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『ディアローグ デュラス/ゴダール全対話』その2

2020-03-21 13:56:00 | ノンジャンル
 昨日の続きです。

 ゴダールもまた、映像と言葉を親密に結びつける方法を探求している。ただし、彼の場合、物に対する名前の優位、役者や演技に対する演出の優位、映画に対するシナリオの優位を打ち砕くことによってである。『パッション』(1982年)では、登場人物の一人がこうつぶやく。「見なければ書くことはできず」、その逆はない。しかし「それを語る前にものを見ることは難しい」。それゆえ、ゴダールはスクリーンの中に語をはめ込む。言葉(パロール)、音楽、ノイズ。それらはリミックスされ、しまいには区別がつかなくなる。引用も素材と化し、反復され、断片化され、意味を歪められていく。最新作『さらば、愛の言葉よ』(2014年)のフランス語原題である「さらば、言葉(ランガージュ)よ」という文句は、言葉の消滅ではなく、身体性への、映像の物質性の中への散逸である。この散逸は、短編ビデオ作品『言葉の力』における天使たちのおしゃべりの主題でもある。天使たちは互いに問いあう。「言葉は一語一語が大気に与える運動ではないでしょうか?」。1988年に制作されたこの短編は、本書に載録したデュラスとの最後の対話の直後に作られている。それはまるで最後の対話の真の結論であるかのようだ。作品は火山の爆発と激流の映像とがものすごいスピードで入れ替わるモンタージュの反復で終わる。しかも、サウンドトラックには、ボブ・ディランの〈ホェン・ヒー・リターンズ〉、レナード・コーエンの〈テイク・ディス・ワルツ〉と、シュトラウス、ベートーヴェン、ラヴェルの最高潮のフレーズがミキシングされている。水、火、声とオーケストラとが融合し、破滅的かつ原初的なマグマとなり、デュラスが初めて全編を監督した作品となる『破滅しに、と彼女は言う』(1969年)の結末と響きあう。この作品でも、いくつかの長い対話のあと、バッハのフーガと爆撃音とが混ぜ合わされている。ただし、このリミックスの場面でデュラスが画面に映し出すのは、静かな森と不動の人物のシルエットだけである。
 デュラスとゴダールの三回の対話には、また別のやり取りが隠されている。伝統的な配給スタイルから距離を取り、政治的作品と実験的なビデオ作品に十年を費やしていたゴダールは、1980年代、より近づきやすい映画の制作に回帰する。ゴダール本人の弁によれば「映画における第二の人生」である。それと同時期、十年以上にわたって映画に関係するテクストばかり書いていたデュラスもまた、映画制作とは関係ない作品の執筆に回帰する。『愛人ラマン』(1984年)の文学的成功は彼女の映画作家としての活動の終点と一致している。彼女の最後の映画作品は1985年制作の『子供たち』である。彼らの対話は、まさしくこうした彼ら自身の変化の時期と重なっている。ゴダールが対談に応じたのは、自分が決してなれなかった物書きに質問をぶつけるためである。デュラスが対談に応じたのは、彼女にとって「世界の映画作家の中でもっとも偉大触媒」であるとともに、彼女が手を切ろうとしている芸術分野において彼女が認めるわずかな人々の中でももっとも優れた映画作家と対峙するためである。しかも、対話しながら明らかになったのは、言葉と映像の交差という同じ問題意識を共有する他の映画作家を二人ともほぼ誰も知らないということだった。1987年の対話では、フィリップ・ガレル、ジャン・ユスターシュの名をゴダールは即座に挙げたが、ジャン=マリー・ストロープとダニエル・ユイレ、シャンタル・アケルマンやハンス=ユルゲン・ジーバーベルクの名前は出なかった。それは二人の輝ける孤立の証しであると同時に、美学的な後退の証しでもある。映像と音のラディカルな分離に立脚した偉大な作品群が作られた時代は終焉しつつある。ただ、ゴダールとストローブ=ユイレだけが、この道を今日も追及し続けている(ダニエル・ユイレは2006年没)。デュラスとゴダールによる三回の対話という例外的状況は、こうした作品群の後退期と一致している。それゆえ、これらの対話は、こうした作品群を支えていた思考のもっとも優れた証言の一つでもあるのだ。

 約200ページと分量的には読みやすいものであり、蓮實重彦先生が帯で「ゴダールがデュラスに向かって『ええっ、ビール!』と絶句する瞬間の真摯な滑稽さ……。『同じコインの表と裏』だというこの二人の対話は、かろうじて存在しているかも知れない映画やサルトルをめぐるやりとりはいうに及ばず、キスについてさえ真摯にしてかつ滑稽である。この真摯で滑稽な言葉のやりとりを読まずにおく理由など、存在するはずもない」と絶賛しているにもかかわらず、デュラスとゴダールが語る言葉はほとんど理解することができませんでした。残念です。


『ディアローグ デュラス/ゴダール全対話』その1

2020-03-20 13:46:00 | ノンジャンル
 フランスで2014年に刊行された『ディアローグ デュラス/ゴダール全対話』
を読みました。シリル・ベジャンによる「はじめに」を転載させていただくと、

 本書は、マルグリット・デュラスとジャン=リュック・ゴダールによる三回の対話(ディアローグ)を載録している。彼らの人生における例外的状況とも言えるこの邂逅は、1979年10月(ゴダールの映画『勝手に逃げろ/人生』の撮影時)の第一の対話に始まり、1980年9月ないし10月(近親相姦をめぐる映画の企画時)の第二の対話を経由し、1987年12月(テレビ番組〈オセアニック〉収録時)の第三の対話によって幕を閉じる。それは作家デュラスと映画作家ゴダールとの本質的な関係であると同時に、限られた短い歴史でもある。ゴダールは1997年のインタビューで、デュラスとは「二,三年ぐらい付き合いがあった」と言っている。まるで彼の映画の題名『彼女について知っている二、三の事柄』のもじりである。数年間、二人の人生は交差し、お互いの思考を深める「二、三の事柄」を取り交わす。第二の対話のタイミングが、両者がそれぞれ映画についての省察集━━デュラスは『緑の眼』、ゴダールは『ゴダール 映画史(全)』━━を出版した後だったのは偶然ではない。実際、対話では、これらの著作を貫く問題意識のほぼすべてが出そろっている。書かれた言葉と映像(イメージ)との関係、さまざまな理由によって表象不可能と判断されているもの(強制収容所や近親相姦)の表象、子供時代やテレビについての考察、それに両者に共通する情熱の深さ、自分の作品と文字通り一体化しているあり方、作品を語るときに発露される驚くべき叙情性、また、その合間にはさまれているドライでアイロニカルなコメント。二人はある確信にもとづいて、歴史を辿り直し、モーゼ、ルソー、フォークナー、サルトルを次々に呼び出してくる。
 彼らの遭遇地点は明白である。物書きデュラスは映画作家でもあるし、映画作家ゴダールは初期作品から、文学、書き物(エクリ)、言葉(パロール)への偏愛を示している。だから「あらゆるものがその反対を主張するとしても、ゴダールは映画作家の中でもっとも物書き的である」とまで言われるのだ。その一方、デュラスも映像(イメージ)は信用できないと言いながら映画を作り、テクストを現前させる方法は、すなわち、テクストの喚起力と、ほとんどないしはまったく説明的ではない、脈略を欠いたわずかな動きしかないショットの喚起力とを結びつける方法を探究し続ける。それゆえ、デュラスは撮るごとに、サウンドトラックとショットとが分離していく。無人の、反復的な映像が多用されるばかりか、ときには『大西洋の男』(1981年)の黒画面のように、映像の不在そのものが映し出されるそこに流れるのは連祷(れんとう)のような“オフ”の声である。映像全体が、テクストが描写し暗示するものを受け入れ、増幅させる容器となっている。「映像において、私たちは完全に書いている。撮影された一切の問題が書かれている。それは本の空間の百倍にもなる」。

(明日へ続きます……)

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増村保造監督『華岡青洲の妻』

2020-03-18 13:27:00 | ノンジャンル
 角川シネマ有楽町にて、増村保造監督の1967年作品『華岡青洲の妻』を観ました。サイト「Movie Walker」の「映画のストーリー」の文章を一部改変させていただくと、

父・妹背佐次兵衛が近郷の地士頭と大庄屋を勤め、禄高百五十石の家柄の娘加恵(若尾文子)は、請われて華岡家に嫁いだ。夫となる華岡雲平(市川雷蔵)は医学の修業に京都へ遊学中で加恵はその三年間、夫のいない結婚生活を送らねばならなかった。
 しかし、雲平の母・於継(高峰秀子)は、その気品のある美しさで、加恵にとっては幼い頃からの憧れの的であり、その於継との生活は楽しいものだった。於継も彼女には優しく、雲平の学資を得るための機織り仕事も加恵には苦にならなかった。
 やがて、雲平が帰って来た。加恵は初めて夫の顔を見て、胸のときめきを覚えたが、その日から、於継の彼女に対する態度がガラリと変った。於継は妻の加恵を押しのけて、ひとり雲平の世話をやき、加恵を淋しがらせた。加恵はそのときから於継に対して敵意に似たものを胸に抱くようになった。
 まもなく雲平の父・直道(伊藤雄之助)が老衰で亡くなると、雲平は青洲と名を改め、医学の研究に没頭していった。彼の研究は、手術に際して麻酔薬を用いることで、何よりもまず、白い気違い茄子(まんだらけ)の花から、完全な麻酔薬を作り出すことであった。
 一方加恵は於継の冷淡さに、逆に夫に対する愛情を深めていたが、そんなうちに、彼女は身ごもり、実家に帰って娘の小弁を生んだ。
しかし間もなく、於継の妹・於勝が乳ガンで死んだ。周囲の者は、青洲が実験に使う動物たちのたたりだと噂しあった。
 その頃、青洲の研究は動物実験の段階ではほとんど完成に近く、あとは人体実験によって、効果を試すだけだったが、容易に出来ることではなかった。
ある夜、於継は不意に自分をその実験に使ってほしいと青洲に申し出た。驚いた加恵はほとんど逆上して自分こそ妻として実験台になると夫に迫り、青洲は憮然と二人の争いを眺めるのだった。
 意を決した青洲は二人に人体実験を施したのである。実験は成功だったが、強い薬を与えられた加恵は副作用で失明した。その加恵に長男が生れるころ、於継が亡くなった。
 青洲はやがて、世界最初の全身麻酔によって、乳ガンの手術に成功したのだった。この偉業の陰に、加恵と於継の献身的な協力と、そして二人の対立が隠されていたのだが、いま、加恵は、そんなことは忘れたかの如くかつての於継のように美しかった。

若尾文子と高峰秀子の熱演が光る映画でした。

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斎藤美奈子さんのコラム・その54&前川喜平さんのコラム・その15

2020-03-16 13:08:00 | ノンジャンル
 恒例となった、東京新聞の水曜日に掲載されている斎藤美奈子さんのコラムと、同じく日曜日に掲載されている前川喜平さんのコラム。

 まず3月11日に掲載された「足元が揺れる」と題された、斎藤さんのコラムを全文転載させていただくと、
「私たちの足元は、どうやら十年に一度くらいの頻度で揺れることになっているらしい。ひと月前には、東日本大震災の追悼式が軒並み中止に追い込まれるなど誰も想像しなかったはずだ。
 大震災の十年前、2001年には米国同時多発テロ、約二十年前の1989年にはベルリンの壁崩壊で世界中が揺れた。そのたびに私たちは平常心を失うが、やがて記憶は風化し日常に戻る。
 〈感染症の流行も『自然災害』である〉と石弘之『感染症の世界史』はいう。国際災害データベース(EM-DAT)は災害を気象災害、地質災害、生物災害などに分類しており、感染症は生物災害に含まれるのだそうだ。
〈感染症の流行と大地震はよく似ている。周期的に発生することはわかっていても、いつどこが狙われるかわからない〉
 同書によると、1900年から2005年までの約百年で、洪水などの気象災害は約七十六倍、地震などの地質災害は約六倍、生物災害は八十四倍に増加した。災害一件当たりの被害規模も大きくなった。大地震にともなう東京電力福島第一原発の事故はそのもっとも忌まわしい例だろう。
 大地震であれ感染症であれ、すべての自然災害は人災化する。だから戦争や政治的な動乱に似るのである。権力はそこにつけ込む。緊急事態だ非常時だという文言は魔の囁(ささや)き。注意したほうがいい。」

 また3月8日に掲載された「加計学園は国際拠点か?」と題された、前川さんのコラム。
「加計学園の獣医学部が、推薦入試で韓国人受験生の面接点を一律零点とし全員不合格にしたと、週刊文春が報じた。そのような差別が事実なら、私学助成は全額打ち切るべきだ。獣医学部新設の適法性も、改めて問わなければならない。
 2018年5月に愛媛県が国会に提出した文書には、15年2月25日に加計孝太郎理事長が安倍晋三首相に「国際水準の獣医学教育をめざす」と説明したと記録されている。16年9月、国家戦略特区の分科会で今治市は「世界に冠たる…国際教育拠点」を作ると説明した。なぜこういう説明をしたのか。それは国家戦略特別区域法上、規制特例の対象事業は「産業の国際競争力の強化及び国際的な経済活動の拠点の形成に資する」ものでなければならないからだ。その証しとして、加計学園は入学定員百四十人中二十人は留学生枠だと説明してきたのだ。
 これは、17年に国家戦略で医学部を新設した国際医療福祉大学が、留学生枠を設けて「国際拠点」と説明した前例を踏襲したもの。しかし、留学生を差別する「国際拠点」などありえない。
 獣医学部の新設については、15年6月の閣議決定で「既存の大学・学部では対応が困難」などの「四条件」も設けられていた。加計学園はこの「四条件」を満たしているか。それも改めて問われるべきである。」

 そして3月15日に掲載された、「コロナと不寛容」と題された、前川さんのコラム。
「新型コロナウイルスの拡大に伴い社会全体に不寛容が広がっている。
 十三日の本紙「発言」欄に中学生の投書が載っていた。花粉症の彼女はバスに乗るとくしゃみが出る。マスクをし、手で押さえていたが、高齢男性に「コロナじゃないの? 次のバス停は病院だから降りろ」と言われた。
 東京の私立学校の先生から私にメールが届いた。国の指導どおり休校にしなかったため、心ない批判がSNS上で多発。制服で電車通学する生徒が「他の乗客の視線が痛い」と漏らした。
 認定NPO法人フローレンスが行った緊急アンケートに届いた声。子どもを連れてスーパーへ行ったら「子どもは出歩くなって言われているでしょ!」と怒鳴られた。子どもだけで出歩いたら教育委員会に通報され、子どもがまるで病原菌のように扱われる。子どもがゴミ出しをしただけ、バットの素振りをしただけで、知らないおじさんに「なんで外にいるんだ」と怒鳴られた。近所からの苦情を学校が鵜呑(うの)みにし、教員が近所を見回って帰宅を促している。
 不寛容は恐怖から生じる。恐怖は不安から生じる。不安は無知から生じる。不寛容を払拭(ふっしょく)するためには、科学的根拠に基づく正確な情報を、わかりやすく人々に伝えるのが必要だ。科学的根拠のない独断的な対策の乱発は、不寛容を増幅させるだけである。」

 どれも一読に当たる文章であると思いました。

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小津安二郎監督『浮草』

2020-03-12 18:54:00 | ノンジャンル
 角川シネマ有楽町にて、小津安二郎監督・共同脚本の1959年作品『浮草』を4K版で再見しました。ウィキペディアの「あらすじ」を一部改変して記すると、

 旅回りの駒十郎一座の乗った船が港に着いた。駒十郎(中村鴈治郎)は一膳飯屋にお芳(杉村春子)を訪ね、その昔二人がもうけた清(川口浩)も今では郵便局に勤めていると知って安心する。清には駒十郎はお芳の兄ということになっていた。駒十郎の連れ合いのすみ子(京マチ子)は、清のことを不審に思い若い加代(若尾文子)に清を誘惑してくれるよう頼む。加代と清は恋仲になり、それを知った駒十郎は加代とすみ子を激しく叱りつける。客入りの悪くなった一座は解散することになり、駒十郎と清は加代を巡って対立する。お芳は清に駒十郎が実の父親だと打ち明けるが、清は許さず、駒十郎は気が抜けたように立ち去る。駅に行くとすみ子が待っていて、二人は車中の人となるのだった。

 淡々とした味わいのある映画でした。


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