葵祭に何故「葵(フタバアオイ)」を飾るの?
我が国に漢字がまだ入ってきてない以前のこと、天武天皇の命によって長い物語や文章を暗記するのが得意な稗田阿礼(ひえだ の あれ:生没年不詳)が天皇の系譜や古い伝承をすべて暗誦していたのでございます。
しかし、元明天皇(女帝)が「稗田阿礼が事故などで亡くなってしまったら我が国の歴史が無くなってしまう」と危惧され、書くことが大変得意で上手だった太安万侶(おお の やすまろ、生年不詳)に漢文で稗田阿礼の言うことを全部書き写すようにと命じられた。
コレが古事記です。
古事記が書かれた8年後に日本書記が書かれています。
丁度その時代に、わが国に各国ごと(例えば、丹波の国とか、播磨の国とか、出雲の国など)にそれぞれその国の風習、謂れ、物語、きまりというモノを書き残すということで風土記といったモノができあがりました。
ここ、京都は山城の国といわれていました。
それで、「山城の国風土記」が残されたわけです。
ところが、わが国では残念ながら、各国において風土記が全面的に残っているのは出雲の国の風土記だけだといわれています。
その風土記の中に山城の国の風土記の部分部分が残されていたといわれております。
「山城の国風土記」には「賀茂の神話」が書かれてあり、その神話とは・・・
賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が丹波伊可古夜比売命(たにはいかこやひめのみこと)と一緒になって、賀茂の地に定住されたということだそうです。
玉依比古命(たまよりひこのみこと):男の子と
玉依比売命(たまよりひめのみこと):お嬢さんと子供さんを二人もうけたということだったそうです。
このお嬢さんのたまよりひめさんが今の賀茂川において身を清めておりましたところ、川上から赤い矢が流れてきたのでございます。。
たまよりひめさんは不思議に思ってこの矢をご自宅に、お持ち帰りになり、夜、この矢を枕辺に立ててお休みになっていたそうです。
そうしましたら、この矢に反応してお腹にお子ができたと・・・いうことだったそうです。
お父さん賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)はビックリして当然のことながら「相手は誰だ!」と聞いたわけです。
そしたら、たまよりひめさんは「解らない、この赤い矢を持って帰ってきたらこの子がお腹にできたんです」ということだったそうです。
やがて月日は満ちて男の子が生まれました、そうなるとお爺さまの賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は喜んで子供が大きくなりました時に大きなお屋敷を造って、そこで全国の神様をお呼びして七日七夜の大宴会をしたそうです。
七日の夜、最後の晩にその孫に向かって
「ここに全国の神様がいらっしゃるからお前のお父さんも居るはずだ、お前がお父さんと思う人に一杯のお酒をご馳走しなさい、そうしたら、その人をお前のお父さんと認めようじゃないか」とおじいさんが言ったんです。。
そしたらこの子は盃を持っていきなり天井に向かってポ~ンと投げて「わが父は天神(あまつかみ)なり!!私の父はここに居る地上の神様じゃなくって天に居る神様!!」と言って大きな雷の音とともに天井を突き破って、ざぁ~~っと天に昇って行ったんだそうでございます。
その時周りに居た全国の地上の神様は「何てこの子は強い子なんだろうこれは賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)と呼ぼう」つまり雷のような凄い力を持った子なんだということでその名前をつけたそうです。
ただ、お母さん⇒玉依比売命(たまよりひめのみこと)とおじいさん⇒賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は大事にしていた子供さんが居なくなってしまったということで嘆き悲しんで「どうか、又、地上(手元)に戻ってきてほしい」という祈りを盛んにしたということだそうです。
そしたら、ある晩に賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)から神託(ことば)があったそうです、それはどういうことかと言いますと、
「我に逢わんと欲すれば天の羽衣(天羽)を作って飾り、火を焚いて矛を飾り、また、相馬を飾り馬を走らせ奥山から榊の木を採ってきて、ここが良い場所だと思うところに榊を立てキレイな布(天の羽衣・天羽)も飾って、葵という草と桂の木の枝を束ねて、かずらで丸めて作りそのようなお祭りをして、そして我を待てば降りますよ」と、こう言ったんだそうです。
そこで、お母さん、お爺さんは言われた通りに火を焚き馬を走らせ葵と桂をたくさんに飾ってそしてお祭りをしておりましたら、賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)が天から降りてきたということだそうです。
この降りてきたというところが、上賀茂神社のすぐ北にある神山(こうやま)というところです。300メートルぐらいの円錐形のキレイな山です。
この山の頂上から少し降りたところに大きな岩が今でもございます。
神様は大きな岩とか樹のところ等によく降りてこられるのですが、この岩のところに降りてきたということが「山城の国風土記」には書かれているということでございます。
この神話をそのままに今日までずっと伝えているというのが「葵祭=賀茂祭」でごさいます。
賀茂別雷神社(上賀茂神社) 宮司:田中安比呂氏講演より。
これで、葵祭に何故「葵」を飾るの?が だいたい理解できたんですけど、それが「何故、葵と桂が選ばれたんやろか???」が謎と思うわんちゃんなんです。
【おまけ】2012年5月16日
葵祭行列巡行にはたくさんのお子ちゃまたちが参加されてます
慣れない装束と、お顔は白塗りで10時30分に御所を出発して途中、下鴨神社で休憩後上賀茂神社(4時前)まで歩き通します。
立派にお役を果たせましたね、ご苦労様でした
お馬さんたちももう一人の主役なんですよ・・・
我が国に漢字がまだ入ってきてない以前のこと、天武天皇の命によって長い物語や文章を暗記するのが得意な稗田阿礼(ひえだ の あれ:生没年不詳)が天皇の系譜や古い伝承をすべて暗誦していたのでございます。
しかし、元明天皇(女帝)が「稗田阿礼が事故などで亡くなってしまったら我が国の歴史が無くなってしまう」と危惧され、書くことが大変得意で上手だった太安万侶(おお の やすまろ、生年不詳)に漢文で稗田阿礼の言うことを全部書き写すようにと命じられた。
コレが古事記です。
古事記が書かれた8年後に日本書記が書かれています。
丁度その時代に、わが国に各国ごと(例えば、丹波の国とか、播磨の国とか、出雲の国など)にそれぞれその国の風習、謂れ、物語、きまりというモノを書き残すということで風土記といったモノができあがりました。
ここ、京都は山城の国といわれていました。
それで、「山城の国風土記」が残されたわけです。
ところが、わが国では残念ながら、各国において風土記が全面的に残っているのは出雲の国の風土記だけだといわれています。
その風土記の中に山城の国の風土記の部分部分が残されていたといわれております。
「山城の国風土記」には「賀茂の神話」が書かれてあり、その神話とは・・・
賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が丹波伊可古夜比売命(たにはいかこやひめのみこと)と一緒になって、賀茂の地に定住されたということだそうです。
玉依比古命(たまよりひこのみこと):男の子と
玉依比売命(たまよりひめのみこと):お嬢さんと子供さんを二人もうけたということだったそうです。
このお嬢さんのたまよりひめさんが今の賀茂川において身を清めておりましたところ、川上から赤い矢が流れてきたのでございます。。
たまよりひめさんは不思議に思ってこの矢をご自宅に、お持ち帰りになり、夜、この矢を枕辺に立ててお休みになっていたそうです。
そうしましたら、この矢に反応してお腹にお子ができたと・・・いうことだったそうです。
お父さん賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)はビックリして当然のことながら「相手は誰だ!」と聞いたわけです。
そしたら、たまよりひめさんは「解らない、この赤い矢を持って帰ってきたらこの子がお腹にできたんです」ということだったそうです。
やがて月日は満ちて男の子が生まれました、そうなるとお爺さまの賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は喜んで子供が大きくなりました時に大きなお屋敷を造って、そこで全国の神様をお呼びして七日七夜の大宴会をしたそうです。
七日の夜、最後の晩にその孫に向かって
「ここに全国の神様がいらっしゃるからお前のお父さんも居るはずだ、お前がお父さんと思う人に一杯のお酒をご馳走しなさい、そうしたら、その人をお前のお父さんと認めようじゃないか」とおじいさんが言ったんです。。
そしたらこの子は盃を持っていきなり天井に向かってポ~ンと投げて「わが父は天神(あまつかみ)なり!!私の父はここに居る地上の神様じゃなくって天に居る神様!!」と言って大きな雷の音とともに天井を突き破って、ざぁ~~っと天に昇って行ったんだそうでございます。
その時周りに居た全国の地上の神様は「何てこの子は強い子なんだろうこれは賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)と呼ぼう」つまり雷のような凄い力を持った子なんだということでその名前をつけたそうです。
ただ、お母さん⇒玉依比売命(たまよりひめのみこと)とおじいさん⇒賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は大事にしていた子供さんが居なくなってしまったということで嘆き悲しんで「どうか、又、地上(手元)に戻ってきてほしい」という祈りを盛んにしたということだそうです。
そしたら、ある晩に賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)から神託(ことば)があったそうです、それはどういうことかと言いますと、
「我に逢わんと欲すれば天の羽衣(天羽)を作って飾り、火を焚いて矛を飾り、また、相馬を飾り馬を走らせ奥山から榊の木を採ってきて、ここが良い場所だと思うところに榊を立てキレイな布(天の羽衣・天羽)も飾って、葵という草と桂の木の枝を束ねて、かずらで丸めて作りそのようなお祭りをして、そして我を待てば降りますよ」と、こう言ったんだそうです。
そこで、お母さん、お爺さんは言われた通りに火を焚き馬を走らせ葵と桂をたくさんに飾ってそしてお祭りをしておりましたら、賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)が天から降りてきたということだそうです。
この降りてきたというところが、上賀茂神社のすぐ北にある神山(こうやま)というところです。300メートルぐらいの円錐形のキレイな山です。
この山の頂上から少し降りたところに大きな岩が今でもございます。
神様は大きな岩とか樹のところ等によく降りてこられるのですが、この岩のところに降りてきたということが「山城の国風土記」には書かれているということでございます。
この神話をそのままに今日までずっと伝えているというのが「葵祭=賀茂祭」でごさいます。
賀茂別雷神社(上賀茂神社) 宮司:田中安比呂氏講演より。
これで、葵祭に何故「葵」を飾るの?が だいたい理解できたんですけど、それが「何故、葵と桂が選ばれたんやろか???」が謎と思うわんちゃんなんです。
【おまけ】2012年5月16日
葵祭行列巡行にはたくさんのお子ちゃまたちが参加されてます
慣れない装束と、お顔は白塗りで10時30分に御所を出発して途中、下鴨神社で休憩後上賀茂神社(4時前)まで歩き通します。
立派にお役を果たせましたね、ご苦労様でした
お馬さんたちももう一人の主役なんですよ・・・
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