王=


 哭沢の神社に神酒を供えて皇子がこの世に止まれるように祈ったけれども、皇子は天に昇ってしまった。という意味。

「高日(たかひ)知らす」とは、《天上を治める意から》天皇・皇族など高貴の人が死去することをいう。

高市皇子の病の快癒のため哭沢神社に神酒を手向け祈った檜隈女王であったが、その甲斐なく皇子はお亡くなりになったと歎いて歌った歌。

万葉歌碑は橿原市木之本町の畝尾都多本(うねびつたもと)神社の境内にある。
哭沢の神社は畝尾都多本神社のこと。祭神は「啼沢女神」。
神社の由緒によると、「伊耶那美神が火之神を出産したときに亡くなられたので、伊耶那岐命は悲しまれ、伊耶那美神の枕元に腹這いになったり、足元に腹這いになって大声で泣いた。その時に流れた涙から生まれた神が香具山の畝尾にある木のもとに坐す泣沢女と呼ばれる神だ。」と記されている。
伊耶那岐命が腹這いになりながら泣くというのは、葬送で行われる、死者を復活させる呪術的な儀礼、哭礼の起源とされている。

万葉アルバム(奈良):奈良、東大寺

2010年06月10日 | 万葉アルバム(奈良)

わが背子と 二人見ませば 幾許(いくばく)か
この降る雪の うれしからまし
   =巻8-1658 光明皇后=


 わが夫の君と、もし二人で見るのなら、どんなにか、いま降っているこの雪が喜ばしく満足に思われることであろう。という意味。

光明皇后(こうみょうこうごう)が、聖武天皇に贈った歌。
光明皇后は聖武天皇と同じ年に生まれ、その皇太子の時に数え年16で妃、即位の時に大夫人となり、そして長屋王の変を経て、天平元年(729)に皇后となった。
756年(天平勝宝8年)に聖武天皇崩御し、その遺愛のかずかずが光明皇太后から大仏に献じられた。すなわち、今日の正倉院宝物の中心となっている。その中に皇后の自筆、「藤三娘」の自署ものこり、その臨書の中には、「雲霏雪白」、雪の日に炉辺で一緒にお酒を飲みたい、と故旧を偲ぶ手紙の手本もあったようで、この歌と重なるところが興味深い。

万葉アルバム(奈良):桜井、粟原廃寺跡 ゆずりは

2010年06月03日 | 万葉アルバム(奈良)

いにしへに 恋ふる鳥かも 弓弦葉(ゆずりは)の
御井の上より 鳴き渡り行く
   =巻2-111 弓削皇子=


 昔を懐かしむ鳥でしょうか、ユズリハの井戸の上から鳴きながら飛んで行きます。という意味。


いにしへに 恋ふらむ鳥は ほととぎす
けだしや鳴きし 我が恋ふるごと 
   =巻2-112 額田王=


 ・・・昔を恋いしがるのはホトトギス。私が恋しく思うように鳥もまた鳴いたのでしょう。という意味。

これは相聞歌で、弓削皇子が吉野から額田王に送り、額田もそれに応じた歌だとされている。
 父と同時代を生き今は老いてしまった女性に子が送った歌。当時、弓削皇子は20代、額田王は60代とも言われいる。
 ホトトギスは歌にあるように懐古の鳥、ユズリハは新芽とともに古い葉が皆落ちて「譲る」のがその名の由来になっている。
 弓弦葉の御井と呼ばれた井戸が、何処にあったのかは全く不明だそうだ。

 万葉歌碑は桜井市大字粟原の粟原寺跡(おおばらでらあと)にある。

 粟原集落の天満神社境内とその隣接地に、塔と金堂の跡が残っている。
粟原寺建立の次第を刻んだ三重塔伏鉢(国宝・談山神社蔵)の銘文によると、仲臣朝臣大嶋が草壁皇子のために建立した寺で比売朝臣額田が持続天皇8年(694)から造営を始め、和銅8年(715)に完成したことがわかっている。

 粟原寺跡にあった説明板によると、「 当地は、有名な萬葉の女流歌人・額田王の終焉の地だ」と言う伝承が遺されている。
額田王の姉といわれる鏡王女の墳墓が粟原寺の近くにあり、額田王は姉の墓をも守りながら、晩年をこの地で過ごしたのは、夫であり草壁皇子の父でもある天武天皇のゆかりの地であったからだろうか。


ゆずりは:4~5月古い葉の付け根に茶色の小花を咲かせ、春の新葉を見とどけて古い葉が散るので譲り葉と呼ばれる。円形の実は秋には藍色に熟す、政治家や企業人もかくありたい・いつまでも権威にしがみついていては若い力が育たない・目出度い植物として正月の鏡餅の飾りに使われる。雄雌異株、葉の茎が赤い特徴がある。葉の表面は光沢があり、日当たりの良い暖かい山に生える。

こちらの万葉歌碑は千葉県袖ケ浦市の袖ヶ浦公園万葉植物園に建っているもの。

万葉アルバム(奈良):吉野、近鉄吉野駅前

2010年05月20日 | 万葉アルバム(奈良)

よき人の よしとよく見て よしと言ひし
吉野よく見よ よき人よく見
   =巻1-27 天武天皇=


 昔のよい人がよい所だとよく見て、よいと言った吉野をよく見なさい。よい人よ、よく見なさい。という意味。

天武天皇にとっては吉野は壬申の乱(672)の兵を挙げ、この戦に勝利して天武朝の基礎を築く出発地となった神聖な場所であった。

 天武天皇が自分の後を継ぐ人たちに自分の思いを伝えた歌である。
壬申の乱から7年後、天武8年(679)に吉野行幸をした天武天皇は、5月5日にこの歌を作り、翌6日には吉野宮において6人の天皇ゆかりの皇子たちに、天皇と皇后に忠誠を誓う「六皇子の盟約」が行われた。
壬申の乱の旗揚げの地である吉野を選んで「この地をよく見よ」と言い、そして「あの戦乱のことを忘れるな」と釘を刺し、さらに「吉野こそが我が皇統発祥の聖地である」と皇子たちに教えた。天武天皇にとって壬申の乱は、自分の運命を変えた戦であり、戦への気概を養ったのが吉野であるとの強い思いが、この歌に現れている。
しかし何とリズムカルな軽妙な歌であろうか。天武天皇が酒席の宴か観劇の場で強い思いを間接的に伝えたと見たほうがよいと思う。

歌の歌碑は近鉄吉野駅前の広場の一角に建っている。ここは吉野山へ向かう人達が出発する場所である。

万葉アルバム(奈良):桜井、春日神社

2010年05月17日 | 万葉アルバム(奈良)

家ならば 妹が手まかむ 草枕
旅に臥(こ)やせる この旅人あはれ
   =巻3-415 聖徳太子=


 家にいたならば、妻の手枕で休むことができたろうに…、旅に出て倒れてしまっているこの旅人の何と哀れなことか。という意味。

『日本書紀』に、聖徳太子が道に倒れている旅人に食物と衣を与えたという説話があり、「しなてる 片岡山に 飯に飢て 臥やせる その旅人あはれ 親なしに 汝生りけめや さす竹の 君はやなき 飯に飢て 臥やせる その旅人あはれ」の歌が載せられている。

聖徳太子は605年に斑鳩宮に遷るまで住んでいた宮が上宮(かみつみや)という場所にあったため上宮皇子とも呼ばれている。桜井市上之宮(うえのみや)近くの、寺川を見下ろす台地で飛鳥時代の住居跡が発見され、上之宮遺跡と名付けられた。ここは聖徳太子が斑鳩宮に遷るまで居所とされた上宮(かみつみや)の跡とされている。
発掘された居館跡は、住宅の中に「上之宮庭園遺跡」としてその後史跡として整備されている。

 歌碑がある上之宮春日神社は上之宮遺跡の程近くにある。ここも聖徳太子の何らかのゆかりの神社なのであろうが、詳しいことはわからない。

万葉アルバム(奈良):桜井、長谷寺

2010年05月10日 | 万葉アルバム(奈良)

こもりくの 泊瀬(はつせ)の山は 色づきぬ
しぐれの雨は 降りにけらしも
   =巻8-1593 大伴坂上郎女=


 こもりくの泊瀬の山は色づいた。時雨の雨が降ったのだろう。という意味。

大伴坂上郎女が、竹田の庄で作った歌。竹田の庄は、坂上郎女が現在の奈良県橿原市東竹田町に所有していた田荘で、かなたに望む泊瀬の山が紅葉しているのを見て、「泊瀬では、きっと時雨が降ったのだろう」と思いをめぐらせている。時雨の雨を予測することは田荘の農作業に大切であり、この田荘を所有している大伴坂上郎女の気配りでもあるようだ。

この歌碑は長谷寺納経堂前にある。犬養孝先生の揮毫。
隠国(こもりく)は、初瀬(泊瀬・はつせ)にかかる枕詞で、奥深い山間に隠れた地のことで、万葉の時代も歌に詠まれていた。
こもりくの初瀬の地には長谷寺があり、「初瀬寺・泊瀬寺・豊山寺」とも呼ばれてきた。長谷寺は真言宗豊山派の総本山。朱鳥元年(686)、道明上人が天武天皇のために千仏多宝仏塔を安置されたのが始まり。その後、神亀4年(727)に徳道上人は聖武天皇の勅願により、本堂に本尊の十一面観音菩薩をお祀りして依頼、全国の観音信仰の聖地になった。平安時代の王族・貴族からも「長谷詣で」といわれて手厚い信仰を受けていた。

 長谷寺はまた一名「花の御寺」と呼ばれ四季折々花々で彩られるので名高い。桜・ボタン・シャクナゲ・秋の紅葉・・・などなど。

万葉アルバム(奈良):奈良、三笠山

2010年04月19日 | 万葉アルバム(奈良)

春日(かすが)なる 三笠の山に 月の舟出(い)づ
風流士(みやびを)の 飲む酒坏(さかづき)に 影に見えつつ
   =巻7-1295 作者未詳=


 春日の三笠の山に、船のような月が出た。風流な人たちが飲む酒杯の中に映り見えながら。という意味。

七夕の夜の宴で詠まれた歌と見る説があり、この月の船を漕ぐ月人壮士は、七夕の夜に彦星を乗せて天の川を渡す、渡し守であろうとしている。
いずれにしろ風流心をくすぐる歌であるといえる。

 三笠の山は万葉以降も歌に読まれ、有名な
「天の原ふりさけ見れば 春日なる三笠の山に出でし月かも」(安倍仲麿・古今集406)
は百人一首の中に採用されている。

 万葉歌碑は明日香の万葉文化館の庭に置かれている。

万葉アルバム(奈良):山の辺、巻向山

2010年02月25日 | 万葉アルバム(奈良)

穴師川(あなしがは)川波立ちぬ巻向(まきむく)の
弓月(ゆつき)が岳に雲居立てるらし
   =巻7-1087 柿本人麻呂歌集=


 穴師川に川波が立っている。巻向の弓月が岳に、雲がわき立っているらしい。という意味。

「穴師川」は巻向川の別名。「弓月が岳」は奈良県巻向山の最高峰。
『柿本人麻呂歌集』は、万葉集編纂の際に材料となった歌集の一つ。人麻呂自身の作のほか、他の作者の歌や民謡などを集めている。

人麻呂歌集の中に雲を詠める歌二首があり、川が音高く流れるさまに対比させて、その川のほとりに聳えている山の端に雲の立つ様子を詠んだもの。自然の事象を雄大にとらえているとして、斉藤茂吉らアララギの歌人らが高く評価した。茂吉らは、これらの歌を人麻呂のものではないかと解釈したようだ。

この万葉歌碑は、奈良県桜井市箸中車谷に、板画家棟方志功の手になる非常にめずらしいもので、万葉歌の上部には風景画も刻まれている。



万葉アルバム(奈良):桜井、磐余

2010年02月14日 | 万葉アルバム(奈良)

ももづたふ 磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨(かも)を
今日のみ見てや 雲隠りなむ
   =巻3-416 大津皇子=


 磐余の池に鳴いている鴨を見るのも今日限りで、私は死ぬのだろうか。という意味。

 大津皇子(おおつのみこ)は天武天皇の御子。「詩賦の興(おこり)は大津より始まる」といわれたほど文筆を愛し、容貌も大柄で男らしく人望も厚かった。草壁皇子に対抗する皇位継承者とみなされていたが、686年、天武天皇崩御後1ヶ月もたたないうちに、反逆を謀ったとして処刑された。草壁の安泰を図ろうとする持統皇后の思惑がからんでいたともいわれる。
 
 この歌は、大津皇子が刑の宣告を受けて詠んだ歌。もはや逃れることのできない死をはっきりと予感し、「磐余の池に鳴く鴨」たちの姿に、永続する声明の確かさをしっかりと見据えなおそうとする皇子の、空しくも悲痛な叫びが吐露されている。大津の妻・山辺皇女(やまべのひめみこ)は、夫の死に際して悲しみのあまり裸足で外へ飛び出し、後を追ったという。「ももづたふ」は「磐余」にかかる枕詞。「磐余の池」は奈良県櫻井市にあった池。「雲隠る」は死んでいくことを意味する。

桜井市吉備にある吉備池北堤にこの歌碑が建っている。この吉備池がいにしえの磐余の池と推定されている。



万葉アルバム(奈良):吉野、吉野川

2010年01月21日 | 万葉アルバム(奈良)

やすみしし わご大君(おほきみ)の 聞(きこ)しめす 天(あま)の下に 
国はしも 多(さは)にあれども 山川の 清き河内(かふち)と 
御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 
宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 
船並(な)めて 朝川渡り 舟競(ふなきほ)ひ 夕河渡る 
この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 
水たぎつ 滝の都は 見れど飽かぬかも
   =巻1-36 柿本人麻呂=

見れど飽かぬ吉野の河の常滑(とこなめ)の
絶ゆることなくまた還(かへ)り見む
   =巻1-37 柿本人麻呂=


 (巻1-36)わが大君が御統治なさるこの天下に、国は実に多くあるけれども、山や川の清く美しい河内であるとして御心をお寄せになる吉野の国の、花がしきりに散っている秋津の野辺に宮殿を立派にお作りになっていらっしゃるので、お仕えする人々は舟を並べて朝の川を渡り、舟の先を競って夕方の川を渡ってくる。
 この川の流れのようにいつまでも絶えず、この山が高いようにいよいよ立派にお治めになる、この水の激しく流れ落ちる滝の御殿は、いくら見ても飽きることがない。

 (巻1-37)いくら見ても飽きない吉野の川の滑らかな岩のように、いつまでも絶えずやって来て、この吉野の宮を眺めよう。 

吉野町宮滝は、天武天皇・持統天皇のころの離宮(吉野宮)があったとされる。天武天皇は、この地に皇后(後の持統天皇)、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、河嶋皇子、忍壁皇子、芝基皇子と共に行幸し、「千年の後まで、継承の争いを起すことのないように」と盟約を結んだ場所だ。持統天皇に至っては在位の間に、この吉野に31回も行幸している。

この歌は、持統天皇の行幸の折に柿本朝臣人麻呂が離宮を称えて奉った歌である。
 
 36の「やすみしし」は「わが大君」にかかる枕詞。「河内」は川を中心として山々に囲まれた場所をさす。「秋津」は離宮のあった地名。「ももしきの」は「大宮」にかかる枕詞。「大宮人」は宮殿に仕えている人々のこと。37の「 見れど飽かぬ吉野の河の常滑の」は、「絶ゆることなく」を導く序詞。

宮滝辺りの吉野川は大きな岩盤の間をとうとうと美しく流れ、昔と変わらない見事な景観を残している。悠久の時の流れを深く感じる場所である。
この万葉歌碑は、この辺りに吉野宮があったであろうとされる中荘小学校の校庭に建っている。

万葉アルバム(奈良):山の辺、玄賓庵

2010年01月07日 | 万葉アルバム(奈良)

山振(やまぶき)の 立ちよそひたる 山清水(やましみず)
酌(く)みに行かめど 道の知らなく
   =巻2-158 高市皇子=


 山吹の花が咲いている山の清水を汲みに行こうと思っても、どう通って行ったらよいか、道が分からないのです。という意味。

この歌については、万葉アルバム(明日香):万葉記念館で既に取り上げているので、説明は省略する。

この歌碑がある玄賓庵(げんぴあん)は、山の辺の道沿いにあり大神神社と桧原神社の間に位置している。玄賓庵は世阿弥の作と伝えられる謡曲「三輪」に登場している。謡曲では、玄賓(げんぴん)僧都がこの場所で三輪明神の化身である女性と知り合い、三輪の故事神徳を聞かされたという。

写真は、玄賓庵わきの山の辺の道の桧原神社へ向かうところにある道標。このあたりは山の辺の道の雰囲気を良く残している。

万葉アルバム(奈良):山の辺、桧原神社 ひのき

2009年12月28日 | 万葉アルバム(奈良)

いにしへに ありけむ人も 吾(わ)が如(ごと)か
三輪(みわ)の檜原(ひばら)に 挿頭(かざし)折りけむ
   =巻7-1118 柿本人麻呂歌集=


 昔の人も私と同じように、三輪の桧原(ひばら)の檜(ひのき)を手折って、山葛(やまかずら)として頭にかざしていたのでしょう。という意味。

「桧原」は桧(ひのき)の生えている原。「挿頭(かざし)」は枝や花を折り取って髪に挿すこと。檜(ひのき)の葉をかざすというのは三輪の神への信仰の行為だったようだ。

三輪山の北西の麓、山の辺の道沿いに檜原神社がある。神域を示す鳥居と朱塗りの垣はあるが、社殿はない。大神神社と同じで背後の三輪山をご神体として拝する原初的な社なのである。


檜(ヒノキ)
ヒノキ科ヒノキ属の針葉樹。日本と台湾にのみ分布する。葉は鱗片状で枝に密着し、枝全体としては扁平で、細かい枝も平面上に出る。ヒノキは、日本では建材として最高品質のものとされる。正しく使われたヒノキの建築には1,000年を超える寿命を保つものがある。戦後人工的に植えられたヒノキが現代に花粉をまき散らし、公害となっているのもヒノキの一面を見るようだ。


こちらの万葉歌碑は、奈良県橿原市にある万葉の森に置かれているもの(2011/11/14写す)。