三木市議 大西ひできの方丈記

日常生活と三木市議会議員の日常記
「人は宝、子どもは希望」
三木市の再生は人材育成から。

枯れない涙

2020年07月28日 | 日記

23年前の7月31日力也(次男)が生まれました。

家族と共に一生懸命生き抜き22年前の今日、手術に臨み翌29日に私たち家族に永遠の別れが訪れました。

1年に満たない短い時間でしたが、私たちにとってはとても充実し、一生懸命頑張った1年でした。

私33歳。家内26歳。長男4歳の年です。

 

23年前、力也が生まれた時、先生から息子の事について説明を受けましたが直ぐには受入出来ず、

出産後間もない家内に伝える事は出来ませんでした。

 

それから間もなく転院しNICUの小さな保育器の中で頑張ります。

家内の入院先の病院で搾乳をしたものを、息子の入院先まで届ける日々が続きます。

 

退院してから毎日、家内は長男を保育園に預けたその足で神戸中央市民病院に向かい夜まで力也と過ごしました。

私は、仕事が終わった足で長男を保育園まで迎えに行き家内と次男の下へ駆けつけ、

NICUのガラス越しに家内と力也、廊下で私と長男が共に面会時間いっぱいまで過ごして

三木の自宅への帰路につく日々が続きました。

 

廊下に長男が入ると気配で分かるのか、NICUのガラス越しに力也は身をのけぞらして長男のほうを向こうとします。

兄弟の血の濃さを感じると共に更に幸せを感じました。

そして、いつか必ず親子4人、自宅で過ごしている事しか想像出来ませんでしたが。

 

手術を受ける度に、次は良くなる。次は良くなって家族で遊びに行けると考えて。

先生と看護師さんの計らいで、31日の誕生日に先駆けて普段は入ることが出来ないNICUに家族で集い誕生会をしました。この時、長男が初めて次男に触れる事が出来たのです。

弟の手を愛おしそうに優しくさする長男とそれにこたえようとする次男を見て、私たち夫婦は急がずゆっくりとで良いので家族一緒に過ごせる日を普通に考えていました。

 

22年前の今日もそうでした。早朝に中央市民まで向かい先生の説明を受け手術室に入っていく

力也を家族で見届けました。

長い長い手術でした。

先生が手術室から出てこられて結果を告げられた時、家内と長男と私の3人で立ち上がることが出来ず泣き崩れました。

 

必ず良くなって家族で退院する事しか考えていませんでしたので、

先生と看護師さんの配慮から地下に安置された息子を家内が抱いて、

1階の正面出口から家族で出ていきました。先生や看護師さん多くに方々に見送られ自宅へ向かいました。

約、50分程度の道のりでしたが、とても長い道のりに感じました。

 

その夜、仏壇の前に布団を敷き、力也と長男を家内と私で挟み、

それぞれが手を握り一晩を過ごした。蒸し暑い夏でした。今でも鮮明に覚えています。

 

その時の悲しみは何時まで経っても癒える事はありません。

当時は、一人で車を運転していると涙が止まらない毎日が続きました。

1年と言う時間でしたが、私達にとっては充実した思い出がぎっしりと詰まった1年です。

思い出すと涙が止まりません。

 

そして、何時まで経っても涙が枯れる事はありませんでした。

31日は力也の誕生日です。ケーキを用意していますので、家族でケーキを囲みたいと思います。

 


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