以前、「盆踊りの起原」と題した拙文を公開していましたが、新史料によりさらに補足しましたので、あらためて書き直しました。
地域共同体の夏祭の一つとして、いわゆる「盆踊」が行われていますが、その起原については、盂蘭盆会に招き寄せる精霊を供養するために踊ったことに始まると、ほとんどの年中行事解説書に説かれています。しかしかれこれ半世紀にわたり江戸時代の歳時記や辞書類を読んでいますが、未だかつてそのような文献を見たことがありません。江戸時代の文献は一生かかっても読み切れない程あるのですから、私の見落としや勘違いの可能性もありますが、広く共有されていたものではないことはまず間違いありません。
そもそも盆踊には様々な要素が含まれていて、その起原と由来は単純なものではありません。仏教と踊の結び付きと言えば、思い当たるのは時宗の開祖一遍が創始した踊念仏です。これは念仏を称えながら踊るのですが、一遍上人語録である『播州法語集』に「念仏が念仏を申すなり」と言われた程に阿弥陀如来と一体となる狂おしいほどの法悦の中で無我になって踊るもので、芸能的要素など入り込む余地は微塵もありません。また「一遍上人絵伝」に描かれた踊り手の所作はばらばらであり、統一された振り付けがなかったことが確認できますから、みなそれぞれに勝手に踊り狂っていたのです。
室町時代になると次第に芸能的な要素が強められ、念仏踊に変質します。踊念仏は地域によっては現代まで伝えられていて、これが盆踊の起原に関わっていることは確かであると考えられるのですが、それ以上のことになるとわからないのです。盂蘭盆に踊ることは室町時代には始まっていますから、念仏踊りが盂蘭盆に踊られている当時の史料がなければならないのですが、それを確認することはできません。現在、盂蘭盆に念仏踊りをしているところがあることを根拠にしていることがあるのですが、それはあくまでも現代の資料です。推定する仮説的根拠にはなるでしょうが、どこまで遡るのかを証明できないからです。
室町時代の伏見宮貞成(さだふさ)親王の『看聞御記』という日記の永享三年(1431)七月十五日には、伏見即成就院における風流踊が記述されているのですが、これが盂蘭盆に踊ったことを示す最初の文献なのです。その頃流行した風流踊とは、鉦・笛・太鼓の伴奏に合わせて、派手な衣装を纏った人々が乱舞するもので、踊自体は精霊供養とは全く無縁です。その後も室町時代の公家の日記類からは、盂蘭盆の頃の踊の記録を数え切れない程探し出すことができます。『実隆公記』という公家の日記の永正二年(1505)七月十六日には、「夜に入り所々踊躍、言語道断」、十七日には「夜に入り所々踊躍、又超過」と記されていて、京中で市民が熱狂的に踊っていたことがわかります。同じく『言継卿記』という日記の永禄から元亀年間の七月中頃の記述には、毎年のように京市中の風流踊を見物した記述があります。いずれも盂蘭盆の期間中であり、明らかに盆踊りであることを確認できます。
この風流踊りについては、何と織田信長が率先して踊ったという記録があります。信長に近侍していた太田牛一が晩年に著した『信長公記』には、弘治二年(1556)七月十八日、織田信長が尾張国津島村で盛大に催した踊りの会の様子が、詳細に記述されています。家臣達は「赤鬼・黒鬼・餓鬼・地蔵・弁慶・鷺」に扮し、信長は「上総介殿は天人の御仕立に御成り侯て、小鼓を遊ばし、女おどりを成され侯」というはしゃぎようで、予期せぬ余興に大喜びした村人達は、信長の居城の清洲までやって来て、「おどりの返し」(お礼の踊り)を見せに来ました。大喜びした信長は、一人一人に言葉をかけ茶を振る舞ったので、村人は感激して涙を流しながら帰って行ったと記されています。厳しいことで知られている「御領主様が声を直々に掛けてお茶まで振る舞って下さった」のですから、無理もありません。
江戸時代になると前代以来の風流踊りに、七夕に少女達が踊ったという七夕踊や小町踊など、さまざまな要素が融合します。そして大人の仮装にによる熱狂的な踊りから、子供、とくに女の子の踊りへと、次第に変化していったのです。またそれぞれの地域に独特の踊が融合することもあったでしょうから、とても全国一律に一括りにすることはもともとできない相談なのです。
盆踊りは江戸時代の前期には盛んでしたが、次第に衰えてきたことが史料で確認できます。天保の頃の『東都歳時記』には、「盆の中、市井の女児街に連りて歌唄ひあるく事、夜毎にかまびすし。唱歌はしるすにたえず。但し盆踊の余風なるべし。・・・・享保二十年開板の続江戸砂子に云、小町踊、十二三以下の小女、腰帯やうの物を襟にかけ襷(たすき)とし、団扇太鼓とてうちはの如くなる太鼓に拍子をとりて諷ふ。踊るにあらず、ただむかりてあゆみ行なり。男子は此事をなさず云々」と記されています。さらに女児がうるさい程にたわいもない歌を歌いながら通りを歩くが、それは盆踊の名残であるとも記されています。子供向け年中行事解説書『五節供稚童講釈』にも、元禄期までは大流行したが、その後はぱたっと止んでしまい、百年このかた江戸には、盆踊は地を払って見ないこと、ただ女児が手を繋いで歌い歩くことだけが残っている。また子供が手を繋いで歌い踊りながら他所の町に踊を掛けに行ったり、またその逆に踊を掛けられたりすると記されています。また天保頃の『守貞謾稿』にも「大坂は四、五十年前までは盛んに行はれ、その後やうやくに衰へ、昔のごとくにあらずといへども、なほ十数の女児これを行ふ。・・・・江戸は・・・・京坂のごとく盛んならず」と記されていて、わずかに女児が手を繋いで踊り歩くことくらいが行われていたようです。『浮世風呂』第四篇「秋の時候」の冒頭部には、長々と女児達の盆踊の様子が活写されています。そこには、下は六歳くらいから、上は十五歳くらいまでの娘達十数人が行列を組み、その前後に乳母などが保護のために付き添って、盆唄を歌いながら歩いて行くこと、また江戸ではかつて盆踊が流行ったが、今ではすっかり廃れていると記されています。とにかく江戸時代の後半には盆踊りは下火になり、女の子が手をつないで歌いながら踊るでもなく歩くでもなく、という程度だったようなのです。
明治時代になると盆踊りはさらに廃れていきました。『東京風俗志』(1899)には盆踊の記述はなく、『東京年中行事』(1911)には、風俗・衛生上の問題により地方の盆踊が年々禁止されつつあること、東京の佃島で催された盆踊が新聞で大きく採り上げられたことが「飛び立つように嬉しい」と記述されています。盆踊が珍しいものとなる程でったのです。風俗上の問題とは、おそらく男女の出会いの場となっていたことによるものでしょう。
以上のことから考えるに、江戸時代の初めには盛んであったものが、次第に女児の行進形の踊を除いてあまり行われなくなり、明治時代にはそれすら廃れていたようである。復活するのは大正以後のことでしょう。昭和の戦時中は踊ること自体が憚られたでしょうから、今日のように櫓を中心に輪になって、浴衣姿の老若男女が「○○音頭」「○○節」を踊る盆踊は、それ程古いものではなさそうです。文献史料で見る限り、盆踊は民俗学者が唱えるような精霊慰霊の踊ではなかったことは確かなのです。
地域共同体の夏祭の一つとして、いわゆる「盆踊」が行われていますが、その起原については、盂蘭盆会に招き寄せる精霊を供養するために踊ったことに始まると、ほとんどの年中行事解説書に説かれています。しかしかれこれ半世紀にわたり江戸時代の歳時記や辞書類を読んでいますが、未だかつてそのような文献を見たことがありません。江戸時代の文献は一生かかっても読み切れない程あるのですから、私の見落としや勘違いの可能性もありますが、広く共有されていたものではないことはまず間違いありません。
そもそも盆踊には様々な要素が含まれていて、その起原と由来は単純なものではありません。仏教と踊の結び付きと言えば、思い当たるのは時宗の開祖一遍が創始した踊念仏です。これは念仏を称えながら踊るのですが、一遍上人語録である『播州法語集』に「念仏が念仏を申すなり」と言われた程に阿弥陀如来と一体となる狂おしいほどの法悦の中で無我になって踊るもので、芸能的要素など入り込む余地は微塵もありません。また「一遍上人絵伝」に描かれた踊り手の所作はばらばらであり、統一された振り付けがなかったことが確認できますから、みなそれぞれに勝手に踊り狂っていたのです。
室町時代になると次第に芸能的な要素が強められ、念仏踊に変質します。踊念仏は地域によっては現代まで伝えられていて、これが盆踊の起原に関わっていることは確かであると考えられるのですが、それ以上のことになるとわからないのです。盂蘭盆に踊ることは室町時代には始まっていますから、念仏踊りが盂蘭盆に踊られている当時の史料がなければならないのですが、それを確認することはできません。現在、盂蘭盆に念仏踊りをしているところがあることを根拠にしていることがあるのですが、それはあくまでも現代の資料です。推定する仮説的根拠にはなるでしょうが、どこまで遡るのかを証明できないからです。
室町時代の伏見宮貞成(さだふさ)親王の『看聞御記』という日記の永享三年(1431)七月十五日には、伏見即成就院における風流踊が記述されているのですが、これが盂蘭盆に踊ったことを示す最初の文献なのです。その頃流行した風流踊とは、鉦・笛・太鼓の伴奏に合わせて、派手な衣装を纏った人々が乱舞するもので、踊自体は精霊供養とは全く無縁です。その後も室町時代の公家の日記類からは、盂蘭盆の頃の踊の記録を数え切れない程探し出すことができます。『実隆公記』という公家の日記の永正二年(1505)七月十六日には、「夜に入り所々踊躍、言語道断」、十七日には「夜に入り所々踊躍、又超過」と記されていて、京中で市民が熱狂的に踊っていたことがわかります。同じく『言継卿記』という日記の永禄から元亀年間の七月中頃の記述には、毎年のように京市中の風流踊を見物した記述があります。いずれも盂蘭盆の期間中であり、明らかに盆踊りであることを確認できます。
この風流踊りについては、何と織田信長が率先して踊ったという記録があります。信長に近侍していた太田牛一が晩年に著した『信長公記』には、弘治二年(1556)七月十八日、織田信長が尾張国津島村で盛大に催した踊りの会の様子が、詳細に記述されています。家臣達は「赤鬼・黒鬼・餓鬼・地蔵・弁慶・鷺」に扮し、信長は「上総介殿は天人の御仕立に御成り侯て、小鼓を遊ばし、女おどりを成され侯」というはしゃぎようで、予期せぬ余興に大喜びした村人達は、信長の居城の清洲までやって来て、「おどりの返し」(お礼の踊り)を見せに来ました。大喜びした信長は、一人一人に言葉をかけ茶を振る舞ったので、村人は感激して涙を流しながら帰って行ったと記されています。厳しいことで知られている「御領主様が声を直々に掛けてお茶まで振る舞って下さった」のですから、無理もありません。
江戸時代になると前代以来の風流踊りに、七夕に少女達が踊ったという七夕踊や小町踊など、さまざまな要素が融合します。そして大人の仮装にによる熱狂的な踊りから、子供、とくに女の子の踊りへと、次第に変化していったのです。またそれぞれの地域に独特の踊が融合することもあったでしょうから、とても全国一律に一括りにすることはもともとできない相談なのです。
盆踊りは江戸時代の前期には盛んでしたが、次第に衰えてきたことが史料で確認できます。天保の頃の『東都歳時記』には、「盆の中、市井の女児街に連りて歌唄ひあるく事、夜毎にかまびすし。唱歌はしるすにたえず。但し盆踊の余風なるべし。・・・・享保二十年開板の続江戸砂子に云、小町踊、十二三以下の小女、腰帯やうの物を襟にかけ襷(たすき)とし、団扇太鼓とてうちはの如くなる太鼓に拍子をとりて諷ふ。踊るにあらず、ただむかりてあゆみ行なり。男子は此事をなさず云々」と記されています。さらに女児がうるさい程にたわいもない歌を歌いながら通りを歩くが、それは盆踊の名残であるとも記されています。子供向け年中行事解説書『五節供稚童講釈』にも、元禄期までは大流行したが、その後はぱたっと止んでしまい、百年このかた江戸には、盆踊は地を払って見ないこと、ただ女児が手を繋いで歌い歩くことだけが残っている。また子供が手を繋いで歌い踊りながら他所の町に踊を掛けに行ったり、またその逆に踊を掛けられたりすると記されています。また天保頃の『守貞謾稿』にも「大坂は四、五十年前までは盛んに行はれ、その後やうやくに衰へ、昔のごとくにあらずといへども、なほ十数の女児これを行ふ。・・・・江戸は・・・・京坂のごとく盛んならず」と記されていて、わずかに女児が手を繋いで踊り歩くことくらいが行われていたようです。『浮世風呂』第四篇「秋の時候」の冒頭部には、長々と女児達の盆踊の様子が活写されています。そこには、下は六歳くらいから、上は十五歳くらいまでの娘達十数人が行列を組み、その前後に乳母などが保護のために付き添って、盆唄を歌いながら歩いて行くこと、また江戸ではかつて盆踊が流行ったが、今ではすっかり廃れていると記されています。とにかく江戸時代の後半には盆踊りは下火になり、女の子が手をつないで歌いながら踊るでもなく歩くでもなく、という程度だったようなのです。
明治時代になると盆踊りはさらに廃れていきました。『東京風俗志』(1899)には盆踊の記述はなく、『東京年中行事』(1911)には、風俗・衛生上の問題により地方の盆踊が年々禁止されつつあること、東京の佃島で催された盆踊が新聞で大きく採り上げられたことが「飛び立つように嬉しい」と記述されています。盆踊が珍しいものとなる程でったのです。風俗上の問題とは、おそらく男女の出会いの場となっていたことによるものでしょう。
以上のことから考えるに、江戸時代の初めには盛んであったものが、次第に女児の行進形の踊を除いてあまり行われなくなり、明治時代にはそれすら廃れていたようである。復活するのは大正以後のことでしょう。昭和の戦時中は踊ること自体が憚られたでしょうから、今日のように櫓を中心に輪になって、浴衣姿の老若男女が「○○音頭」「○○節」を踊る盆踊は、それ程古いものではなさそうです。文献史料で見る限り、盆踊は民俗学者が唱えるような精霊慰霊の踊ではなかったことは確かなのです。
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