命光不動尊のブログ

貴方の知らない神道や仏教の教えが命光不動尊にはあります。

結縁灌頂(けちえんかんじょう)

2015年09月30日 22時08分17秒 | 日記

明日10/1から10/3に高野山にて金剛界結縁灌頂という真言密教の儀式が行われます。

この儀式は御仏の世界を表している曼荼羅に向かって華を投じて仏様と縁を結ばせて頂き(結縁)、

阿闍梨様から大日如来の智慧の水を頭頂より注いで(灌頂)いただく儀式です。

私も十数年前に入壇致しましたが、はじめに密教の戒律をお授けいただけます。また受者は

三昧耶戒の印と真言を伝授されます。そして、その印を結びながら目隠しをします。

全く前は見えませんが、その印を結んだ指先を前にいる人の背中に当てます。前の方が少しすすめば

自分も指先が当たるまで前へ進みます。全くの暗黒の世界ですが、少しずつ歩みを進めて壇に近づいてくると

おもむろに手をつかまれ曼荼羅の前へと導かれます。そして、指先へ華(しきみ)をはさみ、曼荼羅へ投じます。

これを投花得仏(とうけとくぶつ)といいます。曼荼羅へ投じた仏様とご縁を結ぶことになりますが

すべて大日如来と縁を結ぶという形となります。そして、阿闍梨様より如来の智慧の水を注いでいただき

煩悩の闇をさまよう我々に道しるべを与えて頂きます。

この儀式はかなり古くからあり、お大師様が812年11月に京都の高雄山寺にて結縁灌頂をされた記録があります。

この灌頂を受けると血脈、目隠しした紙、しきみ、縁を結んだ大日如来のお印などが頂けます。

 

この血脈でこんなことがありました。

十数年前の5月、胎蔵界の結縁灌頂を受けました。帰りに祖母がずっと入院しておりましたので

病院へ立ち寄りました。実は今日明日にもだめかもというような状態で祖母はずっと苦しんでいましたので

私は高野山で儀式を受けながらも心ここにあらずでした。そんな状況でしたので急いで病室へ行きました。

病室に入って、結縁灌頂で頂いた血脈をそっと胸元へ置いてあげると、とても安らかな顔になりました。

少しするとなにかに導かれるかのようにすーっと息を引き取りました。ほんとに苦しまず、すーっと逝ったのです。

この血脈は旅立つときの通行手形とも言われております。

私が高野山から持って帰ってくるのを祖母は待ってくれていたのだと感じました。

 

お大師様より続く血脈、ご縁がございましたら儀式に参加されお大師様と直接縁を結ばれてはいかがですか。

下の写真は平成15年10月1日の結縁灌頂入壇で頂いたものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

 

 


10/15滝行に行きます

2015年09月30日 09時27分24秒 | 修行(滝行、写経、巡拝、法螺貝・・・)

10/15(木)に滝行希望の信者様と葛城山 役行者 祈りの滝に修行にいきます。

 

滝行してみたい!

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自分に打ち勝ちたい!などなど

 

初心者、経験者を問わず、滝修行したい方を募集いたします。

お気軽にお問い合わせください。


供花

2015年09月30日 05時25分07秒 | ひと口法話

お墓参りのときに、私たちはお花をお供えしますが、そのときの心構えとして大切な一句があります。

 

「香は禅心よりして火を用ゐることなし 花は合掌に開けて春に因らず」

(香りはわざわざ火を用いて焚くものではなく、清らかな心の中に薫るものです。同じように

花は春が来るからつぼみが開くのではなく、正しい心で合掌するその手の中に花は咲くのです)

 

これは学問の神様で知られている菅原道真が詠んだ和歌です。

心がきちんと整っていないのに、いくら高いお線香を買って焚いても効果はありません。

たとえどんなに小さなお香であっても、供える人の清らかな心一つで、とてもよい香りとなります。

同じように、どんなに高価なお花よりも、心から手を合わせる合掌のほうが何よりのご供養となります。

つまり、外に見える部分以上に、花を手向ける人の「心」が何よりも一番大切なのです。

お供えするのは、仏さま、ご先祖様を大切に想う「心」なんです。

供養は心を込めて行いたいものです。

 

花の供養には、仏さまに対するお供えという意味だけでなく、花の供養をする者の心をも清める働きがあるとされています。

花には、供養する人の心をおだやかにし、仏道修行に励む心を助け、その心を養い育てる働きがあるのです。

これは、仏さまに対する供養にさえ、仏さまが大慈悲をお示しになって

「汚れたつらい世界に生きても、この花のように、美しい心の花を咲かせなさい」とお説きになっているのです。

合掌

 


広島県より滝行に

2015年09月29日 14時35分17秒 | 修行(滝行、写経、巡拝、法螺貝・・・)

本日は広島県より滝行体験に男性の方一名がご来寺されました。

この方は、ネットの世界では有名な方らしく(知らなくて申し訳ありません…)、若者の間で人気者のようです。

動画配信されるとのことでカメラマンの方も同行され撮影をされておりました。

本日も滝行は葛城山 祈りの滝です。

 

まず、貞観師が滝への入り方を指導するため、入滝作法を。

山主は火護摩の作法中です。

 

 

 

 

 

 

 

滝行中の貞観師

 

 

 

 

 

 

 

本日の護摩の火です。

 

 

 

 

 

 

 

本日参加のAさん、滝行前に身体のお清め作法をご指導させて頂きました。

水が冷たかったようですが気合いで乗り切られました。

 

滝行中のAさん。

山主から「もうやめるか」の声に、「まだやります」と何度も答えご真言を大声で唱えられておりました。

初めての滝行ですが、しっかりと声を張り上げ、気合も十分。いい行をされました。

 

 

 

 

 

 

 

 滝行後は昨日入った温泉よりも気持ちが良かったとお喜びのご様子で全身がスッキリしたとのことでした。

顔も少しシャープになったような気がするそうです。

これを機に気持ちを新たに、これからもネットユーザーを楽しませてあげてください。

本日はお疲れ様でした。

合掌

 

 

 


仏の子

2015年09月28日 20時54分54秒 | ひと口法話

生きとし生けるものはすべて生まれながらにして仏となりうる素質をもっています。

これを仏教では「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしゆうぶっしょう)」とか

「一切衆生皆仏性(いっさいしゅじょうかいぶっしょう)」とか「仏の子」などといいます。

私たちは生まれたときは赤ちゃんで、そのときには悩みはありません。

まさに「いまここ」だけに生きています。私たちは全員赤ちゃんだったのですから

悟った状態で生まれてきます。

つまり人間は本質的に誰もが最初から悟っているのです。だから仏の子なんです。

悟りとは、生きていく途中、成長していく途中で肥大化してしまった自我・エゴの皮を

ひとつずつ脱いでいく行為です。つまり、悟りはどこか遠い場所にあって到達するものではなく

自分の心の中にある、人としての清らかな心を取り戻すということです。

人生の中には、不幸なときも幸せなときもあるでしょう。誰でも、悩みや問題を抱えてしまうことはあります。

不幸な状況のときにも平気で過ごせる。幸せな状況の時には、大いに幸せを感じられる。

いかなる場合にも幸せな気持ちで生きることが出来るようになれたら、それが悟りの境地なんです。