ガラスのうさぎ/高木敏子のあらすじと読書感想文 2012年8月9日 竹内みちまろ
『ガラスのうさぎ』(高木敏子)という本をご紹介します。著者の高木さんは1932年生まれで、死者10万人以上を出した1945年3月10日の東京大空襲の際は、国民学校(現在の小学校)の6年生。高木さんは疎開先にいましたが、母と2人の妹を失いました。『ガラスのうさぎ』は、そんな高木さんの戦争体験がつづられた作品です。
高木さんは、東京の下町に生まれました。両国国技館のそばです。高木さんの家は、1941年に太平洋戦争が始まるまでは、ガラス工芸品を造る工場を営んでいました。10代後半の兄2人は「ぼくたちは非国民になりたくないんだ。」と、志願兵として出征。戦争が激しくなると、高木さんは集団疎開で、幼い妹2人とともに、神奈川県へ行きます。しかし、2人の妹は、東京の家に帰りたくて、大人に紛れ込んで汽車に乗ってしまい、両国の家に行ってしまいました。母親も困ってしまい、当面、2人を家におくことに。そのまま、3月10日の大空襲に遭い、帰らぬ人となりました。高木さんは、7月に、空襲を生き残った父親といっしょに、家の焼け跡に立ちます。シャベルで敷地内を掘ると、半分以上とけたガラスのうさぎの置物が見つかりました。その父親も米軍機の機銃掃射で亡くなります。
『ガラスのうさぎ』には、両親と妹を失い、ひとりぼっちになった高木さんの暮らしや、戦地から帰ってきた2人の兄との暮らし、親類の家に預けられた際の出来事などが記されていました。戦中、戦後の混乱の中、家の焼け跡に立て札を残し、高木さんは自身の住所を記しておいたようです。戦地から帰ってきた兄がそれを見て、現在の高木さんを訪ねてくる場面もありました。また、厳しい中でも勉強をしたいという気持ち、そして、女学校の制服へのあこがれなども記されています。戦争が終わって、両国国技館がGHQに接収され、進駐軍向けの娯楽施設「メモリアルホール」として使われていた時のエピソードも書かれていました。高木さんは試験の真っ最中でしたが停電になってしまい勉強できなくなってしまったようです。教科書を抱えたまま「メモリアルホール」に入ろうとしたとたん、兵隊から止められます。片言の英語で、本が読みたい、停電で困っていることなどを伝え、真っ暗な家々をさし示したそうです。守衛室に入れてくれて、そこの机と椅子で2時間、勉強させてもらえたことが記されていました。
多くの人が生きることに必死だった時代、戦火のほかにも、いろいろなことがあったようですが、『ガラスのうさぎ』は、1947年5月に、「戦争の放棄」を宣言した日本国憲法が施行される場面でクライマックスを迎えます。高木さんは、「この文面は、わたしにとって、まさに輝く太陽のように、まぶしく見えた」と書いておられました。『ガラスのうさぎ』は、戦争を知らない人にも、憲法が施行された時の感動が伝わり、戦争の中で起きた事実とともに、憲法の精神や、なぜそのような憲法が出来たのかを考えさせる力がある作品だと思いました。
精華町図書館に早速問い合わせました。
児童文学書なんで、とても読みやすかったです。
本文の中で特に印象に残ったのは、
1947(昭和22)年5月3日、わたしはこの日を一生涯わすれないだろう。この日、日本国新憲法が施行された。新聞の中に書かれた全文の中で、わたしは第二章『戦争の放棄』ということばにすいつけられた。
第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
この文面は、わたしにとって、まさに輝く太陽のように、まぶしく見えた。
これなんだ、もうわたしたち国民は永久に戦争を放棄したのだ。よく歴史はくり返されるという。日本の歴史はじまって以来、はじめて日本は外国に負けたのだ。連合軍という名の外国の軍隊が日本を占領した。たしかにいくさに負けたことは、くやしいし、なさけない。そのうえ、たくさんの犠牲者を出した。
だけど、それによって、永久に戦争はしないということを憲法に定めることができたのだ。
日本だけでなく、相手国もきっときっと、数えきれないほどの被害と、悲しみを受けたであろう。わたしのように両親をなくした子もいるだろう。戦争によって利益をこうむった人は、ほんのひとにぎりの人たちだ。
私は生きてるかぎり、この憲法を守りつづけたい。そして、わたしのつぎの世代、またそのつぎの世代へと、この悲しみを伝えていきたいと思った。二度と戦争をくり返さないために。
そして、偶然にもわんちゃんとこに『ガラスのうさぎ』があります。
そして、「わたしんちにも、ガラスのうさぎありました。」
福ちゃんから届きました。
『ガラスのうさぎ』(高木敏子)という本をご紹介します。著者の高木さんは1932年生まれで、死者10万人以上を出した1945年3月10日の東京大空襲の際は、国民学校(現在の小学校)の6年生。高木さんは疎開先にいましたが、母と2人の妹を失いました。『ガラスのうさぎ』は、そんな高木さんの戦争体験がつづられた作品です。
高木さんは、東京の下町に生まれました。両国国技館のそばです。高木さんの家は、1941年に太平洋戦争が始まるまでは、ガラス工芸品を造る工場を営んでいました。10代後半の兄2人は「ぼくたちは非国民になりたくないんだ。」と、志願兵として出征。戦争が激しくなると、高木さんは集団疎開で、幼い妹2人とともに、神奈川県へ行きます。しかし、2人の妹は、東京の家に帰りたくて、大人に紛れ込んで汽車に乗ってしまい、両国の家に行ってしまいました。母親も困ってしまい、当面、2人を家におくことに。そのまま、3月10日の大空襲に遭い、帰らぬ人となりました。高木さんは、7月に、空襲を生き残った父親といっしょに、家の焼け跡に立ちます。シャベルで敷地内を掘ると、半分以上とけたガラスのうさぎの置物が見つかりました。その父親も米軍機の機銃掃射で亡くなります。
『ガラスのうさぎ』には、両親と妹を失い、ひとりぼっちになった高木さんの暮らしや、戦地から帰ってきた2人の兄との暮らし、親類の家に預けられた際の出来事などが記されていました。戦中、戦後の混乱の中、家の焼け跡に立て札を残し、高木さんは自身の住所を記しておいたようです。戦地から帰ってきた兄がそれを見て、現在の高木さんを訪ねてくる場面もありました。また、厳しい中でも勉強をしたいという気持ち、そして、女学校の制服へのあこがれなども記されています。戦争が終わって、両国国技館がGHQに接収され、進駐軍向けの娯楽施設「メモリアルホール」として使われていた時のエピソードも書かれていました。高木さんは試験の真っ最中でしたが停電になってしまい勉強できなくなってしまったようです。教科書を抱えたまま「メモリアルホール」に入ろうとしたとたん、兵隊から止められます。片言の英語で、本が読みたい、停電で困っていることなどを伝え、真っ暗な家々をさし示したそうです。守衛室に入れてくれて、そこの机と椅子で2時間、勉強させてもらえたことが記されていました。
多くの人が生きることに必死だった時代、戦火のほかにも、いろいろなことがあったようですが、『ガラスのうさぎ』は、1947年5月に、「戦争の放棄」を宣言した日本国憲法が施行される場面でクライマックスを迎えます。高木さんは、「この文面は、わたしにとって、まさに輝く太陽のように、まぶしく見えた」と書いておられました。『ガラスのうさぎ』は、戦争を知らない人にも、憲法が施行された時の感動が伝わり、戦争の中で起きた事実とともに、憲法の精神や、なぜそのような憲法が出来たのかを考えさせる力がある作品だと思いました。
精華町図書館に早速問い合わせました。
児童文学書なんで、とても読みやすかったです。
本文の中で特に印象に残ったのは、
1947(昭和22)年5月3日、わたしはこの日を一生涯わすれないだろう。この日、日本国新憲法が施行された。新聞の中に書かれた全文の中で、わたしは第二章『戦争の放棄』ということばにすいつけられた。
第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
この文面は、わたしにとって、まさに輝く太陽のように、まぶしく見えた。
これなんだ、もうわたしたち国民は永久に戦争を放棄したのだ。よく歴史はくり返されるという。日本の歴史はじまって以来、はじめて日本は外国に負けたのだ。連合軍という名の外国の軍隊が日本を占領した。たしかにいくさに負けたことは、くやしいし、なさけない。そのうえ、たくさんの犠牲者を出した。
だけど、それによって、永久に戦争はしないということを憲法に定めることができたのだ。
日本だけでなく、相手国もきっときっと、数えきれないほどの被害と、悲しみを受けたであろう。わたしのように両親をなくした子もいるだろう。戦争によって利益をこうむった人は、ほんのひとにぎりの人たちだ。
私は生きてるかぎり、この憲法を守りつづけたい。そして、わたしのつぎの世代、またそのつぎの世代へと、この悲しみを伝えていきたいと思った。二度と戦争をくり返さないために。
そして、偶然にもわんちゃんとこに『ガラスのうさぎ』があります。
そして、「わたしんちにも、ガラスのうさぎありました。」
福ちゃんから届きました。