消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.106 みるくうくし

2007-05-09 23:22:36 | 言霊(福井日記)

 9日間の、竹富島の種子取(タントゥイ)祭のクライマックスは、「庚寅」(かのえ・とら)に当たる7日目と、「辛卯」(かのと・う)に当たる8日目の奉納芸能である。

 7日目、玻座間(はざま)村では、北東にある世持御嶽」(ユームチ・ウタキ)の神司による祈願から行事は始まる。午前5時半頃である。同じ時刻、村の東にある弥勒奉安殿では、与那国家、大山家といったこの地の名家の「御主前」(ウ・シュ・マイ=当主のこと)や、地元名士たちが、「弥勒起こし」(ミルク・ウクシ)を行う。弥勒様に睡眠から起きていただくのである。

 大山家は、琉球王朝時代には豪農であり、代々、「勢頭座敷」(セト・ザシキ)とか、「筑登之座敷」(チクドゥン・ザシキ)とかいった高い位階を琉球王から付与されていたとされる。

 大山家の当主を褒め称える「世曳き」(ユー・ヒキ)という狂言が竹富島にはある。この狂言は、竹富弁で語られることが多いい、他の竹富島の狂言とは異なり、沖縄本島の首里言葉が使われている。それは、琉球王に経緯を評して、位階を与えられたことへの感謝の狂言である。位階を表す言葉は、「御座敷」(ウ・ザッシュ」である。この位階を与えられたことの感謝を本島からきた「与人」(ユン・チュ=役人)に表すのである。

  狂言では、<「「うひな」(誉れの)「うざっしゅん」(御座敷の)「すでぃがふどぅ」(位階までいただき)「しゃびる」」(大変果報者である)>と謳われている。ただし、役人への感謝だけでなく、子供とともに豊作を祝う言葉も出されている。このような、豊作を祈願する祈りに、前もって豊作を祝う種類の芸能は、「予祝芸能」と呼ばれている。

 狂言「世曳き」は、琉球王朝時代の支配の片鱗を伝えるものである。

 
おそらくは、首里における支配者の命を受けた劇作家が、竹富島向けにこの狂言を作ったのであろう。狂言が首里言葉で演じられることからそう推察される。首里の権力者が、税の徴収を大山家に命じ、その義務をはたしたご褒美として、大山家に位階を授ける。そのことを大山家の当主が感謝して歌い、踊るという場面、そして、豊作の報告を村の最高権力者の与人に行うという設定が、そうした事情を物語っている。税徴収の報酬としての位階、それを祝う狂言を、村の大事なお祭りで村人演じさせる。いつの時代も、勲章で人を釣り、それを祝う民衆を浮き彫りにするという劇を演じさせるということは、古今東西の権力者の共通の行動様式であった。

 「世曳き」の「世」(ユー)は「豊作」、つまり、「富」を意味する。
  「曳き」とは、文字通り、「引っ張ってくる」という意味であろう。海の彼方から「富を引っ張ってくる」のである。そして、その力が大山家と与那国家には備わっているとの信仰があったのである。つまり、神様のような両家の指示に民衆は従えというのである。

 沖縄では、神様は海からくる。それが、「ニライカナイ」信仰である。それを体現したのが、弥勒(みろく)神である。つまり、八重山では、弥勒は、仏ではなく神である。

 海の彼方から富をもたらす神様が弥勒様であった。

 
ここで、大事なことは、この弥勒様が、与那国家と大山家だけに宿るとされていたことである。芸能を通じて、権力の忠実な配下を神的な位置につけ、芸能を見る民衆に配下への尊敬の念を植えつける。これが、いわゆる民衆芸能なるものの、哀しい真実である。私には、村の芸能が、すべて自然発生したものであるとは思われない。葵祭然り、天神りしかり、いわんや神戸祭はまったく民衆の創設ではない。

  民衆芸能のすごさを重々承知している積もりではあるが、伝統的民衆芸能の洗脳作用にいま少し、人々は注意を向けた方がいいと、私は感じる。

 種子取祭の7日目の早朝、大山家の当主が弥勒様を起こすという儀式は、富を曳いて下さる弥勒様を眠りから呼び起こす行為に他ならい。

 八重山の弥勒は、安南から伝わってきたと言われている。竹富島の弥勒伝説では、仲道家の先祖が、海岸で弥勒の仮面を拾い、それを家に祀って信仰していたが、後にその面を与那国家に譲ったとされている。これが何を意味しているのかは分からない。なんらかの権力関係の変化があったのだろう。いまでも、祭のときに弥勒の面を被ることができるのは、与那国家と大山家の当主だけである。

 「みるくうくし」(弥勒起こし)は、「みるく節」(ミルクブシ)の歌で弥勒様の起床を促すことから始まる。弥勒は起きてきて、「シーザ」(二才=年長の青年のこと)、大勢の供、子供を連れて登場する。

 ちなみに、我々がいう「青二才」は、先輩(二才)にもなれない未熟者という意味である。

 弥勒への捧げ物をもった供、シーザが弥勒の周りを回り、さらに、シーザ4人による踊りが奉納され、「弥勒節、ヤーラヨ節」に送られて、弥勒は退場する。

 「弥勒節」の作者は特定されている。1790年代の八重山士族の大浜用倫が作者である。弥勒節は、石垣島と竹富島では同じ節である(喜舎場永(きしゃば・えいじゅん)編『八重山民謡誌』東京堂書店 大正13年)。男性合唱のみからなり、三線は用いず、笛と太鼓による伴奏だけであり、厳粛な歌である。

 さて、伝承によれば、島の6つ村長たちが、栽培作物の選択、したがって、いつ種子を蒔くかを争い、決着がついたことを祝う「種子取祭」が何故、「種子蒔き」の祭りになるのだろうか。「種子を取る」ことと、[種子を蒔く」こととは、まったく違う行為のはずである。しかし、ここに、離島の哀しさが表現されているのである。この離島では、「種子取り」とは、海の向こうから「種子を貰う」のである。このことを推測させるものとして、仲筋村に伝わる「天人」(アマンチ」という狂言がある。

 ただし、この狂言も「ウチナーグチ」(沖縄言葉=首里言葉)が使われており、首里の支配者が、竹富島の人々を支配下に置いたことの宣言と受け取ることのできる構成になっている。

 「天人」(アマンチ)とは、琉球王朝の神話に登場する「アマミキヨ」のことである。国造りの神、稲作を始めた神とされる。

 村の長老が、栽培すべき穀物の種子を頂けるように祈るために、海岸にやってくる。そこに、「天人」が、作物の種子を村人に与えようと、海を渡って島にやってくる。両者は、海岸で出会い、長老は、種子を頂き、作物の作り方を天人から教わる。つまり、「種子取り」に成功したのである。

 天人が去った後、農作業を始めるべく、「マミドゥ」という農作業を表現する舞踏が演じられる。その際、長老が、「マミドゥ」を踊る若者たちに向かって、「筑登之・親雲上」(チクドゥン・ベーチン」と声をかける。「筑登之」も「親雲上」も、琉球王朝時代に、国王から授かる高位の位階である。おそらくは、首里の国王から高位階を授けてもらえるように頑張れと呼びかけているのであろう。つねに、王朝に恩義を感じ、王朝の寵愛を求めるという設定は、けっして地元発のものではないだろう。首里権力が、芸能を通じて竹富島の民衆の忠誠心を煽ったのである。

 ただし、ここまで書いてしまうと慌てて訂正しなければならない。これは、琉球王朝時代のことであり、現在ではまったく従属者のものではなく、村人が素直に古典芸能の幽玄さに酔っているのであり、こうした芸能を通じて、失われつつある人々の共感を呼び起こそうとしている事は疑いえない。

 
与那国家も大山家も、いまでは、断じて権力の走狗ではない。なんら権力をもたず、ひたすら、伝統文化を保持・発展させようと、両家を含めて、島人は粉骨砕身しているのである。与那国家の当主は、琉球大学で教鞭を執っていて、祖先伝来の屋敷を町に寄進し、旧家は一般に公開されている。

  両家の当主は、祭の時はもとより、伝統文化の維持・発展にとてつもなく大きなエネルギーを無心で注いでおられる。低い次元で、そうした尊い努力を私は揶揄しているわけではない。誤解のないように。

 今回の資料は、全国竹富島文化協会のウェブ・サイトからその多くを参照した。

福井日記 No.105 竹富島の6つの「うたき」

2007-05-05 00:19:43 | 言霊(福井日記)


  竹富島には「むーやま」(六山)という6つの「うたき」(御嶽)がいる。「うたき」というのは、各村の先祖神のことをいう。

 
つまり、昔の竹富島には、6つの村があった。それぞれの村には長(酋長)がいた。長たちは、栽培穀物の種類、および種子蒔きの日取りの決定で争った。最終的には玻座間村の酋長、「ねーれかんどぅ」(根原金殿)が押し切って、粟を主体とし、種子蒔き日は、戊子(つちのえね)に落ち着いた。
 他の酋長たちは、「アンガマ」に扮して根原の元に和を乞いに行った。

 ここで、「アンガマ」というのは、諸説あるが、竹富島では「覆面をして家を訪問する人(神)」として理解されているようである。

 アンガマには2系統あり、1つは石垣島の中心部で行われる、もともと士族間で実施されたアンガマ、もう1つが離島の農村で行われているもの。竹富島のアンガマは後者にあたる。石垣島のアンガマではウシュマイ(お爺さん)とンミ(お婆さん)が登場し、問答を行う。離島系のアンガマでは、ウシュマイとンミは出ない。歌詞や踊りの形式などは、離島系のものが古い形であると考えられている。

  アンガマには、盆に行われる「ソーロンアンガマ」の他に、節アンガマ、家造りアンガマ、三十三年忌のアンガマがある。一般にアンガマというと、ソーロンアンガマのことを指すことが多い。

  「ソーロン」とは八重山のことばで「お盆」のこと。精霊から転じて「ソーロン」になっており、盆に迎える祖先の霊を指していると思われる。

 ソーロンは、旧暦7月13日~15日にあたり、日本本土の盆時期と一致している。盆行事の風習は日本から伝わったと考えられているが、八重山諸島にいつ伝承されたのかは、よく解っていない。

 アンガマについても、諸説がある。1.姉という意味、2.覆面のことを指す言葉、3.踊りの種類、4.懐かしい母親の意味、5.精霊とともに出てくる無縁仏、等々。
 竹富島のアンガマには、親孝行の歌が多く、覆面をする意味も「親の霊に顔向けできないが、感謝の気持ちを伝えたい」という意味があるのではないかと言われている。その点からすれば、4の説が有力である。

 歌の中には、念仏や供養を示すものも多く、沖縄本島のエイサーと同じように日本から渡来した念仏踊りを起源とするものではないかと言われている。踊り、音楽については、日本からの直接的な影響は感じられないが、覆面踊りについては日本各地の盆踊り、例えば西馬音内、津和野などでも見られる。

 竹富島には、昔は、西地区、東地区、中筋地区の3つの場所にアンガマがあったが、中筋のアンガマは消滅し、現在は西地区と東地区で行われている(http://www.bonodori.net/zenkoku/taketomi/taketomi_REKISHI.HTML)。

 石垣島について言えば、山形の花笠踊りのような、普段は八重山で着られることのない衣装がいったいどこから渡来したものかということは明らかではないし、ウシュマイ(お爺)とウミー(お婆)のアンガマー面の由来も明らかではない。

 東南アジアやメラネシアとの関係が指摘されている、川平(かびら)にある「マユンガナシ面」と同様に、このウシュマイとウミーの面も、中国雲南省などの南方モンゴル系の人たちの間や東南アジア諸国に、八重山のアンガマー面と瓜二つのものが伝わっている。

 中国の雲南省などに住んでいる少数民族、ミャオ(苗)族。人口は約900万人。今は、貴州省、雲南省、四川省、広西チワン族自治区、湖南省、湖北省、広東省などに住んでいる。ミャオ族には、昔、数百人の男女が日本に渡ったという伝説があるという。彼らに伝わる仮面は、まさに石垣島のアンガマー面と瓜二つと言ってもいい。
 このミャオ族のお面は、口や目の形、髪の結い方や材質、両面の表情、なにもかもアンガマ面とそっくりである(http://www.yukai.jp/~point/katteni/newpage3000angama.htm)。

 いろいろな地域から渡来人がこの島に住み着き、穀物の栽培地の確保を巡って争ったのであろう。その名残が、種子取り祭りなのだろう。

 ここで、いわゆる「えと」について説明しておこう。

  「えと」は、「干支」と表記する。「え」の「干」は「十干」(じっかん)のことである。「支」は「十二支」(じゅうにし)のことである。「十干」は、木(き)、火(ひ)、土(つち)、金(か)、水(みず)という五行を兄(え)と弟(と)に区分けしたものである。「木の兄」が「きのえ」。「木の弟」が「きのと」となる。以下、「ひのえ」(火の兄)、「ひのと」(火の弟)、「つちのえ」(土の兄)、「つちのと」(土の弟)、「かのえ」(金の兄)、「かのと」(金の弟)、「みずのえ」(水の兄)、「みずのと」(水の弟)ある。この五行については、惑星を言い表す、水・金・地・火・木(すい・きん・ち・か・もく)の「地」を「土」に置き換えて(水・金・土・火・木)、それを反対から読めばいい(木・火・土・金・水)。五行の兄と弟で十個ある。従って、これを「十干」(「じゅっかん」ではなく、「じっかん」)という。さらに、「木のえ」を「甲」、「木のと」を「乙」という字で置き換える。以下、丙(ひのえ)、「丁」(ひのと)、戊(つちのえ)、「己」(つちのと)、「庚」(かのえ)、「辛」(かのと)、「壬」(みずのえ)、「癸」(みずのと)となる。こうして置き換えた漢字には別の読みもする。「甲」(こう)、「乙」(おつ)、「丙」(へい)、「丁」(てい)、「戊」(ぼ)、「己」(き)、「庚」(こう)、「辛」(しん)、「壬」(じん)、「癸」(き)である。

 甲乙丙丁(こう・おつ・へい・てい)は成績や序列を表すものとして戦前は多用されたものである。

 十二支も古く、殷の甲骨文に出てくる。戦国時代以降、年だけでなく、月・日・時刻・方位の記述にも利用されるようになる。

 戦国時代の中国天文学において天球の分割方法の1つであった十二辰は、天球を天の赤道帯に沿って東から西に十二等分したもので、この名称に十二支が当てられた。

 古代中国で考えられ、日本に伝えられた。十二支は古く殷の甲骨文では十干と組み合わされて日付を記録するのに利用されている。

 十二支の各文字は、一説に草木の成長における各相を象徴したものとされる(『漢書』律暦志)。

 
また、動物名が配置される十二支を十二生肖と呼ぶ。日本では十二支という言葉自体で十二生肖を指す。元々の十二支は順序を表す記号であって動物とは関係がない。なぜ動物と組み合わせられたかについては、人々が暦を覚えやすくするために、身近な動物を割り当てたという説(後漢の王充『論衡』)やバビロニア天文学の十二宮の伝播といった説がある(ウィキペディアより)。

 動物名の十二支は、「子」(ね)、「丑」(うし)、「寅」(とら)、「卯」(う)、「辰」(たつ)、巳(み)、「午」(うま)、「未」(ひつじ)、「申」(さる)、「酉」(とり)、「戌」(いぬ)、「亥」(い)である。このことについては、ほとんどの人が経験的に知っているものである。それぞれ、音読みすれば、「子」(し)、「丑」(ちゅう)、「寅」(いん)、「卯」(ぼう)、「辰」(しん)、「巳」(し)、「午」(ご)、「未」(び)、「申」(しん)、「酉」(ゆう)、「戌」(じゅつ)、「亥」(がい)となる。

 さて、十干の1番目の「甲」と、十二支の1番目がまず組み合わせる。つまり、「甲子」から出発する。阪神タイガースのホーム球場の「甲子園」は「甲子」(きのえ・ね)の年に創設されたからこの名が付けられた。この時の「甲子」の年は西暦1924年であった。

 「甲子」の次は、十干の2番目の「乙」と十二支の2番目、「丑」が組み合わされる。10番目の「癸」と「酉」とを組み合わせた「癸酉」(みずのと・とり)の次は、十干では11番目がないので、1番目の「甲」と十二支の11番目の「戌」が組み合わさった「甲戌」
きのえ・いぬ」、その次は十干の2番目の「乙」と十二支の12番目の「亥」が組まれた「乙亥」(きのと・い)、次は、十干の3番目の「丙」と十二支の1番目の「子」が組み合わされた「丙子」となる。こうした組み合わせでは、10と12の最小公倍数、つまり、60年で同じ組み合わせの年が巡ってくることになる。甲子が次ぎに来るのは60年後である。

  還暦というのも、自分の生まれた年の干支がつぎに回ってくるのが60年後であるという意味である。おそらくは、歴史的に見たとき、10進法を取る民族と、12進法を取る民族が遭遇し、その折衷が60進法になったのであろうと推測される。

 戊辰戦争、壬申の乱、辛亥革命、等々は干支でその年を表現したものである。例えば辛亥革命は1911年であった。

 竹富島の種子取りに話を戻そう。
 「戊子」(つちのえ・ね)に種子蒔き日に合わせることにした、他の村の酋長たちがその旨を根原金殿に伝えたのが、「ユークイの巻き歌」である(狩俣恵一『種子取祭』、竹富島文庫Ⅰ、遺産管理型NPO法人・たきどぅん、2004年、11~13ページ)。

 6人の村長(酋長)が神として祀られている所が、「うたき」(御嶽)である。竹富島ではこの6つの「うたき」を総称して「むーやま」(むーやま)と呼んでいる

 種子を蒔くことを竹富島では、「種子取」(たんとぅい)という。その祭りが「種子取祭」である。祭りは9日間開かれる。新暦10~11月に回ってくる「甲申」(きのえ・さる)から「壬辰」(みずのえ・たつ)までの9日間である。

 まず、初日の「甲申」(きのえ・さる)は、奉納芸能の練習開始の日である。この日、祭りの関係者は、「ホンジャー」宅に集まり、配役や担当を決め、神に祈る(「ホンジャー」については、末尾に説明する)。祈る場所は、「ゆーむちうたき」(世持御嶽、末尾で解説する)である。

 2日目の「乙酉」(きのと・とり)、3日目の「丙戌」(ひのと・いぬ)、4日目の「丁亥」(ひのと・い)は、奉納芸能の練習と料理の仕込みを行う日である。

 5日目の「戊子」(つちのえ・ね)が種子蒔きの日である。半間の広さ(畳半分のこと)の畑に種子を蒔く。「いいやち」(飯初)という餅を作る。これは、粟、糯米(もちごめ)、小豆を混ぜた餅である。 6日目の「己丑」(つちのと・うし)の日は、「んがそうじ」(大精進)の日である。「おなり神」(後述する)として、「姉妹」や「おばさん」が招待され、「いいやちかみ」(飯初食)の儀式が行われる。つまり、「いいやち」餅が「おなり」様にふるまわれるのである。

 7日目の「庚寅」(かのえ・とら)の日は、玻座間村を中心とした奉納芸能が演じられる。夜には、すべての村で各戸を訪問する「ゆーくい」(世乞い)(後述する)が行われる。

 8日目の「辛卯」(かのと・う)の日は中筋村を中心とした奉納芸能が演じられる。
 そして、最終日の「壬辰」(みずのえ・たつ)の日は、後片づけと種子取祭の決算を行う日である。

 7日目と8日目が奉納芸能が演じられるもっとも華やかな日である。




http://www.napcoti.com/tanedori/hounou08.htm

http://www.napcoti.com/tanedori/hounou08.htm


(吉村史彦「冥界への招待」、http://www2s.biglobe.ne.jp/~hiroba/ikai0107.html)。




http://www.mikan.gr.jp/report/kigen/page7.html


http://www.napcoti.com/tanedori/hounou08.htm)。


福井日記 No.104 チノーハラハラ

2007-05-04 14:35:57 | 言霊(福井日記)
 
   伊波普猷『古琉球の政治』(郷土研究社、1922(大正11)年)は、じつに面白い。柳田国男の主宰する櫨辺叢書に1つとして刊行されたものである。『伊波普猷全集・第1巻』(平凡社,1974年)に編入されている。



 この中で、「チノーハラハラ ヌチューナガナガ」という琉球のことわざが紹介されている。伊波は、これを「デモクラシーの神髄をいいあらわしたものと見て差し支えない」(全集・第1巻、485ページ)と断言している。

 自信はないが、「チノー」とは、「着物」に呼びかけた「お前」のことであろう。「ハラハラ」とは、「はらはらと綻びよ」、「ヌチュー」とは子供に呼びかけた「お前」、「ナガナガ」とは「背丈が伸びよ」という意味であろう。伊波普猷自身は次のように翻訳している。

 「新しい着物よ、用がすんだら、自然に綻びろ。幼児よ、着物なぞに頓着せずにずんずん生長しろ」(同)。

  琉球では、小さな子供に新調した着物を着せるとき、その着物の襟を柱に押し当ててこの呪文を唱えるという。柱に身長の伸びを記録したのか、柱に神の力が宿るという意識があったのだろう。「ハラハラ」と「ナガナガ」、「チノー」と「ヌチュー」との対句がじつに素晴らしい。

 体を締め付けず、子供の生長に合わせて、ハラハラと綻ぶ、子供はナガナガと背を伸ばす。着物への呼びかけがチノー、子供への呼びかけがヌチュー。着物に呼びかけて、「子供の生長を邪魔しないで、子供が窮屈になったら、着物よ、綻びてね」、子供に呼びかけて「お前は、大きく、大きく生長するのだよ」。

 人は環境の産物である。環境がよければ人は成長する。環境が悪ければ人の成長は阻害される。人が順調に成長できるように環境は整備されなければならない。そうしたことを、琉球人は知っていたのである。

 伊波は言う。
 「着物は身体の為にできたもので、身体は着物のために出来たものではない。これほどわかりきったことはないが、長らく着せて置く間に、子供はクリクリと太って、着物は窮屈になっても、マア当分これで間に合わせるようにしようという風になる。こうなると、もう子供は着物に縛りつけられて、その発達が妨げられる」(同)。

 ここから、伊波の唯物史観が展開される。
 「人間社会に制度があり、機関があるのは、身体に着物があるのと同様である。その内容なるヒトが生長すると、最早従来の制度や機関では間に合わなくなることがある。この時に制度や機関」は改造されるか、全廃されるべきである(同)。

 「内容が発達しすぎて、それを包むところの形式が古くなったのも気がつかずにいると、形式はいつの間にか牢獄と化し去ることを知らなければならぬ」(同)。

 「歴史を照らしてくれるものが要するに唯物史観という哲学・社会観」であると、湧川清栄は、1928年にハワイにきた伊波から聞かされたという(外間守善(ほかま・しゅぜん)『増補新版・伊波普猷論』平凡社、1993年、326ページ)。

 ハワイの土地が少数の資本家に握られている。
 「然らばハワイ十億の富をつくるに与って力のあった労働者達は今如何なる結果にあるか。いうまでも無くその存在は資本家達の搾取機関としてのみ許されている。・・・彼らは十年一日の如く『口から手へ』の生活を繰り返しているのみで、従って人間としての自尊心などはもっていない」(『布哇産業史の裏面』、1931年、『伊波普猷全集・第11巻』平凡社、1976年、368ページ)。

 にもかかわらず、ハワイは「太平洋の楽園」と喧伝されていると伊波は憤慨した。
 「こうした土地柄に於いて、無産者を親に持つ日系市民の前途は実に哀れなものと言わなければならぬ。彼等が如何に政治的に目覚めたとしても、現代の政治が経済的の集中表現である限り、彼等は到底被抑圧階級の運命から免れることは出来まい」(同、370ページ)。

 わずか、2、3か月の滞在で、ハワイの本質を抉り出した。人は見たいものしか見ない。米国の権力がハワイを解放したと自負していた同じ局面に、伊波は経済の暴虐を見た。しかも、経済学者ではなかった伊波が。



  伊波がハワイに行く(1928年9月末)直前の4月18日、河上肇は京都大学から追放された。

 「米国人は実に神経過敏の民族である。世界大戦当時、布哇の一方の大資本家であった独逸系の大商会ハツクフヒルド商会が、米国の敵国民財産没収命令によって、一切合切没収される運命に遭遇したことは、邦人の記憶にもまだ遺っていることであろう。もし不幸にして日米戦争でも勃発しようものなら、貧弱とはいえ、半世紀もかかって漸く築き上げた日本人の事業が、どういう運命に遭遇するかは、智者を俟たずして知るべきである」(同、370ページ)。



 伊波に先立たれた冬子夫人の歌、抜粋。
 「私がほしいのは 警戒のないこころ 説明のいらない了解・・・それはみんなあなたといっしょに消へてしまった 生き残る哀しみを知らず 静かに眠っているあなたの幸福 私の孤独をあなたはしらない」(比嘉美津子『素顔の伊波普猷』ニライ社、1997年、160ページより)。

福井日記 No.103 ドールフード社 

2007-05-03 20:29:20 | 言霊(福井日記)


 「パイナップル王」(Pineapple King)と呼ばれたジェームズ・ドラモンド・ドール(James Drummond Dole、1877-1958年)は、「ハワイ共和国」大統領・サンフォード・B・ドール(Sanford B. Dole)の従弟である。

 マサチューセッツ(Massachusetts)州、ジャマイカ・プレーン(Jamaica Plain)に、「ユニテリアン派」(Unitarian)のプロテスタント教会の牧師、チャールズ・フレッチャー・ドール(Charles Fletcher Dole)の子として生まれた。

 ジェームズのミドルネームのドラモンドというのは、母、ウランシス・ドラモンド・ドール(Frances Drummond Dole)のミドルネームから採っている。ユニテリアン派というのは、三位一体説を否定するプロテスタントの一派である。

  ジェームズは、1899年、ハーバード大学・農学部卒。その時、父からもらった50ドルを元手に投資して1万6240ドルを稼ぐ。それをもって、1901年、従兄、サンフォードが支配するハワイ(Hawai)・ホノルル(Honolulu)に移住、同年、オアフ(Oahu)島の中央平原の24万平方メートルの土地を買収、パイナップルを栽培し、パイナップル缶詰工場を、ワヒアワ(Wahiawa)に建設(「ハワイ・パイナップル・カンパニー」)、商売は順調に発展し、1907年、ホノルル港近くにも缶詰工場建設、同年、米国初の全米向けの広告雑誌を刊行、1913年、ヘンリー・ギニカ(Henry G. Ginaca)が発明したパイナップル皮むき機械を採用、非常に大きな効果を上げた。

 1922年には、ラナイ(Lanai)島を買収し、広大なパイナップル・プランテーションにした。このプランテーションは、世界でもっとも広大な面積のもので、20万エーカー(800平方キロメートル)ある。

 20世紀を通じ、このプランテーションは、世界のパイナップル生産の75%も占めた。この島は、パイナップル・アイランドと呼ばれている。

 彼は、さらにマウイ(Maui)島の土地も買収した。1927年、チャールズ・リンドバーグ(Charles A. Lindbergh)の大西洋横断飛行に感動して、カルフォルニア州オークランド(Oakland)からホノルルまでの飛行機レースを作った。償金は、優勝者には、2万5000ドル、2位には1万ドルであった。子供は5人、1948年引退、引退後多くの病に苦しみ、1958年、心臓麻痺で逝去。現在のドール・フード・カンパニーは、彼のパイナップル会社を前身としている。

 広大な土地が、個人の所有になった。島全体が個人のものになった。プランテーション労働者の中から反体制運動が生じた。

 日本の生鮮果物輸入の58.5%はバナナである。そのバナナの75.2%がフィリピンからのものである(2000年財務省貿易統計)。その31%がドール社のものであり、伊藤忠商事が輸入元である。

 現在のドール・フード社は、カリフォルニア州ウェストレイク・ビレッジ(Westlake Village)に登録されたアグリビジネスである。

 
バナナ、パイナップル、ブドウ、イチゴ等々の生産者である。世界90か国に展開し、年間収入は、53億ドルある。

 なんと、現在の所有者は、億万長者のデービッド・マードック(David H. Murdock)である。

 ハワイ・パイナップル・カンパニーは、キャッスル&クック(Castle & Cooke)に買収され、1991年にドール・フード・カンパニーと改称された。キャッスル&クックは、不動産会社であり、1995年に分離した。スタンダード・フルーツ・カンパニー(Standard Fruit Company)を1964~68年に買収、米国第2のバナナ生産・販売業者になっている。最大はチキータ(Chiquita)である。

 ドール社が、農民を追い出して、ミンダナオ島に広大なバナナ園を開設したが、このミンダナオ島、とくに、ダバオには、第2次世界大戦前には、日本人移民がマニラ麻の農園に雇われていた。ここでも、沖縄出身者が7割を占めていた。太田恭三郎のマニラ園は繁栄を見、ダバオには、2万人近い日本人街ができていた。第2次世界大戦で悲惨な経験をした彼らのかなりの部分がミンダナオ島に留まっているが、日本人であることを隠して生活していると言われている(ウィキペディアより)。



 推奨したい本として、中村洋子『フィリピンバナナのその後―多国籍企業の創業現場と多国籍企業の規制』七つ森書館、2006年12月がある。



 鶴見良行『バナナと日本人』岩波新書から20余年ぶりである。


福井日記 No.102 天津国に駆け上った木村誠志

2007-05-02 01:43:35 | 彼方へ(福井日記)


 平成19年4月25日(水)午後1時半、木村誠志(きむら・せいし)氏が慌ただしく天国に旅立つた。脳内出血であった。享年(数え年表記)38歳。4月27日、福島で行われたお別れ会には100名も集まったという。氏の逝去を悼む記事がウエブ・サイトに数多く載っている。

 死は、神が我々に除けておいてくれた最大のプレゼントである。死という永遠の安らぎがあるからこそ、我々は、この忌まわしい世を生きていける。「しんどかったなァー」と大きく息をはいて永遠の眠りにつく。残された愛する人たちに、「ごめんね」と謝って。死は、本人にとっては、最後のやすらぎであるが、レフトビハインドの人たちにとっては、とてつもなく悲しいことである。でも、「休ませてあげよう」と思わざるをえない。ただし、せめて、心の準備を、残された人たち(レフトビハインド)にさせる時間的余裕が欲しかった。木村氏は、あまりにも脱兎のごとく、天津国に駆け上ってしまった。

 「良い奴だからよろしく」。松永達(まつなが・たつし)氏が、電話で頼んできたのは、数年前のことであった。彼のポスト・ドクターの指導教官になってやってくれとの依頼であった。

  ケンブリッジで一緒だったが、本当に良い奴なので、引き受けてくれとの電話であった。引き受けた。

  本当に良い奴だった。人を惹きつけてやまない笑顔。車椅子が不自然ではない、体の一部になっていた。

 
無事、学振PDに採用され、律儀にゼミ参加してくれた。神戸・六甲のカトリック教会での結婚式に招待された。件の松永氏と江頭(えがしら)氏が出席されていた。そのとき、初めて奥様を拝見した。奥様は、間もなく、京大のCOEの事務担当として、私たちのお世話をいただいた。不謹慎にも「とんでもない美人だ」と感嘆した。

 福島大学で教鞭を執ってまだ日も浅いのに、いつの間にか、多くの知己を得ていた。人が育つのは、人脈の豊富さによる。どんなに秀才でも、孤独の生活からは、大物にはならない。必ず、周囲に俊秀が集う人が大きく育つ。木村氏はそうした私の独断に沿う人であった。

 25日の11時半、妹尾裕彦(せお・やすひこ)氏から訃報を伝える電話があった。毎朝3時に起きて仕事をする習慣の私には、寝入りばなであった。寝ぼけていたので、事態の重さを瞬時には理解できなかった。翌日、大学で松永氏からのメールを受け取った。

  私の知り合いでは、妹尾、松永、  江頭、  広瀬(ひろせ)、  澤邉(さわべ)、 中島(なかしま)の各氏がお別れ会に出席されたという。

 
かくいう私は、当日、ある高校の社会科の先生方に話をしなければならなかったので、出席できなかった。前進化経済学会会長の塩沢由典(しおざわ・よしのり)氏が ホームページでお悔やみを書いた。共同通信が訃報を伝えた。

 木村氏は、小島清理論と、価値連鎖論とを結びつける努力をしていたと、千葉大学教育学部の妹尾氏が報告している。残念ながら、私は、そのことを知らなかった。

 
つい最近、尹春志(ゆん・ちゅんじ)氏の博士論文審査を終えたばかりである。氏の論文は、Japan and East Asian Integration: Myth of Flying Geese, Production Networks, and Regionalismで、小島理論と価値連鎖論を結びつけたものである。なんと、私の近くにいる人たちが、同じテーマを互いに知らないまま追っていたとは。

 木村氏の業績については、福島大学経済経営学類・大学院経営学研究科データべースで詳しい。さらに、妹尾氏が学会報告をも含めた業績一覧を作成中である。こんな短期間に、膨大な業績一覧を作成しえた妹尾氏の力量には感服する(http://home.att.ne.jp/theta/eurospace/kimura/index.html)。

 主著は、The Challenges of Late Industrialization: The Global Economy and the Japanese Commercial Aircraft Industry, Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2007, Februaryである。

 木村氏は、勤務先のホームページで、研究テーマを次のように説明している。

 「各種産業が急速にグローバル化するなかで、後発企業はいかにして企業発展を図るのか。また、後発企業発展を実現するには、どのような経営戦略や制度、環境、産業政策が有効なのか。このような問題意識のもと、私の研究は、グローバル産業における後発企業発展モデルの構築を目的としている」。

 福島大学では、「国際経営論」を担当されていた。
 氏の人間的成熟とともに、企業のなかの「人」の研究に進まれるはずであった。企業研究だけで終わるはずのない人であった。