《三井寺》ユネスコ世界の記憶に登録されましたこちら
春夏秋冬の様子
大門(仁王門)
三井寺の表門で、檜皮葺の二階建ての楼門。もとは天台宗の常楽寺(湖南市石部町)にあったのを豊臣秀吉が伏見城に移し、その後、慶長6年(1601)に徳川家康が三井寺に寄進した。全国でも有数の美しい楼門として知られている。
弁財天社
案内板によると「御本尊の弁財天は八臂像で鉾、剣、斧、鈷、輪、索、弓、矢を執り能弁及び学問、技芸の徳をそなえる女神である。また、人をして無礙弁財を具足し福智を増益し延寿及び財宝を得しめる神として古くより崇拝されている。」とあります。
釈迦堂(食堂)
桃山時代を代表する名建築で、国宝に指定されています。
大門(仁王門)を入ってすぐ右手に、南面して建つ比較的に簡素な造りの堂です。 秀吉による破却の後、清涼殿を移築したものとの伝えもありますが、 室町時代に建立されたものと思われます。
「園城寺境内古図」には、大門を入ってすぐ右手に食堂が描かれており、 この堂も食堂として移築されたものと思われますが、 現在は清涼寺式釈迦如来像を本尊とする釈迦堂として信仰されています。
三井の晩鐘
近江八景のひとつとしても名高い三井の晩鐘。その音色の美しさから、「音の三井寺」として「姿の平等院」「銘の神護寺」とともに天下の三名鐘と呼ばれています。実際に鐘をつくことも出来ます。
(冥加料300円)
閼伽井
「閼伽井」とは仏さまにお供えする聖水をたたえた井戸のこと。太古から神秘的な音をたてて湧き出る霊泉は、天智・天武・持統の三帝が産湯に用いたことから、「三井」寺という名前の由来になったと伝えられています。
弁慶の鐘
平安時代、弁慶が三井寺から奪って比叡山まで引き摺り上げたと伝えられる鐘。しかしいざ鐘をついてみると「イノー、イノー(関西弁で“帰りたい”)」と響いたので、弁慶は怒って谷底へ投げ捨ててしまったそうです。鐘にはその時についたとされる傷が残っています。
弁慶の汁鍋
一切経蔵
案内板にはこちら
唐院・三重塔
左側・唐院(灌頂堂・かんちょうどう)は、開祖・智証大師をお祀りしている三井寺の聖域。奥にある三重塔は奈良・世尊寺(旧比蘇寺)から移築されたもので、重要文化財に指定されています
灌頂堂
微妙寺 案内板こちら
水観寺 案内板こちら
三井寺の別所とは、平安期以降、広く衆生を救済するため本寺周辺に設けられた別院で、近松寺、微妙寺、尾蔵寺、水観寺、常在寺の五寺院を総称して五別所と呼んでいる。
村雲橋
むかし、智証大師がこの橋を渡ろうとしたときのこと。
西の空を見て入唐したときに修行した長安の青竜寺が焼けていること察知した大師。
真言を唱えて橋上から閼伽水をまくと、橋の下から一条の雲が湧き起り、 西に向けて飛び去っていったのだとか。
数日後、青竜寺から火災を鎮めてくれたことへの礼状が届いたのだという。
以来、この橋は「ムラカリタツクモの橋」「村雲橋」と呼ばれるようになったのだと伝えられている。
観音堂
観音堂:西国三十三所観音霊場の第十四番札所。ご本尊は三十三年に一度ご開扉されます。
展望台
展望台:観音堂からさらに石段を上れば、大津市街を一望できる展望台に。陽光を受けてきらめく悠然たる琵琶湖が眼下に広がります。松尾芭蕉や正岡子規など、多くの文人がここから見晴らす琵琶湖の景色を愛したと言われています。
広い広い三井寺の境内を仁王門から入って順番にお寺を参拝して写真を撮り、案内板を拝読して記事にしました。
ウチに帰って歩数計のチェック:13891歩
春夏秋冬の様子
大門(仁王門)
三井寺の表門で、檜皮葺の二階建ての楼門。もとは天台宗の常楽寺(湖南市石部町)にあったのを豊臣秀吉が伏見城に移し、その後、慶長6年(1601)に徳川家康が三井寺に寄進した。全国でも有数の美しい楼門として知られている。
弁財天社
案内板によると「御本尊の弁財天は八臂像で鉾、剣、斧、鈷、輪、索、弓、矢を執り能弁及び学問、技芸の徳をそなえる女神である。また、人をして無礙弁財を具足し福智を増益し延寿及び財宝を得しめる神として古くより崇拝されている。」とあります。
釈迦堂(食堂)
桃山時代を代表する名建築で、国宝に指定されています。
大門(仁王門)を入ってすぐ右手に、南面して建つ比較的に簡素な造りの堂です。 秀吉による破却の後、清涼殿を移築したものとの伝えもありますが、 室町時代に建立されたものと思われます。
「園城寺境内古図」には、大門を入ってすぐ右手に食堂が描かれており、 この堂も食堂として移築されたものと思われますが、 現在は清涼寺式釈迦如来像を本尊とする釈迦堂として信仰されています。
三井の晩鐘
近江八景のひとつとしても名高い三井の晩鐘。その音色の美しさから、「音の三井寺」として「姿の平等院」「銘の神護寺」とともに天下の三名鐘と呼ばれています。実際に鐘をつくことも出来ます。
(冥加料300円)
閼伽井
「閼伽井」とは仏さまにお供えする聖水をたたえた井戸のこと。太古から神秘的な音をたてて湧き出る霊泉は、天智・天武・持統の三帝が産湯に用いたことから、「三井」寺という名前の由来になったと伝えられています。
弁慶の鐘
平安時代、弁慶が三井寺から奪って比叡山まで引き摺り上げたと伝えられる鐘。しかしいざ鐘をついてみると「イノー、イノー(関西弁で“帰りたい”)」と響いたので、弁慶は怒って谷底へ投げ捨ててしまったそうです。鐘にはその時についたとされる傷が残っています。
弁慶の汁鍋
一切経蔵
案内板にはこちら
唐院・三重塔
左側・唐院(灌頂堂・かんちょうどう)は、開祖・智証大師をお祀りしている三井寺の聖域。奥にある三重塔は奈良・世尊寺(旧比蘇寺)から移築されたもので、重要文化財に指定されています
灌頂堂
微妙寺 案内板こちら
水観寺 案内板こちら
三井寺の別所とは、平安期以降、広く衆生を救済するため本寺周辺に設けられた別院で、近松寺、微妙寺、尾蔵寺、水観寺、常在寺の五寺院を総称して五別所と呼んでいる。
村雲橋
むかし、智証大師がこの橋を渡ろうとしたときのこと。
西の空を見て入唐したときに修行した長安の青竜寺が焼けていること察知した大師。
真言を唱えて橋上から閼伽水をまくと、橋の下から一条の雲が湧き起り、 西に向けて飛び去っていったのだとか。
数日後、青竜寺から火災を鎮めてくれたことへの礼状が届いたのだという。
以来、この橋は「ムラカリタツクモの橋」「村雲橋」と呼ばれるようになったのだと伝えられている。
観音堂
観音堂:西国三十三所観音霊場の第十四番札所。ご本尊は三十三年に一度ご開扉されます。
展望台
展望台:観音堂からさらに石段を上れば、大津市街を一望できる展望台に。陽光を受けてきらめく悠然たる琵琶湖が眼下に広がります。松尾芭蕉や正岡子規など、多くの文人がここから見晴らす琵琶湖の景色を愛したと言われています。
広い広い三井寺の境内を仁王門から入って順番にお寺を参拝して写真を撮り、案内板を拝読して記事にしました。
ウチに帰って歩数計のチェック:13891歩