今日、二度目のアップです。
本日、参議院の本会議で、いわゆる臓器移植法の改正案が可決され、成立したとのことである。いわゆるA案の改正案の成立である。
改正の主目的は、家族の同意だけで脳死者からの臓器提供ができるようにすることと、15歳未満の脳死者からも臓器提供ができるようにすることが、主眼のようである。
これまで、15歳未満の人は臓器提供の意思表示ができないという理由で、臓器提供ができないでいたのであるが、実は、臓器移植法にはそのようなことは何ら規定していない。政令や規則にも存在せず、単に厚生労働省のガイドラインによる運用によって、遺言可能年齢を考慮して15歳以上の者の臓器提供の意思表示のみを有効として扱うこととされていたにすぎない。このことは、一般には意外に知られていないことではないだろうか。今般の改正で15歳未満の脳死者からも臓器提供ができるようになる理由は、本人の意思が明確でない場合は、家族の意思だけで臓器提供ができるようになるためである。
私は、上記の部分についての法改正の当否を問題としたいのではなく(ただし、個人的にはやや拙速な改正のようには思っている。)、今回の改正で、脳死は人の死と定義されたかのような報道がなされていることから、この点について少々コメントをしたいのである。
新聞やテレビの報道だけを見ていると、どの部分の改正が「脳死は人の死」と定義したのかがよくわからない。そこで改正案を実際に見ると、問題の改正案は、明確に「脳死を人の死とする。」という定義規定が設けられたわけではなく、どうも臓器移植法6条2項の改正が問題となっているのだと思われる。
臓器移植法6条2項は、これまでは次のとおりであった。
「前項に規定する「脳死した者の身体」とは、その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定されたものの身体をいう。」
この規定のうち、改正案は、
「その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって」
という部分が削除されることとなっている。この改正により、これまでは「脳死」は臓器摘出のための場合だけに適用されていたものが、移植のための臓器摘出の目的以外でも「脳死」とされることとなったということなのだろうと思われる。
「脳死した者の身体」についての規定について、わざわざ「移植のための臓器摘出」の目的を削除するということは、確かに一般的に脳死を人の死とすることを目的としているようにも読み取れる。しかも、参議院では、この6条2項の削除の改正部分をなくした「修正A案」というものも付議されたようで、この「修正A案」は反対多数で否決されたとのことである。そうなると、一般的に脳死を人の死とする立法意思がかなり強いともいえそうである。
もしそうだとすると、終末医療の現場で、たとえ本人や家族が治療の継続を望んでも、脳死という医者だけの判断で治療を終えてしまってもよいということになるのであろうか。そこまで極端なことではなくても、いわゆる尊厳死のようなものを想定しているのかもしれない。しかし、もしそうだとすると、臓器移植法の改正で、臓器の摘出とは無関係にこのような延命治療の中止の可能性を認めてしまうような改正が行われたことになるが、臓器移植法1条記載の「臓器を死体から摘出すること」及び「臓器売買等を禁止すること」を規定することにより「移植医療の適正な実施に資すること」を目的とした臓器移植法の趣旨とはかなり異質な改正をしたといわざるを得ないだろう。「ごまかし」のための改正といわれても仕方がないのではないか。
我々法律家の分野を見ても、人の死が何時かというのは、私法では相続の順序等で問題になりうるし、刑法では殺人罪と死体損壊罪の境界問題となる。これらの解釈に影響を及ぼすのであろうか。
私は、今般の臓器移植法の改正でも、脳死は臓器移植の目的の場合だけしか適用しないものと解釈すべきだと思っている。その理由は、臓器移植法6条3項、4項にある。
6条3項も改正の対象となっているが、同項冒頭の「臓器の摘出に係る前項の判定は、」という部分に改正はない。4項も「臓器の摘出に係る第二項の判定は、」となっている。
つまり、2項で「脳死した者の身体」についての定義を「脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定されたものの身体をいう。」と規定し、これを受けて脳死判定ができる場合を3項で、脳死判定の方法を4項で規定しており、その3項や4項の冒頭に、「臓器の摘出に係る前項の判定は、」(3項)、「臓器の摘出に係る第二項の判定は、」(4項)としているのである。
これらの規定は、読みようによっては、「臓器の摘出にかかる判定」の場合以外の脳死判定がありうることを前提に、「臓器の摘出にかかる判定」についてのみ、3項、4項の規定に従うべきことを規定した条文とも読めないわけではないが、そうではなく、「臓器の摘出にかかる判定」の場合に限って、3項、4項の規定に従った脳死判定を認めた規定と読むべきだと思う。そうでないと、「臓器の摘出にかかる判定」の場合以外の、たとえば延命治療中止のための脳死判定の場合は、任意の方法でよいということになると、臓器摘出の目的があるか否かにかかわらず、同じ人の脳死の判断のはずなのに、臓器移植法に基づく厳格な方法とそうではない任意の方法が存在することになるが、なぜ臓器移植の場合だけ厳格な方法で脳死判定をするのかの説明がつかなくなるからである。単に延命治療を中止する場合より、臓器摘出の場合はより厳格な脳死判定をすべき(厳格な手続きを踏むだけ任意の脳死判断より死の判定が遅くなる可能性が高くなるはずであり、変な言い方ではあるが、摘出臓器の「鮮度」が少しでも落ちるであろう)理由は、おそらく存在しないと思う。
以上のことから、「臓器の摘出に係る前項の判定は、」(3項)、「臓器の摘出に係る第二項の判定は、」(4項)とあるのは、臓器摘出の場合しか脳死判定を認めない趣旨と理解すべきだと思うのである。
もしそうだとすると、臓器摘出以外の場合も「脳死は人の死」と言ってみても、意味がないことになる。その結果、脳死は臓器移植の目的の場合だけしか適用しない、あるいは適用できないと解釈すべきだと思うのである。
脳死が人の死かどうかというのは、生命倫理あるいは生命科学上の大問題だと思われる。それを、法律の規定で軽々に「脳死は人の死」と決めつけるべきではないと思う。私は、法がなしうることには限界があるのであって、「脳死が人の死」かどうかは、基本的には生命倫理、生命科学に任せるべきで、法はこれらに対して中立であるべきだと思うのである。やや大げさにいえば、科学に対して法が介入するのは、ある意味でガリレオの宗教裁判に通じる恐れを感じざるを得ない。ただ、現段階では臓器移植というごく限られた範囲内で例外的に厳格な手続きで脳死判定を認めたのが、臓器移植法6条だと理解すべきだと思うのである。
脳死判定の安易な拡大解釈には、私は警戒をすべきだと思っている。
本日、参議院の本会議で、いわゆる臓器移植法の改正案が可決され、成立したとのことである。いわゆるA案の改正案の成立である。
改正の主目的は、家族の同意だけで脳死者からの臓器提供ができるようにすることと、15歳未満の脳死者からも臓器提供ができるようにすることが、主眼のようである。
これまで、15歳未満の人は臓器提供の意思表示ができないという理由で、臓器提供ができないでいたのであるが、実は、臓器移植法にはそのようなことは何ら規定していない。政令や規則にも存在せず、単に厚生労働省のガイドラインによる運用によって、遺言可能年齢を考慮して15歳以上の者の臓器提供の意思表示のみを有効として扱うこととされていたにすぎない。このことは、一般には意外に知られていないことではないだろうか。今般の改正で15歳未満の脳死者からも臓器提供ができるようになる理由は、本人の意思が明確でない場合は、家族の意思だけで臓器提供ができるようになるためである。
私は、上記の部分についての法改正の当否を問題としたいのではなく(ただし、個人的にはやや拙速な改正のようには思っている。)、今回の改正で、脳死は人の死と定義されたかのような報道がなされていることから、この点について少々コメントをしたいのである。
新聞やテレビの報道だけを見ていると、どの部分の改正が「脳死は人の死」と定義したのかがよくわからない。そこで改正案を実際に見ると、問題の改正案は、明確に「脳死を人の死とする。」という定義規定が設けられたわけではなく、どうも臓器移植法6条2項の改正が問題となっているのだと思われる。
臓器移植法6条2項は、これまでは次のとおりであった。
「前項に規定する「脳死した者の身体」とは、その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定されたものの身体をいう。」
この規定のうち、改正案は、
「その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって」
という部分が削除されることとなっている。この改正により、これまでは「脳死」は臓器摘出のための場合だけに適用されていたものが、移植のための臓器摘出の目的以外でも「脳死」とされることとなったということなのだろうと思われる。
「脳死した者の身体」についての規定について、わざわざ「移植のための臓器摘出」の目的を削除するということは、確かに一般的に脳死を人の死とすることを目的としているようにも読み取れる。しかも、参議院では、この6条2項の削除の改正部分をなくした「修正A案」というものも付議されたようで、この「修正A案」は反対多数で否決されたとのことである。そうなると、一般的に脳死を人の死とする立法意思がかなり強いともいえそうである。
もしそうだとすると、終末医療の現場で、たとえ本人や家族が治療の継続を望んでも、脳死という医者だけの判断で治療を終えてしまってもよいということになるのであろうか。そこまで極端なことではなくても、いわゆる尊厳死のようなものを想定しているのかもしれない。しかし、もしそうだとすると、臓器移植法の改正で、臓器の摘出とは無関係にこのような延命治療の中止の可能性を認めてしまうような改正が行われたことになるが、臓器移植法1条記載の「臓器を死体から摘出すること」及び「臓器売買等を禁止すること」を規定することにより「移植医療の適正な実施に資すること」を目的とした臓器移植法の趣旨とはかなり異質な改正をしたといわざるを得ないだろう。「ごまかし」のための改正といわれても仕方がないのではないか。
我々法律家の分野を見ても、人の死が何時かというのは、私法では相続の順序等で問題になりうるし、刑法では殺人罪と死体損壊罪の境界問題となる。これらの解釈に影響を及ぼすのであろうか。
私は、今般の臓器移植法の改正でも、脳死は臓器移植の目的の場合だけしか適用しないものと解釈すべきだと思っている。その理由は、臓器移植法6条3項、4項にある。
6条3項も改正の対象となっているが、同項冒頭の「臓器の摘出に係る前項の判定は、」という部分に改正はない。4項も「臓器の摘出に係る第二項の判定は、」となっている。
つまり、2項で「脳死した者の身体」についての定義を「脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定されたものの身体をいう。」と規定し、これを受けて脳死判定ができる場合を3項で、脳死判定の方法を4項で規定しており、その3項や4項の冒頭に、「臓器の摘出に係る前項の判定は、」(3項)、「臓器の摘出に係る第二項の判定は、」(4項)としているのである。
これらの規定は、読みようによっては、「臓器の摘出にかかる判定」の場合以外の脳死判定がありうることを前提に、「臓器の摘出にかかる判定」についてのみ、3項、4項の規定に従うべきことを規定した条文とも読めないわけではないが、そうではなく、「臓器の摘出にかかる判定」の場合に限って、3項、4項の規定に従った脳死判定を認めた規定と読むべきだと思う。そうでないと、「臓器の摘出にかかる判定」の場合以外の、たとえば延命治療中止のための脳死判定の場合は、任意の方法でよいということになると、臓器摘出の目的があるか否かにかかわらず、同じ人の脳死の判断のはずなのに、臓器移植法に基づく厳格な方法とそうではない任意の方法が存在することになるが、なぜ臓器移植の場合だけ厳格な方法で脳死判定をするのかの説明がつかなくなるからである。単に延命治療を中止する場合より、臓器摘出の場合はより厳格な脳死判定をすべき(厳格な手続きを踏むだけ任意の脳死判断より死の判定が遅くなる可能性が高くなるはずであり、変な言い方ではあるが、摘出臓器の「鮮度」が少しでも落ちるであろう)理由は、おそらく存在しないと思う。
以上のことから、「臓器の摘出に係る前項の判定は、」(3項)、「臓器の摘出に係る第二項の判定は、」(4項)とあるのは、臓器摘出の場合しか脳死判定を認めない趣旨と理解すべきだと思うのである。
もしそうだとすると、臓器摘出以外の場合も「脳死は人の死」と言ってみても、意味がないことになる。その結果、脳死は臓器移植の目的の場合だけしか適用しない、あるいは適用できないと解釈すべきだと思うのである。
脳死が人の死かどうかというのは、生命倫理あるいは生命科学上の大問題だと思われる。それを、法律の規定で軽々に「脳死は人の死」と決めつけるべきではないと思う。私は、法がなしうることには限界があるのであって、「脳死が人の死」かどうかは、基本的には生命倫理、生命科学に任せるべきで、法はこれらに対して中立であるべきだと思うのである。やや大げさにいえば、科学に対して法が介入するのは、ある意味でガリレオの宗教裁判に通じる恐れを感じざるを得ない。ただ、現段階では臓器移植というごく限られた範囲内で例外的に厳格な手続きで脳死判定を認めたのが、臓器移植法6条だと理解すべきだと思うのである。
脳死判定の安易な拡大解釈には、私は警戒をすべきだと思っている。