消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

ギリシア哲学 29 ヘラクレイトス3

2007-01-19 11:03:13 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)
再び断片

 「魂にとって水となることは死であり、水にとって土となることは死である。しかし、水は土から生じ、魂は水から生じる」
  (クレメンス『雑録集』第6巻第17章第2節より)。

 「乾いた魂こそ、最上の知を備え、もっとも優れている」
  (ストバイオス『精華集』第3巻第5章第8節より)

 「一人前の大人でも酔うと、どこへ歩いていくのかも分からずに、よろめきながら、年端もいかぬ子供に手を引かれて行く。魂を湿らせたからである」
 (同上、第3巻第5章第7節より)。

 「魂の限界に行き着こうと、あらゆる道を踏破しても、魂の限界に行き着くことはできないであろう。魂は、それほど深いロゴス(理=ことわり)を持っている」
 (ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』第9巻7節より)。


 この魂に関する理解方法は面白い。魂は宇宙循環に大きく係わっている。個人の限界をはるかに超えた広大な宇宙の循環に関与する魂は、人智を超えた存在であるとヘラクレイトスは考えていたのである。こうした考え方をしていると判断できるのは、次の言葉である。

 「われわれは、呼吸を通じてこの神的なロゴスを吸い込むことによって知的になる。眠っているときには忘却しているが、目覚めているときには知的になる。眠っている間は、感覚の通路が閉じて、われわれの思惟が、取り巻いている周囲との自然的結合から切り離されてしまい、呼吸による接続だけが、なんらかの根のように保持されている。こうして切り離されることで、思惟は以前に持っていた記憶の力を失う。しかし、再び思惟が目覚めると、窓を通して外を見るように、感覚の通路を通って外へと延びてきて、取り巻く周囲と結びつき、ロゴスの力を身につけるのである」
 (セクストス・エンペイリコス『学者たちへの論駁』第7巻129節より)。


 「ハデスとディオニソスとは同一の存在である」
  (クレメンス『プロトレプティコス』第34章より)。 

  この言葉も刺激的である。ハデスとは「冥界」のことで「死」を表す。ディオニソスは生き生きとした「生」である。これが同一だという。 そもそも、ヘラクレイトスは偶像崇拝を批判する。 

「あちこちの神像に祈りを捧げることは、家屋に向かって話かけているようなものだ。彼らは、神々や英雄が何者であるのか、少しも分かっていないのである」
 (アリストクリトス『神智学』第68章より)。

 人々は意味も分からずに密儀を行ったり、踊り狂ったり、祭礼行列を行ったりしている。中には、恥部を讃える歌さへある。しかし、ディオニソスを真に理解することなく、こうしたことを行うことは破廉恥以外の何者でもない、とまで彼は言い切っている。

 「人々の間で一般に行われている密儀は不浄なものである。・・・祭礼行列を行ったり、恥部を讃える歌を歌ったりするのが、ディオニソスを奉じるためでなかったらとしたら、彼らの所業は破廉恥極まるものである」
 (クレメンス、同上、第22、34章より)。

 そしてすごい言葉を吐く。 
 「デルポイの神託所の主は、語りもせず、隠しもせず、徴(しるし)を示す」
 (プルタルコス『ピュティアの神託について』第21章より)。

 「デルポイの神託所の主」とはアポロンのことである。
  言葉は、往々にして誤解を招く。真実は隠されている。ロゴスも明瞭には表現できない。だからこそ、徴が重要な意味をもつ。それは曖昧である。しかし、曖昧だからこそ、真実を包み込むことができる。このスタンスは大変なことである。

  近代科学が見失った日常感覚の大切さが語られている。そもそもヘラクレイトスは曖昧に語る人として批判されてきた。しかし、曖昧だからこそ、真実を表現できるという智恵を私は高く評価する。

 例えば、男性の求愛を女性が断るとき、「犬歳生まれと猿歳生まれとは相性が悪いと、私のおばあちゃんがうるさいので、ごめんね、お受けできません」という口実がよく使われる。「なんと非科学的な」と怒る男は馬鹿である。断った本人もこんなことは信じていない。相手を傷つけずに「仕方ないな」とあきらめてもらう至高の口実が、こうした「相性論」である。そもそも「正しい」であろうことをとくとくと語る人に賢い人はいるのだろうか。「科学性」を振り回す人に、人を引きつける魅力を持つ人はいるのだろうか。

 私は、ヘラクレイトスに大人(たいじん)の風格を見る。