わたしの心 

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(管理人:Mrs.modest)

からたちの花

2015年06月10日 | ミニ知識



からたちの花といえば、だれでも思い出すのが唱歌『からたちの花』です。1922年(大正11年)、36歳の山田耕筰(こうさく)は、日本語による日本の歌を生み出そうと北原白秋と雑誌『詩と音楽』を創刊。二人の交友の中から、1925年(大正14年)、雑誌『女性』に発表されたのが、『からたちの花』でした。
 
          からたちの花
     (作詞/北原白秋、作曲/山田耕筰)
 
     からたちの花が咲いたよ。
     白い白い花が咲いたよ。
     からたちのとげはいたいよ。
     青い青い針のとげだよ。 
     からたちは畑の垣根よ。
     いつもいつもとほる道だよ。 
     からたちも秋はみのるよ。
     まろいまろい金のたまだよ。 
     からたちのそばで泣いたよ。
     みんなみんなやさしかつたよ。 
     からたちの花が咲いたよ。
     白い白い花が咲いたよ。
 
余りにも有名な唱歌ですが、『だれがなぜ、からたちのそばで泣いたのか』『だれがやさしかったのか』。この詩の意味を真に理解できたのは、恥ずかしながら、つい最近、山田耕筰著『自伝 若き日の狂詩曲』(中公文庫、1996年)を読んでからのことでした。 
山田耕筰(1886~1965年)は、日本初の管弦楽団をつくるなど日本における西洋音楽の普及に努める一方、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やレニングラード・フィルハーモニー交響楽団等を指揮するなど国際的にも活動した、日本の音楽史に燦然と輝く人ですが、少年期・青年期を労働苦学の中に過ごします。 
十年に及ぶ父の病気で家は貧しく、長兄は家出したまま長く父の家に帰らず、末の弟は、わずか5つで亡くなります。9歳のとき、母のすぐ上の兄の養子に出され、巣鴨にあった自営館という活版学校に入れられます。内部に夜学校のある勤労学校でした。そして、病床の父も10歳のとき他界。 
すりへらした庭下駄のような薄い寄宿舎の弁当では、とても足りようはずもなく、たまらなくなると、活版所の周囲の畑から、季節季節の野菜を手当たり次第にとっては、生のままかじります。 
秋になると、色づいたからたちの実に目が輝きました。食べられるはずもないからたちの実は、はじめはすっぱくて咽せかえるほどでしたが、馴れるとなかなか良いもので、生野菜と一緒に食べると下手なサラダより数等いい味でした。 
『工場で職工に足蹴りされたりすると(活版職工は大体両手がふさがっているので、なぐるより蹴る方が早かった)、私はからたちの垣根まで逃げ出し、人に見せたくない涙をその根方にそそいだ。そうしたとき、畑の小母さんが示してくれる好意は、嬉しくはあったが反ってつらくも感じられた。漸くかわいた頬がまたしても涙に濡れるからだ。』と自伝にあります。  
その後、蝕まれた肺部への脅威のため、母と鎌倉に転居。13歳から足掛け3年にわたる静養生活を送ります。鎌倉の磯で釣った黒鯛や、紙だの筆墨だの行商をしながらの静養でした。18歳の年、最愛の母も子宮ガンで死去。官立の音楽学校へ進むことをはじめて死床で許す母でした。 
下宿費が払えずに追い出され、蔵前の浅草橋教会の一室に身を置いたりの、労働苦学の上野音楽学校時代。そして、24歳のとき、三菱財閥の総帥岩崎小弥太の援助を受けてドイツ・ベルリン音楽学校作曲科に3年間留学。猛烈に勉強に打ち込みます。
少年期を振り返ります。9歳から13歳までの足掛け5年にわたる活版所生活は、いろいろな意味から私を錬磨してくれた、むしろ感謝していい時代だった。将来の夢は音楽者と定められたのも、9歳の自営館時代のことだったと。『からたちの、白い花、青い棘、そしてあのまろい金の実、それは自営館生活における私のノスタルジアだ。そのノスタルジアが白秋によって、詩化され、あの歌となった。』
     (インターネット調べ)

実は、この「からたちの花」を歌う事なったため、また調べてみました。
初め、とげが刺さったぐらいでどうしてなくんだろう?
なんて思っていましたが…。
こんな隠された意味が込められていたんだ。
それに、からたちの花自体見たことがなく、こんなに鋭いとげがある植物とは!びっくりでした!


たまちゃ~ん!
こういう事だったんです。わかった~?
心を込めて歌おうね~!

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