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飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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万葉アルバム(奈良):奈良、法華寺

2011年10月24日 | 万葉アルバム(奈良)

いにしえの 古き堤は 年深み
池の渚に 水草(みくさ)生いにけり
   =巻3-378 山部赤人=


ずっと昔に造ったこの古い泉水は、年が深く積み重なったので、池の波打ち際に水草が生えているのだった。という意味。

山部赤人が故藤原不比等邸の庭園を詠んだ歌。
山部赤人は不比等の生前度々招かれて歌を詠んでいたのであろう。
上の万葉歌に見える「古き堤」は、不比等邸にあった池の堤のことである。

法華寺のこの場所には、もともと藤原不比等の邸宅があった。
それが、不比等の死後、その娘である光明皇后の皇后宮となり、
天平17(745)年、東大寺の総国分寺に対する、総国分尼寺として「法華滅罪之寺」となった。

近くの平城宮跡に宮跡庭園として曲水の池を復元したものがある。当時の貴族の優雅な生活が偲ばれるような庭園だ。おそらくこれと同じような見事な庭園があったのだろうと想像される。

この万葉歌碑は法華寺本堂の前庭に建っている。






万葉アルバム(奈良):磯城郡、三宅の原 あざさ(アサザ)

2011年08月01日 | 万葉アルバム(奈良)

うちひさつ 三宅の原ゆ 直土(ひたつち)に 足踏み貫き
夏草を 腰になづみ いかなるや 人の子ゆゑぞ
通はすも我子(あこ) うべなうべな 母は知らじ うべなうべな 父は知らじ
蜷(みな)の腸(わた) か黒き髪に 真木綿(まゆふ)もち あざさ結ひ垂れ
大和の 黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)を 押へ刺す
うらぐはし子 それぞ我が妻
   =巻13-3295 作者未詳=

父母に 知らせぬ子ゆゑ 三宅道の
夏野の草を なづみ来るかも
   =巻13-3296 作者未詳=


(長歌)三宅の原を通り、じべたに足踏み込んで、夏草を腰でかき分けして、どういう娘さんが通っているのかね。それはそうさ、お母っかさん、お父っつぁん、なんか知るまい。その人はね、真っ黒な髪に真木綿で、あざさ型に結び大和産の黄楊の櫛おさえしている素晴らしい私の妻だよ。
(短歌)両親に内緒で彼女の所に通い続けた。夏の三宅は草いきれでムンムンしていた。暑いのによく通ったものだなあ。

青年の心の弾むような歌である。

万葉集に出てくる「三宅の原」は、古代天皇の稲作の御料地「屯倉(みやけ)」、「屯田(みた)」のことで、現在の「三宅町」及びその近傍辺りとされる。

”あざさ”は、現在のアサザの花のことをさす。
蜷(ミナ)は田螺(タニシ)の古名で「美菜」即ち美味な食べ物の意とされている。
蜷の腸(ワタ)は黒焼きにして食べたり眼病などの薬とされていたようだ。

アサザの花
万葉名「あざさ」、現代学名「アサザ」(ややっこしい!)

アサザは「池や沼に生えるリンドウ科の多年生水草で、夏の午前中に黄色い五弁の花を咲かせる。花の大きさは3~4センチ。花は早朝に開き昼頃萎むが、次々と開花する。「絶滅危惧種」に指定されている。

万葉集で「三宅の原」の花として詠まれている。

この万葉歌碑は磯城郡三宅町伴堂にあり、三宅の原をよんだ歌の歌碑(犬養孝氏揮毫)が平成8年(1996年)3月に建立された。

また聖徳太子が飛鳥と斑鳩を往復したという伝承のある直線道路「筋違道」(太子道)が三宅の原を斜めに走っていた。三宅町には太子道の痕跡が残る。

三宅町黒田の太子道
太子は、毎日、愛馬の黒駒に乗ってこの道を通り、三宅町屏風の地で休憩を取ったと言い伝えられ、屏風の杵築神社にはこの様子を表した絵馬が、白山神社には太子が腰を掛けたと伝えられる「腰掛石」が残されている。

万葉アルバム(奈良):山の辺、井寺池

2011年07月20日 | 万葉アルバム(奈良)

みもろは 人の守る山
本辺は 馬酔木花咲き
末辺は 椿花咲く
うらぐはし 山ぞ 泣く子守る山
   =巻13-3222 作者未詳=


三諸は(三輪山)人がみだりに立ち入ることなく、大切に守ってきている山である。麓のあたりにはあせびの花が咲いており、山頂のあたりは椿の花が咲いている。泣く子を守るように、人があれこれ気を使って、守っているこの山は、まことに美しい山だ。
という意味。

五・三・七音句で結び、古い謡い物の型を踏まえている。
「うらぐはし」、「うら」は心、「くはし」は霊妙な美しさを表す。
心にしみて美しく思われる、の意。
「泣く子」、「守る山」を強調するために置いたことば。
            -----新潮日本古典集成 万葉集-----

この万葉歌碑は山之辺の道の井寺池北岸に立っている。
この場所から三輪山を間近に望むことができる。        

万葉アルバム(奈良):山の辺、桧原神社

2011年07月06日 | 万葉アルバム(奈良)

いにしへの 人の植ゑけむ 杉が枝に
霞たなびく 春は来ぬらし
   =巻10-1814 柿本人麻呂=


昔の人が植えたという杉の枝に霞がたなびいます、春が来たのでしょう。という意味。

杉は間伐をして、枝打ちをしなければ大きく真っ直ぐに育たないことからわかるように、いにしえより杉の植林が行われていたのである。

「いにしえの・・」見事な杉木立を古人の植林の結果とみたてて表現している。

 この万葉歌碑は山之辺の道・茅原の桧原神社近くに立っている。

万葉アルバム(奈良):山の辺、箸中車谷

2011年06月22日 | 万葉アルバム(奈良)

巻向の 山辺響(とよ)みて 行く水の
水沫(みなわ)のごとし 世の人我れは
   =巻7-1269 柿本人麻呂=


巻向の山辺を音を立てて流れていく水にできる沫のようなものだなぁ、人の世を生きるということは。という意味。

巻向川は、巻向山と三輪山、穴師山の間の谷川を集めて、穴師、車谷の村の中を流れていく小川だが、上流部は山峡で落差が大きいため急流でゴウゴウと川音を立てて流れていくそうだ。

この万葉歌碑は桜井市箸中車谷の道路北側民家の前に立っている。
箸中車谷のこのあたりは柿本人麻呂の妻が住んでいたところ。大和青垣の斜面を利用した蜜柑畑が多く栽培されている。


万葉アルバム(奈良):山の辺、桧原神社の幣(ぬさ)

2011年06月13日 | 万葉アルバム(奈良)

三輪山の 山辺真麻木綿(まそゆふ) 短木綿(みじかゆふ)
かくのみからに 長くと思ひき
    =巻2-157 高市皇子=


三輪山の山辺にある真麻の木綿は短いものだ。そのように命も短いものなのに、いつまでも長くつづく命だと思っていた。という意味。

「木綿」とは、ここでは神に捧げる幣(ぬさ)をつくるための麻の布のことで、三輪の山辺では短い幣が特徴だったようだ。
幣(ぬさ)は祈願をし、または、罪・けがれを払うため神前に供える幣帛(へいはく)。紙・麻・木綿(ゆう)などを使う。みてぐら。御幣(ごへい)ともいう。

十市皇女(とをちのひめみこ)の薨(かむあが)りましし時に、高市皇子尊(たけちのみこのみこと)の作りませる御歌三首の中の一首。
高市皇子と十市皇女はひそかに愛し合っていたといわれるが、結婚は許されなかったようだ。十市は大友皇子に嫁いだが壬申の乱で大友は死に、十市は父大海人のもとに戻り、肩身の狭い思いで生きる。伊勢神宮に入る事を父から言われたあと、突然亡くなった。自殺ともいわれている。
愛する人が突然、死を選んだという高市の無念の気持ちが、この歌に現れている。

この万葉歌碑は茅原の穴師川近くの山の辺の道沿いに建っている。
桧原神社は拝殿・本殿共になく、「三ッ鳥居」を通して、ご神体である「三輪山」を拝する形をとっている。写真中央右手に見えるのが幣(ぬさ)。

万葉アルバム(奈良):山の辺、巻向山

2011年05月02日 | 万葉アルバム(奈良)

みもろの その山なみに 子らが手を
巻向山は 継ぎしよろしも
   =巻7-1093 柿本人麻呂=


三輪山のその並びに、子らが手を巻くように続く巻向山は、続き具合が好ましい。という意味。

柿本人麻呂は巻向山や巻向川などを歌った、写実的で躍動感あふれた秀歌が多く残っている。このあたりに人麻呂自身か妻かが住んでいたと考えられている。

この歌碑は穴師集落への分岐点付近にあり、ここからは集落の背後に形の良い巻向山が横たわっているのが良く見える。写真には見えないがこの右手に三輪山がたたずんでいる。

万葉アルバム(奈良):山の辺、穴師坐兵主神社

2011年04月11日 | 万葉アルバム(奈良)

天雲に 近く光りて 鳴る神の
見れば畏し 見ねば悲しも
   =巻7-1369 作者未詳=


天雲の近くに光る雷(かみなり)のように、見れば恐れ多いし、見なければ悲しいし。という意味。

この歌を詠んだ人が恋したっている人を雷にたとえた歌で、恐れ多い程に身分が高い人だったのだろう。

山辺の道の穴師の里の奥深い山裾に穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうずじんじゃ)がある。
穴師坐兵主神社は訪れる人が少なくひっそりとたたずんでいるが、山奥に似合わず小さいが瀟洒な伽藍を目の当たりにする。垂仁天皇2年に倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったといわれている。なんと紀元前の話である。三つの神社を合わせて祀っているため、神殿はいずれも三ツ屋根造りとなっている全国にその例を見ない神社なのである。

この万葉歌碑は神社の片隅に置かれている。

万葉アルバム(奈良):山の辺、穴師相撲神社

2011年03月28日 | 万葉アルバム(奈良)

巻向の 檜原もいまだ 雲居ねば
小松が末ゆ 沫雪流る
    =巻10-2314 柿本人麿歌集=


巻向の桧の原にまだ雲がかかっていないのに、松の枝先を沫(泡)雪が流れるように降っている。という意味。

雲も出ていないのに思いがけなく雪が降ってきた驚きと喜びをすなおに歌っている。
万葉学者・伊藤博氏は、「調べは雪の流れに融けあい表現の神秘すら感じさせる、人麻呂声調の極地」と絶賛、小説家杉本苑子さんも、「声に出して誦(ず)したい作品群中でも特に流麗な一首。このような作品には訳など無用なもの」と、最大級の賛辞を送っている。

桜井市穴師付近が巻向の地といわれている。
この万葉歌碑は穴師の兵主相撲神社に建っている。第11代・垂仁天皇(すいにん)の7年7月7日、ここで野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)が戦った国技相撲の発祥地。野見宿禰が当麻蹴速のあばら骨を踏み砕き、また腰を踏みくじいて殺してしまい、当麻蹴速の土地は没収されて野見宿禰に与えられた、と日本書紀に記されている。

万葉アルバム(奈良):山の辺、石上神宮外苑公園

2011年03月07日 | 万葉アルバム(奈良)

石上(いそのかみ) 布留(ふる)の神杉 神びにし
我れやさらさら 恋にあひにける
   =巻10-1927 作者不詳=


石上の布留にある神杉のように「神々しくなった私」だが、今新しい恋に出会ってしまった、という歌。

「神々しくなった私」とは、年老いてしまった男性をさすのか、あるいは神々しくなった巫女である女性をさすのか、二通り考えられると思うが、石上神宮の凛とした神杉を見上げていると、「私」とは男性だろうと確信できる。

この歌碑は天理市杣之内町の石上神宮外苑公園に建っている。


万葉アルバム(奈良):山の辺、天理市役所

2011年02月28日 | 万葉アルバム(奈良)

我妹子(わぎもこ)や 我(あ)を忘らすな 石上(いそのかみ)
袖布留(そでふる)川の 絶えむと思へや
   =巻12-3013 作者不詳=


私のことを忘れないでくださいね。布留川の流れが絶えないように…。という意味。

布留の高橋。そこを渡りつつ妻のもとへと急ぐ男の姿を詠んだ歌である。

万葉の布留の地名を今に残す場所に建つ石上神宮。すぐそばを“万葉の布留川”が流れる。竜王山を源に天理市内を横切り初瀬(大和)川へ。石上神宮辺りを境に下流はコンクリートで護岸され素っ気なくなったが、上流はまだ自然が残り、万葉人の歌ごころが伝わってくるところである。

この万葉歌碑は天理市役所の一角に立てられている。その脇にはおそらく布留川からの流水であろうか、水清く流れている。

万葉アルバム(奈良):山の辺、崇神天皇陵

2011年02月14日 | 万葉アルバム(奈良)

玉かぎる 夕さり来れば さつ人の
弓月が岳に 霞たなびく
   =巻10-1816 柿本人麻呂歌集=


夕方になって巻向山の高峰である弓月が岳に霞がたなびいている、という意味で、春が近づきつつあるという気持ちを歌ったものである。

「玉かぎる」は玉がほのかに光を出すという意味で、「夕」に掛かる枕詞である。

「かぎる」・・「かぎろい」ですぐ思い出されるのは、柿本人麻呂の
ひむがしの 野にかぎろひの立つ見えて
かへり見すれば 月かたぶきぬ (巻1-48)
である。巻10-1816の歌は柿本人麻呂歌集となっていて柿本人麻呂と特定されていない。しかし歌から受ける印象から柿本人麻呂の歌と特定してよいのではないかと思う。

 山の辺の道付近には数多くの古墳が点在している。なかでも大和朝廷の創始者といわれる第10代崇神天皇陵は全長240mの壮大な前方後円墳、この付近から大和盆地が広く見渡され、振りむけば弓月が岳がそびえているのを目の当たりにすることができる。

この万葉歌碑は山辺の道の崇神天皇陵付近に置かれている。

万葉アルバム(奈良) 山の辺、三輪山2

2011年01月17日 | 万葉アルバム(奈良)

味酒(うまざけ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の
山の際(ま)に い隠るまで  道の隈 い積もるまでに
つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放(さ)けむ山を
心なく 雲の 隠さふべしや
   =巻1-17 額田王=
 反歌
三輪山を しかも隠すか 雲だにも
心あらなも 隠さふべしや
   =巻1-18 額田王=


三輪山が奈良の山の端に隠れるまで、いくつもの道の曲がり角を過ぎるまで、ずっと見続けていたい。
それなのに無情にも雲が隠すなんて、そんなことがあっていいものでしょうか。
(反歌)
三輪山をどうしてそんなふうに隠すのか。せめて雲だけでも情けがあってほしい。隠すなんてことがあってよいものか。

 巻1-18 の詳細はこちらを参照

 天理方面から山辺の道を歩いてきて、景行天皇陵から下り道を過ぎた時、急に視界が開け東側にくっきりと三輪山が迎えてくれる。この一瞬の三輪山の眺めは再び会えたという気持ちを抱かせる。逆に三輪方面から山辺の道を歩いてきた時はおそらくこの場所は、この歌のような惜別の気持ちを抱かせるだろう。
 そんな絶景のポイントに立つ万葉歌碑である。

もうひとつは三輪山を祭神とし山懐にある大神神社外苑に立つ万葉歌碑である。

万葉アルバム(奈良):山の辺、天理駅前

2011年01月10日 | 万葉アルバム(奈良)



石上(いそのかみ) 布留(ふる)の高橋 高々に
妹が待つらむ 夜ぞ更けにける
   =巻12-2997 作者不詳=


石上の布留川にかかる布留の高橋、その高い橋のように高々と爪立つ思いで、あの女が待っているだろうに、夜はもうすっかり更けてしまった。という意味。

「布留の高橋」へは、石上神社の桜門の前を真東に向かい神宮の森を出て、しばらく行くと両側に低い梅林が続く。約100メートルの坂道を下ると橋にさしかかる。今は小さな鉄製コンクリートがかかり、味気ない景観になってしまったが、途中の梅林周辺に古代の面影を感じるようだ。

この万葉歌碑はJR・近鉄天理駅駅前広場に立っている。


万葉アルバム(奈良):東大寺二月堂

2010年12月28日 | 万葉アルバム(奈良)

天橋も 長くもがも 高山も 高くもがも
月夜見の 持てる変若水(をちみず) い取り来て
君に奉りて をち得てしかも
   =巻13-3245 作者不詳=


天にかける橋も長ければ、高山も高くあってほしい。月の神の持っている若返りの水を取ってきて、君に捧げて若返らせたいものよ、という意味。

日本では古来、月(月読命)には飲めば若返るという「変若水」(おちみず)という水があると信じられてきた。

3月12日に東大寺二月堂で行われる修二会の「お水取り」では、後夜の勤行(ごんぎょう)の中ごろ(13日午前2時ころ)、若狭井という「閼伽井(あかゐ)」から香水を汲み取り、本堂の仏前に供えるという神事が行われている。若狭井の香水は、諸病諸厄を四散させる霊力があるといわれ、この聖水は、若狭国遠敷郡の鵜の瀬と地下水脈で通じており、鵜の瀬の水が二月堂の若狭井から湧出するとされている。これも「若返りの水」と考えられている。

この万葉歌碑は、明日香の万葉文化館庭園に建っている。