身内に不幸があり
ちょっとバタバタしています。
自分は、いろんな人にお世話になったり、
心配かけたり迷惑かけたり、
気にかけてもらったり。
今も、そしてこれからも・・・。
そんなことが想われるこの頃です。
身内に不幸があり
ちょっとバタバタしています。
自分は、いろんな人にお世話になったり、
心配かけたり迷惑かけたり、
気にかけてもらったり。
今も、そしてこれからも・・・。
そんなことが想われるこの頃です。
春。
旅立ちのときですね。
お隣りの青年が、巣立っていったそうです。
私がここに越してきたときは、まだあどけない小学生。
それが、筍のようにグングン背が伸び、
たくましく爽やかな若者に。
行ってしまうのは残念な気もするけれど、
あのコならきっと、周りに爽やかな風をもたらしていくことでしょう。
いってらっしゃい 元気でね
社会に出て行くと、タイヘンなことにも出会うでしょうが、
陰ながら応援しているおばさんが、
ここにもいますよ。
この連翹(レンギョウ)を撮った日は、
どんよりとした曇り空。
なのに、
ある建物に近づいたとき、この辺りだけパ~ッと明るいんですよ。
なんだかハッとしたほど。
まるで連翹が光をはなっているかのようでした。
彼もきっと、この連翹のように――。
5日におしゃべりした、サンデル先生の番組、
ほかにも感じたことは いくつもあるんですが、
その一つに、話すペース があるんです。
ひと言ひと言、とても丁寧にゆっくり、間をおきながら話しておられるようですね。
そして、一語一語を大切に、じっくりと話される感じ。
なので、分かりやすく、充分に伝わってくるんです。
よく、特に専門家の方では流暢にペラペラと話す方がおられて、
一見カッコ良く見えたりもするけれど、
こちらは素人。話を理解しながら付いてくのに必死だったり。
ご自分が伝えたいことを話したい、という気持ちも分かりますが、
「分かりやすく、伝わりやすいように」という視点をもってくれたらなぁ、
って思っちゃうんですけどね。
こういうことって、人によって感じ方や考え方など様々でしょうけど、
少なくとも、「多くの人に伝えたい」という場合には、
「日本語が分かる人なら、義務教育を終えたくらいの人なら
誰でもスッと理解できて」分かるように話す、
というような視点ももってもらえたらなぁ、って思ったりしますね。
と同時に、自分が人に話すときには、
「この人にスッと伝わるように」っていう視点があるか、
心しておきたい、って思いました。
6日の『天声人語』は、グッときました。冒頭から最後の結論まで。
「 人はごく狭い知見や印象で全体を語りがちだ。 」
これなんですよね。。
最近読んだ文章で、まさにそういうものがあった。
ごくごく一面しか見ていないにもかかわらず、
全体を掌握しているかのように、上手に(!)書いてある。
しかも、昔々の話を、今も続いているかのように言っていたり。
人の話を聴いたり、読んだりする時には、
そんなこともあるかも、って
よほど心しなければ、と思いましたね。
この頃、この小さなblogは、さらに小さくなってきたような。。
ご無沙汰です。
netでは、他のところ(いくつも)で話を聴いたり発信したりで
終わっちゃうんです。
そんな中で、発見がいくつも。
自分としては、しばらく考えちゃってたようなことも、
フッと出してみたことで、
相手が感じたこと、思ったこと言ってもらって、
(それ、多少ポイントがズレてたにもかかわらず)、
その問題は、ほとんど気にならなくなっちゃったり。
また、なりゆきで自分のこと出したら、色々言ってもらえて、
自分の中で、堂々巡りしている実態が浮き彫りに。
自分が、とか、ひとが、ということでなしに、
周りから見える客観的なことと、
自分の側から見えることって、
ほんっと違うことが よくあるなぁ、って改めて実感――。
きのうは、最高気温が1℃でした。
友だちに「も、寒すぎ~ 」って言ってしまった。
今日は、朝から雪。 今んとこ5cmくらいで、
こんな話、雪国の方には笑わますよね。
このblogをやっていると、
「一年前にあなたが書いた日記」というメールを送ってくれるんです。
それを読み返してみると、
へぇ、私って、こんなこと思って書いたんだー
と、チョッピリ俯瞰した観方ができたり、
ゼンゼン変わってない。 同んなじとこウロウロしてるやん。。
って思ったり、
結構おもしろい観方してるわねぇ~
って思ったり。
また、こんな拙いblogにも「イイネ☆」を付けてくださる方がいて、
それが意外な、小さなつぶやきに付いてたりして――。
(ありがとうございます )
やっぱりblogを書くって、
良いですね。
この頃つくづく思うこと、それは
『音声でも文字でも、話をする時は、まず事実(情報)を共有すること』の大切さ。
それを痛感することが、いくつかあったんです。
「送ったけど、届いたかしら? (読んでもらった?)」とか、
「この言葉って、ふつう◎△◆って意味で使うけど、どういうことなのかなぁ…?」とか、
まず確認して、初めて『会話』が成り立つんですね。
また、あるとき、
今後に繋げるために、あることを確認しようとしたら、
なんだか、どっちでも良いみたいな反応だった。
私って、余計なこと考えすぎかな――
でも、その時の情景を思い浮かべてみたら、
その人は、ちょっと慌しい雰囲気で、目の前の仕事に気がいっているようだった。
それで別の日に、ゆとりのありそうな時に改めて確認したら、
じっくりと打ち合わせ出来て、改善の方向に。
なので、
「今、忙しい? ちょっと確認したいことがあるんだけど、後にしましょうか?」
と、いま相手が聴ける状態か、一緒に考えたり出来る状況か、
を訊いてからにしたら良かったと反省。
そして、相手の反応をパッと見ただけで、
「ああ、これはこうなんだ」なんて推測しちゃいけないですね。
このごろ、いろんな場面で思うんですが、
その場の空気っていうのが、結構
自分に(それぞれに?)影響しているな、って。
空気がゼンゼン読めない、っていうのも困ることあるけど、
影響され、左右されちゃう、っていうのも・・・。
例えばね、ある話し合いで
『すごく活発に意見が出され、盛り上がって、こういうことで一致した』
という風に報告されることがしばしば。
でも、事実はその通りかどうか。
そしてちょっとカメラを引いてみたらどうか。
それは、もしかしたら、
そういう傾向の意見をもった人の集まりだったかもしれない。
また、
ある人の存在が大かったり、または話し方が上手かったりして、
違う意見の人がいても、それを出しにくかった、ということもあるかも。
色んな面から観ないと、客観的な事実は分からないですよね。
その、同じ話し合いに出席した人でも、
人によって、「いや、こうだったよ」と、全然ちがう報告を聞いたことも
しばしば。
とにかく、その場の空気に影響されたり、流されたりして、
左右されちゃう、
今は、まだそんな自分(たち?)であることを
とりあえず押さえておいたら良いんでしょうかね。
そしていつかは、鳥のように自由自在に飛び回れるように、
そんな自分になりたいナ。
こないだ、ある書き込みに目がいった。
うん、わかるわかるぅ~
そこから自分の体験を思い出して
裏付けしちゃったり。
ところが翌日、別の人のコメントがついて、
その二人が反応し合ううちに、
最初読んだ「事実」とはかなり違っていたらしいことが分かってきた。
おっと、あぶない、アブナイ。。
一面だけを見て反応していた自分が恥ずかしくなりました。
その二人は、コメントし合うことで気づきあって、育ち合い、
関わっていた もう一人も同様に。
それらを読ませてもらうこちらも、大事なことに改めて気づかせてもらった。
音声による会話や話し合いも、
文字によるものも、
パッとその瞬間だけでは把握しきれないことがよくある。
(もしかして、多くがそうなのかも )
なので、心していきたい。
その奥にあるものまで読み取ろうとしたり、
別の側の人の話を聞いたりなどして、
少なくとも、短絡的に判断したり、
一方的な観方になったりしないように――。
最近、ある出来事が。
Cさんに声かけられた時、
自分の思ったまんま、感じたあたりを、そのまま率直に伝えてみた。
どう展開するかは全く未知数でした。
でも結局、良い方向へ一歩進めることができた。
互いに心が近くなれた手ごたえも。
よかった~。
率直に言えば いつも成功する とは限らないよね。
そんなこと期待するのは甘い甘い。
でも、これまでの体験などから、
自分の感じた、その心の動きなど、
ありのまんまの事実・実態を、そのまま真っ直ぐに伝えさせてもらうと、
分かり合えることがよくある。
石橋を叩いて、無難なところへいったりしがちな自分は、
今回のことは、『日記に書いて』忘れずにいようと思ったんです。
Cさん、こんな自分ですが、これからもよろしくね。
あ、こういうの良いなぁ~ って思える言動に出会ったんです。
詳しく書くと長くなるんですが、、
同僚のY子さんは、しばらく不在になるので、
あることを私に頼んでくれて、私は快諾。
そのことをボードのメモで皆んなに伝えていってくれたんです。
これで「michiは、留守の人のとこ開けて、何しとるんやろ 」
なんて思う人はいなくなるはず。
こういう細やかな心配りが出来るって、
あったかくて素敵だな、って思ったんです。
こないだ、田んぼの中の農道を原付で通っていたときのことです。
あら、まぁ
目の前に、道幅いっぱいにトラックが停まってる。たぶん10t?
数人の方が農作業、何か積んだりしておられる。
どうしよう、、引き返すしかないよね・・・
と思っていたら、そのうちのお一人、若者がゼスチャーまじえて、
「ボクが替わりにバイクを通しましょう」
そう言って替わってくれた。
押して通るのもムリそうだし、いったいどうするの……?
と心配しながらバイクを渡すと、なんと、
乗ってエンジン調節しながら、そのまんま道の脇の草の上を通っていく
道じゃない所なので、すごいデコボコで 斜めだし 不安定。
すぐ下は田んぼ。
えっ、ウソッ だ、だいじょうぶ~?
思わず声に出してしまった。
一人騒いでいる間に、バイクはトラックのそばをすり抜け、
無事に通してくださった。
わ~、すごいっ
互いに笑顔で、
バイクを引き渡してもらったのでした。
よく思うけど、男の人って、
ビックリするようなことやってくれるんですよね。
重いコンテナ、私がやっとナントカ1つ持ち上げるようなものでも、
頼むと、3つくらい軽々と持ち上げてしまったり。
男の人って、やっぱ 頼もしい~
あとで思ったけど、
あの若者たちの、お茶の時間とかに
「あのおばさん、すごいビックリして騒いどったな 」
なんて笑われちゃったんじゃないかしらん。
アホな話題を一つ提供しちゃったかな。
ゆうべの
ETV特集「被災農家を救え~若きビジネスマンが挑んだ農業再生550日~」
「津波で潮をかぶった田畑で農業再開の支援を続ける西辻一真さん。復興行政の壁にもがき苦しみながら、農業再生を夢見る日々を追った1年半のドキュメント。」
――なんだか胸が熱くなりました。
どんな状況になっても誠実で、その時その時 懸命に取り組んでおられる。
そんな西辻さんの言動で、とても印象に残る場面が。
話し合いの席。
農家さんたち、生活かかってる訳で、切実、
も、必死。
ある農家さんの率直な発言があり、
西辻さん、じっと聴いてから、
「…僕にしてみたら、アレッ!? って感じなんですけど――」
人によったら、
「そんなの おかしい」とか言ってもおかしくない状況で、
彼の場合は、こういう言葉が出て来た。
「…僕にしてみたら、アレッ!? って感じなんですけど――」
批判とか理屈とかじゃなく、
『今の発言を聴いて、自分の中からは、こんな反応が出てきたんです。』
これは、まぎれもない事実、そのまんまですよね。
自分のふだんの会話でも、話し合いとかでも、
「ちょっと困惑してしまった…」
「私の心がとっても喜んでるのよ~ 」
こんな風にいきたいナ、って私は思いましたね。
口頭でも、メモやメールなどでも、
「これだけ言っておけば、わかるでしょう」と思っていたら、
チャンと伝わってなかった。
そんな経験、何度もしてきた。
「ちゃんと読んでよね~ 」という思いが出てきたりもするけど、
その人には伝わらなかった、というのは、事実なのよね。
実際には、そうだった、とキチンと受けとめようと思う。
で、逆の立場で自分にもそんな体験が時々。
問い合わせて、そのあと読み返してみたら、
「あら、ちゃんと書いてあったんだわ…」ってことも。
繰り返し読んだつもりでも、目に入っただけで、
理解・認識して脳に届くまではいかなかった、
ってこと、あるんですねぇ~。
(最近もあったんです。)
例えば大工さんて、木をカンナで削ると、いろんな角度から観て確かめ、
手で撫でて感触で確かめて、ってやりますよね。
自分の暮らしの中でも、いろんなモノ、じっくり観るだけじゃなくって、
角度を変えたり、
窓のそばなど明るい所へ行くと
観えるようになることってよくある。
何度確認したとしても、
「チャンと通じてないかもしれない」
「ホントに観れてないかも」みたいな、
『もう一つの目』を
持っていたい、って思うんです。
感じ方や考え方も、そう。
たとえ「ああ、情けない・・・」なんて思ったとしても、
ふと、
「でもさぁ、こういうの なんも感じない人も いるよねぇ」
「却って『よぉ~し』とか、力が湧いてくる人もいるかも」
なんて思えてきたら、
心が軽くなってくる。
自分自身は、そんな風に思えなかったとしても、
少なくとも さっきまでの重苦しい気分は、
確実に薄れてくるんです。
このごろ『傾聴』についての話題を時々耳にします。
これまでの自分の経験からは、特に仕事のことでは、
「一旦、聴いてくれたらええんやけどなぁ…」なんて思ったり、
つい人に求めてしまうことが多かった。
(会話でも メールやメモなどでも。)
暮らしのなかでも例えば、親しい人に出会って、
「あら、どうしたの、しんどいの?」など訊いてくれたら、
「うん、、」と自分の体調不良、どこどこが…と話し出す。
すると、すかさず、
「あら、それって老化現象よぉ」
(私の これは、それとは別ものなんやけど…)
また別の件では、
「あ、わたしもねぇ~」と、自分の方に話をもってかれちゃったり。
(結局、自分のこと喋りたいんやなぁ…)
その話が参考になる場合は良いけれど、
例えば、「膝が痛い」といっても、
症状から原因、対処法など、千差万別なのですよ。
また別の例。
心の話になって、自分の最近の心境などしゃべり出すと、
パッと時計に目をやる人がいる。 そうなると、
(ああ、あたしの喋り方って、モタモタしてるから、
時間が気になるんでしょうねぇ…)
と、話を はしょってしまう。
そうなると、ますます話は中身の無いものになっちゃう。
話を引き出すのがうまい、と思ったことは――、
たとえば、
こちらが一つ話すと、身を乗り出すようにして
「うんうん、それで?」と興味を示してくれたりした時。
とにかく、ゆったりと安心して話せる 空気 が、まず必要だわねぇ、って
よく思うんです。
――と、ヒトのことは よく見えるけど、
果たして自分自身は、どんな聴き方をしとるかね・・・?
傾聴を心がけていると、
家族の間でも、職場でも、
互いの関係が良くなり深まっていくということです。
聴きながら こころから相手を思いやったり、
その人の立場になって考え、共感したり。
そういうのから始まるんですよね。
こんなサイトを見つけました。 ↓
https://sites.google.com/site/shigotonokotsu/qing-ting-liwo-gaomerukotsu
「あやつる」とか「スキル」とかいう言葉が気になったけど、
それは横に置いておきたい
(私は、「心を」「相手の方に傾けて」「丸ごと聴く」みたいなことをしたいんです)。
中身をサッと読んでみると、参考になることがたくさん。
少しずつ、じっくりと読んでみようかしらん。
そして、目指すのは、
『時間ドロボウ』のお話の主人公、
「モモ」です。
きのう、あんな風に書いて、
自分で書いたことが しばらく頭の中に残っていて――、
わたしって、そんなに感じられる人かい?
って思えてきたんです。
これまで、例えば、
人と接して、「じゃあね~」って別れてから
あれ? あの人、こんなこと言いたかったんじゃないのかな?
とか気づいたりしたことが何度も。
申し訳ないし、赤面して穴を探したり・・・。
(今さら隠れてもしょうがないでしょ )
自分は、色んなこと感じたりするけれど
後から気づいたり、いつまでも気づかなかったりってことが
いっぱいあるみたい。
キミって、そんな程度のニンゲンなんだよー。
そんだから、つまんないこと気にしたって…
ナニやってることやら。
こないだ天神さんへ行ったとき、
絵馬がたくさん奉納されてたんです。
見てみると、
私は知らなかったような、とっても専門的な資格の「試験に合格しますように」とか
超有名大学に「受かりますように」とか、
それぞれ頑張っておられる様子が窺えました。
その中に、
「素直になれますように」
という、子どもさんの可愛い字もあった。
いいねぇ、こんな子は。
子どもらしくスクスクと伸びていくんでしょうねぇ、って
しばし眺めてました。
わが身を振り返ってみると、
自分の未熟さを横に置いといて、
人に矢印を向けたがる、
そんな姿が目に付くことが。
私もお願いしてくれば良かった、
「素直になれますように」って。