テサロニケⅠ・5・23のパウロの言葉です。
ヨハネ第三の手紙2節には「愛する者よ。あなたがたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあります。
米国バプテストの代表的な思想家ラゥシェンブッシュは神を知り神と交わることを最優先した神の国運動のリ-ダ-でありましたが、こう語りました。
「もっとも主要なことは神をもつこと、彼のうちに生きること、そして彼をわたしたちのうちに生かすことである。」
ラゥシェンブッシュの教えと感化は政治・経済の秩序の形態にまで及び、家屋の建築計画、労働条件の改善、保険、天然資源の活用を促しました。
幕末維新を導いたフルベッキ宣教師や勝海舟も十字架を通して心に聖霊なる神を迎え、そしてその偉大な能力によって新しい時代を導くことを体現しました。
グリフィスは「日本のフルベッキ」(村瀬寿代訳洋学堂書店)で以下のように述べています。(123ペ-ジ)
https://archive.org/details/verbeckofjapan00grifuoft
「北部・ゲルマン系キリスト教(Northern,or Germanic)とロ-マ・スラブ系キリスト教には根本的な相違がはっきりと見られる。後者の主なる目的はチャ-チマンを育てることである。チャ-チマンとクライストマンの間には大きな相違がある。チャ-チマンは団体に従う(conforms to his corporation)。クライストマンは神の中に、自分自身の人生を求める(seeks his life out of himself in God)。改革派キリスト教は芸術・文学、哲学や個人の、あるいは社会や国の理想に触れ、再形成する。救い主イエスの中に改めて再建する。ギドー・フルベッキほどこのことをよく知り感じ言った者はいなかった。」
神との直接的交わりは御霊なる神が内側でなさる業であり、ここに間接的代理的信仰との相違があります。
グリフィスの言うクライストマンとは神にあって自律(神律)した人間のことであり、宗教改革以来の人格主義に通じるものです。天使もしくは代理者を仲介するのでなく、直接、聖霊によって神に触れる信仰です。
スイスの直接民主主義は恐らくアナ・バプテストという霊的土壌から生み出された形態かもしれません。トレルチは新プロテスタント主義と表現しました。
政教分離と言えば一見政治との関わりを断つかのようですが、政治システムを相対化することによって返って神の介入に門戸を開くことになります。カ-ル・バルトは神学は哲学化することによってではなく、純粋に神学であることによって哲学の関心を引きこれを助けるのだと語りました。
「神の国と神の義を第一にする」ということは人生の全領域に神の介入と働きを求めるということでもあります。
すべてのことで主に頼り御霊に依存するのです。至聖所の臨在が聖所へそして庭から外部へと流れるように現わされます。神の祝福が内側から家族と隣人へ社会へと拡張されてゆきます。
ヨ-ロッパではブル-ムハルトが日本では賀川豊彦が神の国運動を主導しました。それは近代世界をいやし祝福しようされる創造主の意思と思われます。
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