「欠陥」こそ人生の贈り物
「好きなことをガマンするほど、休みもとらずに働くほど、利口に賢くなるほど、幸せから遠ざかっていくなんて。。。。」 これはロジャー・フーズデンというイギリスの作家です。彼は最近アメリカで活躍し、現代人の実在や精神に関する著書を多数発表してます。 私は彼の逆説的な「異見」(意見にあらず)が大好きなんです。
以下幾つかの、私がメモった彼の言葉を記してみましょう。
「お人好し」になること
私たちが実践できる最もバカげた美徳の一つは「寛大」です。
寛大とはようするに、「お人好し」になることです。例えば,相手の誤りや欠点を大目に見てあげることや,相手に有利なように解釈してあげるのは立派な「お人好し」です。いわばこれは一つの諦めかもしれません。「ま、人間なんてそんなものよ」と言ったりしますしね、軽くバカになることだと言えましょう。
自分のネジを少しゆるめてやるんですね、すると、そこには自意識は働かなくなる、これはいわば、自分が「無」になることなんです。この無になった氣持ちの状態って、とても氣持ちがいいんです。
ただそれには、それについての意見を一切言わないことが大切です。
「普通で不完全な自分」
私たちは皆、素晴らしく普通で不完全な、やがて死すべき人間であり、それ以上でも,以下でもありません。
完璧に価値はないのです。ワビとか、サビとか呼ばれる美学がそれです。
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自分の人生に常に明るく感謝しよう。
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お人好し・・何事も正しいものも無し 何事も正しいもの有り 余分な観方 余分な味付けが無く・・あるがままに 観る
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阿闍梨・あじゃり TVで観ました・・何も余分な物を背負ってない 何も余分な思いが無い 何も余分な身が無い・・削ぎとった後の笑顔は無であるのかな・・
一日一足の草鞋が・・削ぎ取った足裏を観る
阿闍梨(あじゃり、あざり、アーチャーリャ、ācārya、Sanskrit、阿闍梨耶とも音写)サンスクリットで「軌範」を意味し、弟子たちの規範となり、法を教授する師匠のことである。
ヴェーダの宗教ではヴェーダにおける規範を伝授する指導者を、また部派仏教においては修行僧たちの規律を指導し、教義を伝授する高僧をいい、教団によって種類は異なるが、指導内容ごとに複数の阿闍梨がいた。
密教においては、大日如来等の諸仏を指すことがあるが、一般には衆僧の模範となるべき高位の僧侶の称号で、日本では天台宗および真言宗において高貴な身分の僧や、天皇の関わる儀式において修法を行う僧に特に与えられる職位である。
日本で阿闍梨と称される僧には、法を教授する教授阿闍梨、伝法(術、経文など維持発展に必要な総ての要素)の灌頂(修得儀礼)を受けた者がなる伝法阿闍梨(でんぽうあじゃり)、比叡山、伊吹山、愛宕山など特に朝廷から指定を受けて五穀豊穣を祈る儀式を行う寺院において祈願の勅命を与えられて導師を務める者がなる七高山阿闍梨(しちこうざんあじゃり)、皇族や摂関家の子弟から仏門に入り、貴種のゆえをもって若いうちに阿闍梨の称号を許された者がなる一身阿闍梨(いっしんあじゃり)などがある。また、伝法阿闍梨のうち特に徳の高いものを大阿闍梨(だいあじゃり)といった。
天台宗の荒行「千日回峰行」に挑んでいる星野圓道さん(32)=延暦寺大乗院住職=が13日、比叡山の無動寺谷・明王堂(大津市坂本本町)で、「堂入り」の行に入った。千日回峰行で最大の難関とされ、断食、断水、不眠、不臥で9日間こもる。堂入りする行者は6年ぶり、戦後12人目。
堂入りは、千日回峰行の700日を終えた行者が不動真言を10万回唱え、本尊の不動明王と一体となることを目指す。毎日午前2時ごろに近くの閼伽(あか)井にお供えの水をくみに行くが、それ以外は堂にこもる。5日目から水で口をすすぐことだけが許される。生死をかけて挑むことから「生き葬式」とも呼ばれる。
正午、白装束の星野さんは明王堂に隣接する法曼(まん)院で「斎食(さいじき)の儀」に臨み、酒井雄哉さんら大阿闍梨(あじゃり)と最後の食事を取った。午後1時ごろ、明王堂前に姿を見せると、縁者や信者が手を合わせて無事に満行するよう祈った。星野さんは静かに入堂し、立ち会いの僧侶らが退堂し、正面の扉が閉じられた。
満行すれば、21日未明に堂から出る。星野さんは東京都生まれ。1990年に出家得度。花園大卒。2003年に千日回峰行に入った。
阿闍梨
比叡山 延暦寺