実務家弁護士の法解釈のギモン

弁護士としての立場から法解釈のギモン,その他もろもろのことを書いていきます

脳死は人の死?

2009-07-13 21:33:42 | 日記
 今日、二度目のアップです。

 本日、参議院の本会議で、いわゆる臓器移植法の改正案が可決され、成立したとのことである。いわゆるA案の改正案の成立である。
 改正の主目的は、家族の同意だけで脳死者からの臓器提供ができるようにすることと、15歳未満の脳死者からも臓器提供ができるようにすることが、主眼のようである。
 これまで、15歳未満の人は臓器提供の意思表示ができないという理由で、臓器提供ができないでいたのであるが、実は、臓器移植法にはそのようなことは何ら規定していない。政令や規則にも存在せず、単に厚生労働省のガイドラインによる運用によって、遺言可能年齢を考慮して15歳以上の者の臓器提供の意思表示のみを有効として扱うこととされていたにすぎない。このことは、一般には意外に知られていないことではないだろうか。今般の改正で15歳未満の脳死者からも臓器提供ができるようになる理由は、本人の意思が明確でない場合は、家族の意思だけで臓器提供ができるようになるためである。
 私は、上記の部分についての法改正の当否を問題としたいのではなく(ただし、個人的にはやや拙速な改正のようには思っている。)、今回の改正で、脳死は人の死と定義されたかのような報道がなされていることから、この点について少々コメントをしたいのである。

 新聞やテレビの報道だけを見ていると、どの部分の改正が「脳死は人の死」と定義したのかがよくわからない。そこで改正案を実際に見ると、問題の改正案は、明確に「脳死を人の死とする。」という定義規定が設けられたわけではなく、どうも臓器移植法6条2項の改正が問題となっているのだと思われる。
 臓器移植法6条2項は、これまでは次のとおりであった。

「前項に規定する「脳死した者の身体」とは、その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定されたものの身体をいう。」

 この規定のうち、改正案は、

「その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって」

という部分が削除されることとなっている。この改正により、これまでは「脳死」は臓器摘出のための場合だけに適用されていたものが、移植のための臓器摘出の目的以外でも「脳死」とされることとなったということなのだろうと思われる。
 「脳死した者の身体」についての規定について、わざわざ「移植のための臓器摘出」の目的を削除するということは、確かに一般的に脳死を人の死とすることを目的としているようにも読み取れる。しかも、参議院では、この6条2項の削除の改正部分をなくした「修正A案」というものも付議されたようで、この「修正A案」は反対多数で否決されたとのことである。そうなると、一般的に脳死を人の死とする立法意思がかなり強いともいえそうである。
 もしそうだとすると、終末医療の現場で、たとえ本人や家族が治療の継続を望んでも、脳死という医者だけの判断で治療を終えてしまってもよいということになるのであろうか。そこまで極端なことではなくても、いわゆる尊厳死のようなものを想定しているのかもしれない。しかし、もしそうだとすると、臓器移植法の改正で、臓器の摘出とは無関係にこのような延命治療の中止の可能性を認めてしまうような改正が行われたことになるが、臓器移植法1条記載の「臓器を死体から摘出すること」及び「臓器売買等を禁止すること」を規定することにより「移植医療の適正な実施に資すること」を目的とした臓器移植法の趣旨とはかなり異質な改正をしたといわざるを得ないだろう。「ごまかし」のための改正といわれても仕方がないのではないか。
 我々法律家の分野を見ても、人の死が何時かというのは、私法では相続の順序等で問題になりうるし、刑法では殺人罪と死体損壊罪の境界問題となる。これらの解釈に影響を及ぼすのであろうか。

 私は、今般の臓器移植法の改正でも、脳死は臓器移植の目的の場合だけしか適用しないものと解釈すべきだと思っている。その理由は、臓器移植法6条3項、4項にある。
 6条3項も改正の対象となっているが、同項冒頭の「臓器の摘出に係る前項の判定は、」という部分に改正はない。4項も「臓器の摘出に係る第二項の判定は、」となっている。
 つまり、2項で「脳死した者の身体」についての定義を「脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定されたものの身体をいう。」と規定し、これを受けて脳死判定ができる場合を3項で、脳死判定の方法を4項で規定しており、その3項や4項の冒頭に、「臓器の摘出に係る前項の判定は、」(3項)、「臓器の摘出に係る第二項の判定は、」(4項)としているのである。
 これらの規定は、読みようによっては、「臓器の摘出にかかる判定」の場合以外の脳死判定がありうることを前提に、「臓器の摘出にかかる判定」についてのみ、3項、4項の規定に従うべきことを規定した条文とも読めないわけではないが、そうではなく、「臓器の摘出にかかる判定」の場合に限って、3項、4項の規定に従った脳死判定を認めた規定と読むべきだと思う。そうでないと、「臓器の摘出にかかる判定」の場合以外の、たとえば延命治療中止のための脳死判定の場合は、任意の方法でよいということになると、臓器摘出の目的があるか否かにかかわらず、同じ人の脳死の判断のはずなのに、臓器移植法に基づく厳格な方法とそうではない任意の方法が存在することになるが、なぜ臓器移植の場合だけ厳格な方法で脳死判定をするのかの説明がつかなくなるからである。単に延命治療を中止する場合より、臓器摘出の場合はより厳格な脳死判定をすべき(厳格な手続きを踏むだけ任意の脳死判断より死の判定が遅くなる可能性が高くなるはずであり、変な言い方ではあるが、摘出臓器の「鮮度」が少しでも落ちるであろう)理由は、おそらく存在しないと思う。
 以上のことから、「臓器の摘出に係る前項の判定は、」(3項)、「臓器の摘出に係る第二項の判定は、」(4項)とあるのは、臓器摘出の場合しか脳死判定を認めない趣旨と理解すべきだと思うのである。
 もしそうだとすると、臓器摘出以外の場合も「脳死は人の死」と言ってみても、意味がないことになる。その結果、脳死は臓器移植の目的の場合だけしか適用しない、あるいは適用できないと解釈すべきだと思うのである。

 脳死が人の死かどうかというのは、生命倫理あるいは生命科学上の大問題だと思われる。それを、法律の規定で軽々に「脳死は人の死」と決めつけるべきではないと思う。私は、法がなしうることには限界があるのであって、「脳死が人の死」かどうかは、基本的には生命倫理、生命科学に任せるべきで、法はこれらに対して中立であるべきだと思うのである。やや大げさにいえば、科学に対して法が介入するのは、ある意味でガリレオの宗教裁判に通じる恐れを感じざるを得ない。ただ、現段階では臓器移植というごく限られた範囲内で例外的に厳格な手続きで脳死判定を認めたのが、臓器移植法6条だと理解すべきだと思うのである。
 脳死判定の安易な拡大解釈には、私は警戒をすべきだと思っている。

債権譲渡の第三者対抗要件は到達時?(3)

2009-07-13 15:17:54 | 債権総論
 つづきです。

 前回説明した到達時説に対し、確定日付説を採用すれば、債務者は何らの記録をする必要もなく、到達した譲渡通知に付された確定日付を見比べさえすれば、どの譲渡が優先するかは、一目瞭然である。面倒くさがり屋の債務者には、確定日付説の方が便利に思うのではないだろうか。
 もっと言えば、到達時説を採った場合に、どの譲渡通知が最初に到達したかについて、債務者が嘘をついたらどうするのか。教科書的な説明では、債権者が誰かについて利害関係のない債務者は嘘をつかないだろうという前提のもとに、到達時説が成り立っているように思われるが、後に述べるように、果たしてこのような性善説が成り立つかどうか……。

 もっとも、実務家であれば、債務者の嘘は、すぐに暴けると思うはずである。なぜなら、通常の債権譲渡通知は、内容証明郵便で行い、その通知が債務者に配達されれば、いつ配達されたかが記載された配達証明書が、郵便局から通知人に配達されるからである。その配達証明書を見比べれば、どの債権譲渡通知が最初に配達されたかは、一目瞭然となるのである。結局、実務的には、配達証明書がいつ到達したかの証明手段となっており、債務者が嘘をつくかどうかは、あまり関係がない。実務家にすれば、実に当たり前のことである。
 が、しかし、配達証明書の制度は、民法上の確定日付の制度とは別物であることは明らかで、少なくとも民法上の制度ではないことは間違いがないのである。特に郵政民営化後の配達証明書は、純然たる私文書でしかないのではないだろうか。
 そもそも、内容証明郵便が確定日付となる根拠は、郵政民営化後は民法施行法5条6号にある。ちなみに、同条6号は、郵政民営化に伴う改正で追加された号であり、それまでは内容証明郵便は同条5号に該当していたようである(さらに言えば、郵政公社の時代は、5号の「官庁又ハ公署」の後に、「(郵政公社ヲ含ム)」という括弧書が挿入されていた。)。
 より具体的には、郵政民営化前は、郵政省(あるいは郵政公社)という官署たる郵便局が、私書証書たる郵便物(内容証明郵便)に発送の事実を記入し、これに日付を記載していたことから、民法施行法5条5号上、確定日付と扱われたのであり、配達証明書との関連は全くない。民営化後も、郵便認証司が郵便法58条1号に規定する内容証明郵便の取り扱いに係る認証をした時に記載する日付が確定日付となるが(民法施行法5条6号)、郵便法58条1号には、配達証明書のことは何らの定めもされていない。
 以上のとおり、配達証明書は民法上のものではなく、民法の建前からすれば、あくまでも事実上の制度でしかなく、しかも、民営化後の配達証明書は単なる私文書でしかなさそうなのである。当然、現在の実務において、配達証明書に郵便認証司による認証はなされていない。仮に、このような配達証明書の存在をもって、到達時説を担保しているとすると、第三者対抗要件という民法上の重要な制度を、法が要求している確定日付とは無関係の配達証明書という事実上の制度が支えているということになってしまう。
 また、以上のとおりだとすると、法がなぜ確定日付を要求したのかが、よく分からなくなってしまう。立法趣旨として、よく、意思表示がなされた日を遡らせないためだという説明がなされているようである。が、到達時説を採る限り、債権譲渡の意思表示をいつしかたは全く重要ではなく、その意思表示がいつ債務者に到達したかが重要なのであるから、この立法趣旨は十分な説明になっていないと思われる。別の言い方をすれば、到達時説を前提に、今の実務の取扱いに不都合ないといえるならば、確定日付を必要としない立法を採用しても、おそらく不都合はないといえそうなのである。それだけ、確定日付が無意味化していると思われるである。

 つづく。

債権譲渡の第三者対抗要件は到達時?(2)

2009-07-08 15:15:28 | 債権総論
 債権譲渡の対抗要件に関する続きです。

 債務者の立場に立って時間を追って再度説明すると、債務者に対し、債権譲渡通知が一通到達すれば、たとえ他の債権譲渡の存在を債務者自らが知っていたとしても、唯一対抗要件を備えたその通知書記載の譲受人を債権者と考えればそれだけでよいのである。その後に第二の債権譲渡通知が到達した場合に、はじめて第三者対抗要件の具備を考慮すればよいのであって、この段階になってはじめて確定日付の存否が問題となり、さらに確定日付説か到達時説かが問題となるのである。この第二の債権譲渡通知が到達する前に債務者が唯一の債権譲渡通知記載の譲受人に弁済したとすれば、その弁済は完全に有効な弁済であり、債権は確定的に消滅する。もっといえば、このことは唯一の債権譲渡通知に確定日付が存在するか否かに関わらないのである。なぜなら、通知がありさえすれば債務者対抗要件は間違いなく備わっているからである。唯一の債権譲渡通知記載の譲受人に弁済した後に第二の債権譲渡通知が債務者に到達しても、もはや存在しない債権の譲渡通知でしかないのである。
 以上のとおりなので、確定日付説不採用の理由として、債務者に不測の損害が生じるといったような言い方をする教科書の説明は、決して納得できない。

 また、到達時説を採用すると、たとえどんなにわずかであっても債務者に余計な手間をかけさせることになりかねない。
 どういうことかというと、債務者の手元に複数の債権譲渡通知が届いた場合に、到達時説を採用すると、債務者はどの債権譲渡通知が最初に届いたかを記憶しておく必要があり、記憶力に自信がなければ、たとえどんなに簡単でも何らかの記録を残す必要がある。債務者が会社のような組織となっていれば、必ず記録を残す必要が出てくるであろう。
 さらにいうと、実務的には債権譲渡の撤回通知というのが行われる場合がある。これは、債権の譲渡人と譲受人との間で、事後的に何らかの話し合いがなされて、債権譲渡の原因となる事情が解決した場合などに行われる。法的には、債権譲渡契約の合意解除とその通知ということになろう。仮に、複数の債権譲渡通知がなされた後、最初に到達していた譲渡通知に関してこの撤回通知がなされると、その次に到達していた譲渡通知が対抗要件を備えることになると思われる。このような実務的な事情を考えると、債務者の立場では、最初に到達した債権譲渡通知がどれかだけを記憶・記録しておけばよいというものでもなく、複数の債権譲渡通知が届いた場合は、念のため全ての通知について、どの順序で到達したかを記憶・記録しておく必要が出てくると思われるのである。
 わずかなことではあるが、債務者にとって手間のかかることであることは間違いがないと思われるのである。債務者のあずかり知らぬところで行われる債権譲渡について、たとえわずかでも債務者の手間を増やすというのは、債務者にとっては迷惑なことのような気もする。
 
 さらにつづく。

フランチャイズ契約と優越的地位の濫用

2009-07-04 03:20:59 | 時事
 時事的問題を一つ。

 最近,大手コンビニエンスストアの本部が加盟店に見切り販売を認めてこなかったことに対し,公正取引員会が優越的な地位の濫用を理由に排除命令を出したが,この件について,7月3日の日本経済新聞の夕刊に「消費者重視へ新解釈?」という見出しで記事が載っていた。
 この記事の趣旨は,価格に関する独占禁止法違反問題は,「再販売価格の拘束」や「拘束条件付取引」という2つの不公正な取引方法に照らして判断するのが一般的で,「優越的地位の濫用」を理由に価格の問題を取り扱うのは,消費者重視への姿勢が求められる中での公正取引委員会による新解釈ではないか,という趣旨で読んだが,そういうことであろうか。
 しかし,調べてみると,公正取引委員会では,昭和58年に「フランチャイズ・システムに関する独占禁止法上の考え方について」という指針を公表しており,これが平成14年に改定されている。この平成14年の改定の際に,見切り販売の制限が優越的地位の濫用に当たりうることを,すでに公表している。したがって,今回の排除命令は,新解釈というよりは,この平成14年に改定された指針の初適用ということになりそうである。

 この件で,コンビニエンスストア本部は,加盟店に対する関係で自身が優越的地位にあることそのものを否定しているようである。しかし,個々の加盟店そのものは,非常に中小の小売店であり,通常は全面的に本部に依存した経営をせざるを得ないものと思われるので,本部に優越的地位があることは否定しがたい場合は多いであろう。
 もっとも,だからといって,見切り販売の制限が優越的地位の濫用を理由に排除しなければならないかどうかは,なかなか難しい。
 私のイメージからすると,フランチャイズのシステムは,個々の加盟店は本部とは別組織になっているとはいえ,加盟店はすべて同じ商号や商標を用い,ほとんど同じブランドの商品を取り扱う。そのため,同じフランチャイズの店舗であれば,一種の支店のように見える。このような仕組みが顧客の便宜にもなっていると思われる。スーパーや百貨店をイメージすれば,どの支店に入っても,同じ商品,同じ価格で購入できるというのと同じである。したがって,フランチャイズシステムを維持するには,小売りの販売価格も加盟店ごとにある程度統一しておくことが必要となってくるであろし,それが顧客の便宜でもあると思われる。
 以上の見方が仮に正しいとした場合,加盟店の見切り販売を認めるかどうかも,ある程度統一しておいた方が,店舗イメージや販売方針からして望ましいような気がするのである。
 見切り販売は,売れ残りを最小限にとどめるという意味で,効率的な販売方法かもしれないが,値崩れを起こす可能性(見切り販売が始まる時間帯まで,商品が売れないという現象)もあるので,経営側の判断として,見切り販売を認めた方がいいとは必ずしもいえず,結局は経営判断の問題になる。そして,今回排除命令を受けたコンビニエンスストア本部は,見切り販売を認めない方が利益になると考えていたということになるのであろう。
 もし,このように考えられるとすると,本部が見切り販売の制限をしたことそのものに問題があると考えるよりは,売れ残った商品の廃棄による原価相当の損害(廃棄ロス)を加盟店がすべて負担しなければならない仕組みの方に問題があると考えるべきではないだろうか。

 公表されている上記排除措置の概要をみると,その内容の一つとして,本部は,加盟者が行う見切り販売の方法等についての加盟者向け及び従業員向けの資料の作成をしなければならないこととなっている。
 この排除命令は,個々の加盟店の判断で見切り販売を認めなければならないことが前提となっているように読める。しかし,上記排除命令に記載されている違反行為の概要でも指摘しているように,「加盟店で廃棄された商品の原価相当額の全額が加盟者の負担となる仕組みの下で」の見切り販売の制限が問題なのであるから,原価の一定程度を本部が負担するような仕組みにすればよいのであって(排除命令がなされた翌日に,コンビニエンスストア本部は,15パーセントの廃棄ロス負担を公表している。もちろん,その負担割合が妥当かどうかは難しい問題ではある。),加盟店の判断で必ず見切り販売を認めなければならない排除措置命令だとすると,やや介入のしすぎのような気がしている。

 日本経済新聞の記事は,見切り販売を認めることによって,値引きされた商品を購入できる消費者の利益につながることを考えているのかもしれない。それが「消費者重視へ新解釈?」という見出しとなっているのかもしれない。
 しかし,見切り販売をすべきかどうかは,一次的には市場原理に任せておけばよいのであって,基本的には法が介入する場面ではない。市場原理のもとでの需要と供給の一致点が,生産者余剰と消費者余剰の和を最大とし,最も効率的な市場となることは,経済原理の基本中の基本である。別の言い方をすれば,見切り販売を強制することによって,供給者側の利益がなくなるような事態が生じる可能性もあるわけで,そうなると供給者側は一日で商品価値がなくなるような食品類を市場に供給しなくなるという事態も想定し得ないわけではないのである。もし,このような事態になれば,需要はあるのに供給されないという現象が起こりうるのであり,そうなっては消費者利益どころではない。

 そもそも独占禁止法の理念は,市場の私的独占等による市場原理の失敗を排除し,効率的な市場に戻すことが,根本的な理念だったはずである。
 なぜこのようなちぐはぐなことになってくるかというと,不公正な取引方法の規制についての独占禁止法上の位置づけに問題があるともいえそうなのである。つまり,不公正な取引方法は,必ずしも市場の失敗を前提とはしていない(市場の失敗とは無関係)といわれている側面があるようで,そのことと関係しているのではないかと思われるのである。つまり,優越的な地位を濫用して不公正な取引方法がなされていたとしても,あくまでもそれは供給者側内部の問題であり,需要と供給のバランスそのものが崩れているわけではない可能性がある。実は,今回の問題はまさにこの点に直接のかかわりがあるのではないかと思うのである。コンビニエンスストア本部と加盟店との取引の正常化は仮に行うべきとしても,そのことをもって,かえって市場を歪めるようなことになってはいけないのである。市場を歪めない程度の排除措置でなければならないのである。それは,今回の件でいえば,見切り販売の強制ではなく,コンビニエンスストア本部が公表したように,廃棄ロスを本部も負担する(その割合をどうするかが難しいことは,すでに述べた通りではあるが。)ことで済むはずである。

 私は,独占禁止法はそれほど詳しくは知らない。しかし,経済学の本は時々読むことがあるので,標準的な弁護士よりは,経済原理を知っているつもりである。公正取引委員会は,何をどこまで意識して排除命令を出したであろうか。

債権譲渡の第三者対抗要件は到達時?(1)

2009-07-03 16:56:04 | 債権総論
 債権譲渡の第三者対抗要件は、確定日付のある証書による通知または承諾である。ここで、対抗力を備える日について、確定日付説と到達時説とが対立し、到達時説が判例・通説とされる。結論として、到達時説を採用することに対し、直ちに異議があるわけではない。が、なぜ確定日付説に問題があるかについて、教科書的に一般に言われる説明が、私にはどうしても納得できない。
 教科書的には一般に、確定日付説の問題点として、第一譲渡に関する債権譲渡通知に付される確定日付が、第二譲渡に関する債権譲渡通知に付される確定日付よりも先ではあるが、債務者への到達が第二譲渡に関する債権譲渡通知が先であった場合に、確定日付説では後から到達する第一譲渡に関する債権譲渡が対抗要件を備えるのに、債務者はその前に第二譲受人に弁済してしまいかねないため、確定日付説では債務者が不測の損害を被りかねない、という趣旨の説明がなされる。
 しかし、この説明は、どう考えてもおかしいとしか思えない。なぜなら、もし第二譲渡に関する通知が先に債務者に届き,第一譲渡に関する通知が債務者に届く前は、そもそも第一譲渡に関して債務者対抗要件すら備わっていないのである。したがって、この段階では、債務者としては、極端にはたとえ第一譲渡の存在を知っていたとしても、通知が届かない限り、これを無視して、第二譲渡に関する通知が届いた段階で,第二譲受人に対して弁済してしまってかまわないはずなのであり、この弁済が当然に有効な弁済となり、債権債務は完全に有効に消滅するはずなのである。このことは、確定日付説を採るか、到達時説を採るかの問題以前のことのはずなのである。その後に別の債権譲渡通知が到達したとしても,もはや債務者にとっては存在しない債権の譲渡でしかないのである。
 以上のことは、条文の構造上も当然だと思われる。民法467条1項で債務者対抗要件としての通知または承諾について規定し、その2項で、この債務者対抗要件としての通知または承諾が確定日付のある証書であることが、第三者対抗要件となっているからである。債務者対抗要件を備える前に(つまり、通知または承諾の表示が相手方に到達する前ということになるはずである)、第三者対抗要件が備わることは、条文の構造上あり得ないのである。従って,第二譲渡に関する債権譲渡通知のみが届いた時には,債務者は第二譲受人のみを真の債権者として扱わざるをえない。債務者は第一譲渡は無視できるというだけではなく,無視しなければならないのである。

 つづく