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飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
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万葉アルバム(奈良):奈良市、佐保川堤 振り放さけて・・・

2014年08月31日 | 万葉アルバム(奈良)


振り放さけて 三日月見れば 一目見し
人の眉引き 思ほゆるかも
   =巻6-994 大伴家持=


 振り仰いで三日月を見ると、ただ一目見た女(ひと)の眉引きを思い出します。という意味。

家持が16歳の時に将来の妻になる大伴坂上大嬢(おおともの さかのうえのおおいらつめ)に贈った歌とされている。
今の高校生の年代だったという。もうすでに大人びた振る舞いを身に着けていたのだろう。
「眉引き」は、三日月のようなほっそりとした眉のことで、当時の流行りだったと思われる。


この万葉歌碑は、奈良市法連桜町佐保川堤に建つ。994(左)・993(右)。


万葉アルバム(奈良):奈良市、佐保川堤 月立ちて・・・

2014年08月24日 | 万葉アルバム(奈良)


月立ちて ただ三日月の 眉根掻き
日長く恋ひし 君に逢へるかも
   =巻6-993 大伴坂上郎女=


 三日月のような形に眉を描きながら、やがて逢えるのでは。いつかは逢えるのでは。と長く慕ってきたあなたに、今日とうとう逢うことができました。という意味。

大伴坂上郎女とその甥大伴家持が、「初月(みかづき)」を詠題とする席で歌った連作993.994のひとつ。
眉がかゆくなるのは、愛する人に逢えるしるしと言われていた。大伴一族の女主的な存在であった坂上郎女は、この頃16歳の家持に歌の手ほどきをし、やがて人生も導き娘の坂上代嬢(おおいらつめ)を家持の婚約者にした。この歌は坂上郎女が娘に成り代わって家持に呼びかけたの
だろう。

大伴家の邸宅は、佐保の地を豊かに流れるこの佐保川近く、平城京の外京にあった。


この万葉歌碑は、奈良市法連桜町佐保川堤に建つ。994(左)・993(右)



万葉アルバム(奈良):奈良市、佐保川堤北側 緑地公園

2014年08月10日 | 万葉アルバム(奈良)


うち上のぼる 佐保の川原の 青柳は
今は春へと なりにけるかも
   =巻8-1433 大伴坂上郎女=


 佐保の川風に打ち靡く河原の青柳は今は鮮やかに芽吹いて春の装いになっているだろう 。という意味。

「春べ(春方)」は「春のころ。春」のこと。
「にけるかも」は完了助動詞「ぬ」の連用形、+過去助動詞「けり」の連体形「ける」、+詠嘆終助詞「かも」=~なったなあ。

『万葉集』をはじめ古来歌にも詠まれた佐保川は、いまも奈良市民の憩いの場所として親しまれる。春日山中の石切峠にその源を発し、若草山の北側を流れ般若寺のあたりを経て、法蓮町や芝辻町など奈良市街北部を東西に流れ、近鉄新大宮駅の西側で南下、大和郡山市の額田部南町で大和川に合流する、総延長19kmの大和川水系の川である。土手には芝辻町から西九条町まで、約5kmにわたって1050本もの桜が植えられ、春には桜並木が美しい。

春の佐保川河畔は、柳青葉も美しく、万葉人のデートスポットでもあった。
また、当時の佐保川は河鹿のすむ清流であり、鳴く千鳥は平城京の人々に親しまれていた。
現在は、両岸を覆いつくす桜並木がとてもきれいだ。


万葉歌碑<クリックで拡大>
万葉学者の犬養孝氏の筆による歌碑である。

この万葉歌碑は、奈良市法連立花町佐保川堤北側 緑地公園内に建つ。




万葉アルバム(奈良):奈良市、佐保川・夢窓庵 千鳥鳴く・・・

2014年07月13日 | 万葉アルバム(奈良)


千鳥鳴く 佐保の河門(かわと)の 清き瀬を
馬うち渡し 何時(いつ)か通はむ
   =巻4-715 大伴家持=


 千鳥の鳴く佐保川の渡しの清らかな瀬を、馬を渡して、私はいつか通うことだろう。という意味。

現代の佐保川は街中を流れるコンクリートで護岸工事された河川だが、万葉の当時は清冽な浅瀬の多い川であり、川に沿って柳の並木が続き、千鳥や蛙(かわず)の声が絶えなかったことが、万葉の歌から想像される。

大伴家持の祖父にあたる安麻呂は、平城京遷都と共に佐保に宅地を与えられ、佐保大納言と称された。その佐保大伴家を引き継いだ家持は、平城京が放棄される晩年の頃まで、この佐保の地に住み続けたといわれている。


万葉歌碑<クリックで拡大>
この万葉歌碑は、奈良市法蓮町の佐保川の河辺に店を構える日本料理夢窓庵の入口に立っている。
この辺りからは旧家の立ち並ぶ法蓮町で万葉の時代には貴族の邸宅があったところ。大伴一族の邸宅もこの近くにあったようだ。


万葉アルバム(奈良):奈良市、西方寺

2014年06月29日 | 万葉アルバム(奈良)


瓜(うり)食(は)めば 子ども思(おも)ほゆ
栗食めば まして偲(しの)はゆ
何処(いづく)より 来(きた)りしものぞ
眼交(まなかひ)に もとな懸(かか)りて
安眠(やすい)し寝(な)さぬ
   =巻5-802 山上憶良=

銀(しろかね)も 金(くがね)も玉も 何せむに
勝(まさ)れる宝 子に及(し)かめやも
   =巻5-803 山上憶良=



(巻5-802)
瓜を食べると子供のことが思われる。栗を食べるとさらにいっそう偲ばれる。いったい、子供というのはいかなる因縁によって来たものだろうか。目の先にちらついて安眠させてくれない。
(巻5-803)
銀も金も玉もなんの役に立とう。優れた宝も、子供に及ぶことなどあろうか。

お馴染みの歌である。
山上憶良は奈良時代の歌人で、遣唐使として渡唐、後に筑前守となる。「貧窮問答歌」に見られるような、人生の苦悩、社会の階級的矛盾を歌った。


万葉歌碑(表)
巻5-802:瓜食めば・・・の長歌が万葉仮名で刻まれている。 


万葉歌碑(裏)
巻5-803:銀も金も玉も・・・反歌が万葉仮名で刻まれている。

万葉学者犬養孝氏の筆による歌碑である。

この万葉歌碑は、奈良市油阪町434 にある西方寺の境内に立っている。
西方寺は、浄土宗で南都総墓所であり、境内に対面する、みてござる観音とまんだら坊がユニークな寺院でもある。

万葉アルバム(奈良):天理、長柄運動公園

2012年09月03日 | 万葉アルバム(奈良)

飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば
君があたりは 見えずかもあらむ 
   =巻1-78 元明天皇=


 飛ぶ鳥の、明日香の古い京を後にして行ってしまったら、 あなたのあたりは見えなくなりはしないだろうか。という意味。

万葉集の題詞によると、和銅3年に藤原宮から奈良の都に遷都する時に、元明天皇が御輿(みこし)を長屋の原に停めて、古里を望んで詠んだ歌とされている。
君が辺りの「君」とはすなわち、亡き夫、草壁皇子。刃折れ、矢尽きて藤原京を出発せざるを得ない元明女帝の、愛する夫の墓陵がある明日香を振り返り、歌った。
長屋の原は藤原京と平城京の中ツ道の中間に当たる、現在の天理市西井戸堂(いどんど)あたりと考えられている。

この万葉歌碑は天理市西長柄(ながら)町の長柄運動公園内のテニスコート脇に立っている。長柄運動公園は中ツ道沿いの西井戸堂(いどんど)の南方にある。
中ツ道のこのあたりからは、大和青垣の山々と天理市街が一望できる。さらに南方に目をやると三輪山から飛鳥藤原あたりがはるかに望むこともできる。元明天皇も大和青垣の山々に目をやり振り返ったのであろうか。


万葉アルバム(奈良):天理、山辺御県坐神社

2012年07月30日 | 万葉アルバム(奈良)

飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば
君があたりは 見えずかもあらむ 
   =巻1-78 元明天皇=


 飛ぶ鳥の、明日香の古い京を後にして行ってしまったら、 あなたのあたりは見えなくなりはしないだろうか。という意味。

万葉集の題詞によると、和銅3年に藤原宮から奈良の都に遷都する時に、元明天皇が御輿(みこし)を長屋の原に停めて、古里を望んで詠んだ歌とされている。
君が辺りの「君」とはすなわち、亡き夫、草壁皇子。刃折れ、矢尽きて藤原京を出発せざるを得ない元明女帝の、愛する夫の墓陵がある明日香を振り返り、歌った。
長屋の原は藤原京と平城京の中ツ道の中間に当たる、現在の天理市西井戸堂(いどんど)あたりと考えられている。

一方、この歌は元明の姉である持統天皇の歌とし、飛鳥京から藤原京への遷都の際、我が子・草壁皇子を偲んだとされる説もある。
  →万葉アルバムへ

この万葉歌碑は天理市西井戸堂町大門にある山辺御県坐神社(やまべのみあがたにいますじんじゃ)に立っている。
この神社は中つ道の藤原京と平城京の中間に位置する。中つ道は、藤原京から平城京への遷都の道だとされている。
このあたりからは山の辺の道沿いの山々が一望でき、南方に三輪山を望める。その先の大和三山は現在は住宅地に遮られ望めないようだが、万葉当時は大和三山と藤原京が遙かかなたに望むことができたのであろう。

万葉アルバム(奈良):天理、前栽公民館

2012年07月02日 | 万葉アルバム(奈良)

石上(いそのかみ) 布留(ふる)の早稲田を 秀(ひ)でずとも
縄だに延(は)へよ 守(も)りつつ居(を)らむ 
   =巻7-1353 作者未詳=


 石上の布留にある早稲の田を、まだ稲穂が出揃っていなくても、せめて縄だけでも張りめぐらしてください。そうしたら私が見守っていましょう。という意味。

万葉集巻七に100首を超える比喩歌が入っている。その中の「稲に寄する」歌一首がこの歌である。
しかるべき男に娘を引き合わせた親の歌、早稲田=年頃になる前の女、秀づ=年頃になる、縄だに延へよ=婚約すること、の譬え(新潮日本古典集成)。
布留(ふる)は、現在の天理市布留町周辺をさす。

この万葉歌碑は天理市前栽町の前栽公民館の植え込みに立っている。前栽公民館は中ッ道そいの布留川のそばに位置しており、古代万葉の頃にはこの周辺で稲作がさかんに行われていたのだろう。
前栽(せんざい)の地名の由来は、中世ここは東大寺領の千代庄だった。千代(せんだい)を千載と書くようになり、三転して前栽となったようだ。

万葉アルバム(奈良):天理、和爾下神社

2012年06月11日 | 万葉アルバム(奈良)

さし鍋に 湯沸かせ子ども 櫟津(いちひつ)の
檜橋(ひばし)より来(こ)む 狐に浴(あ)むさむ 
   =巻16-3824 長忌寸意吉麻呂=


 さし鍋に、湯を沸かせ、若い衆よ。『櫟津』の『桧橋』から『来ん』、キツネに(湯を)『浴び』せようじゃないか、という意味。

長忌寸意吉麻呂は、柿本人麻呂と同時代の歌人で、生没年は未詳。左注には、「言い伝えによれば、ある時多くの人たちが集まり宴を催した。時刻も夜半となり、狐の声が聞こえた。そこで一同が興麻呂(おきまろ)を誘って、この饌具(せんぐ)、雑器(ぞうき)、狐の声、川橋などの物にひっかけて、すぐに歌を作ってみろと言ったところ、即座にこの歌を作ったという」とある。

長忌寸意吉麻呂が、宴席で詠んだ即興歌で、物名歌(詩歌に物の名前を詠み込む)といわれ、ユーモアのある歌だ。
「さし鍋」はつぎ口と柄の付いた鍋で、左注にある「饌具(飲食のための器具)」に当たる。「檪津(いちひつ)」は地名で、奈良県の大和郡山市か天理市。その名の一部の「ひつ」が左注の「雑器」に当たる。「檜橋(ひばし)」は檜(ひのき)で作った橋。「来む」は狐のコンコンというのに掛けている。

天理市櫟本(いちのもと)町にある和爾下(わにした)神社は、古道竜田道(横田道)と上ツ道の交差地に鎮座する。延喜式に載る和爾下神社二座のうちの一座でもある。この鎮座地は東大寺領櫟荘で、上の歌の詠われた「櫟津」はこの辺りだという。

この神社境内は東大寺山古墳群のひとつ和爾下神社古墳の後円部にあたり、この古墳群は古代豪族和爾氏に関係があり、和爾氏一族に柿本氏・櫟井氏がいてその拠地がこの辺りと推定される。柿本人麻呂の一族、柿本氏がこの辺りに住んでいたということである。境内には柿本寺跡がある。和爾下神社の神宮寺で、寺跡からは奈良時代の古瓦も出土している。

この長忌寸意吉麻呂の歌碑は和爾下神社境内入ってすぐ脇の鳥居そばに立っている。


柿本人麻呂・歌塚
神社の境内に柿本氏の氏寺だった柿本寺跡があり、後世ここに人麻呂を偲んで歌塚と像を建てた。
歌塚は任地である石見の国で死んだ柿本人麻呂の遺髪を後の妻依羅娘女(よさみのおとめ)が生地に持ち帰って葬った墓所とされ、現在の碑は享保17年(1732)に建てられた。

万葉アルバム(奈良):橿原市、天香久山神社

2012年01月05日 | 万葉アルバム(奈良)

春過ぎて 夏来るらし 白栲(しろたえ)の
衣干したり 天の香具山
   =巻1-28 持統天皇=


 春が過ぎて、もう夏がやって来たらしい。聖なる香具山の辺りには真っ白な衣がいっぱい乾してある。という意味。

 持統天皇は、694年に都を藤原京に遷した。新都を囲む大和三山のうちで、最も神聖だとされたのが香具山である。「天の」は、香具山が天から降ったという古伝説に基づいて、香具山に冠される語。その香具山に真っ白な衣が乾かされている。その光景に、天皇は夏の季節の到来を感じ力強くさわやかに歌った。

 白栲(しろたえ)は、楮(コウゾ)類の皮を剥いで、表皮を落とし白皮を灰汁で煮て川で晒し、さらにしごいて澱粉質を搾り出し、石に叩きつける。すると極細の繊維に別れ、これによりをかけて糸にする。その糸で織ったものが白栲だそうだ。

この万葉歌碑は、香久山中腹にある天香久山神社に建てられているものである。
天香久山神社は天香具山の南麗、南浦集落のほぼ中心に南面して鎮座し、天照大神を祀る。「古事記」「日本書紀」の神話にみられる天照大神の岩戸隠れされたところと称し、今もなお巨石4個があって、神代に天照大神が幽居した天石窟と伝えられる。『延喜式』神名帳に式内大社として登載されている古社なのである。

万葉アルバム(奈良):橿原市、南浦町 膳夫古池

2011年12月29日 | 万葉アルバム(奈良)

草枕 旅の宿りに 誰(た)が夫(つま)か
国忘れたる 家待たまくに
    =巻3-426 柿本人麻呂=


 草を枕の旅の宿りに、あわれ誰の夫なのか、国を忘れて。 ・・・家族が待っているだろうに。という意味。

万葉集のこの歌の詞書きに、 人麻呂が、香具山の路傍の屍(かばね)を見て慟哭して詠んだと、ある。
当時の風習では、行き倒れた人が、そのまま放置されていたということもあったようだ。
巻3-415に、聖徳太子「家ならば妹が手まかむ草枕旅に臥やせるこの旅人あはれ」の歌があり、この歌に影響されて人麻呂が詠んだと思われる。
夫(つま)は「妻」だけの意味だけでなく「配偶、偶(つま)」の意味であり、妻から見た夫も指した。

膳夫(かしわで)古池は香久山の東尾根にあるため池。古代に天皇の食事を用意した専属料理人、膳夫(かしわで)氏の一族がこの一帯に住んでいたことで、膳夫古池ともいわれている。
万葉歌碑はこの池の畔に建っている。香久山は標高は152.4メートルの低い山。ここから眺める香久山は丘といったほうが良いくらいの低山を実感する。
万葉集では天の香久山と形容されて高山のイメージがあるが、神が宿る山としてあがめられたのであろう。 

万葉アルバム(奈良):橿原市、別所池西南堤

2011年12月12日 | 万葉アルバム(奈良)

藤原の 古りにし里の 秋萩は
咲きて散りにき 君待ちかねて
   =巻10-2289 作者未詳=


 あなたを待ちかねて藤原の古い都の秋萩は、むなしく咲き、そして散ってしまった、という意味。

「藤原の古りにし里」は橿原市醍醐町・高殿町の一帯にかつて存在した帝都。藤原の都。持統天皇から天明天皇の平城遷都まで続いた。「にし」→助動詞・完了「ぬ」の連用形「に」+助動詞・過去「き」の連体形「し」=~てしまった。「散りにき」→ラ行四段活用動詞「散る」の連用形「散り」+助動詞・完了「ぬ」の連用形「に」+助動詞・過去「き」=散ってしまいました。「かねて」→ナ行下二段活用補助動詞動詞「かぬ」の連用形「かね」+接続助詞・単純接続「て」=~することができなくなって。

すでに散ってしまった萩の花を惜しみ、忘れられたかつての都を忍び、それでもまだあなたを待ち続けているのです、と「君待ちかねて」が余韻の表現になっている。

この万葉歌碑は藤原京を望む朱雀大路跡にある別所池西南堤に建っている。揮毫者・司馬遼太郎であるのが魅力でもある。
694年に飛鳥からほど近い藤原京に持統天皇が都を移した。しかしこの都は平城京へ遷都するまで、わずか16年間という短命に終わったのである。

万葉アルバム(奈良):橿原市、大窪寺 櫻兒伝説

2011年12月05日 | 万葉アルバム(奈良)

春さらば 挿頭(かざし)にせむと 我が思(も)ひし
桜の花は 散りにけるかも
    =巻16-3786 作者未詳=


 春になったら、挿頭の花にしようと(妻にしようと)私の思っていた桜の花は、散ってしまったことだなあ、という意味。

万葉集にある櫻兒伝説。櫻兒(さくらこ)という一人の娘を、二人の男が命がけで争い、それを嘆いた櫻兒は、「昔から、一人の女が二人の男に嫁ぐというのは見たことも聞いたこともない。私がいなければ争うこともないだろう。」と、林の中に入り、木で首を吊って死んでしまった。残された男二人が嘆いて詠んだ歌が、この「春さらば・・・」と、もう一首

妹が名に懸けたる櫻 花咲かば 常にや戀ひむ いや毎年(としのは)に (巻16‐3787) 作者不詳

いとしい人の名につけてあった桜、その花が咲いたら、永久に恋い慕うことだろうか。来る年も来る年も。

男二人が嘆き悲しんで作った歌である。

万葉集にはこの伝説と同じような伝説を歌った歌がいくつかある。
真間の手児奈の歌もそうである。

櫻兒の塚は、昔は娘子塚と呼ばれていたようだ。享保21年(1736)発行の『大和志』には、娘子塚は”大窪村にあり”と記されている。
大窪村は現在の橿原市大久保町である。
大久保町公民館の一角に大窪寺があり、かつて大寺だったと想像できる大きな礎石が置かれている。
万葉歌碑はここにある。


歌碑の向い側に祠があり、これが櫻兒の墓と伝えられる「娘子塚(をとめづか)」だそうだ。


万葉アルバム(奈良):橿原市、醍醐池東堤 こうぞ

2011年11月24日 | 万葉アルバム(奈良)

春過ぎて 夏来るらし 白栲(しろたえ)の
衣干したり 天の香具山
   =巻1-28 持統天皇=


 春が過ぎて、もう夏がやって来たらしい。聖なる香具山の辺りには真っ白な衣がいっぱい乾してある。という意味。

 持統天皇は、694年に都を藤原京に遷した。新都を囲む大和三山のうちで、最も神聖だとされたのが香具山である。「天の」は、香具山が天から降ったという古伝説に基づいて、香具山に冠される語。その香具山に真っ白な衣が乾かされている。その光景に、天皇は夏の季節の到来を感じ力強くさわやかに歌った。

 白栲(しろたえ)は、楮(コウゾ)類の皮を剥いで、表皮を落とし白皮を灰汁で煮て川で晒し、さらにしごいて澱粉質を搾り出し、石に叩きつける。すると極細の繊維に別れ、これによりをかけて糸にする。その糸で織ったものが白栲だそうだ。


 コウゾはクワ科コウゾ属、各地の山地に自生し、高さ2~5㍍になる。
また、和紙製造のための品種が各地で栽培されている。樹皮の繊維から和紙をつくる。


この万葉歌碑は藤原京旧跡である大極殿跡の北に隣接した醍醐池東堤に建っている。持統天は大極殿あたりから香具山を眺めて歌ったのであろう。

万葉アルバム(奈良):奈良、正暦寺

2011年11月14日 | 万葉アルバム(奈良)

經(たて)もなく 緯(ぬき)も定めず をとめらが
織れる黄葉(もみじ)に 霜な降りそね
   =巻8-1512 大津皇子=


どれを縦糸どれが横糸ということもなく少女が織り上げたような、この美しいもみじを枯らせる霜よ、どうか降らないでくれ。という意味。

山の紅葉を、乙女たちが織る布に見立てて詠んだもので、紅葉の息を呑むような美しさを表現している。
この歌は宴席で詠んだ歌といわれているが、斎宮にいる同母姉の大来皇女に想いを馳せて詠んだものという解釈もある。

身辺に暗雲が降りかかって、その霜よ降らないでくれ、と念じているともとれる。

霜(しも)を詠んだ歌で有名な志貴皇子の歌、
   葦辺行く 鴨の羽交ひに 霜降りて
   寒き夕は 大和し思ほゆ   =巻1-64 →万葉アルバム
この歌は霜が降り、すなわち暗雲が降りかかってきてもじっと耐えている。
志貴皇子は閑職にじっと耐えて生涯を終えたが、その後自分の子が天皇となった。

一方大津皇子の方は謀反の罪を着せられて死罪となるのである。
霜を詠んだ後、結果として明暗が分かれたことに、壮大なドラマを感じる。

この万葉歌碑は北山之辺の道にある紅葉の名所の正暦寺にある。