ライターの北条かや氏へのネット上での批判が行き過ぎているので見ていられない。
ことの発端のひとつは、北条氏の『こじらせ女子の日常』(宝島社、2016年)について、雨宮まみ氏と能町みね子氏が批判したことであった。
この件について、私はどちらが正しいとか、間違っているとかは一概に言えない、という立場である。
以下、私の見解を述べる。
『こじらせ女子の日常』は、日本社会の女性についてのエッセーで、北条氏のブログをまとめたものだ。
それゆえ、多岐にわたる「女性」に関するトピックが取り上げられている。
彼女の視点は「社会学」風のものである。
読みにくいアカデミアのそれではなく、「社会学」あるいはもっと広く「社会科学」に近い分析的な語り口で話をする。
アカデミアの人間からすれば、決して不自然なものではない。
そこに本人の考えや思いが出ていないという批判も出ているが、社会科学的な分析はそういうものをできるだけ排除するのだから、それはそういう手法であって、あとは好き嫌いの問題です、としか言いようがない。
*ただし、そうした客観的な語り口のなかに、彼女の視角の特徴、もっと言えば彼女自身と被写体の(非対称な)関係性を問題にするのは、「論点」として正当である(これは能町氏の批判)。それについては後述する。
問題のひとつは本の題名にあった。
「こじらせ女子」。流行語のひとつに数えられるほど、人口に膾炙した言葉だが、元々は雨宮まみ氏の『女子をこじらせて』(ポット出版、2011年)に由来する。
雨宮氏のオリジナルの言葉であった「こじらせ女子」をどのように使用するか、が大きな争点となった。
北条氏は決して盗用したわけではなかった。出典も明らかにしているし、それもしっかり読んでいる、ということだった。
また、彼女なりに定義しているので、社会科学的な要請にも最低限応えている(厳密には社会科学の本ではないとしても)。
要するに、社会科学の教育を大学で受けた人間として、確かにルールに則った使用をしているのである。
だから、北条氏のなかで、それがそんなに問題になるとは思わなかっただろう。
けれども、使い方が「雑」なのである。
社会科学において「概念」というものは、道具に過ぎない。それは分析のためのもので、決して筆者の「人格」を投影するものではない。
しかし、雨宮氏は社会科学者ではなく、作家なのである。そこに大きな違いがある。
社会科学を勉強している人にも分かりやすく言うと、「こじらせ女子」はマンガのキャラクターに近い。
作家は必死になってキャラクターを生み出し、ファンはそこに自分を投影する。
キャラクターは実在していなくても、実在するかのようなリアリティと存在感がある。
だから、勝手にキャラクターを変なかたちで使われてしまうと、作者もファンも怒る。
それは誰にとってもよく分かることだろう。
「こじらせ女子」はキャラクターに限りなく近い。
それというのも、雨宮氏は自らの女性としての生きにくさを「こじらせ」という言葉によって表現し、解放しようとしたのである。そして、多くのファンがその言葉によって救われたのであった。
だから、「こじらせ女子」という言葉には、多くの人の人格と分かちがたく結びついていたのである。
北条氏はそれに全く気が付いていなかったわけではなかった。
けれども、作家のような感受性でもって気づいていたわけでもなかった。
彼女は社会科学的な思考でモノを見る。同時に、分析対象に対してかなり冷めている(という印象がある)。
彼女は、ことによれば彼女自身が証言するように、「こじらせ女子」という言葉を題名に入れるよう編集者に提案されたことに躊躇ったのかもしれない。
ただ、入れたとしても、深刻なほど批判されるとも想定していなかった。社会科学で言えば、決してルールを犯しているわけではないからだ。
『こじらせ女子の日常』というエッセーは、「こじらせ女子」そのものを中心的に取り扱っているのではなく、自らを「こじらせ女子」と捉える筆者の日常的なエッセーをまとめたものである。
題名そのものは決して嘘ではない。ただ、その言葉に対する「デリカシー」が足りないのである。
だから、雨宮氏が怒ったのも当然だし、同じく「こじらせ女子」に強い思いを抱いている能町氏が怒るのも無理はない。
北条氏が「編集者に言われて題名に付けた」というツイートや、「この言葉は・・・と定義した」というツイートも、彼女たちからすれば卑怯な言い訳にしか映らない。
だが、私から見れば北条氏がそのようにツイートしたことは、どちらも矛盾しない。
ただ、「こじらせ女子」という言葉がどういう思いで使われているのか、また社会科学的なルールで使うとどういうことになるか、ということが分からなかっただけなのだ。私はそう考えた。
それを踏まえたうえで、能町氏は別の批判も行う。
それは北条氏が「飛田新地で面接受けて合格したけど、びびって逃げてきた話を今度書く」とツイートしたことに端を発する。
能町氏が指摘するのは、北条氏の取材や視点の暴力性だ。
北条氏は、キャバクラをはじめとして、ある種の「フィールドワーク」を行い、そこで働いている人たちのことを著作に書く。
ただ、能町氏が見てとったところでは、北条氏の書き方は取材対象を冷淡に突き放しているだけでなく、無意識に馬鹿にしているか、あるいは自分とは決定的に異なる劣った他者のように描いている、というのである。
それが本当かどうかは、それぞれ北条氏の著作を読んで確かめてみてほしい。
さて、ここまで読んで、読者諸氏はどう考えただろうか。
北条氏は決してものを書く上での最低限のルールに違反したわけではない。
作家としての矜持やデリカシーが試されているのである。
しかし、それは作家でもない人間がどうこう言える立場ではない。
また、取材や視点の暴力性は、誰もが簡単に批判できるようなものでもない。
能町氏のように確固たる信念に基づいて初めて意味をなものなのである。
今や北条氏への批判は、社会的に不気味なサディズムと混ざり合っている。
能町氏や雨宮氏の批判は十分理解できる。
だが、勘違いや欲望に基づく便乗的な非難は必ず社会にしっぺ返しをもたらすだろう。
ことの発端のひとつは、北条氏の『こじらせ女子の日常』(宝島社、2016年)について、雨宮まみ氏と能町みね子氏が批判したことであった。
この件について、私はどちらが正しいとか、間違っているとかは一概に言えない、という立場である。
以下、私の見解を述べる。
『こじらせ女子の日常』は、日本社会の女性についてのエッセーで、北条氏のブログをまとめたものだ。
それゆえ、多岐にわたる「女性」に関するトピックが取り上げられている。
彼女の視点は「社会学」風のものである。
読みにくいアカデミアのそれではなく、「社会学」あるいはもっと広く「社会科学」に近い分析的な語り口で話をする。
アカデミアの人間からすれば、決して不自然なものではない。
そこに本人の考えや思いが出ていないという批判も出ているが、社会科学的な分析はそういうものをできるだけ排除するのだから、それはそういう手法であって、あとは好き嫌いの問題です、としか言いようがない。
*ただし、そうした客観的な語り口のなかに、彼女の視角の特徴、もっと言えば彼女自身と被写体の(非対称な)関係性を問題にするのは、「論点」として正当である(これは能町氏の批判)。それについては後述する。
問題のひとつは本の題名にあった。
「こじらせ女子」。流行語のひとつに数えられるほど、人口に膾炙した言葉だが、元々は雨宮まみ氏の『女子をこじらせて』(ポット出版、2011年)に由来する。
雨宮氏のオリジナルの言葉であった「こじらせ女子」をどのように使用するか、が大きな争点となった。
北条氏は決して盗用したわけではなかった。出典も明らかにしているし、それもしっかり読んでいる、ということだった。
また、彼女なりに定義しているので、社会科学的な要請にも最低限応えている(厳密には社会科学の本ではないとしても)。
要するに、社会科学の教育を大学で受けた人間として、確かにルールに則った使用をしているのである。
だから、北条氏のなかで、それがそんなに問題になるとは思わなかっただろう。
けれども、使い方が「雑」なのである。
社会科学において「概念」というものは、道具に過ぎない。それは分析のためのもので、決して筆者の「人格」を投影するものではない。
しかし、雨宮氏は社会科学者ではなく、作家なのである。そこに大きな違いがある。
社会科学を勉強している人にも分かりやすく言うと、「こじらせ女子」はマンガのキャラクターに近い。
作家は必死になってキャラクターを生み出し、ファンはそこに自分を投影する。
キャラクターは実在していなくても、実在するかのようなリアリティと存在感がある。
だから、勝手にキャラクターを変なかたちで使われてしまうと、作者もファンも怒る。
それは誰にとってもよく分かることだろう。
「こじらせ女子」はキャラクターに限りなく近い。
それというのも、雨宮氏は自らの女性としての生きにくさを「こじらせ」という言葉によって表現し、解放しようとしたのである。そして、多くのファンがその言葉によって救われたのであった。
だから、「こじらせ女子」という言葉には、多くの人の人格と分かちがたく結びついていたのである。
北条氏はそれに全く気が付いていなかったわけではなかった。
けれども、作家のような感受性でもって気づいていたわけでもなかった。
彼女は社会科学的な思考でモノを見る。同時に、分析対象に対してかなり冷めている(という印象がある)。
彼女は、ことによれば彼女自身が証言するように、「こじらせ女子」という言葉を題名に入れるよう編集者に提案されたことに躊躇ったのかもしれない。
ただ、入れたとしても、深刻なほど批判されるとも想定していなかった。社会科学で言えば、決してルールを犯しているわけではないからだ。
『こじらせ女子の日常』というエッセーは、「こじらせ女子」そのものを中心的に取り扱っているのではなく、自らを「こじらせ女子」と捉える筆者の日常的なエッセーをまとめたものである。
題名そのものは決して嘘ではない。ただ、その言葉に対する「デリカシー」が足りないのである。
だから、雨宮氏が怒ったのも当然だし、同じく「こじらせ女子」に強い思いを抱いている能町氏が怒るのも無理はない。
北条氏が「編集者に言われて題名に付けた」というツイートや、「この言葉は・・・と定義した」というツイートも、彼女たちからすれば卑怯な言い訳にしか映らない。
だが、私から見れば北条氏がそのようにツイートしたことは、どちらも矛盾しない。
ただ、「こじらせ女子」という言葉がどういう思いで使われているのか、また社会科学的なルールで使うとどういうことになるか、ということが分からなかっただけなのだ。私はそう考えた。
それを踏まえたうえで、能町氏は別の批判も行う。
それは北条氏が「飛田新地で面接受けて合格したけど、びびって逃げてきた話を今度書く」とツイートしたことに端を発する。
能町氏が指摘するのは、北条氏の取材や視点の暴力性だ。
北条氏は、キャバクラをはじめとして、ある種の「フィールドワーク」を行い、そこで働いている人たちのことを著作に書く。
ただ、能町氏が見てとったところでは、北条氏の書き方は取材対象を冷淡に突き放しているだけでなく、無意識に馬鹿にしているか、あるいは自分とは決定的に異なる劣った他者のように描いている、というのである。
それが本当かどうかは、それぞれ北条氏の著作を読んで確かめてみてほしい。
さて、ここまで読んで、読者諸氏はどう考えただろうか。
北条氏は決してものを書く上での最低限のルールに違反したわけではない。
作家としての矜持やデリカシーが試されているのである。
しかし、それは作家でもない人間がどうこう言える立場ではない。
また、取材や視点の暴力性は、誰もが簡単に批判できるようなものでもない。
能町氏のように確固たる信念に基づいて初めて意味をなものなのである。
今や北条氏への批判は、社会的に不気味なサディズムと混ざり合っている。
能町氏や雨宮氏の批判は十分理解できる。
だが、勘違いや欲望に基づく便乗的な非難は必ず社会にしっぺ返しをもたらすだろう。
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