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大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

読んだ本-「人はなぜ人を殺したのか―ポルポト派、語る」(舟越美夏著。毎日新聞社2013)

2018-02-01 11:53:56 | 日記
衝撃的な内容の本でした。

カンボジアにおけるポルポト派による大虐殺というのは、20世紀後半における世界史的な大事件です。本当はもっと前に正面から見ておかなければならない問題だったように思いますが、あえて見ずにすごしてきてしまったようなところがあります。
今回、船戸与一の「夢は荒地を」というカンボジアを舞台にした小説を読んで、現在のカンボジアにおける腐敗や人身売買などの深刻な問題やその一つの要素としてあるポルポト時代について、あまりにも無知である、ということを思い知らされ、何かカンボジア関係の本を、ということで読んでみたのが本書です。

サブタイトルにあるように、基本的にポルポト派の幹部たちへのインタビューをまとめた本です。共同通信のカンボジア支局長であった著者が、ヌオン・チア(元ポル・ポト派№2)、イエン・サリ(元副首相)、キュー・サムフォン(元国家幹部会議長)などに行ったインタビューをまとめたものです。

まず驚かされるのは、これら最高幹部たちの「無責任」さです。80万人とも300万人ともいわれる虐殺・犠牲があるにもかかわらず、最高幹部たちは自分自身の責任を大きく感じていないようであり、それゆえに責任から逃れようとしています。
たとえば、ぽるポルポト派№2ヌオン・チアの妻リー・キムセインは、次のように言います。
「夫が多くの人々を虐殺したと言う人たちがいます。それは嘘です。夫たちの共産主義は、仏教に根差していました。規律と道徳を重んじていたのです。人々を殺したのは、地方の下士官たちです。私は結婚してからずっと夫とともに過ごしていますが、夫は人を殺すような人ではけっしてありません。夫が命令していたのでは、と言う人がいますが、夫が命じていたのは、都市の人々の考え方や心を農民と同じにすることだったのです。人々を殺害することではありません。」
なるほど、たしかに「最高幹部」は、直接手を下して人々を虐殺したわけではないのでしょう。しかし、虐殺を引き起こさざるを得ないような状況をつくっていたのであり、それを放置し、推し進めるようにしていたのですから、自らの手を汚していることと大きな違いがあるわけではない、と言うかやはりその罪はより重いと言うべきでしょう。
その構造を、スオン・シクーン(元外務省幹部)は、次のように分析しています。
「誤りのひとつは、最高幹部は、地方幹部ら部下の者たちに方針や政策について明確に伝えたり、説明しなかったことだ。」
「例えば「スパイ網を破壊せよ」とオンカーから命令が出る。・・・オンカーの命令は絶対である。だが下級幹部たちは、スパイをどう見分ければいいのかが分からない。ラジオを聴いているものがスパイか。外国語を話せる者か。それとも欧米で高等教育を受けた者なのか。まごまごしていれば、自分もスパイと疑われてしまう。お前もスパイなのだな、だからこの人物がスパイなのかどうかはっきりと判断できないのだろう、と責められてしまう。責められる前に早く「この人物はスパイだ」と言ってしまわなければならない。相手が自分を「スパイだ」と告発する前に相手を告発しなければならない。そうでなければ自分の命があぶない。」
だいぶスケールの小さな話になりますが、「加計学園について私が指示したことはない」と言うことなんかも、こういう系列の問題でしょうか。
本書を読んであらためて知らされたのは、ポルポト派の最高幹部というのが、とてつもないエリートたちだということです。明治期に近代日本の基礎をつくったのが官費留学生たちだったように、近代カンボジアつくりの期待を担ってフランスに留学していた超エリートたちの多くが、反植民地・共産主義運動の担い手となり、フランス、アメリカとその傀儡政権との戦いに勝ち抜き「解放」を勝ち取ったわけですが、その後に展開されたのが上記の無責任体制のもとにおける大虐殺だったわけです。「エリートの無責任さ」ということを感じさせられます。

本書には、ポルポト派幹部だけでなく、被害者側であるチャン・クリスナー氏(共同通信プノンペン支局のスタッフ)も登場します。祖父は王政府元首相。父は軍幹部だったというチャン・クリスナー氏は、家族を虐殺され、自身も地方移住と強制労働での過酷な少年期を強いられました。そのようなところから、ポルポト派幹部を許せない姿勢は崩しませんが、同時に自分の祖父や父が反体制派にたいして行った残虐行為への反省も持ち、「許せないが許す」生き方を示しています。超エリートたちの無責任の対極にある姿勢は、人間の強さを示しています。

「おわりに」で著者は、 「カンボジアでは「生」のすべてを知ることが出来る。・・そうかもしれない、と思った。極限下で生きる能力、剥き出しになる人の残虐性、運命の有無、人の命を奪うこと、命の価値、人生の理不尽さ、純粋さと排他性・・・。あのころのカンボジアは、こうしたテーマを直截に突きつけられる場所だった。」と言っていますが、たしかにそう思いました。だから、本書を読むきっかけとなった船戸与一の小説なども、「冒険活劇」的に評価されるのが一般的だとは思いますが、いろいろなことを考えさせてくれるものであるわけです。

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