それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

吉田健一『東京の昔』:僕とTさんとイギリス

2015-03-21 10:57:32 | コラム的な何か
イギリスでひっそりと暮らしていた時、最も僕のことを気にかけてくれた友人がTさんだった。

僕は毎日研究ばかりしていて、それでまるで外の世界に出ないものだから(イギリス風に言えば、socializeが足りない)、

Tさんは僕をちょくちょく連れ出したり、飲み相手になったりしてくれた。

今でもTさんとは電話をする。

ひどく便利な世の中になったもので、Tさんがイギリスにいて、僕の方が日本にいても、無料で電話出来てしまうのである。

どういう流れか忘れたが(食べ物の話だったか、東京の話だったか)、Tさんが僕に吉田健一の本を薦めてきた。

全く不勉強な僕は、吉田健一の名前と「吉田茂の息子」であること以外に何も知らず、何を書いた人なのかも全く知らなかった。



僕の勝手な印象だが、ものをよく知っている(特に文系の知識に秀でている)人びとが読んでおかねばならない作家群がリストとしてあって、

しかし、それは大抵の人が名前を聞いても「?」と思うような作家たちなのに、どういうわけかインターネットで検索すると膨大な情報と熱狂的なレビューがすぐに発見できる、

そういう一群の作家の書いた本が日本には幾つかあるのではないか、と僕は思っている。

それで最近は、出来る限りそういう本や作家を見つけたら、とにかく読んでおこうと決めている。

僕はその(頭のなかの)フォルダーのなかに、Tさんから勧められた「吉田健一」を入れた。



すぐに吉田健一の本を何冊か買って、それで最初に読み始めたのが『東京の昔』だった。

個人的な事情から、今は昔の東京に興味がある。

それで小説とも知らずに、とにかく題名だけで買って読み始めたのである。



この小説をインターネット検索すれば、とにかく熱狂的なファンのブログが沢山出てくる。

だから、僕はその内容を俯瞰するのではなしに、僕の具体的な思い出と結びつけて、ここにその感想を書いておきたい。

この小説では、何も事件らしい事件は起きない。

話しの筋だけで言えば、第二次大戦前の日本で、東京の本郷信楽町(信楽町は架空の地名)という場所に住む主人公が、ただただ、とにかく色々な人とお酒を飲み、食事をし、会話を楽しむ話である。

それゆえに、この小説を面白いと思わない人が沢山いるのは当然である。



にもかかわらず、僕はこの小説がとてもとても好きになった。

最大の理由は、この小説に登場する主人公と、飲み仲間の帝大生(フランス文学を研究)の関係が、Tさんと僕の関係にすこぶる似ていて、会話の内容まで似ていたからだ。

主人公のプロフィールが面白い。

まず、彼は帰国子女である。ヨーロッパに住んでいたことがあり、ヨーロッパの風物をじかに見て、よく知っている。

ちょっと商売を時々やって、それでお金をつくっては、また本を読んだり飲み歩いたりする生活をしている。

教養があって、酒好きで、それでちょっとだけ世話好き。誰かに依存することなく、飄々としていて自由。

自分のことを「僕」とか「私」とか言わず、「こっち」と言う。そこに独特のセンスがある。

彼はいつも東京とヨーロッパの諸都市をなんとなく比較しながら、比較は不可能で、どちらが良い悪いではないと思いつつ、東京の街並みを観察する。そして、日本にとっての「外国」とは何かを考える。



この主人公は、僕にとってのTさんそのものなのだ。

驚くほど、Tさんはこの小説の主人公そっくりなのだ。

実際Tさんは帰国子女で、東京とヨーロッパの諸都市の比較をしつつ、文明論的なことを口にする。



他方、この小説に出てくるフランス文学専門の帝大生が、どういうわけか僕に少し似ている。

この帝大生はとにかく一生懸命フランス文学を研究している。

それで、本からの知識が頭の中に積み上がっている。

ところが、それを実際に見たことがない。

戦前の日本でヨーロッパに行くとなると、それは相当にお金と時間がかかる。

そのうえ、ヨーロッパに行ったからといって、日本に帰国して立身出世に役立つわけでもない。

だから、この帝大生は実際に自分が読んで想像してきたことを確かめたいわけなのだが、なかなかそれが出来ないのである。



小説では、主人公がこの帝大生を当時の日本で「外国」が存在した銀座に連れて行って、飲みながら外国について語り合い、その場所を外国にしてしまう。

この当時の日本にとって「外国」(特にヨーロッパ)はあまりにも異質で、登場人物のセリフのなかに出てくるように、外国人がまだ同じ「人間」として感覚されていなかった。

地理的物理的距離感だけでなく、理念的な存在として「外国」(特にヨーロッパ)は日本からきわめて遠いところにあった。と、主人公は考える。

主人公と帝大生はそのことを議論の前提にしながら、色々なことを語り合う。

(この文明批評の点がこの小説の評価されるポイントのひとつであるらしい。)



僕のイギリスの生活でも、僕はTさんととにかく、この帝大生と主人公のように、日本とイギリスやヨーロッパの関係について語り合い続けた。

政治の話から文化の話、言語の話に至るまで、あらゆることを語り合った。

Tさんの話し方は理性的だし論理的なのだが、根っこにある感性は人文学的であり芸術的だった。

彼は読書家で勉強家だったが、見て感じたことを正確に言葉にする能力と、そうする意識を備えていた。

だから、イギリスで生きる人々の言葉遣いや感覚みたいなものを非常に繊細に語ることが出来た。

そのうえで、彼を交えながら、世界各国の人たちと食事をしたり、あるいは二人きりでイギリスのパブで飲んだりすることが、とても楽しかった。



この吉田健一の小説を読んだとき、家や大学の外になかなか出ない僕が、日本から出られない帝大生と重なり、そして、主人公がTさんと重なり、そして、戦前の東京が今(新たな戦前にならないことを願うが)の東京と重なり、

そして、僕はこの小説をとても好きになったのである。

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