森男の活動報告綴

身辺雑記です。ご意見ご感想はmorinomorio1945(アットマーク)gmail.comまで。

あの日のこと。

2015年01月18日 | 雑記
今日は2連発でいきます。

20年前の1月17日の話です。といってもたいした話ではないことをあらかじめお断りしておきます。

当時、私は大阪北部の学校に通う学生で、生活費の足しに大阪の伊丹空港でアルバイトをしていました。朝6時から9時までの短時間の仕事でした。業務内容は、旅客機にジュースやオシボリなどを積み込む作業のアシスタントでした。通称「ケータリング」といってました。社員さんとペアを組んでジュースなどを満載したトラックに乗り込み、旅客機への積み込みをしていく(1リットルのジュースが20-30本入ったバッグを抱えて荷物室に置いていくなど)という結構な重労働でした。

三時間のうち一時間半は荷物などの準備で、残りの一時間半で5-6機にジュースなどを補充していきます。飛行機はYS11とかMD81とかエアバスなどで、乗客数や行き先などそれぞれ違います。なので、補充するジュースやコーヒーの量も違うので、搭載を間違えないように荷物を管理するのがバイトの主な仕事でした。社員さんがトラックを飛行機の間近まで付けて、バイトが助手席から下りてホイッスルを吹きながら飛行機のギリギリまで誘導していきます。搭載を終えると、すぐ次の飛行機を目指して広い飛行場を走っていきます。

基本的に、バイトがどんどん先回りをして段取りを踏んでいかないといけないので、気を休めるヒマは全くありません。さらに社員さんはイラチな人が多く、仕事をテキパキとこなさなければすぐに怒られてしまうので、勤務時間中はずっと気を張っていなければならず、決して楽なバイトではなかったのでした。

早朝なので、前日はかなり早く寝なければならず、そんなこんなで短時間とはいえかなり厳しい労働でした。しかし、当時は他にアルバイトの口もないうえ、時給は比較的割がよかったので(当然ですが、、)1年ほど続けていました。下宿から空港まではバイクで1時間ほどの距離で、冬場はかなり厳しい通勤でした。ロッカー室に入る頃には体が冷え切って、ロッカーの前で固まってしまい、しばらく動けなくなるほどでした。

そんなこんなで、短時間とはいえ業務開始前は毎日ブルーだったのでした。前日だか一週間単位だったか忘れましたが、社員さんとのペアが事前にわかるので、めんどくさい社員さんとペアになる日はなおさらブルーだったのでした。

その日、私はいつもどおり出勤時間の20分ほど前に職場に着きました。真冬なので、体はコチコチです。無駄に動くなどしてなんとか体を温めながらツナギに着替え、「あー、今日は●●さんか。嫌だなあ。」とか思いながら、トイレの大きい方に入ってスタンバリました。勤務中にもよおすのは論外なので(滑走路にトイレなんてないので)、出る出ないに関わらず、毎日とりあえず頑張ってみることにしていたのでした。

作業着は会社のマーク(大手航空会社の子会社だか関連会社でした)の入った支給のツナギで、靴も安全靴でした。ツナギを着たことのある人ならわかってもらえるかと思うのですが、ツナギで大きいほうをするときは、上から足首まで全てを下ろさないといけません。冬場は下にセーターとかを着ているとはいえ、かなり無防備な姿勢になっちゃうのです。まあ、要するにほぼ全裸です。私はツナギを下ろして和式便器にしゃがみこみ、昨日と同じように、憂鬱な今日一日の始まりに呪いの言葉を掛け始めました。

気がつくと、揺れはじめていました。

天井を見上げると、鉄筋の梁が歪みながら前後に揺れています。いつまでも揺れ続けているように思えました。このまま続けば、建物が潰れるのは間違いないと確信するほどの揺れでした。

「ギシ、ギシ、ギシ」と、梁が30センチくらいの揺れ幅で前後し続けています。私にできることといえば、ひたすら天井を見上げることだけです。

ああ、俺はこんな格好で死ぬのか」と思いました。情けなくなりましたが、どうしようもありませんでした。

しかし、揺れが止まりました。しばらく、動けませんでした。半裸で

「あの時」に起きていて、しかもトイレでお尻丸出しだった人ははたして何人くらいいたんだろうかと、今でもふと思い出して恥ずかしくなります(笑)。しかし、少なくとも起きて意識がはっきりしていたということは、自分にとって貴重な経験だったように思います。例えば、誰でも「自分だけは生き残る」という根拠のない自信を持ったりしがちだと思うのですが、私はこのとき揺れる梁を見ながら「ダメな時はとにかくダメなんだ」と痛感しました、、、。生きてるってのは「ほんとたまたま」なんですよね、、、。

揺れが収まってから、震えながらトイレを出て、職場に行くとコーヒーのタンクやオシボリのアルミケースなどあらゆるものが床に散らばっていました。社員さんや私たちバイトのとりあえずの仕事は、それらを片付けることでした。

しばらくすると、それぞれの飛行機は予定通りに出発するという連絡が事務所に入り、私たちは前日までと同様の業務をこなしました。

最後の飛行機への積み込みが終わり、事務所に戻って控え室に入ると、先に帰っていた社員さんやバイトがテレビに釘付けになっていました。画面には、横倒しになった高速道路が大きく映し出されていました。空港から30キロも離れていない場所の映像です。私も帰省する際に何度も通ったことのある道路です。テロップをみてはじめて、震源が神戸の方だったと知りました。

しかし、倒れた高速道路の映像を見ても、私はまったく驚きませんでした。むしろ冷静に画面を見続けていました。

あれだけ揺れたんだから、これくらいのことは起こりうるだろう」と。

後で知りましたが、空港すぐ近くの猪名川を越えた先から、かなりの被害が出ていたようです。例えば川向こうのすぐ近くにある阪急伊丹駅は全壊しています。人伝えに聞くと、伊丹空港は、川のこちら側だったので被害がなかったとのことでした(これはあくまで風聞で、実際に川が関係していたのかどうかはわかりません)。それにしても、震災当日に飛行機が離着陸していたというのは、今ではちょっとありえないようなことかもしれません。

翌日以降の生活は、とくに変わりはありませんでした。数日間、近所のコンビニの棚から食材が消えうせたり、神戸の知人や友人が学校に来れなかったりということはありましたが、私個人については大きな変化はありませんでした。実のところ、これまで何度も行ったことのある街が、テレビで映し出されているようなひどい状況にあるということが実感できませんでした。これは私だけが抱いた感情ではなかったように思います。例えば、下宿から一番近い都会の大阪・梅田に出かけても、地震なんてまるでなかったかのような「日常」が普通に繰り広げられていました。快速電車に乗れば、20-30分で着くほどの隣街が大変なことになってるのに、、、。

おかしな話ですが、この「すぐ近くの惨事に対して、他人事のような雰囲気をかもし出す、私たちの姿」というのが、この地震で受けた一番のショックだったような気がします。もちろん、だからといって誰かを非難したりする意図は全くありません。そもそも、私自身がそういう気持ちでしたし、隣街の状況がどうであれ、自分たちの社会基盤が壊れていない以上、普通に生活し続けるのは当然のことです

しかし、それでも、「どんな物事であっても、自分の足元で起こらない限り、普通に、自然に、日常は続く」ということはショックでした。その後もあちこちでいろいろな「出来事」が起こりましたが、やはりその「原則」は変わりませんでした、、、。これは、わりと大事なことなんじゃないのかな、と自分では思っています。「自分と他人の認識や現状の違いを理解・把握することの大切さ」とでもいいましょうか、、、。、、、、何いってるかわけわからないですね。すいません。

というわけで、なんであれ、あの地震は、私の人生においてちょうど節目に当たる頃の出来事だったこともあり、それ以前と以後でなんかちょっと(かなり?)変ったような気がしています。いまも、あのときに感じたことを折々に思い出し、考えを続けています。

これは、直接的に地震の被害にあわれた方々からすると、無責任で中身のない噴飯ものの文章かもしれません。しかし、あのときあの辺ににいた一人があの地震に出会い、今こういう風に考えているということを書き留めることは、多少なりとも意味のあることなのではないかと思い、アップすることにしました。何卒ご了承下さい。























この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« F4U-1A コルセア ア... | トップ | テンションの調節をしたりし... »
最新の画像もっと見る