三連休ですね。夏休み前の連休ですが、今年は今一つ「休みだ!」という気分が盛り上がらないのかもしれません。でも、特に、小さいお子さんのいる方々は、しっかりと休んでもらいたいと思います。子供たちにとって、今年の夏、今、は二度と来ないものです。休む時は休み、その上でやるべきことはやる、というように行きたいものです。
・・・ということで、「休み」にふさわしい(?)話題。私の好きな小噺をひとつ紹介します。
一度聞いたことがあるだけで。それ以来一度も聞いたことがないマイナーなものです。何故マイナーか?それは、おそらく多くの人に「趣味が悪い」と思われるからでしょう。そういうものを好きなのって、やっぱ悪趣味でしょうか?ブラックユーモア的に少し突き放したところで読んでください。
敗軍の武将が、連れて来られる。
(勝った側の武将)「ハッハッハ!遂にお前も終わりだな。この場で首を跳ね飛ばしてやる!」
(敗軍の武将)「たとえこの場で命を断たれたとしても、お前への恨みは決して消えることはない。お前はちろん、お前の一族は、我が恨みによって悲惨な末路をたどることになるであろう。覚えておけ!」
(勝)「ハッハッハ!悔し紛れにくだらぬことを言うものではない。そんなことできるわけがないではないか。もしも、本当にそんなことができると言うなら、お前の首が跳ね飛ばされた後、あの庭先の岩のところまで三回跳ねて飛んで行き、岩にかじりついて見ろ!もし、それができたなら、お前の恨みにおそれもしよう。」
(敗)「うぬ、必ずや、岩にかじりついてみせる!
・・・というような話の上で、斬首。
敗軍の武将の首は、3mほど飛んで地面に落ちたかと思うと、トントントンと三回はねて件の岩のところに行き、岩にしっかりとかじりついた。その首をとろうと思っても、強くかじりついているため、ひきはがすこともできない。
それを見て一同は凍りつく。「本当に岩にかじりついた。あの者の恨みは本物だ。これから我が一族には災厄が続くに違いない。おそろしいーっ!。」
みんながそう思い、心配していると、武将は再び高笑いをする。
「ハッハッハ!何も恐れることはない。あの者の恨みは、確かに強いものであった。そのままでは、確かに祟って出て、我が一族に災厄をもたらしたかもしれない。しかし、首を斬られた時、あの者の思いは、あの岩にかじりつくことだけに集中していた。だからこそ、生命を失った首は、まるで意志をもつかのように跳ねて行って、岩にかじりつくこともできたのだ。しかし、あの者は、死ぬときにそれだけに集中してしまったので、もはや我らに対して祟って出ることはできないであろう。」
・・・・・・以上、おしまい、です。
救いのない、趣味の悪い話だ、と思われてしまったかな?(それ以前に、われながら下手くそな再現なので、面白味が通じなかったかな?・・・とも思いますが・・・。)
この話のどこがおもしろいと思うのか?
私は、特に会務を行っていくに当たっては、「大目的」「中目的」「小目的」という問題の整理を行うべき、と思っています(このことは、今後何度も繰り返して言うようになると思います)。
この小噺で言うと、斬首されようとしている武将にとっての「大目的」は、勝った武将たちに対して祟って出て、恨みを晴らす復讐をすることだったはずです。
しかし、この人は、「復讐してやる!」と言うことによって相手を恐れさせたい、という衝動に駆られてそれを「中目的」にしてしまいました。
そして、それを実現するために、三回はねて岩にかじりつく」という当面の具体的な目標を「小目的」にしました。
この「小目的」を実現することに力を注ぎすぎてしまうと、「大目的」が忘れ去られてしまう、というわけです。・・・こういうことは、よくあることです。「大目的」は、大体遠い目標なので、そこに近づいたかどうか、ということを具体的に検証することがなかなかできません。そこで、検証可能なような目標を下位の目標として設定します。それ自身は、現実的な手立てとしていいのですが、悪いのは、この下位の目標の達成、ということと、本来の遠い目標との関係が忘れ去られてしまって、「下位の目標は達成できたけど、本来の目的には全然近づいていない」ということになってしまう、ということです。こういうことは、現実世界において、しょっちゅうあることです。・・・でも、そのことに気がつく、と言うこと自体が、とっても稀なことになってしまいます。
この「小噺」は、そういうところを、表現しているのだと思うのです。どうでしょう?そういうふうに考えてみると、とっても教訓的ではないでしょうか?