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再び「奥山にもみぢ踏みわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき」の解釈について

2020-11-26 07:33:21 | 短歌
再び「奥山にもみぢ踏みわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき」の解釈について

 私の住む吉見ではちょうど紅葉が盛りを過ぎて、散り始めています。里山に鹿こそいませんが、もみぢの落ち葉を踏みしめながら歩くのは、えならぬ風情があります。「奥山にもみぢ踏みわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき」(古今集 秋 215)という歌が思い浮かぶのですが、一般には本来の意味はすっかり忘れられ、誤解して理解されています。誤解はそもそも歌の中の「もみぢ」を「紅葉」と理解したり書き換えたりしていることから始まります。現代人にとって「もみじ・もみぢ」は「楓の紅葉」のことですから、そう誤解する利は無理はなく、百人一首の解説者も例外なしにそのように理解しています。
 しかしこの歌の「もみぢ」は楓のもみじではなく、萩の黄色い「黄葉」(もみぢ)のことなのです。多くの人はこのことに気付いていません。「そんなはずはない」と思われるかもしれませんが、歌の解釈というものは、その歌が詠まれた時の言葉の意味によって解釈しなければならないのです。
 そもそも「もみぢ」とは、秋に木の葉が色付くことを意味する「もみづ」という動詞の名詞形ですから、赤や黄色に色付いた木の葉を意味しているのであって、古くは楓のこととは限りません。平安時代にはイチョウは日本にはありませんから、黄色になる木の葉として歌に詠まれたのは、専ら萩でした。これは八代集の秋の歌を片端から読んでみれば明かです。そして萩の黄葉も楓の紅葉と同じように、歌では「もみぢ」と詠まれるのです。ですから古歌の「もみぢ」を解釈する際には、赤か黄色かが判別できる手掛かりがあるならば、十分に留意しなければならないのです。
 そこで前掲の歌なのですが、『古今和歌集』が編纂されるよりも早く、菅原道真が編纂した『新撰万葉集』に収められていて、「奥山丹黄葉踏別鳴鹿之音聴く時曽秋者金敷」と漢字で表記されています。これによってはじめは黄色いもみぢと理解されていたことがわかります。
 「しかしこれだけでは、萩とはわからないではないか」と思われるでしょう。しかし古歌の世界では、「梅に鴬」、「蛙(河鹿蛙)に山吹」というように、相性のよい動物と植物の組み合わせがありました。それが「萩には鹿」だったのです。鹿と萩と言っても現代人にはピンと来ませんが、古歌を詠む程の人には、梅に鴬と同じように、それ以外の組み合わせは考えられない程の定番でした。古歌には鹿と萩を一緒に詠み込んだ歌は、数えきれない程にたくさんあるのに、鹿と楓のもみぢを呼んだ歌は、私が調べた中では、八代集に2首しかありません。『古今和歌集』の編者自身もこの歌の「もみぢ」を萩のもみぢと理解していたことは、その編集順を見れば明らかです。一連の秋の鹿の歌があるのですが、この歌は鹿の歌として並べられているのです。  しかしそれならなぜ鹿と紅葉になってしまったのでしょうか。その「犯人」は百人一首を選んだ藤原定家の可能性があります。彼が書いた百人一首の史料を確認できないので、ひょっとしたら彼より後の人がろくに古歌を読まずに、「もみぢ」と平仮名で書かれていたものを「紅葉」と書いてしまい、そのまま現在まで伝えられた可能性も否定は出来ませんが・・・・。定家が百人一首を選んだ時に「もみぢ」を「紅葉」と書き換えてしまったとは断定できませんが、百人一首から派生した花札が、鹿と紅葉であることからすれば、百人一首がその誤解に関わっていることは間違いないでしょう。
 それにしてもこの歌の解釈について、萩の黄葉のことにまで触れているものは極めて稀です。解説者はこの歌だけ一首を歌集から取り出し、辞書によって逐語訳のように説明するから、そのようになってしまうのです。なぜ歌集全体の中で類似の歌と比較しながら解釈しようとしないのでしょうか。そもそも和歌集の歌の並べ方には、編集者の意図があるのです。勅撰和歌集などの季節の歌の場合は、時の移ろう順に同じ景物を詠んだ歌をまとめて並べられていますから、順に読んでみると、編者が季節の移ろいをどのように理解していたかを読み取ることができます。ですから一首だけ取り出して解釈しようとすると、編者の意図するところを理解できないことがあるのです。百人一首はまさに一首だけを取り出して100首集めたものですから、そのような誤りをしてしまいがちなのです。
 古語の「もみぢ」は、現代のカエデのもみじではなく、本来は葉が色付くという意味であり、紅葉も黄葉も同じくもみぢと表現されたということは、古典和歌を専門に学ぶ人にとっては、初歩的なことではありませんか。一般の人がもみぢは紅葉であると思うのは無理もありません。しかし敢えて厳しいことを言いますが、古歌の解釈を公表しようとする程の人ならば、知っていて当然のことなのです。
 今さら百人一首が誤りだと言ってももう時効でしょうが、『古今和歌集』の解釈については正確でなければなりません。古歌の解釈については、たとえ現在に普通に使われている言葉でも、当時の言葉の理解によって解釈をしなければならない。単純なことですが、古歌を学ぶうえでは絶対に踏みはずしてはならないことなのです。






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