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突然、トリュフォー出現!

2007-11-13 18:21:14 | ノンジャンル
 10月21日の朝日新聞の朝刊に「トリュフォーは終わらない」と題するかなり大きな記事が載っていました。突然のトリュフォーの出現にちょっと驚きました。
 内容は、単純にトリュフォーの映画の魅力を紹介する記事で、映画監督の黒沢清さん、同じく映画監督の小林政広氏さん、脚本家の伊藤ちひろさん、タレントの佐藤江梨子さんのコメントを折り込み、またそれ以外に映画評論家の山田宏一さんの書き下ろしの文章も載っているという豪華版です。
 この記事を書いた野波健祐さんの言うところによると「ヌーヴェル・ヴァーグが始まるまでの映画監督は2種類に分類でき、1つは優良娯楽産業である映画会社に就職し、当たりそうな作品を映画館に提供するビジネスマン、もう1つは政治的主張を伝える有力なメディアとして映画をとらえる運動家だったのが、ヌーヴェル・ヴァーグの世代になって初めて映画を浴びるように見て育った世代が登場した」のだそうです。まさにこの通りだと思います。
 したがって、トリュフォー、ゴダール、シャブロル、ドミーらは映画好きが映画を撮った点が新しかった、と黒沢清さんは言っています。そして「映画好きはまず見ることから始め、その魅力を人に伝えようと評論を書き始めた。そんな若者たちが、自分たちが見たい映画を撮り始めたんです」と黒沢さんは言います。
 なんて幸福な世代だったのでしょう。私も自分が素晴らしい映画を見たら、少しでもその素晴らしさを伝えるために稚拙な文章を書く者の1人ですが、そこから一歩踏み出し、自分たちが見たい映画を自分で撮るというのは、その才能に恵まれていない私としては羨ましい限りです。(私はたまに夢の中で映画を見ることがあって、素晴らしさに感動しながら目を覚ますのですが、目を覚ました瞬間に映画の記憶は消え失せ、その映画を実現させることに、未だ至っていません。)
 野波さんは「素人が、映画で、映画の魅力を伝えようとした。題材は身近な体験に求められ、撮影手法は愛する映画から巧みに引用していった」と書いていますが、これはトリュフォーに限らず、ヌーヴェル・ヴァーグの監督たち全員に言えることだと思います。
 また黒沢さんは「ゴダールら他のヌーヴェル・ヴァーグの監督が映画作家然としていくなか、トリュフォーは最後まで個人的な映画と観客との間を揺れ動いていた職人だった。映画がもうからなくなっても、趣味ではなく商業映画を撮り続ける重荷を引き受けた。そんな映画好きがいま、どれほどいるんでしょう。」と言っています。これはトリュフォーの本質をついた発言です。私たちが映画仲間に「トリュフォーが好き」というのに何か躊躇してしまうのは、こうした点にあるのかもしれません。
 またトリュフォーの映画というのは商業映画であってもどこか私的映画の感じがして、これもトリュフォーのナイーブさが出ていて、「トリュフォーが好き」と言うことを私にためらわせてきたように思います。