ピタゴラスは、はるか過去の人ではない。紀元後450年前後の新プラトン学派のプロクルス(Proclus)などは、ピタゴラスを本格的に研究するようになっていた(Heath[1931])。
プロクルスによれば、ピタゴラスは幾何学を不可欠の一般教養に位置づけていた。これはターレス(Thales)の影響による。ピタゴラスは科学とはなにかを追求し、その証明に精魂を傾けた。無理数とか無限数の概念を作り出したのもピタゴラスである。そうした「数」に関する概念を彼は幾何学によって獲得したのである。幾何学こそが魂を高める技術と見なした。幾何学こそ永遠の生命をもつと考えたからである。
Heath[1931]によれば、ピタゴラス学派が発見した数学的知見は以下のものである。
①三角形の内角(interior angles)の総和は2直角(right angles)である。
②n角形の内角の総和は(2nー4)直角である。つまり、すべての多角形の外角の総和は4直角である。
③直角三角形の斜辺の長さの二乗は、他の2辺の長さの二乗の和に等しい。これは2つの辺の面積の和は、必ず別の1辺の長さの面積に集約できるという意味である。
④二次方程式の解を代数幾何学で得ることを示した。たとえば、a(a-x)=x2 。
⑤物事は整数比で示されるとしたのに、無理数の概念を導いた。ピタゴラスの定理にこだわるかぎり、無理数を導入せざるを得なかったからである。
⑥宵の明星(evening star)と明けの明星(morning star)は同じ星であり、それは金星(Venus9であると最初に指摘したのはピタゴラスである。
ピタゴラスは言う。
「哲学、倫理関連で教示しなければならないことは以下のことである。世界構造のダイナミズムとは、相反するもの相互作用、つまり、対立物の併存の結果であること。霊魂とは、輪廻を経る自己運動するもの、つまり、様々な種に継続的に転生するものであること、そうした転生を経験して最終的に純化されるものであると見なすこと(とくに、倫理的なものを重視するピタゴラス主義者の知的な生活を通じてそうした純化は達成されること)。実在するものすべては形相(form)であり、質料ではないことを理解すること。さらに、ピタゴラス主義者の教義とは、頭脳を霊魂の軌跡と見なし、秘儀の実践を基本とすることである(Biography in Encyclopaedia Britannica)。」
クロトン(Croton)におけるピタゴラス教団は、政治的な事件に巻き込まれてしまった。紀元前513年、ピタゴラスはデロス(Delos)に向かった。死の床についた年老いた師、ペレキデス(Pherekydes)を看取るためである。
師の死までの数か月、ピタゴラスはこの地にとどまり、その後、クロトンに帰った。紀元前510年、クロトンは隣国のシバリス(Sybaris)からの攻撃に遭い、敗れる。ピタゴラス教団は警戒されるようになった。紀元前508年、クロトンにピタゴラス教団は襲撃された。襲ったのは、クロトンの貴族、キロン(Cylon)であった。
ピタゴラスはメタポンチアム(Metapontium)に逃れ、その地で死去。自殺ではないかとされている。
キロンは富裕な貴族であったが、性格的に粗暴であった。ピタゴラス教団に参加したいとピタゴラスに申し入れたが、性格的に欠陥ありという理由で入団をピタゴラスから断られた。それを恨んでの攻撃であった。
しかし、これでピタゴラス教団が終わったのではないと説もある。イアンブリカス(Iamblichus)などの説である(Taylor[1986])。
ピタゴラスは生き延びて、クロトンに帰還し、その教えはイタリア各地に広められたという説である。この真偽のほどは不明であるが、ピタゴラス教団は各地に信者を獲得して行った。しかし、彼らは権力者によってつねに迫害され続けた。とくに、紀元前460年の迫害はひどかった。教団の集会所はことごとく焼き払われ、信者たちは、テーベ(Thebes) など各地に逃げた。
以下、http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/pitago.htmlに依拠する。
ディオゲネス・ラエルチオスの『ギリシャ哲学者列伝』によれば、ピタゴラスはチュルレノス人である。この民族は、アテネから追放された((『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、岩波書店、1958年、14ページ)。
ピタゴラスは、数学者でありながらも同時に神学者でもあった。科学と神学との共存がピタゴラスを特徴付けるものであり、おそらくこのことが「哲学の祖」とされる一つの理由であろう。
「プラトンと同時代の哲学者、イソクラテスは『プリシス』の中で、ピタゴラスがエジプトを訪れて彼らに学び、初めて哲学をギリシアに持ち帰った人である、何よりも特徴的なことは、とりわけ聖域で行われる犠牲と浄化の儀式の修行に励んだことである。これによって神々から褒賞は何も下賜されなくとも、少なくとも人間たちの間では、最大の名声が得られると考えたのである。そして事実そのとおりになった。ピュタゴラスの名声は冠絶し、若者はこぞって彼の弟子となることを願い、長上の者は子が家のことを配慮するよりも、ピュタゴラスの謦咳に接することを喜んだという」(『イソクラテス弁論集2』小池澄夫訳、京都大学学術出版会、2002年、55~56ページ)。
ピタゴラスの輪廻転生論はエジプトで学んだものである。ヘロドトスいう。
「この説、すなわち人間の魂は不死であって、肉体が滅びた時には、その時々に生れてくる他の動物のうちに入っていく、そして陸の動物、海の動物、空飛ぶ動物の凡てを経めぐると、再び生れてくる人間の身体のうちへ入っていくが、この魂の循行は三千年を要するということを言った最初の人々はエジプト人たちである。この説をギリシア人たちのうちには、さきにも後にも、自分たちの独創のものであるかのように、使用しているものがある。私はその人の名前を知ってはいるが、誌さない」(『初期ギリシア哲学者断片集』訳編山本光雄、前掲、15ページ)。
ピタゴラスはこのクロトンの地で、教団を作り、信者たちとの共同生活を始めた。サモスの独裁体制化で育ったピタゴラスは、ポリュクラテスの支配に反発をしたものの、クロトンでは哲人政治を理想としたようである。
ソクラテスはアテネの民主制を愛し、民衆の裁きに従って死刑を受け入れることで、最後まで民主主義を否定しなかった。
しかしその弟子のプラトンはこうしたソクラテスの死に納得できず、民主主義を否定し、哲人独裁の理想を持つに到った。アリストテレスもそれを受け継ぎ、アレクサンドロスの独裁を支持し、奴隷制と侵略戦争を肯定した。
哲学的真理を持つものによる独裁政治という発想は、その後の哲学史の中で何度も頭をもたげてくる。あるいはハイデッガーのナチス入党もその延長線上のものなのかもしれない。
3世紀から4世紀のイアムブリコスの『ピュタゴラス伝』には、
「一般にピュタゴラスの徒はこう信じていた。すなわち無支配(アナルキア)より大きな禍は何もないと考えなければならない。何故なら人間はもし上に立つものが何もなければ、本来その生を全うし得ないからであると」(『初期ギリシア哲学者断片集』、前掲、17ページ)。
無支配、つまりアナルキアは今日のアナーキーの語源で、アルケー(根源)がないという意味だった。
そのピタゴラス教団は、出家信者と在家信者とを区別し、前者に後者を支配させた(同、16ページ)。そして、出家信者は財産を没収し、すべてを共有財産として、共同生活をさせた(同)。
ピタゴラスのこうした教団は、エジプトのツタンカーメン王の兄であるイクナトンの影響を受けたものかもしれない(http://www.ffortune.net/social/people/world-reimei/tutankhamen.htm)。
あるいは、こうした教団のスタイルは、エレウシスの秘儀(ミュステリア)とも共通するもので、アリストパネスが『雲』という喜劇の中で描いたソクラテス教団もそれを踏襲するものだったのかもしれない。
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