『和泉式部日記』は、この日記の中で語られているお相手である敦道(あつみち)親王がわずか27歳で亡くなった後に、悪い噂を払拭しようと和泉式部が寛弘5年(西暦1008年)に書いたものと言われています。ただし他作説もあるようです。
全35段はおよそ次の3部に分けられます(本書解説より):
- なかなか進まない恋(1~17段)
- 燃え上がる恋(18~32段)
- 現実を変えた運命の恋(33~35段)
和泉式部という女性は、恋多き女性、情熱的な歌人として有名ですが、世間の噂ほどには浮ついた人ではなかったということをこの日記で主張しているようです。
「和泉」の名は彼女の最初の夫が和泉守に就任したことから来てます。つまり本名がどうだったかは不明なわけですね。この最初の夫とは一女をもうけたものの関係はすぐに冷えたらしく、夫の方が離れて行ったらしいです。
次のお相手は為尊(ためたか)親王で、これも身分違いの恋で当時随分なスキャンダルだったようです。為尊親王はあろうことか流行り病で26歳の若さで亡くなってしまい、まるで和泉式部のような下賤の女のところに通ったから死んだかのように『栄花物語』に記されています。
和泉式部の中宮彰子の下での同僚であった紫式部も「モラルに反するところがあった」と彼女を評しているようなので、かなり派手な噂のある人だったみたいですね。
さて、この日記の相手である敦道親王は、亡くなった為尊親王の弟で、和泉式部よりも3歳ほど年下。為尊親王が亡くなってから1年ほどして、彼が亡き兄から引き継いだ小舎人童(こどねりわらわ)を和泉式部のもとに遣わすことから二人の恋物語が始まります。二人の歌と文のやり取りが中心です。まあ、平安時代外でデートするとかはあり得なかったので、基本的に男が女のもとに通うしかないわけですが、なにせ男は天皇の息子。皇太子ではなくともそうそう外出などできないご身分なので、通うこともままならないのですね。
おまけに彼は和泉式部にまつわる噂に惑わされ、嫉妬したりいじけたり、最初は結構引に彼女と関係を持ったにもかかわらず、その後は結構煮え切らない態度を示すので、「おいおい、最初の強引さはどうした?」と疑問に思うほどです。
それでも二人の恋が続いたのは、お互いの孤独さ、頼りなさ、信仰心などを通じて響き合う仲だったからみたいですね。紆余曲折を経て、結局和泉式部は敦道親王のお邸に入ることになります。ところがそこには彼の冷めた仲とはいえ北の方、つまり奥さんが居て、和泉式部が来たことに酷くプライドを傷つけられ、お姉さん(春宮・居貞(いやさだ)親王の女御)が里帰りしている実家に誘われて帰ってしまいます。このあたりの経緯を描いているのが第3部(33~35段)で、そこには和歌は登場しません。
和泉式部は「手紙も和歌も、言葉がきらりと自然に光っている感じ」というのが紫式部の和泉式部評のようですが、原文を読んでも私には残念ながらその「きらりと自然に光っている」言葉は分かりませんでした。ところどころ、切り返しがうまいなと思うところはありましたが。
全体的にどちらも噂や人目を気にし過ぎで、非常に窮屈な感じがします。狭い貴族社会に縛られている人たちだから仕方のないことなのかもしれませんが、それでも「噂にそこまで惑わされなくてもよいのでは?」と思うところが所々あります。「しめやかで切ない」と言えばそうかも知れませんが、私の感覚では「嘆き過ぎじゃないか?」という感想の方が強くあります。