消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(81) 新しい金融秩序への期待(81) 平成恐慌の序幕(3)

2009-02-12 07:09:18 | 野崎日記(新しい金融秩序への期待)


三 展望なき救済措置


 金融安定化法案は、金融恐慌がくるとのポールソン財務長官とバーナンキ(Ben Shalom Bernanke)FRB議長の説得によって、当時のブッシュ(George Walker Bush)大統領がしぶしぶ提出を認めたものであった。

  
しかし、〇八年九月二九日、米下院で反対二二八、賛成二〇五という大差で同法案は否決された。この日、ニューヨーク市場のダウ平均株価の終値は、史上最大の下げ幅(七七七ドル安)を記録した。

 議会は、預金保護を強化するという修正を施して、同年一〇月三日に法案を通過させた。しかし、その後、法案の適用方針が二転三転した。元々は、国が金融機関から不良資産を買い取ることが目的であった。公的資金を投入することによって、銀行経営に介入しないという姿勢からであった。金融機関から、重荷である不良資産を切り離し、資本の傷みを修繕するという目的がこの金融安定化法案であった。銀行への資本注入に比べると不良資産の買取はまだ経済的な取引の建前を持っていたからである。

 しかし、いち早く欧州が公的資金による資本注入を銀行に対しておこなったことと、株価の大暴落によって、米国も資本注入に踏み切ることになった。法律を拡大解釈することによって、公的資金による資本注入を可能にしたのである。そして、〇八年一〇月下旬から資本注入が開始された。それとともに、不良資産買取は「もっとも効果的な活用方法ではない」とのポールソン財務長官の談話が一一月早々発表され、ここでも、政府は不良資産の買取をもうしないのか、それとも政策手段の一つとして活用するのか否かということが不明なために、市場はさらに混乱した。

 そして、用意された七〇〇〇億ドルの公的資金による資本注入も、金融機関に限定されるのではなく、ノンバンクや大手自動車メーカーなどにも拡大されることになった。もはや、金融機関の救済に限定された金融安定化法案は、本来の趣旨から大きく逸れたのである。資本注入対象が拡大するにつれて、七〇〇〇億ドルの公的資金枠だけでは、大幅に不足するようになったのである(「〇八金融危機の軌跡2」、『讀賣新聞』二〇〇八年一二月二七日付)。

 〇八年の米国発金融危機に対処するに当たって、これまでは、先進七か国の財務省・中央銀行総裁会議(G7)、これにロシアを加えたG8が緊急に招集されて対策を協議してきた(7)。ところが、〇八年一一月一四・一五日、ワシントンでの「金融サミット」に招集されたのは、既述のように、先進国以外に中国、インド、ブラジルなどの新興国も含む、二〇か国・地域であった。

 これは、いわゆる「デカップリング」論が幻想であったことを示したものである。「デカップリング」論とは、先進国の経済が減速しても、新興国の高成長が世界経済を支えるという意味である(8)。

 米経済が失速しても、それとは連動しないといわれてきた新興国が、米国以上の落ち込みを示したのである。未曾有の金融危機が瞬時に世界中に波及した。人々は、世界経済が一体化してしまっていることを思い知らされた。株価の下落率は、ロシアなどの新興国の方が米国よりも大きかった。中国などは対米輸出で巨額の貿易黒字を稼いできた。その中国も大きく失速してしまった。

 サルコジ(Nicolas Paul Stéphane Sarközy de Nagy-Bocsa)・フランス大統領の働きかけで急遽開催された〇八年一一月一四・一五日の金融サミット(G20)は、各国が財政出動・金融緩和・保護主義の排除で協調行動をとることの合意を得たが、現実には掛け声倒れに終わった。

 たとえば、通商における地域主義が世界を支配するようになった。ドーハ・ラウンド(Doha Development Round)いうWTO(世界貿易機関)(9)における新多角的貿易交渉がある(10)。このラウンドが〇六年内の合意を「誓約」していた。しかし、その後は、〇六年内合意どころか、閣僚会合すら開催できなかった(「G8金融危機の軌跡3」、『讀賣新聞』二〇〇八年一二月二八日付)。

 〇八年の危機は、金融立国ほど深刻である。欧州でいえば、製造業の強いドイツに比べて、英国などの危機ははるかに深い。〇七年には好況を謳歌していた英国は、〇八年秋には、急転直下、深刻な経済危機に見舞われた。たとえば、対円でポンドは、〇七年夏には二五〇円台であった。しかし、〇八年一二月には、一時、一三一円台まで四割安になった。対ドルでも三割安であった。対ユーロでも、一九九九年のユーロ導入以来、初めてとなる一ユーロ=一ポンドに迫る〇・九五ポンド台までポンド安が進んだ。

 英国は、金融業が、国内のGDPの三割を超えていた「金融立国」であった。ところが、ロイヤル・バンク・オブ・スコットランドやHBOSなどの有力金融機関が経営不振に陥り、GDP成長率もマイナス〇・六%に落ち込んだのである。〇八年末の英国の失業者数は一八六万人と十一年ぶりの水準である(『讀賣新聞』〇八年一二月二八日付)。

 米政府は、〇八年一二月一九日、GMとクライスラーに総額一七四億ドル(約一兆五〇〇〇億円)の緊急融資を決定した。その四日後、GMは大型スポーツ用多目的車(SUV)(11)を生産していた米国ウィンスコンシン洲のジェーンズビル(Janesville, WI)工場を閉鎖した。GMにとって、大型SUVを生産するジェーンズビル工場は、一九九〇年代前半からの主力工場であった。政府支援があった後でも主力工場を閉鎖しなければならなかったところに、GMの氷河期が示されている。

 米国の新車販売は〇八年一〇月から二か月連続で前年同月を三割以上も下回った。GMとクライスラーは、〇八年一一月に四割以上も減産せざるを得なかった。
 金融危機の進行とともに、金融機関は融資条件を一斉に厳しくした。その結果、すべての人々が自動車ローンを組みにくくなった。しかし、〇八年一二月一一日、ビッグスリーを救うべくく提出された三社支援法案は廃案になった。米議会の公聴会でのビッグスリー経営者たちへの批判が強かったからである。しかし、廃案の可能性が強くなった一二月一〇日、チェイニー(Richard Bruce "Dick" Cheney )副大統領は、GMを倒産させて恐慌の引き金を引きたくない、恐慌を招いたと非難されるフーバー(Herbert Clark Hoover, 1874~1964)(12)大統領の不名誉を得たくないと複数の上院議員に語り、支援法案が廃案になっても、金融安定化法で救済する方針であるとした。つまり、金融安定化法は、もはや金融機関救済だけではなかったのである。

 GMとクライスラー救済には、人件費や債務の大幅な削減が条件となった。この条件を履行できなければ、両社は、連邦破産法第一一条による破産処理に移ることになる。両社からは激しい資金流出が続いているので、破綻の可能性は遠のいていない(「〇八年金融危機の軌跡4」、『讀賣新聞』二〇〇八年十二月二九日付)。

 米政府は、ブッシュ政権末期、不良資産損失補償制度を導入した。資本注入と併用することによって、米金融システムを下支えしようというのである。ただ、金融機関による申請が前提になる。そのために、金融機関が公的介入を忌避して申請しなければ制度は動かない。

 シティグループの救済では、保有資産を優良資産からなる新勘定と、不良資産からなる旧勘定に分離した。そして、不良資産から生じる損失の大半に政府保証がつけられたのである。シティグループに適用した「新旧勘定分離」方式を金融システム全体に導入したのが、損失保証制度である。

 金融機関が計上する損失には、証券化商品の値下がりに伴う評価損と、貸出資産の劣化に伴う引当金計上の二種類がある。保証制度で効果があるのは、前者である。後者は、実体経済悪化からもたらされるもので、そこから生じる不良債権増は防ぐことが難しいものである。

 それでも、金融機関の売却には、この制度は有効なものになった。たとえば、〇八年夏に破綻したインディマック・バンコープ(IndyMac Bancorp)の銀行部門を、ソロス(George Soros)などを含む投資ファンドで構成される投資家連合に、米連邦預金保険公社(Federal Deposit of Insurance Corporation=FDIC)が、〇九年一月二日、一三九億ドル(約一兆二八〇〇億円)で売却した。そのさい、インディマックの保有資産に生じる損失の一部をFDICが負担する仕組みを導入したのである(『日本経済新聞』〇九年一月四日付)

 米財務省は、金融機関の保有する不良資産が将来に損失を発生させたとき、その損失を政府が肩代わりすることを保証するという制度を、〇九年一月二日に導入した。

 導入した新制度は、金融安定化法に基づくもので、米政府の審査を経て実行されるが、大手行に限定される見通しである。制度の適用を受けた金融機関は、政府にワラント(株式購入権)などを提供し、経営者の報酬も制限しなければならない。財源は、金融安定化法の総枠七〇〇〇億ドルを使う(『日本経済新聞』二〇〇九年一月四日付)。