大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

連載②  「筆界」について・・・「原始筆界」

2017-05-20 14:06:21 | 日記
「境界」論に関する「連載」を始める、と前回書いてから随分と日にちが経ってしまいました。途中、私のパソコンが動かなくなってしまい、「こまめなバックアップ」を日ごろ怠っていたツケを払わなければいけない、というようなことがありました。皆様もお気を付けください。

さて、「筆界」について考えます。

「筆界は、地番の成立とともに当然に成立し、不動のものとして存続するが、目に見える存在ではない」(寶金敏明「境界の理論と実務」P14)
というようなことが言われます。そう言われると、「なるほどそういうものか」と思いもするのですが、どうも、モヤモヤしたところが残ります。「存在するが目に見えない」というのは、何か怪しげな宗教みたいな感じを受けるような話です。

ここで「目に見える存在ではない」とされているのは、いわゆる「原始筆界」というものです。この「原始筆界」が、目には見えないけれど存在しているものなのだ、というのが先の寶金先生の引用文のように)「筆界」について考えるときの前提としてありました。
しかし、目に見えないものは存在しているとは言えない、と言うべきです。つまり、「原始筆界」なるものは存在(実在)するものとしてあるわけではない、と言うべきなのだと思います。

では、「筆界」について「目に見える」というのは、どういう状態でしょうか?もともと土地というのは、すくなくとも一つの大陸や島の中ではもともと区分されたものではなく、その「境界」が目に見えて存在するわけではありません。だから、「筆界」そのものが目に見えるわけではない、ということになるのは、当然といえば当然のこと、ということになります。

そのうえで、しかしやはり「目に見えるもの」もある、と考えるべきです。これは、たとえば、造成のなされた宅地分譲の土地のようにコンクリート擁壁で区画されているような状態だけを指していうことではありません。境界標が入れられていれば、それを結ぶ「線」は目に見えて存在しなくても、「目に見えるもの」ということができるのはもちろんのこと、現地に「物」として存在しないのだとしても、図面上で現地に復元することができるようなものとしてあるのだとしても、やはり「目に見えるもの」としてある、と言える、と考えるべきです。区画整理の行われた土地は、これと同じものとしてあります。
要するに「目に見えるもの」というのは、はっきりとした「筆界の設定行為」のあるもの、ということになります。明確な設定行為があれば、その設定行為の内容を見ることによって「筆界」も「目に見える」ことになるわけです。

通常「筆界」と言われるものの中には、この「筆界の設定行為」のないものが含まれてしまっています。いわゆる「原始筆界」というものです。
後で(後日)「原始筆界には設定行為がない」ということを述べていくようにしますが、その意味は「設定行為がない」ということは「目に見えない」ということであり、それは「実在しない」ということを意味する、ということを明らかにしたい、というところにあります。

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