創造

創造主とセルフイメージの世界

フルベッキ写真に写る岩倉具定(ともさだ)

2013-11-18 16:02:59 | 歴史

フルベッキ写真に岩倉具視の子、岩倉具定と具経の兄弟が写されていることは慶応撮影説(1865)でも明治撮影説(1868)でも共通して確認されています。二人は1870年(明治3年)フルベッキ師の世話で米国に留学しました。

具定のひ孫、岩倉具子(小桜葉子)は加山雄三氏のお母さんとのことです。ある方によれば加山雄三は出演前に必ず神に祈るのそうです。フルベッキの祈りの精神はいまにいたるまで影響しているのでしょうか。

http://www.youtube.com/watch?v=mmYXznqILj0

 ところで「日本のフルベッキ」の翻訳者村瀬寿代氏はこの写場が慶応年間にはまだ開設されていなかったという前提にたって、岩倉兄弟が佐賀を訪問した1868年12月(明治元年10月)から大隈が英国水兵斬殺事件のため長崎に滞在した1869年1月(明治元年12月)までの間に撮影されたと推定しています。(138ペ-ジ)

上述の前提については、写場は明治2年撮影されたものに二か所あることから再検証の必要があるといえます。

第二点、村瀬氏は1895年(明治28年)雑誌「太陽」に掲載された戸川残花の「フルベッキ博士とヘボン先生」には具体的な記述がないと書かれていますが、残花は写真は「30年前の武士は眼前に出てくるの感あり。氏は特に佐賀の藩士に知れる人多く、村田若狭(佐賀家の重役なり)の如きは教えを聞きて受洗し基督教となりしは、今をさる29年前のことなり、」とかなり正確に1865年の撮影を意識しております。なお写真のキャプションには「維新前の長崎洋学生」とあります。

慶応撮影説に立つと、被写体中、西郷隆盛や坂本龍馬の可能性があります。

西郷は手に怪我を負ったことがあり、刀の代わりに竹ムチを使用したと評伝にありますが、写真にはマントを着て竹ムチを所持している姿があります。

坂本龍馬については耳の特徴が龍馬の他の写真と一致していることが分かります。

グリフィスはこの写真が日本の歴史家にとって非常に価値あるものだと記しています[119ペ-ジ]。更なる究明が必要と思われます。

 

 

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