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テレンス・ヤング監督『007/ロシアより愛をこめて』&オリヴァー・ストーン監督『プラトーン』他

2016-09-25 10:08:00 | ノンジャンル
 WOWOWオンデマンドで、テレンス・ヤング監督の’63年作品『007/ロシアより愛をこめて』を再見しました。幼い頃はかなり興奮して見た記憶があったのですが、今見ると平板な照明と間延びした演出を音楽でごまかしているようで、かなり退屈しました。見どころはロバート・ショーとロッテ・レーニャの悪役ぶりあたりかなと思います。

 また、オリヴァー・ストーン監督・脚本、ロバート・リチャードソン撮影の’86年作品『プラトーン』をWOWOWシネマで見ました。
 “若者よ、若いうちに楽しめ 傳道の書”の字幕。軍の飛行機から降りる軍服姿の若者たち。その一人、テイラー(チャーリー・シーン)の横を死体袋が運ばれる。「ベトナムへよく来た」。
 “1967年9月25日 カンボジア国境付近”の字幕。樹木の間から差す光。ジャングル。地面上にはヘビが進む。敵兵の死体。「敵も死ねばおとなしい」。テイラーはそれを見て気分が悪くなり、吐く。「急いで立て!」。アリにたかられるテイラー。衛生兵が呼ばれ、「荷物が多すぎる。大丈夫か?」と声をかけられる。
 第二中隊のキャンプ。ヘリが補給に来る。T字カミソリでヒゲを剃る男。干された服。手紙を書く者。「ここでは理性は通じない。先頭を歩きたくない。いきなり敵と遭遇するからだ。1年生きていく自信がない」のナレーション。
 ジャングル。「地雷があるので、気を付けろ」。見張りに立たされるテイラー。様々な動物の映像。「大学を辞めて入隊した」とテイラー。
美しい夕陽。テントの中ではエリアス(ウィリアム・デフォー)がヤクをやっていて、テイラーも初めてヤクを吸ってみる。
 「1968年の元旦も戦場で過ごした」のナレーション。ジャングルの中でトーチカを発見するテイラーら。先の村で北軍の協力者を探すうちに、バーンズは村民を虐殺し始める。命令に従って村の家を焼くテイラーら。
青い星空。雨の中のジャングルを半身を水に浸しながら行進。
以下、戦場での銃撃戦、休息の様子が描かれていき、残酷なバーンズと敵対するエリアスは、戦場でバーンズに殺され、バーンズもテイラーによって殺されます。
 鮮やかな緑が目を引くロバート・リチャードソンの撮影が特徴的で、残酷描写も目立ち、若い頃のフォレスト・ウィテカーやジョニー・デップも出演していました。

 また、ジョナサン・デミ監督・共同製作の’93年作品『フィラデルフィア』もWOWOWシネマで見ました。
 フィラデルフィアの街の空撮。街角の風景。手を振る人々。それらを背景にオープニングタイトル。
 「原告の言う“有害な塵”は3度確認されただけで、その調査結果は全て石灰岩でした。不快でしょうが、“無害”です。ケンドール建設が建設を止めると、753人が失業します」と弁護士のアンディ・ベケット(トム・ハンクス)が述べ、無罪の判定が下ります。市民側の弁護士のジョン・ミラー(デンゼル・ワシントン)と握手するアンディ。
 アンディは弁護士事務所の所長であるウィラー(ジェイソン・ロバーツ)からハイライン社がサンダー社のプログラムを不正コピーした件を任され、所の皆から祝福されますが、やがてアンディがエイズに感染していることが明らかになります。サンダー社の件の書類がアンディの机の上から無くなり、パソコンの中からも消え、裁判日の前日になって資料室からやっと見つかりますが、その不祥事を理由にして、アンディはウィラーから解雇されます。
 解雇となったアンディはジョンの許を訪れ、ウィラーに対して不当な解雇の裁判を起こすので、力を貸してほしいと言いますが、相手が有力な弁護士を9人も揃えていることや、ジョン自身のエイズ患者への偏見もあって、ジョンはその申し出を断ります。
 帰宅したジョンは妻から近親者に多くの同性愛者がいることを教えられ、かかりつけの医者からもエイズは体液でしか感染しないことを聞き、アンディの弁護をすることを決心します。
 裁判は激烈を極めますが、結局アンディ側が勝利します。しかしアンディはその結果のしばらく後に、エイズで亡くなるのでした。
 シーンの分かれ目を本が閉じたり、開いたりするように展開し、また“9日後”、“1週間後”というような字幕も使われていて、時間の経過が分かりやすく示されていました。アンディの額にエイズを示す染みができると、そこへのズームが何回か行われ、それも効果的に使われて、突然の真上からの俯瞰のショットも印象的でした。トム・ハンクスの演技もアカデミー主演賞を取るだけのものだったと思います。

『ミシェル・ルグラン自伝 ビトゥイーン・イエスタデイ・アンド・トゥモーロウ』その6

2016-09-24 07:12:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
・「1991年の春、ロシュフォール市は『ロシュフォールの恋人たち』公開25周年を記念して祭典を主催した。ジャックを失い、一部が欠けたようだった私たちの仲間は、彼の過去をたどるこの旅に強い思いを抱いて参加した。カトリーヌ、アニエス、マグ・ボダール、ベルナール・エヴァン、ジャックとアニエスの息子マチュー。“ジャック=ドゥミ通り”の命名式で、私は式辞を求められた。そこで述べたことを、今日でもさらに強く感じている。『ジャックに通りや街路や大通りの名前を捧げることはできるでしょう。しかし私の心のなかでは、彼はずっと前から幹線道路だったのです』」
・「1967年5月、ロサンゼルス。クリスティーヌと二人の息子とともに私たち一家はまずタワー・ロードに、次いでヴァリーヒルズを眼下に望むオリオール・ドライヴの夢のような邸宅に居をかまえた」
・「まもなく、新たに知りあったプロデューサーからある依頼を受けた。ドキュメンタリーのために、フランス語のほうを好む数人の人物にインタビューしてほしいという。(中略)そして誰よりも、あの偉大なジャン・ルノワールに会うことにもなったのだ。(中略)私たちは、彼がそのときすでに30年ちかく住んでいたロサンゼルスについても大いに話し合った。あなたの第一印象は? と彼は質問を返してきた。(中略)私が気に入ったのは家と家のあいだに塀がないことだった」
・「アメリカでは、他の作曲家たちが私を競争相手ではなく、兄弟として迎えてくれたのだ」
・「(『華麗なる賭け The Thomas Crown Affair』の試写では信じられないことに、そのフィルムは全部で5時間もあった。(中略)アシュビーは熱い賛意を爆発させた。「すばらしい。音楽が映画をどのように編集するか教えてくれるなんて!」
・「バーグマン夫妻との同胞のような絆は強くなっていき、ジュイソンやポラックやスタージェスと向きあって興奮する機会が増えたが、私は自分の裡に広がる圧迫感に締めつけられるようになった」
・「『華麗なる賭け』の成功によって、仕事の依頼が滝のように流れこんだ。(中略)『仕事が多すぎる。どうしたらやり遂げられるだろう?』私は眠れなくなった」
・「その完全な沈滞のなかで私はモーリス・シュバリエの主治医だったミシェル・フーケの顔を思い出した。(中略)『今すぐフランスに帰ってきなさい(中略)』その後、私たちがふたたび4人そろってロサンゼルスに住むことはなかった」
・「18日目に、1時間という短さではあったが、つかの間の眠りが戻ってきた」
・「ロサンゼルスに滞在するのは好きだが、そこで生活はできないということがよく分かった」
・「そして、私の心に刻みこまれていたのはエディット・ピアフの思い出だった。レコードの企画のために彼女と最後に会ったとき、私には気がかりな印象が残った。それは1962年頃、彼女の死の数ヵ月前で、その企画は日の目を見ることはなかった。病気で垂迹していたが、ラ・モーム(中略)は激しい口調で私に言った。『アメリカに行くとしても、そこに住んではだめよ。そうしたら、あなたの才能はなくなるわ』一年半アメリカで暮らしてみて、エディットの指摘の正しさが理解できた。ロサンゼルスでは、人はじわじわと衰弱し、次第に自分の個性がなくなっていくのに気づく。最初に到着したときには、アイディアと熱意にあふれていた。それがアメリカ社会に、金と利益偏重の精神性に接しているうちに、世間の人と同じになり、標準化されてしまう」
・「飛行機内で作曲できるということもあって、これは私にはまったく都合よく機能した」
・「こうした私の新しい生活は、とりあえず私自身と家族にとって最もよいものだった。その意味で、1970年は客観的にも再出発の年になった」
・「1962年の夏、ヌガロの成功はたしかに楽しかったが、それは私たちの成功というよりは、まず彼のものだった」
・「私の即興性はアラゴンを驚かせたにちがいない。以来彼と私の間には、ある共謀関係が結ばれた」
・「『シェルブールの雨傘』の撮影に入る前、(中略)私の息子エルヴェとアニエス・ヴァルダの娘のロザリーは同い年で、とても仲がよかった。それがジャックにこう言わせる。『ねえ、第三部の最後、ガソリン・スタンドのシーンで、ギイとマドレーヌの息子をエルヴェがやるというのは面白いんじゃないか。そしてロザリーには彼の異母姉妹、ギイとジュヌヴィエーヴの娘をやらせよう。きみは同意してくれるかい?』どうして反対できよう?」
・「このときから、私は16分音符ひとつひとつの存在理由を気にする必要はないと思った」
・「私の唯一の信条も最終的には同じである。『なにがあっても、高い声で歌えば心配ないさ!』」

 ほかにも興味深いエピソード満載です。ルグランファン必携の書です。

『ミシェル・ルグラン自伝 ビトゥイーン・イエスタデイ・アンド・トゥモーロウ』その5

2016-09-23 06:29:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
・「レコーディングは二つに分けて行われた。まずオーケストラをユーロパ・ソノール・スタジオで録り、次いで歌をポスト・パリジャン・スタジオで録った。それは前代未聞の美しい時間だった」
・「したがって『雨傘』はパリで行われた最初の4トラック録音となった」
・「このときの状況は皮肉なことになっていた。というのは、私はヌーヴェル・ヴァーグから逃れるためにフランスを離れ(アメリカに来)たのに、この亡命の地カリフォルニアで(ジャックとアニエスと会い)ふたたびヌーヴェル・ヴァーグに捕らえられたからだ」
・「ジャックは長年夢見たミュージカル映画を実現させることができるはずだ。しかしここでドゥミが没頭したのは『モデル・ショップ Model Shop』という、ヴェトナムへ出征することになるアメリカ青年のある種のカウントダウンをリアルに内省的に記録した映画だった」
・「『ロバと王女』は1970年のクリスマス・シーズンに公開され、200万人以上の観客動員を記録した。これはドゥミにとって商業的に最も成功した映画であるとともに、成功に別れを告げる映画となった」
・「しかしながら、彼(ドゥミ)は『雨傘』に匹敵する音楽つきの野心的な作品の企画をずっと以前からあたためていた。(中略)私は真っ向から反論した。『ジャック、きみはリアリズムの映画作家ではないし、戦闘的な映画作家でもないよ。きみは人の心を魅了する詩人なんだ。そして詩は政治的行動を超越するべきだ』(中略)『昨日まできみは兄弟だったのに、今日はぼくは見捨てようとしている!』彼は思い違いをしていた。(中略)その頃、私は『おもいでの夏 Summer of ‘42』の音楽で二度目のアカデミー賞を受賞したばかりで、バーブラ・ストライサンドやクリント・イーストウッド、そしてやがてオーソン・ウェルズと仕事をすることになっていた。ドゥミはあえて口には出さなかったが、私がハリウッドの野蛮な資本主義に身を売ったと思っていたにちがいない」
・「『ロバと王女』と『パーキング Parking』では、昔からの仲間だったセット・デザイナー、ベルナール・エヴァンは私とおなじ誠実さでこう反論した。『この予算できみが頭に描いている夢を実現させるのは、ぼくには無理だ』」
・「『エディット』は数年の間、冥府をさまよったのち、1982年に『都会のひと部屋 Une chamble en ville』となって日の目を見た。(中略)その映画を観ても私の意見は変わらなかった。残念だった」
・「しかしモスクワに戻る飛行機の上で、私たちはより野心的なアイディアを思いついた。『アンナ・カレーニナ Anna Karenine』のミュージカル版をロシアで撮影するフランスの撮影隊の話だ。ジャックはこの映画の美しい定義を私にささやいた。『これは堕ちていく情熱の物語になるだろう』(中略)モスクワでは映画担当大臣が熱狂し、ボリショイ・バレエ団を使ってほしいと申し出てくれた」
・「すべてがうまく運んでいるようにみえた。しかし、ジョルジュ・シュイコというパリの共同製作者はフランス側の分担金、すなわち全予算の10パーセントを調達することができなかった。5年間延期された末に、この“アヌーシュカ”のアヴァンチュールはひとりでに消滅してしまう……」
・「その後、1975年頃に新しいテーマが生まれ、形をなしてきたように見えた。(中略)しかし資金調達が叶わずに、私たちの『フォリー』は文字通りのパサジェール(通り過ぎる人)になってしまった」
・「1978年の数ヵ月間は『ベルサイユのばら』がドゥミのこころを占めていた。皮肉にも、彼の引き出しは自分の企画で溢れんばかりなのに、やって来るのはお膳立てされた映画の話ばかりだった」
・「1982年の『都会のひと部屋』のあと、ドゥミに残された映画は2本だった。1984年、のちに『パーキング』と改題される『ムッシュ・オルフェ Monsieur Oephee』が私たち二人組の再結成を示すことになる。率直に言って、これはジャックが練りあげた最も美しい脚本のひとつだ」
・「私たちはオルフェの歌の吹き替えをすばらしい歌手ダニエル・レヴィで録音した。(中略)しかし、私のいない間にジャックはユステル自身で録音をやり直してしまう。それは致命的な間違いだった」
・「ジャックは(『想い出のマルセイユ』で)もはやモンタンの竜巻に向かって戦うエネルギーを失っていた」
・「できあがってみると、『想い出のマルセイユ』はまったくの完成作とも、まったくの失敗作ともいえない奇妙な作品になった」(また明日へ続きます……)


『ミシェル・ルグラン自伝 ビトゥイーン・イエスタデイ・アンド・トゥモーロウ』その4

2016-09-22 06:29:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです
・「私たちは1957年7月、特異な状況で出会った。その夏、ソヴィエト連邦で開かれた青年と学生のための世界大会のために、(中略)一行はバルティカという名の大型客船で(中略)レニングラードに向かった。(中略)同室の男を見て茫然とした。剃髪の背の高い男、彼の名はクリス・マルケルといった。彼の個性はすぐに私をいらいらさせた。あまり温かみがなく、大言壮語で、わけのわからない難解な言葉をもてあそびながら、歯をくいしばって話す」
・「それから数ヵ月後、私はドキュメンタリー映画作家フランソワ・レシャンバックから彼の長編映画『アメリカの裏窓』の音楽を書いてほしいと依頼された。彼は北米から驚異的な内容の六時間のラッシュを持ち帰っていたが、それを形にできずにいた。(中略)熟練の編集技師の助力を得てもなお、骨格を見つけられずにいたのだ。確信の持てないまま数カ月を過ごしたフランソワは、映画作家、写真家であり、編集技師でもあるある人物に救われたのだ。私の目の前に再び現れたのは? あの船室の同居人だった。またしても悪夢だ、と私はおののいた。しかし、仕事場のクリスは別人だった」
・「それはジャック・ドゥミとともに始まった。彼との出会いは、人間としても職業上でも私の人生のなかで最も美しいものだったが、それについてはあとで語ろう。私は彼の妻アニエス・ヴァルダと知り合いになった。彼女は1954年に『ラ・ポワント・クールト La Pointe courte』でデビューした映画作家であり、いまや“ヌーヴェル・ヴァーグの祖母”と呼ばれている」
・「レシャンバック---マルケル---ドゥミ---ヴァルダ、この鎖はジャン=リュック・ゴダールなしには完結しない」
・「皮肉なことに、歌と色彩の映画というドゥミの描いた夢を、私は彼に先がけてゴダールの『女は女である』において実現させた」
・「それから数ヵ月後、ゴダールが突然私の家にやってきた。『見てくれ、僕の次の映画の台本だ!』彼はズボンの後ろポケットから丸めた方眼紙を取りだした。『タイトルは“女と男のいる舗道 Vivre sa vie”。よかったらテーマひとつと十一のヴァリエーションを作曲してくれないか』私は曲を作り、それを録音した。しかしゴダールは、ミキシングの際に最初のヴァリエーションの頭の八小節だけを使った……そしてその八小節を映画全編で繰り返し使ったのだ」
・「私はヌーヴェル・ヴァーグの旗手たちとも、それとは対照的な人々とも同時に一緒に仕事をした」
・「ヌーヴェル・ヴァーグへの私の最も隠れた貢献は1959年のものである。その当時とても親しくしていた友人で作詞家=作曲家=歌手のジャン・コンスタンタンが、フランソワ・トリュフォーから彼の初めての長編映画『大人は判ってくれない Les Quatre Cents Coups』のためのオリジナル・サウンドトラックを委嘱された。(中略)ジャンは(中略)不安を感じてパニックに陥り、私に手を貸してくれと頼んできたのだ。(中略)トリュフォーにはまったく気づかれなかったはずだ」
・「しかし(ヌーヴェル・ヴァーグの)波が引き潮になると、倦怠感が私を襲いはじめた。編曲者時代に人生で初めて味わったときと同じパターンである。私自身を再生させる必要があった」
・「初めてドゥミと出会ったとき、アニエスも一緒だった」
・「音楽についてドゥミは細かく指示を出した」
・「『天使の入り江』の編集では、私にはなんのアイディアも浮かんでこなかった。ガソリン切れ。(中略)しかしジャックが解決策を見つけてくれた。『スタジオに行こう! きみのためにギャンブルのシーンを映すから、きみはピアノに座って映像に反応すればいい!』まるで奇蹟のように、私は停滞から抜け出すことができた」
・「年月とともに、ジャックと私の友情は本当の兄弟のように変わっていった」
・「1962年1月、ジャックの女友だちがスイスのヴェルビエにある山小屋を1ヵ月間、提供してくれた。私たちはそこで『雨傘』の音楽を完成させると同時に、ウインター・スポーツにふけった」
・「(『雨傘』のプロデューサーを探すために)そんなわけで、私たちは手当たり次第に活躍中のプロデューサーにアタックを開始した」
・「ジャックは思いはじめていた------『雨傘』もシェルブールの霧雨を見ることなく、彼が空想し、夢見ながら実現しなかった映画の墓場に葬られるのではないかと。そのとき、ピエール・ラザレフというマスコミ界の大物に接触してみたらという、少々型破りなアイディアが浮かんだ。(中略)ドゥミは彼に電報を送った。驚くべきことに、翌朝起きぬけにラザレフは電話をよこし、私たちを社長室に呼び寄せた。(中略)『とても親しい女友だちが映画の世界に入ったばかりだ。彼女があなた方の映画の製作に乗りだせますよ』」(また明日へ続きます)

『ミシェル・ルグラン自伝 ビトゥイーン・イエスタデイ・アンド・トゥモーロウ』その3

2016-09-21 06:04:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
・「カネッティは私に大量の仕事をさせたが、専属契約を押しつけることはなかった。そのため、私は他のレコード会社と単発の仕事をすることができた」
・「1955年の暮れ、大きな雷鳴が轟いた。偉大なるモーリス・シュヴァリエがフィリップスに加わったのだ」
・「シュバリエのおかげで、私は初めて大規模な舞台に出演する経験をした」
・「『あなたと会ったのはアルハンブラ/その夜はミシェル・ルグランが演奏していた/劇場全体が喜びに震えていた』という歌詞を書いたのはボリス・ヴィアンだった」
・「私がニューヨークと恋に落ちるには五日あれば充分だった」
・「率直なところ、私にはロックのハーモニーもリズムも眩暈がするほど貧弱で単純なものに思えた」
・「シャンソン研究家たちが〈自分で始末しろ〉をフローベールかマラルメの文学作品でもあるかのように分析しているのを見て、友人のボリス・ヴィアンなら天国で大笑いしていることだろう。私たちが知り合ったのは1953年から54年にかけてだったが、彼の白熱の個性は衝撃的だった」
・「ボリスが亡くなったその日に、若い映画作家がナントで初めての長編映画の撮影を開始していた。彼の名はジャック・ドゥミ。一人の兄弟が逝ったばかりだったが、もう一人の兄弟が生まれようとしていた。しかし私はまだ彼を知らなかった」
・「フィリップスでの仕事をはじめて五年が経った頃から、内心では、ただノウハウにもとづくだけの楽な編曲で食べているような気がしてきた」
・「1958年、それが私のターニング・ポイントだった。すなわち、最初のジャズのソロ・アルバム『ルグラン・ジャズ Legrand jazz』を録音した年。それはまた、最初の妻クリスティーヌと結婚した年でもあった。そしてなによりも、フランソワ・レシャンバック監督の映画『アメリカの裏窓 L’Amerique insolite』の音楽を作曲した年となった。その楽譜は、台頭しつつあった世代の映画作家たちの好奇心を刺激した。フランス映画の新しい波“ヌーヴェル・ヴァーグ”が来襲しようとしていた。私も職業上の新しい飛躍をとげる必要があった、そうしなければ生きていけなかった。この場合は、映像のための音楽への転身だった。唐突に私はカネッティに、フィリップスのための粗製乱造の編曲はやらないと告げた」
・「ジャズはまさしく私の地平線、というよりも、いくつもの地平線を広げてくれた」
・「次第に、小遣いが許すかぎり私はジャズのコンサートに出かけるようになった。(中略)そしてマイルス・デイヴィスがいた」
・「マイルスとの関係は1958年に新たな展開をみせる。『アイ・ラヴ・パリ』の驚くべき売り上げのご褒美に、フィリップスとコロンビアは私にすばらしいプレゼントをくれることになった。私の夢であった録音の予算を組んでくれたのだ。(中略)アルバムの構想を立てるにはボリス・ヴィアンの参加が不可欠だった」
・「マイルスはスターのなかのスターだった。彼の条件に従わないわけにはいかなかった」
・「『ルグラン・ジャズ』に参加したミュージシャンのなかには(中略)ビル・エヴァンスがいた。(中略)その後ほどなくして私は彼の足跡を追いかけるようになり、(中略)多くを学んだ。彼はナット・シャピロに対して私の最新の曲を定期的に送るように頼んでいた。彼がトリオでカヴァーした〈ノエルのテーマ Noell’s theme〉を発見したときには仰天した。これは私がチャールズ・ジャロット監督のメロドラマ『真夜中の向こう側 The Other Side of Midnight』のために書いた曲だ。彼はそれを簡潔に優雅に、奇蹟のように演奏していた。『彼が弾くとこんなに高尚な作品になるのか』と私は心のなかで呟いた」
・「1980年のある日、ビルのマネージャー、ヘレン・キーンからの電話を受けた。『ビルはあなたにピアノとオーケストラのためのコンチェルト風の曲を書いてほしいと言っています』このアイディアに私は飛びあがって喜び、構想を練ってみると約束した。一か月後、私は短いニューヨーク滞在の予定をたてた。到着したその日、私はポスターでビルがファット・チューズデイ・クラブで演奏しているのを知った。(中略)私はイエロー・キャブにすべり込み、二回目のセットがはじまる直前に飛びこんだ。絶対的な幸福の一時間。(中略)翌日、夜中にビルの容態が悪くなって(中略)彼の心臓はその五日後に鼓動を止めた。何も知らずに、私はビル・エヴァンスの最後の時、鍵盤に向かった最後の瞬間、最後の音楽の噴出に立ちあったのだ。数ヵ月後、ワーナーは遺作と題した究極のアルバムを発売した。そこでは『ロシュフォールの恋人たち』から〈マクサンスの歌〉のアメリカ版〈ユー・マスト・ビリーヴ・イン・スプリング You Must Believe in Spring〉を再び取りあげていた」(また明日へ続きます……)

 →Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/