徒然なるままに ~ Mikako Husselのブログ

ドイツ情報、ヨーロッパ旅行記、書評、その他「心にうつりゆくよしなし事」

書評:福田 純也著、『外国語学習に潜む意識と無意識』 (開拓社言語・文化選書77)

2022年09月24日 | 書評ー言語

『外国語学習に潜む意識と無意識』は、私が少し前からよく見ているYouTubeチャンネル「ゆる言語学ラジオ」で外国語習得がテーマとして取り上げられた際に紹介された書籍の1つです。

外国語学習は、極端に言えば誰でも何かしら意見を言える分野であるため、科学的根拠のない思い込みや個人の体験(サンプル数=1)だけに基づいたいい加減な意見が巷に溢れています。
私は確かにドイツの大学院で一般言語学を収めたので、一般人に比べれば言語学の知識は多い方ですが、なにぶん20年以上アップデートしていなかったので、言語習得論についてもかなり新しい知見があると思って、この一冊を日本から取り寄せました。
ドイツ語学習に関するドイツ語で書かれた本は、ドイツ語教師の資格を取る際にそれなりに読みましたが、日本語で書かれたものは読んだことがなかったので、ちょっとした初体験となりました。

さて、本書では「文法なんかいちいち考えていたら、一向にしゃべるようにならない」とか「しっかり文法規則を覚え、意識せずにも言葉が口をついて出てくるようになるまで反復練習しなきゃダメだ」とか様々な外国語学習論の前提となっている「意識」が実は掴みどころのない概念であることから出発し、そもそも意識・無意識とは何なのか哲学や心理学などの分野の考察や定義を整理します。その中から学習に関係する意識・無意識(アウェアネスの有無)を抽出してから、様々なそれに関する言語学的実験とその結果やそこから得られる知見を紹介します。

著者曰く、平易な言葉遣いを心がけたらしいので、ゆっくり読めば何とか理解できるレベルになっているとはいえ、やはりテーマ自体が複雑なので、なかなか難しいです。

目次は以下の通りです。

はじめに
第1章 外国語学習に潜む意識と無意識
第2章 意識の諸相
第3章 言語と意識
第4章 意識・無意識の科学と言語習得
第5章 意識研究と第二言語研究を繋ぐ
終章 外国語を学ぶとはどのようなことか

本書を読むことで、外国語学習と意識の関係についての研究が分かりやすく整理されて概観でき、これまで意識していなかったことを意識できるようになります。

まず、確かに言えることは「外国語学習は一筋縄ではいかない」ということです。月並みではありますが、これは大切な前提であり、語学学校や語学アプリなどの煽り文句で「聞き流すだけで言葉が口をついて出てくる」とか「苦労ゼロの英会話学習方法」などといったものがあり得ないことの証左となります。
私自身、手を付けたことのある言語が古典語を含めて20言語にも及ぶ経験豊富な外国語学習者なので、簡単な外国語習得法などないことは百も承知していましたが、それは言ってみれば私個人の体験に基づいた「サンプル数=1」の話です。それが、科学的な手法をもって実験結果としても導き出されたものであると確認できたことは収穫でした。

もう一つ重要な知見は、言語には意識しなくても目立つので知識として獲得されやすい項目と、逆に無意識的な学習は不可能で、たとえ意識的に学習しても知識として獲得されにくい項目があるということです。
何が「目立つ(卓立性が高い)」のかは、対象言語や学習者の既得の言語知識などに左右されるらしいのが複雑なところです。

また、意識的に学び、意識的な知識として獲得されたものが必ずしも無意識的な知識(無意識に使える)に移行するわけではなく、また、無意識的に学んだ結果、無意識的な知識(理由や規則は説明できないが正しいと判断できる、または使える)として獲得することもあるということも興味深い研究結果だと思いました。

学習者が教えられたとおりに学んでいくわけではなく、また問題集を説いた料や単語帳を周回した数に比例して直線的に成果が出るものでもないことは、昔から知られていましたが、興味深いのは、よく言われる「記憶曲線」に応じて失われてしまう知識は、機械的な記憶、つまりドリルのように練習した内容であり、それに対して、意味を伴った学習は直後のテスト結果が悪くても、後になって遅延テストをすると結果が良くなり、長期記憶に移行しているケースが多いということです。

いずれにせよ外国語を学ぶということは、対象言語の世界の認識の仕方、「切り取り方」を学ぶということで、複眼的な視点を得られ、複数の言語の持つ世界の見方・考え方から、独自の体系を創出していくプロセスと言える、というのが本書の結論です。
月並みに言い換えれば、外国語で(認知)世界が広がるということですね。