古代ギリシャ人は、もっとも活躍できる年齢をほぼ40歳とし、そうした年齢の絶頂期を「アクメー」と呼んだ。言葉も時代によって変わるものである。
ギリシャで最初の自然哲学者はミレトスのタレスとされている。彼は記録されている人類史上で初めて日蝕を予言した人であるとされている。
紀元前585年に日蝕は生じたとされている。真偽のほどは分からない。それは第48オリンピア祭期の4年目に相当する。ここからはいい加減なもので、この年がタレスのアクメー(盛年=40歳)のはずだとされ、結局、彼の誕生は40年前の前624年にされた。没年はもっといいかげんなものである。
小アジアのエーゲ海近くの要塞都市サルディスが陥落した祈念すべき年は前546年である。この栄光ある年にタレスは死んだことにされてしまった。
しかし、それでもいいではないかと私は思う。昔、人は、現代人ほど生没年を気にしていなかったのではないだろうか。カレンダーも生死の境も曖昧模糊のものであったのではないだろうか。著名人は神格化され、歴史的大事件に合わせて誕生日と没年を決定されたのであろう。おおらかな時代のおおらかな風習である。
5と9を表す古代ギリシャ文字は間違いやすく、これが年代確定の障害になっているとも言われている。
タレスは当時、必ず7賢人の一人に加えられていた。ディオゲネス・ラエルティオスによれば、7賢人はアテネの政務長官(アルコーン)であったダマシアスが前582年に制定したとされる。この年はピュテイア(デルポイ)祭が復活させられた記念すべき年であった。
タレスは多彩な人であり、アリストパネスの『鳥』では、「タレスのような人」として都市計画などあらゆる実践的な技術と知識を有していた人として描かれている。実際、タレスは数学・幾何学で才能を発止し、軍事用道路・橋も建設を指揮した。
前6世紀、ギリシャの学問はエジプトから導入されたものであった。ヘロドトスは、ギリシャの幾何学がナイルの測量技術が伝わったことを源としていると断言している。タレスもまたエジプトに遊学し、幾何学を修めたとされている。
こうした「ソクラテス以前の哲学者」を貶める趣味をもっていたのがプラトンであった。プラトンは執拗にソクラテス以前の哲学者を馬鹿にする発言をしていた。プラトン『テアイテトス』では、タレスが星を観察しながら上ばかり眺めて歩いていたところ、井戸に落ち込んだ。それをトラキア出の下女がからかった。天空のことを知るのに熱中して、ご自分の後ろや足下のことに気が回らないのですねと。これが「上の空の大先生」の使用例第一号である。それを親しい者たちとプラトンは作品の中で笑い飛ばした。なんて意地の悪い場面設定なのだろう。ここからしてもプラトンの狷介な性格が読み取れる。
アリストテレスもまたひどかった。金儲けにいそしむ俗物の典型として、アリストテレスはタレスを非難した。『政治学』第1巻においてである。恥ずかしながら、私も、デリバティブ批判の材料としてアリストテレスのこの文章を過去、無批判に引用してきた。
タレスたちは哲学がなんの役にも立たない。したがって哲学者たちは貧乏をしていると言っているという。彼らは、それ見たことかと哲学者を馬鹿にする。タレスなどは天文という実践的な研究をして金儲けに結びつけることに成功したと豪語したという。
私は、タレスはけしからん。アリストテレスは正しいとの文脈でこれまでも本に書いてきたが、いまさらながら自分の無知に愕然としている。
これはアリストテレスの権威の下に、ソクラテス・プラトン・アリストテレスといった新興正統派が、旧い多様でかつ快活な思想を抹殺することであった。タレスこそは、教条的思想を軽蔑していた人だったのである。
アリストテレスは、自分が哲学者であり、タレスは哲学ではない天文学にうつつをぬかしていると非難した。これはまさに経済学にこける現在の新古典派である。われこそは経済学者である、ディスクリプティブな散文ばかりを書く輩は経済学者では断じてない、という思考停止者とアリストテレスはどこが違うのか。
過去の自らの無知の反省も込めて、アリストテレスの文章を引用する。それは私の傷口に塩をすり込む作業でもある。
「言われているところによれば」(アリストテレスが確認したのではなく、という話もあるというきわめて卑怯な紹介の仕方)、「彼(タレス)は、天文研究によって、来るべきオリーブの収穫を察知して、まだ冬の間に、わずかな金銭を調達してミレトスとキオス中にあるすべてのオリーブ搾油機を借りるための手付け金をまかなったが、誰も競り合わなかったので、わずかな賃料(手付け金)ですんだ。さて、時期が来ると、大勢の人たちが同時にそれを求めたので、彼は望み次第のやり方でそれを貸し付け、膨大な金銭を手に入れた。哲学者たちは、もしその気になれば容易に富を築くことができるのだが、ただそれは彼らが本気でいそしむことではない、ということを(彼が)示して見せた、とのことである」。
最後も、「とのことである」と伝聞の形を取っている。実際にタレスがそんな馬鹿なことをしたのか否かは、アリストテレスは明言を避けている。実証もしていない。人々の犠牲の上にタレスがあくどい金儲けをしたとのデマ的な発言を、こともあろうに大権威者のアリストテレスがしたのである。以後、ほぼ800年後、ディオゲネス・ラエルティオスが再発見するまで、タレスはアリストテレスの権威の前に汚名を被せられたままだったのである。
ギリシャで最初の自然哲学者はミレトスのタレスとされている。彼は記録されている人類史上で初めて日蝕を予言した人であるとされている。
紀元前585年に日蝕は生じたとされている。真偽のほどは分からない。それは第48オリンピア祭期の4年目に相当する。ここからはいい加減なもので、この年がタレスのアクメー(盛年=40歳)のはずだとされ、結局、彼の誕生は40年前の前624年にされた。没年はもっといいかげんなものである。
小アジアのエーゲ海近くの要塞都市サルディスが陥落した祈念すべき年は前546年である。この栄光ある年にタレスは死んだことにされてしまった。
しかし、それでもいいではないかと私は思う。昔、人は、現代人ほど生没年を気にしていなかったのではないだろうか。カレンダーも生死の境も曖昧模糊のものであったのではないだろうか。著名人は神格化され、歴史的大事件に合わせて誕生日と没年を決定されたのであろう。おおらかな時代のおおらかな風習である。
5と9を表す古代ギリシャ文字は間違いやすく、これが年代確定の障害になっているとも言われている。
タレスは当時、必ず7賢人の一人に加えられていた。ディオゲネス・ラエルティオスによれば、7賢人はアテネの政務長官(アルコーン)であったダマシアスが前582年に制定したとされる。この年はピュテイア(デルポイ)祭が復活させられた記念すべき年であった。
タレスは多彩な人であり、アリストパネスの『鳥』では、「タレスのような人」として都市計画などあらゆる実践的な技術と知識を有していた人として描かれている。実際、タレスは数学・幾何学で才能を発止し、軍事用道路・橋も建設を指揮した。
前6世紀、ギリシャの学問はエジプトから導入されたものであった。ヘロドトスは、ギリシャの幾何学がナイルの測量技術が伝わったことを源としていると断言している。タレスもまたエジプトに遊学し、幾何学を修めたとされている。
こうした「ソクラテス以前の哲学者」を貶める趣味をもっていたのがプラトンであった。プラトンは執拗にソクラテス以前の哲学者を馬鹿にする発言をしていた。プラトン『テアイテトス』では、タレスが星を観察しながら上ばかり眺めて歩いていたところ、井戸に落ち込んだ。それをトラキア出の下女がからかった。天空のことを知るのに熱中して、ご自分の後ろや足下のことに気が回らないのですねと。これが「上の空の大先生」の使用例第一号である。それを親しい者たちとプラトンは作品の中で笑い飛ばした。なんて意地の悪い場面設定なのだろう。ここからしてもプラトンの狷介な性格が読み取れる。
アリストテレスもまたひどかった。金儲けにいそしむ俗物の典型として、アリストテレスはタレスを非難した。『政治学』第1巻においてである。恥ずかしながら、私も、デリバティブ批判の材料としてアリストテレスのこの文章を過去、無批判に引用してきた。
タレスたちは哲学がなんの役にも立たない。したがって哲学者たちは貧乏をしていると言っているという。彼らは、それ見たことかと哲学者を馬鹿にする。タレスなどは天文という実践的な研究をして金儲けに結びつけることに成功したと豪語したという。
私は、タレスはけしからん。アリストテレスは正しいとの文脈でこれまでも本に書いてきたが、いまさらながら自分の無知に愕然としている。
これはアリストテレスの権威の下に、ソクラテス・プラトン・アリストテレスといった新興正統派が、旧い多様でかつ快活な思想を抹殺することであった。タレスこそは、教条的思想を軽蔑していた人だったのである。
アリストテレスは、自分が哲学者であり、タレスは哲学ではない天文学にうつつをぬかしていると非難した。これはまさに経済学にこける現在の新古典派である。われこそは経済学者である、ディスクリプティブな散文ばかりを書く輩は経済学者では断じてない、という思考停止者とアリストテレスはどこが違うのか。
過去の自らの無知の反省も込めて、アリストテレスの文章を引用する。それは私の傷口に塩をすり込む作業でもある。
「言われているところによれば」(アリストテレスが確認したのではなく、という話もあるというきわめて卑怯な紹介の仕方)、「彼(タレス)は、天文研究によって、来るべきオリーブの収穫を察知して、まだ冬の間に、わずかな金銭を調達してミレトスとキオス中にあるすべてのオリーブ搾油機を借りるための手付け金をまかなったが、誰も競り合わなかったので、わずかな賃料(手付け金)ですんだ。さて、時期が来ると、大勢の人たちが同時にそれを求めたので、彼は望み次第のやり方でそれを貸し付け、膨大な金銭を手に入れた。哲学者たちは、もしその気になれば容易に富を築くことができるのだが、ただそれは彼らが本気でいそしむことではない、ということを(彼が)示して見せた、とのことである」。
最後も、「とのことである」と伝聞の形を取っている。実際にタレスがそんな馬鹿なことをしたのか否かは、アリストテレスは明言を避けている。実証もしていない。人々の犠牲の上にタレスがあくどい金儲けをしたとのデマ的な発言を、こともあろうに大権威者のアリストテレスがしたのである。以後、ほぼ800年後、ディオゲネス・ラエルティオスが再発見するまで、タレスはアリストテレスの権威の前に汚名を被せられたままだったのである。