minoaka Tommy の わらぶき小屋

音楽や話題になってる事で、面白い よもやま話が好きな仲間が気楽に寄れるコーナー
   <’11・11・1 OPEN>

<H6~11>MMS OB会

2012年02月29日 09時59分32秒 | バンド歴・出演歴
数年前から、千代さん・前川さんを中心とした年代のOB会に参加している。
Tommyも40歳代半ばから、OB会を何度か呼びかけ、懐かしい顔ぶれが集まり、楽しい交流を続けてきた。ゴルフ会もH4/8~H11/5に2~3組だが11回実施した。以下、順に紹介しょう。


H6/8 長野県安曇野。あづみのCCで二日に亘りゴルフも。1日目の夜、近くのスナックに出かけ、貸切状態で演奏して遊んだ。お陰で2日目のゴルフは散々。

H7/6 富山駅前華遊膳。現役のMMS部員も参加し、お互いの情報交換。

H7/10 いこいの村。この時、Tommyは88で回ってる(太閤山CC)。今は…

H7の新聞記事。第26回ビッグバンド・ジャズコンテストで14回目の出場で過去最高の5位(参加45バンド)、TPの毎床さんが最優秀ソリストに選ばれている。

H8/6 三協アルミ福光保養所 やまびこ荘。この時も現役生が来てくれた。

H9/1 富山第一ホテル。MMS定期演奏会の第30回を記念しての懇親会。OB・OGが52名参集。遠方からも大勢駆けつけ、15名が同ホテルに宿泊した。この時、名簿作成と演奏会支援の資金を募り、825,000円の寄付金を寄せていただいた。あらためて御礼申しあげます。

H10/10 氷見民宿 城山。ペダルスチールの千田氏(後列右から3人目)を迎え、大音楽会となった。
宿泊の翌朝、大阪毒カレー事件で林 ますみが逮捕のニュースが流れた。

H11/5 極楽坂スキー研修所。やっぱり皆、音を合わせるのが好きなんだ。

H18/10 富山市八百松亭。この写真は北日本新聞の<仲間と集う>に載りました。

MMSという、同じ旗の下で青春時代を共有した仲間との交流は今後も続けていきたいものだ。
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<s43年度>最後の定期演奏会

2012年02月28日 18時23分23秒 | バンド歴・出演歴

今日の高岡古城公園の梅。例年に比べ半月は遅いか。今朝は放射冷却現象で-5℃とまだ寒いが、ようやく花が咲き、<春近し>を感じる。

さてMMS時代の4年の秋は、社会勉強にと、アルバイトに勤しんだ。
知人の紹介で、高岡のS菓子問屋での配送を数ヶ月行った。トラックの助手席に乗って、県内のお得意様に注文の商品を届けるだけの単純な仕事だ。
S44年の1月だったろうか、黒部からの帰り、遅くなり運転手は車を飛ばして帰りを急いでた。常願寺川を渡りきった所で車がスリップし横転して国道をふさいでしまった。周りから人が寄ってきて上に引上げられる恰好で助手席から脱出した。幸い誰にもケガはなかったが、あの瞬間は目の前の景色がスローモーションのように回転し、今思ってもゾっとする。


s44/1にMMS単独の定期演奏会を開催した。ウェスタン(old love letter等)→ロック(driving guitar等)→ハワイアン(lei aloha lei makamae等)→フルバンド(take the "A"train等)

前列の男3人が卒業。右のお宮さん・中勝君が二人そろって50歳で亡くなった時は、Tommyは<もうハワイアンをやる事はない>と思った。
あまり教えてやれなかったが、2年後輩の富川君とのWスチールをやった。富川君がMMSハワイアン=サウスアイランダースの最後のスチールとなったのも、時代の流れだったろうか。

Tommyは「I wish they did'nt mean good by」を歌わせてもらい、4年間の部活を終えた。
当時は工学部が高岡にあったので高岡でも演奏し、終わってから後輩数人が我が家に泊まって飲みあかした。

こうして学園紛争で本部が封鎖されてたので卒業式もなく、富山大学の経済学部と軽音楽部(MMS)を卒業した。今から思えば、貴重な、仲間との楽しい4年間だった。

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フラとの確認練習

2012年02月27日 21時48分54秒 | ハワイアンB
今朝の地元紙・北日本新聞に「6/2環水公園ハワイアンフェスティバル」への参加フラ・バンドの募集が囲み記事で案内された。
暖かくなると、いよいよハワイアンのシーズンを迎える。
その一つである「とやまハワイアンのつどい」(4/1)があと一ヶ月余りとなった。
先般、フラとバンドの組合せ曲も決まり、本番前の合わせ練習が必要だ。
今日のバンド練習にフラのグループに来てもらい、合同練習を行った。


フラ オ プメハナの皆さんとで「ハナレイ・ムーン」。
ゆったりとしたリズムのハワイアンの名曲で、思わす目を閉じてしまうフラだ。

ウクレレ教室の松江さんが、mino'aka hoaのテーマ「ハワイのわらぶき小屋」に合わせ、軽やかにステップ。「イェイ~」と声をかけたくなる。


2組が帰った後、モモナも当日踊る「キパフル」のレッスン。
男性陣はハーモニーに気を使う。その前に歌詞のCK。

「歌も良いけど、フラは楽しいネ」→<どうしてそんなに軽やかに踊れるの?>
「青いのと、赤いのとどっちが良い?」→モモナは衣装の話題でも楽しそう。
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<s43年度>就職活動・5 SPOT

2012年02月26日 15時53分00秒 | バンド歴・出演歴
4年生になってからは、部長を江川君に託し、就職や学園紛争もあり、TommyのMMS活動は特記すべきものがなくなった。
何はともかく、就職しなければならない。大半の同期生は6~8月に東京・大阪へと就活に飛び回ったが、Tommyは5月末に7名の仲間と地元の銀行の内定をもらった。
筆記試験→面接とあったが、面接官から「貴方は大学で一番やり遂げた事は?」との質問に「部活で、借金42万円を完済した事です」との返答に、真ん中のM専務が大きくうなずかれ、採用を確信した。

学内の紛争は泥沼化し、ついに本部が活動家に占拠され、大学本部の機能は止まった。
学生集会が何度かあったが、東京からのプロ?活動家がリードし、滅茶苦茶だった。大学当局からは学生課の職員や60歳前後の大学教授が壇上で槍玉に上がり、勝手な理論で追求されてた様は嘆かわしかった。深夜遅くまで口論となり、挙げ句は「会場 封鎖!」の号令で出入り口が塞がれ、徹夜になったことも。マージャンで徹夜には慣れていたが、老教授達には精神的にも肉体的にも耐えられなかった事だろう。

就職が決まり、残りの学生生活を大いに謳歌した。
よく飲みにいったお店が、荒町交差点近くの「5 SPOT」で、学部同期の大畑君や、MMS後輩の高山君(彼のブログ:y_highの2/15に詳しく紹介されている)と飲みに行った。

S43/8・お店の常連客との能登半島柴垣でのキャンプ。泳いで、呑んで、歌って・・・徹夜で遊んでた。

☆中央のギターを弾きながら歌ってるのが石坂さん:東京の大学のカントリー・バンド経験者でギターの名手。「カントリーロード」なんか歌ってたな。残念ながら、若くして亡くなられた。
☆左端は田代シンコちゃん:ポップス~オールディズのバンドのVo&ギターマン。
翌年、大阪の彼のアパートに遊びに行き2晩泊まってきた。夕方、酒屋でコップ酒を立ち飲みしてから難波のライブハウスで演奏。「stop the music」やPアンカの「my home town」なんかやってて、その時Tommyはピアノで遊んでた。

可愛い「5 SPOT」のママ。当時としては大胆な水着だった。

7月に父が高岡市城東に自宅を建てたので、青雲寮を出た。
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瀬戸蔵山 かんじきトレッキング

2012年02月25日 20時35分32秒 | 散策・自然
新聞で募集していた<かんじきトレッキング>に参加した。
自宅を7:30に出て、9時にゴンドラ山麓駅の集合場所へ。参加者(抽選)は43名、応募が90名あったとか。下は雨が降っていたが、ゴンドラを降りると雪に変わっていた。
好天だった昨日と代わってたら良かったのに。

ゴンドラを降りて、かんじきの取付け→(腹がつかえて)なかなか しゃがめない。親切なスタッフさんに手伝ってもらう。ひものまわし方・縛り方にコツがあるのだ。

右がリーダー「さぁ、出発しますよ」→この段階では、皆、余裕の笑顔。

途中の立山杉の説明。この辺は、ブナ林。今話題の森林セラピーにうってつけ。

途中で小休止。皆、左を向いている? 何にも見えないが、風が右から左に吹いているので。電線の小鳥が同じ方向を向いているのを思い出さない?

目的地・瀬戸蔵山に到着。出発してから約50分。新田次郎の「八甲田山 死の彷徨」(旧陸軍の雪中行軍)の話を連想する。今回、女性が多かった。


戻ってからのお楽しみは「ぶた汁」とおにぎり。メガネを曇らせて熱々をすすった。
解散してから、グランドサンピア立山で入浴。大浴場で、思いっきり大股開き
 →これが堪らなく気持ちい~い! 日本男児の本懐だ!
wifeはコーヒー、Tommyはビ・・→帰りの車は、夢の中。明日、足が上がるだろうか?
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<s42年度>芸交祭と第5回定期演奏会

2012年02月24日 21時57分16秒 | バンド歴・出演歴
S40年代、全国的に学園紛争が次第に過熱化していった。
大学の構内では、過激な縦看板が目立ちはじめ、ハンドマイクをもった学生がアジ演説をがなり、檄文やチラシが ばらまかれていた。
全共闘や革マルといった過激なシンパが対立したり、大学の自治権確立×国家権力(警察の機動隊)といった図式だったろうか。Tommyはノンポリで、その辺の事はよくわからず、もっぱら学館でハワイアンをやっていた。

s41/夏の学館での練習風景。音がもれるからと窓は閉めたままで風が通らず、野郎ばかりなので、下着のままでの練習。
今のようなチューナーなんて無い時代で、音程合わせに苦労した。

3年生の11月、芸交祭で北陸3県の軽音楽部演奏会を富山市公会堂で主宰した。
  福井大学  北陸学院短期大学  福井工業大学    金沢工業大学
  金沢大学  富山女子短期大学  大谷技術短期大学  富山大学
の8大学が参加し、5時間かかった(らしい→よく覚えていない)。
<富山大学が担当になる>というので、前年に金大の部長の下宿に泊って準備・段取り等を教えてもらった。工学部の彼は自前で組み立てたステレオセットが自慢で、JAZZのレコードを聞かせてくれた。カゥントベィシー、デュークエリントンなんかもあったが、MJQの心地良いサウンドを聞きながら、酔いもあっていつの間にか寝込んだ。

S43/3に富山市公会堂で「第5回 Music Parade」を開催。

この時、小山嬢が「ワッサマラユー(夕べはどうしたの?)」を歌っている。
それまでも女性部員はいたが、実際に音楽活動をしたのは、彼女がMMSの女性第1号だ。

S43/3の追い出しコンパ。この中には、コンパの時だけ出てくる輩もいた。
とにかく部費の要らない部だったので、酒が呑める時だけ出てくる部員もいた。だから、「写真の一番左が誰だか わからない。これが、一番張り切っているゾ」
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<s42年度>グルッと11日間一人旅

2012年02月23日 21時44分15秒 | バンド歴・出演歴
20日の高岡古城公園の画像の続き:今日のテーマに関する写真が1枚しかなく、寂しいので巻頭の画像として見てもらいたい。


梅の木立:まだつぼみは固い。

池の水鳥が浮き草に上がって休んでる。水と雪と、どちらが良いのだろうか?

<自宅⇔古城公園>間の氷見線。右奥にあるのが高岡文化ホール。


S42年の秋に11日間かけて、<富山→長岡→東京→名古屋→岐阜→富山>と国鉄周遊券と学割を使ってグルっと一周の一人旅をした。それぞれ、先輩・知人を頼ってのお金を懸けれない旅だった。

★長岡・平賀先輩:富大→新潟・大学院に進学され、半年振りの再会。その後のバンドの事やMMSの状況を話し、長岡での近況を聞かせてもらった。
  ↓
★東京・岩沢先輩:三共の営業マンで、車で五輪のあった代々木体育館や海へ案内してもらった。板橋区の自宅では可愛い妹さんに、富山弁をからかわれたっけ。 
  ↓
★東京・山城君:同郷の友人。彼に案内してもらって憧れの銀座TACTへ行った。

2階の最前列だったらよく見えるだろうと陣取り、バッキー白片の演奏を見たが、ただ驚くばかりで、曲目なんかは覚えてない→そんなに知ってなかったという事。
S45年頃にもTACTへ行ったが、その頃はグループサウンズ(GS)全盛期で、若い女の子達がキャーキャーと騒いでいた。 ハワイアンは急速に衰退の道へ。
  ↓
★東京・大塩君:中部高校1~3年間同じクラスで、当時慶應大学医学部生。現在、静岡で開業しており、6年ほど前に静岡に行った時、40年ぶりに再会した。
  ↓
★名古屋・近谷先輩:名古屋市役所に勤務しておられ、髪をバックにして元気はつらつ。知多半島の方面の自宅(緑区?)だったと覚えている。
  ↓
★岐阜・大野先輩:青雲寮では夜、お互いの部屋を行き来し、就職について呑みながらよく語り合った。彼は大和銀行に行かれ、銀行のアレコレを教えてもらった。

もうおひと方にもお邪魔したかと思うが、はっきり覚えていない。
厚かましくも、何人もの方々に宿と食事をお世話いただいた楽しい一人旅だった。
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囲碁大会 優勝

2012年02月22日 20時57分34秒 | ○●囲碁
県いきいき長寿センター主催の<北日本名誉本因坊 松田実先生を囲む 新春「囲碁大会」>に参加。30名が5ブロックにわかれて対局。昨年は準優勝だったので、<今年は何とか優勝を> の意気込みで臨んだ。二段で参加しょうかどうか迷ったが、仲間と話し、お互いに初段で参戦することにした。

会場の富山県総合福祉センター(通称 サンシップ)。 会場は最上階の7階。

北日本名誉本因坊の松田 実先生「皆さん、健闘を」。ひげ面に本因坊の貫禄が。
先生は富大の3年後輩:Tommyが4年の時、先生は1年生だったが、学園紛争の最中で、娯楽室(囲碁将棋の対局ができた)で対局してたかどうか。もし一緒してたらTommyの腕はもっと上がっていたかも。

6人総当り戦。時間の都合上、時計を使っての対局(一人30分)。普段使ってないので、針ばかりが気になり初戦を落とす。 <時は金なり>

対局風景。気合で大上段に打ち下ろす。右は80歳代のA六段。杖をついての参加。

昼食後、先生のミニ講義。「当たり前の定石でもどうしてかの問題意識が必要」。

Tommyの成績:●○○○○。4勝1敗が3人いて、抽選で”あっ、優勝しちゃった”
松田先生「最初に負けたけど、よく粘ったね。おめでとう」
Tommyに半目負けたO氏、抽選にもはずれ 参加賞となり、ぼやくボヤク。


自宅に帰って撮影。メダルは後援の北日本新聞社からのもの。
明日の朝刊に<優勝>と名前が掲載される→トミー 藤原ではないけど。
賞品は柿山セット。さっそくビールでカンパイ。
今晩は大威張りで、「おい、もう1本」→早くブログの投稿をしたかった。
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<s42年度>ビアーガーデン

2012年02月21日 20時01分49秒 | バンド歴・出演歴
画像は昨日の続き(20日の古城公園)

朝陽橋→本丸広場への上り坂。青空になってきたが、気温は低く まだ寒い。

射水神社裏(北側)。春~夏は緑の、秋は紅葉の並木道でお気に入りの場所。


MMS時代、アルバイト(以後バイト)でビアーガーデンのハワイアン演奏をした。
当時富山では、何箇所ものビルの屋上でビアーガーデンをやっていて、勤め帰りのサラリーマン・OLでそこそこ賑わっていて、生ビール+涼しい風にスチールギターの音色が喜ばれた。
2割だったかを部に入れ、一日800円程の実入りだったと思う。
当時、1,000円あれば焼き鳥やおでんで呑めたのでありがたかった。

S42/8「ハワイアンの夕べ」 in富山城址公園。
フット(音量)コントロールを使っていたので、座っての演奏。

ビアーガーデンではこんな事があった。
☆富山商工会議所の屋上:中年のおっさんから、「あんちゃん、軍艦マーチをやってくれ」のリクエスト。一瞬たじろいたが、中勝君と3コードでやってみた。
おっさん、喜んで腕を上下に振って、我々にビールをご馳走してくれた。

☆キャバレー花馬車の屋上:更衣室なんてなく従業員と同じ部屋をあてがわれた。つまり、早番のお姉さま方と同室。先方は面白がって甘い声で、「そこのお兄さん、背中のファスナー、上げてくれない?」
お宮が代表して行ったが、色香にあてられ、顔を真っ赤にしてたっけ。
☆ビアーガーデンのバイトは好きだった。終わると残ったビールを頂戴できたから。

バイトと云えば、家庭教師もやった。一時期、3組ももったので、一つをMMSのK後輩に譲った。ある裕福な家庭の子女の時は、コーヒー・ケーキにフルーツもついて、苦学生には嬉しかった。


昨日、古城公園からの帰りに、カマクラを見つけた。

車庫の屋根雪を降ろしたら、大きな雪山になったので掘ったとの事。

入り口は狭いが、中は思ったより広く(大人が椅子に座ってもOK)明るい。
「小4の孫が友達を連れてくるので、今から遊ぶ顔が楽しみだ」と。
どこのおじいちゃんも、孫の話になると →ミノアカだ。

不謹慎ながら、Tommyは思った。
 <夜、ロウソクの灯で熱燗をやれたら さぞかし・・・>と。
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<S42年代>ダンスパーティ

2012年02月20日 17時50分11秒 | バンド歴・出演歴
雪景色の古城公園を撮りたくて昼前に行ってみた。

中の島:人の歩いた形跡はほとんどなく、清楚な佇まい。

枝に残った雪の美しさを期待していたが、すでに融け落ちていた。

除雪:係りのおじさんは、<雪が固い>とこぼしていた。

MMS時代の話に戻る。前述(2/10参照)したように部の借金返済が急務だった。収入の道はダンスパーティ(以下 ダンパ)の演奏の請負が中心。当時2~3万円ほどだったろうか。
あの時代、6月と12月がダンパのシーズンで、新築なった県民会館地下ホールが多かった。当時はダンパはブームで、数百人の若い男女で混みあい、終わりごろになるとフロアが熱気で滑りやすくなってた。1本100円のコーラを飲むのが粋だった。
ハワイアンとフルバンドが30分毎に交互に演奏し、前座はウェスタンの出番。
12月は毎週末のようにやった。楽しみは、カツ丼の食事と空き時間に踊れる事。
踊れるといってもルンバ・ブルース位で、ワルツ曲でバンド交代と決めていた。

12月のダンパでは、終わってからTommyの部屋にフルバンドの若手が数人、何回か泊まっていった。
部屋の真ん中に電気こたつを置いて、八方から足を入れて、話し込み、即席ラーメンをすすり、疲れた者から寝込んでいた。タバコが切れると、もみ消した中で比較的長いのを伸ばして吸いあってた。誰のとも気にせず →これって、間接kiss? 
こたつの上には、灰皿とサントリーレッドとグラスが雑然と散らかってた。
冷蔵庫なんかなかったので、窓からツララを折って氷にしてたね。


今日の古城公園のツララ。これだと何人分もの氷がとれそうだ。

JAZZの話や、フルバンドのあり様を熱っぽく話していた。
当時、国立の大学でフルバンドがあるのは、3つ位の大学と云われていた。
そのうちの一つが静岡大学で、浜松の楽器メーカーが楽器の提供等で全面協力しているとの話は、羨ましいナ と思った。
<譜面がない>→誰かが東京に行った際、数曲分を購入してたっけ。
<メンバーがそろわない>といった悩みもあった。
ピアノに教育学部ピアノ科の男性が入ったが、先生から「JAZZの変な癖がつくから止めろ」と云われたとすぐ辞めてしまった。

トロンボーンも2人しかおらず、何かの演奏会でTommyに吹くように話があった。要するに人数合わせだ。本当は4名必要だが、3人でも仕方がないからと。
「吹けない人で良いのです。下手に音を出されると、迷惑するから」
 →<おれは張子の”虎”>か?! そういえば「タイガー・ラグ」って曲あったね。
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