消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 55 古事記と日本書紀

2007-01-13 00:09:14 | 人(福井日記)

 私ごとで申し訳ないが、今日、私の新著『姿なき占領』(ビジネス社)が店頭に並ぶ。

 

初稿校正を出版社に提出したまま(昨年10月)、いきなり出版ということに大いに不安を覚えるものの、出版事情の極端に悪い時期に、出版していただいた版元には感謝している。

 この著のタイトルから、たんに「陰謀史観」であり、「米国非難の著」であると決めつけられてしまいかねないが、そうではない。

 本書は、個人であれ、組織であれ、国家であれ、力と権威はどこからくるのかを問うたものである。

 
いまの忌まわしい時代に対抗するには、「自覚した個々人の連合」の形成が不可欠である。

 どうすればそのような状況を創り出すことができるのか。どうしてもそうした状況を創り出さねばならない。しかし、それは、非常に困難な作業である。運動はつねに挫折し、夢は現実の荒々しさに玉砕してきた。そして、いまはニヒリズムが思潮を支配している。


 例えば、マルクス主義を揶揄することがインテリの条件にすらなってしまった。私は「主義者」ではないが、時代の流行に乗って、特定の思想を「揶揄する」、「苛め精神の卑しさ」だけは共有したくない。

 新著で、「運動に挫折し、心に傷を受けた、切ない人生を送る人たち」の哀しみを共有できればと、私は願っている。そして、「かさにかかって」、「抵抗勢力」を叩きつぶしている「権力」への侮蔑と、虐げられた者と自らの精神の高尚への願いを共有したく思う。

 話を本題に戻す。

 継体天皇が越前育ちであると記したのは日本書記である。そうではなく、生まれも育ちも近江であるとしたのは古事記である。

 どちらが正しいのか定説はない。記紀のどちらに依拠するのかで古代史研究家は分かれる。それに、地元贔屓もある。

 継体天皇は日本書記では82歳まで生きた。古事記では43歳で死んでいる。倍近い開きがある。それほど両者には違いがある。

 ベストセラー『謎の大王 継体天皇』(文春文庫)を2001年に出版した水谷千秋氏は、古事記説に立つ研究者であるが、日本書記を脚色が多いと退けられている。





 
揚げ足は取りたくないが、神話と史実とを区分けしようとしたヘロドトスがついに登場しなかったわが国において、脚色を云々することは、天に唾するものであろう。


 問われるべきは、どうして、古事記が、継体を越前と無関係なものとして描いているかということであり、日本書記になって、どうして越前が入り込んだのかという事情であろう。古代史研究とはそうした姿勢もつべきであり、特定の資料のフアンになってしまってはなんにもならない。

 こういうとき、私はつねに折衷説を採る。
 
継体は、越前、近江、美濃、尾張で築いた権力でもって、畿内に進出したのであろうと。それでいいではないか。大事なことは正確な継体の軌跡を得ることではなく、伝承から炙り出される古代権力の姿なのではないか。水運、そして大陸の影、大規模な土木事業、民衆の結集。それらを検証することではないのか。神話をヒントに史実を推量することが古代史研究の醍醐味であるはずだ。


 ちなみに、継体天皇については、記紀の他に、『上宮記』がある。これは、『釈(しゃく)日本紀』という、鎌倉時代に出された書物に引用されたものである。

  流れからすれば唐突であるが、福井にきて、パチンコ屋の巨大さに驚いている。

 新聞の折り込み広告の9
割は大パチンコ屋のものである。巨大な現金商売。地元経済を理解するうえで、もしかするとキー概念になるかも知れない。

 この巨額のカネが地元経済に潤いをもたらせてくれることを期待している。

本山美彦 福井日記 54 紋

2007-01-12 19:01:42 | シンボル(福井日記)

 福井にきて、「伝統の権威」というものを強く意識するようになった。 都がつねに、日本の文化の担い手でありえたのは、その「公家文化」のもつ伝統的な洗練さという権威を保持していたからであろうとひとしお思うようになった。伝統的権威は権力でもある。誤解のないように弁明しておくが、私は京都の権威にずっと反抗してきた積もりである。伝統の権威のない神戸を動かなかったのもこのことへの反発からである。


 


 江戸幕府明治政府も、自らの権威を確立するために、京都の伝統文化を摂取する必要があった。


 


 徳川の家紋は、ご存じのように「」である。しかし、これは、先祖(松平)代々の家紋ではなく、家康が決めた紋である。しかも、この「葵のご紋」は京都の賀茂神社の神紋である。賀茂神社の祭りが「葵祭」と言われているのは、この紋を意識してのことである。


  


平安遷都以来、賀茂神社は代々の天皇家に敬われ、伊勢大社をしのぐ大社になっていた。この神紋は貴く、天皇家ですら跪いた。家康がこのご紋を採用したのは、天皇家をも跪かせる賀茂神社にあやかったものである。家康には政治的権威が必要であった。これが賀茂神社であった。 家康が「葵紋」を採用したことについては、浄観と名のった西垣源五右衛門の『浄観筆記』にある。



 
春日の局が家光(大猷院殿)の乳母になったことを同書では、徳川家のご紋が「神紋」であり、それを採用した頃に、春日の局が仕官させられたことから、同女は「神紋乳母」と呼ばれていたと記されている。


 家康は、京都の西陣におびただしい染織品を発注し、そこに葵のご紋を染め上げた。


 紋と言えば、継体天皇の紋は、二本マストの船ではなかったかとの説が最近出されている。 越の国を発った継体は、淀川水系に都を置いた。大和に都を置いたわけではないのである。まず即位したのは、淀川水系に位置する樟葉(くずは)であった。いまは枚方市に編入されている。


 次ぎに筒城(つつき)(綴喜、いまの京田辺市)に遷都、さらに、弟国(乙訓、いまの長岡京市)に遷都した。京都の人にはすぐに分かることであるが、いずれも淀川の湊である。つまり、継体は、越の国の伝統をそのまま機内に持ち込んだのである。淀川水系、瀬戸内海、そして大陸への海運の要所としてこの地を選んだのであろう。


  高槻市今城塚古墳がある。越の今庄を想起させる地名である。この古墳は継体天皇の墓ではないかとされている。この古墳から二本マストの船が描かれた大きな円筒形の埴輪が出土している。福井市内からも「井ノ向一号鐸」と銘々されている銅鐸が発見された。ここにも船の絵が描かれている。


  継体天皇の母は振媛(ふりひめ)とされる。同女の出身地が現在の坂井市丸岡町である。この地から春江町、三国町にかけての九頭竜川流域が継体の本拠地であったと言われている。この川には天然の潟や湊が点在していた。おそらく、日本屈指の寄港地であっただろう。ここから大陸への航路が開け、南に向かっては琵琶湖に通じる。つまり、越、畿内、大陸を結ぶ交通路を継体一族が整備したと考えることができる。


  船が継体の神紋だったのであろう。越しの伝統が機内に入ったと思われる。大和朝廷は越の権威が必要であった。これが東大寺のお水取り、「若狭の井」である。