消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(8) 新しい金融秩序への期待(8) 昔の邦銀のローリターン

2008-11-14 23:34:20 | 野崎日記(新しい金融秩序への期待)

 過去の日本の銀行を護送船団と揶揄したことの誤りを指摘したい。デフォルトの危険性に敏感なのは、銀行貸出と証券化による貸出のいずれであろうか。融資する銀行は、リスクを他者に転嫁できないために、それこそ、命がけでリスクの算定をする。デフォルトが続出すれば銀行自体の命がなくなるからである。

 それだけではない。リスク算定の意味が、証券化によるリスク算定とは大きく異なる。銀行は、ハイリターンを自己目的にするのではなく、社会的に必要な産業を育成することを意識する。今時、そんなことを言えば嘲笑されるであろうが、あえて言っておきたい。メインバンクとしての使命感によって、社会的に重要な産業に対しては、リターンが小さくても融資し、そうした産業を育成しようとの意識が、護送船団時代の日本の銀行にはあった。銀行間競争とは、リターンの多寡を競うものではなかった。自行が係わる産業構造の広がりと強靭さを図ることを、銀行は、融資の基本的な目的にしていた。

 そもそも、産業は、同じ条件で競争しているわけではない。顧客が専門家集団であるのか、素人集団であるかによって、収益構造は決定的に異なる。例えば、鉄鋼産業の顧客は自動車産業という専門家集団である。当然、鉄鋼産業には価格決定権はない。そこそこの収益しか認めてもらえないほどの水準に鋼材価格は交渉の結果として決められてしまう。

 自動車産業はそうではない。自動車価格が正しく設定されているのかについて、素人であるユーザーには分からない。生産コストも無視できないが、イメージが自動車価格の設定にさいして、最重要なものになる。結果的に自動車産業は鉄鋼産業よりも収益率は高い。

 儲からない鉄鋼産業ではなく、儲かる自動車産業に傾斜するのが、新しい金融システムである。護送船団方式の旧い金融システムの目的は、ハイリターンよりもまず社会全体から判断された足腰の強い産業構造を作り上げることであった。けっして、ハイリターンを求めるものではなかった。ところが、識者たちは、邦銀のローリターンを最大の揶揄の対象にした。

 そこまでは言い切れないにしても、少なくとも銀行融資なら、デフォルトは銀行と借入者との二者間の問題に限定されたはずであり、証券化によるような被害の拡大はなかったであろう。なによりも、証券化によるリスクの無限の転嫁が、貸し手をして安易にリスクを無視した貸出競争に走らせた。

 サブプライム問題の本質的な点は、まさに証券化そのものにある。格付けが正しくなかったとして批判される格付け会社も、格付けは一民間会社による一つの私的見解にすぎないので、投資家はそのデータを見て自ら判断すべきである、そもそも、格付けは証券の流動性(換金性)を考慮外に置いたものでることを投資家には理解していただきたいと逃げるのがつねであった。

 証券化に問題があるのは、デフォルトした元凶がどのCDOに含まれているかが不明であることと並んでLBOの手法が横行していることである。CDO購入にあたって、手持ちの現金だけでなく、借入をして梃子の原理で手持ち資金の数倍もの資金を動かすというのがLBOである。