以前、「牡丹餅とお萩(流布説の誤り)と題して拙文を公表していましたが、さらに考証を加えて改訂しました新史料を加えてさらに再改訂しましたので、以前の文を破棄して新たに公開します。ネット上には「春は牡丹餅、秋はお萩」という出鱈目な説が大手を振って歩いています。そのような解説をネット上や著書に書いている人たちは、江戸時代の文献を直接読みもしないで、適当にコピーしているとしか思えません。今回はそれがいかに出鱈目かを検証するために、くどい程に根拠となる文献史料を上げながら説明しています。もちろん私の説に誤りがあるかもしれません。なにしろ江戸時代の文献史料は、一生かかっても読み切れない程あるのですから、見落としや誤解もあることでしょう。そのような場合はご遠慮なく誤りを御指摘下さい。
彼岸の行事食は、牡丹餅(ぼたもち)とお萩ということになっています。実態はほぼ同じようなものでありながら、呼称が異なる理由として、一般には春の彼岸の頃に咲く牡丹の花に似ているから牡丹餅、秋の彼岸の頃に咲く萩の花に似ているからお萩、ということになっています。中には夏には夜舟、冬には北窓と呼ばれたというという説明まであります。また粒餡(つぶあん)と漉餡(こしあん)によって区別するという説もあり、その他にも地方によって様々な呼称とその理由があり、何が本当なのかすっかりわからなくなっています。しかし秋の彼岸の頃の萩の花は時期としては問題ありませんが、春の彼岸の頃には牡丹の花は咲きません。普通は4~5月にかけて咲くものですから、牡丹と萩が咲く時期に合わせた呼称であるという説明には無理があります。江戸時代の歳時記には、一つの例外もなく牡丹は夏の花とされています。「牡丹の花の咲く頃に食べるので牡丹餅という」と説いている人にお尋ねしたい。江戸時代の人は、誰一人そんなことは考えていないことを、どの様に説明するのですか。また現在は春の彼岸と秋の彼岸に食べるものと理解されていますが、そもそも江戸時代には、彼岸に牡丹餅やお萩を食べる風習が記録されている文献は、江戸後期の天保年間に執筆された『守貞謾稿』『馬琴日記』が最初で、それ以前には彼岸の行事食ではありませんでした。ただし江戸時代初期に、彼岸に菓子を贈答する習慣があったことは、当時の歳時記で確認できます。
そこでこの謎を解くために、牡丹餅やお萩について記述されている江戸時代の文献を古い順に並べ、手当たり次第に読んでみました。
まずは慶長八年(1603年)から翌年にかけて長崎で出版された『日葡辞書』(日本語とポルトガル語の辞書)には、Faguino Fana(萩の花)の見出しに続いて、「中に碾(ひ)きつぶした豆の入っている一種の小さな米の餅。これは婦人語である。」と記されています。残念ながら牡丹餅は収録されていません。当時はまだ「牡丹餅」という名前がなかったのかもしれません。餡を中に入れるというのが、実際にその通りなのかどうかはわかりません。とにかく季節による使い分けはは記されていないことを確認しておきます。
元禄五年(1692年)以後、改訂されながらも幕末まで出版され続けた『女重宝記』という女性用教育書には、巻一に「女ことばつかいの事」と題して、女言葉の一覧表が記されています。その中に「一、ぼたもちは、やわやわとも、おはぎとも」と記されているのです。ここでは、季節により呼称が異なるのではなく、話す人の性別により呼称が異なっていたことを確認しておきましょう。
元禄十年(1697年)に出版された江戸時代の日本の食物大事典とも言うべき『本朝食鑑』(巻二、餅附録「母多餅」)には、「擂鉢で擂って団子状にし、小豆餡かきな粉をまぶして食べる。「萩の花」とも呼ぶ。その様は半ば(米の?)粒が残り、白萩の花房に似ている。また赤豆餡をまぶすと、紅紫色の萩の花房のようであるので、「萩の花」と名付ける。一名「隣知らず」ともいうが、搗いたか搗かないか隣家ではわからないという意味である。また一名「夜舟」ともいうが、暗くて着いたか着かないかわからないことによる。またこの餅は庶民の食べ物であって、貴人はあまり食べない」、と記されています。ここではきな粉をまぶすこともあったこと、米粒が半ば残っていることが、白萩に似ていること、餡をまぶすと紅色の萩の花に似ていること、上流階級の食べ物とは見做されていないことなとを確認しておきます。また『本朝食鑑』は江戸時代最大の食物事典ですから、これに季節の使い分けが記載されていないということは重要なことです。
史料「牡丹餅」
①「母多餅、糯粳を用ひて相合せ、蒸熟して飯を作り、擂盆(すりばち)中に入れてこれを磨る。取出し手を摸して団餅に作り、蒸小豆の泥(餡のことか?)を抹(まぶ)し、或は炒豆粉(きなこ)を抹(まぶ)して食す。一名萩花(はぎのはな)、その状半泥半粒、白萩の花の窠(はなぶさ)を作るに似る。その蒸赤豆の泥を抹すは、紅紫の萩花の窠を作るが如し。故に名づく。一名隣知らず、言(いい)はこの餅搗がごとくして搗かず。故に隣家この餅を造るを知らず。故に名づく。一名夜舟。言は暗中舟の著くや著かざるやを知らず。・・・・およそこの餅ただ民家の食にして、貴人の食となす者少し。」(『本朝食鑑』巻二、餅附録)
正徳二年(1712年)に出版された大百科事典とも言うべき『和漢三才図会』には、牡丹餅の見出しのもとに、「萩花と書いてはぎのはなと読むこと。きな粉か小豆餡をまぶすこと。牡丹餅や萩花という呼称は、その形と色によること。また隠語で夜舟・主(との)の連歌とも言うこと。「主の連歌」とは、(前句に)付いていなくても(家来達は「ツイている」と言って)これを用いるという意味である。」と記されています。「着く」「付く」と「搗く」を掛けていることはすぐにわかります。またネット上には牡丹餅が漉餡で、お萩が粒餡であるという解説がありますが、『和漢名三才図会』の挿図には、稚拙な図ですが粒餡のように見えます。
史料「牡丹餅」
②「牡丹餅、保太毛知、萩花、波岐乃波奈、按ずるに牡丹餅は粳糯の米を以て相襍を、柔なる飯に炊き、雷盆(すりばち)を以て略(ほぼ)これを擂(す)り擣(つ)き、手を摸(さぐ)りて円餅と為す。炒豆の粉(きな粉)を糝(まぶ)して黄と為し、或は赤小豆の泥を糝して紫色と為す。所謂(いわゆる)牡丹餅及び萩花は、形色を以て之を名づく。今人、名を隱し夜舟と為す。言(こころ)は、其の着くことを知らざればなり。また主(との)の連歌と名づく。言は、附かずと雖もこれを用ふ。」(『和漢三才図会』巻百五)
天文暦学者である西川如見が享保四年(1719年)に著した『町人嚢』という町人のための教訓書には、現在持てはやされている料理でも、昔は賤しい物とされていたり、またその反対の物があるとして、ぼた餅について記されています。それによれば、「今のぼたもちと言うものは、公家方は萩の餅と呼び、女房衆も食べている。昔はかい餅とも呼ばれていた。当世では大切な客人にはぼた餅などは下品な食べ物であるから、恥ずかしくて出すこともできない。」というのです。つまり牡丹餅と萩の餅は同じものなのですが、萩の餅は上流階級の使う言葉であって、牡丹餅は庶民の言葉であるというわけです。公家衆は萩の餅なら食べるのでしょうが、同じ物でも、牡丹餅と呼ばれると、賤しい物と見做されていたことがわかります。これは牡丹餅の呼称について、重要なヒントを示しています。つまり「ぼた」と言う言葉が本来は賤しいことを意味するものであり、それを「牡丹」という字を宛てて、隠しているということなのです。牡丹餅が賤しい物と理解されていたことを示す史料は他にもあり、見過ごすことはできません。
史料「牡丹餅」
③「今のぼたもちと号するものは、禁中がたにては萩の花といひて、女中などもきこしめすと也。いにしへのかいもちといへるも萩の花の事也。・・・・今の世に少慇懃なる客人などには、ぼたもちなどは中々恥かしくて出されぬ事におぼへたり。」(『町人嚢』)
享保十三年(1728年)に出版された『軽口機嫌嚢』という書物には、春は黄色い物を菜種・赤い物を土筆、夏は牡丹餅、秋は萩の花、冬は丸めるので雪礫(つぶて)。その外、妹背の仲(契ると千切るを掛ける)、奉加帳(寺社への寄付を記す帳面、付く家もあり、付かない家もあるという意味)、大坂では夜舟と言うと記されています。話の筋は、物知りの客が牡丹餅を振る舞われた際に、蘊蓄を傾けて語ったという設定です。もともとこの書物は、面白可笑しい小話を集めた書物ですから、あくまで言葉遊びとしての呼称であって、実際に広く共有されていたなかったことを逆説的に証明しているようなものです。
史料「牡丹餅」
④「ものの名も所によりて。ぼたもちを振舞たれば、客人はしをとりなおし、子細らしく、此もちにはいろいろの名がある。御ぞんじか。春は黄なれば菜種、赤ひをつくし(土筆?)、夏はぼたもち、秋ははぎのはな、冬は雪つぶて、まるめろといふ心。その外、いもせ(妹背)の中とはとなりしらずにちぎる。寺がた(方)では奉加帳、ついた所もつかぬところもあるによっていへり。聞へたのは、大坂で夜ふねといふのじゃ。心はの、はて、となりしらずにつくと。(『軽口機嫌嚢』)
享保十九年(1734年)に出版された『本朝世事談綺(ほんちようせじだんき)』(世事談)には、賤しい庶民的な食べ物であるから、客人には振る舞えない。「牡丹の形に似ているので牡丹餅と名付け、また萩の花、かい餅ともいう」と記されています。もちろん季節の使い分けは記されていません。堂上方、つまり公家衆は今でも食べてはいますが、どうも牡丹餅ではなく、萩の餅と称しているとも解釈できそうです。
史料「牡丹餅」
④「ぼた餅はむかしははなはだ賞翫せし物なれども、今はいやしき餅にして、杉折提重には詰がたく、晴なる客へは出しがたし。牡丹のかたちに似たるにより、牡丹餅と名付。又萩の花、かい餅ともいふ。堂上方には今とても御賞翫あるよし也。」(『本朝世事談綺(ほんちようせじだんき)』)
安永四年(1775年)に出版された『物類稱呼(ぶつるいしようこ)』という全国の方言辞典には、「お萩」という呼称は、女性が使う女言葉であり、粒の残っている餡をまぶした様子が、萩の花が乱れ咲いているように見えることによる呼称であると記されています。また半殺し程度に搗くので、周囲の家に餅を搗く音で気が付かれることもなく、「夜舟」「隣しらず」「奉加帳」ともいうと記されています。ここでも季節による使い分けは記されていません。奉加帳とは、寺社の造営や修繕に際して、寄進をした人の名前を書き連ねた帳面のことで、印をついて寄進する人と、しない人がいる、という意味です。また漉餡ではないことも確認できます。
史料「牡丹餅」
⑤「牡丹餅、ぼたもち、又はぎのはな、又おはぎといふは女の詞(ことば)なり。関西および加州にてかひもちと云。豊州にてははぎ餅と云。・・・・ 今按ずるに、ぼた餅とは、牡丹に似たるの名にして、・・・・萩のはなは、その制煮たる小豆を粒のまま散しかけたるものなれば、萩のはなの咲みだれたるが如しとなり、よって名とす、・・・・或は夜舟といふは、いつの間につくともしれぬと云意なり。又隣しらずといふも同じ意なるべし。奉加帳とは、つく所も有つかぬ所も有といふ心也。」。(『物類稱呼(ぶつるいしようこ)』)
天保十四年(1843年)に出版された『世事百談(せじひやくだん)』という随筆には、大皿にたくさん盛り付けた様子が、大きな花びらが重なって咲いている牡丹の花に似ているので牡丹餅というと記されています。また「萩の花」は丸めるのではなく、器に盛って小豆餡をかけただけのものとしています。つまり団子状の牡丹餅と、器いっぱいに盛られた萩の餅の形状を区別しています。
史料「牡丹餅」
⑥「ぼた餅は牡丹餅と書けるが正字にて、かのあんをつけたる餅を、盆に盛りならべたる形の、牡丹花のごとくなれば、見たてて名をおふせしなり。一名を夜舟といへり。その意(こころ)は、いつ着くやらしらぬといふことなりといふ隠語なり。また円めずに器にもりてその上に小豆のあんをかけたるを萩の花といふ。女詞にはおはぎともいへり。これは萩の花に似たればなり。下総の辺にては俗にかい餅といふ。これは餅のうちにてことさらにやはわかなるをもて、粥餅(かゆもち)の訛(あやま)れるなりといへり。」(『世事百談(せじひやくだん)』巻四)
天保年間から幕末に執筆された『守貞謾稿』には、前掲の『本朝世事談綺(ほんちようせじだんき)』を引用して、はっきりと「牡丹の形に似たるにより牡丹餅と号(なづ)けり」と記されています。また同書にはさらに「今江戸にて彼岸等には、市民各互にこれを自製して、近隣音物(贈り物)とするなり」と記されていて、彼岸に牡丹餅を贈り合う風習があったとされています。この記事は、牡丹餅と彼岸が結び付く史料として大変重要です。
史料「牡丹餅」
⑦「牡丹餅、世事談には賤品として折詰にならずと云へり。今は却て此精製ありて折詰にもすることあり。名賤く製美なるを興とする。これも奢侈の一つなり。また今江戸にて彼岸等には、市民各互にこれを自制して、近隣音物とするなり。蓋これは凡製のみ
」(『守貞謾稿』後集巻一)
旧暦10月(亥の月)の最初の亥の日に、亥の子餅を作って食べ、子孫繁栄を祈る「亥の子」という行事があったのですが、この亥の子餅を詠んだ川柳は数え切れない程あるのですが、牡丹餅はあっても萩の餅は見つかりません。旧暦10月は冬なのに、全て牡丹餅ばかりです。現在に伝えられている川柳は夥しい数ですから、私の見落としもあるかもしれません。しかし現代流布している季節による呼称の使い分けが正しいのなら、冬の行事ですから牡丹餅であってはならないはずです。このこと一つ取っても、季節による使い分け説は、誤りとしか言いようがありません。
史料「牡丹餅」
⑧「ぼた餅も精進落をゐのこ(亥の子餅)にし」(『誹風柳多留拾遺』11-23)
一方、季節による使い分けの史料的根拠を探しに探して、ようやくいくつか見つけました。まずは谷川士清(たにがわことすが)の著した『和訓栞(わくんのしおり)』がよく知られています。それによれば、「かいもち・・・・一縉紳(身分の高い公家)の戯談に、牡丹餅は春の名也、夜船は夏の名也、萩の花は秋の名也、北窓は冬の名也。夜船は著くを知らず。北窓は月入らずとぞ。賤者は隣知らずといふ。」と記されています。北窓は「月入らず」と「搗き要らず」を掛けているわけです。江戸時代の和本で直接確認していますので、間違いありません。しかし知識人が戯れに言葉遊びとして紹介したということは、逆に四季による使い分けが普及していなかったことの傍証になっています。誰もが知らないことだからこそ、蘊蓄を傾け得意顔で解説するからです。ネット上には、いかにも自分で読んだかの如く、「和訓栞には・・・・と記されています」と書いてあるのですが、実際に自分で確認している人はほとんどいないでしょう。ネットで写真版を閲覧できますから、「かいもちひ」の項を検索してみて下さい。「一縉紳の戯談に、」という部分を読まないから、季節による呼称の使い分けが普通に行われていたと、勘違いしているのです。原典に当たって確認するという手間を惜しみ、出鱈目な知識を振り回すことはして欲しくありません。
また18世紀半ばに山口幸充という神道家が著した『嘉良喜(からき)随筆』という随筆に、「ぼたもちは、牡丹餅の略也。扨其(さてその)牡丹餅、萩の花、今通称すれども、春は牡丹餅、秋は萩の花と呼べし。」(『日本随筆大成』第一期21巻、384ページ)と記されていました。しかし、春秋の呼称を区別すべしというのは、これも逆にそうは呼ばれていなかったことを示唆しています。また『鶉衣(うずらごろも)』という俳文集に「お萩の花に秋もたけて」という記述があり、秋とお萩が結び付いていました。
明治時代以後になると、季節の使い分けが普通になります。明治三十四年(1901年)の『東京風俗志』には、彼岸には「萩の餅」を食べることが記されています。明治四十四年(1911年)に出版された『東京年中行事』には、春の彼岸には「牡丹餅」、秋の彼岸には「萩の餅」を食べるという記述があります。また同書には「餅の名や秋の彼岸は萩にこそ」という子規の俳句が収録されていますから、江戸時代最末期から明治時代の間に、季節による使い分けが始まった可能性があります。ただ明治期の両書には「萩の餅」とは記されていても、「お萩」ではありません。
さて散々に史料を読み散らかしてすみません。そろそろまとめてみましょう。江戸時代の史料によれば、春と秋の季節による呼称の使い分けは、一部の隠語としては存在しても、広く共有されていたことを裏付けられませんでした。牡丹餅や萩の花という呼称は、ほとんどの史料が色や形や盛付け方などの見た目によるとしていました。また「萩の花」、特に「お萩」は女詞であるとされ、また下賤な食べ物という理解も少なくありませんでした。また小豆餡だけではなく、きな粉をまぶす場合もありました。史料の解読にだいぶ手間取ってしまい申し訳ありませんでしたが、「春は牡丹餅、秋はお萩」という流布説があまりにも普及しているため、これくらいくどい程の史料的裏付けをしなければ、信じてもらえそうもなかったからです。
ただこれでもなお大きな疑問が残ります。それはなぜ下賤なものと理解されていたか、ということです。それを解くヒントは、『守貞謾稿』の「名賤く製美なるを興とする」という表現にありそうです。つまり名前が賤しいと言っているのです。そこで「ぼた餅」の「ぼた」を江戸時代の分厚い『俚言集覧(りげんしゆうらん)』という国語辞書で調べてみると、
「ぼた・・・・物の円(まろや)かに柔らかく重き意」と記されていて、まさに牡丹餅の形を形容しています。また『誹風柳多留』の第五編-5に、「ぼたもちとぬかしたと下女憤り」という川柳があり、『日本国語大辞典』の「ぼたもち」の説明文「顔が丸く大きく不器量な女性をあざけっていう語、牡丹餅顔、お多福」を裏付けています。また原典をまだ直接確認していないのですが、同辞典には、「ぼたもちを算盤で押えた面(つら)」という句の説明として、「あばただらけのみにくい顔のたとえ」と説明し、出典として「洒落本 嘉和美多里」を上げています。また「ぼたもち顔」の例として、「歌舞伎・芽出柳緑翠松前」の「声はあんなにいい声だが、顔はぼっちゃり牡丹餅顔」という台詞を上げています。私はまだ確認できていませんが、同辞書の権威を考えれば、間違いないところでしょう。
これで漸く牡丹餅が下賤しい食べ物とされていたことの理由がわかりました。『本朝世事談綺(ほんちようせじだんき)』に、「いやしき餅にして、杉折提重には詰がたく、晴なる客へは出しがたし。・・・・堂上方には今とても御賞翫あるよし也。」と記されていましたが、賤しいにもかかわらず公家衆が今も食べている理由も推測できます。彼等は賤しい「牡丹餅」という呼称では食べませんが、いかにも雅な「萩の餅」なら食べていたのでしょう。味が賤しいのではなく、名前が賤しいだけですから。そして女房衆はさらに「お萩」と呼んでいたと理解できます。
これで漸く一段落と思いきや、なお疑問が残っています。『日本国語大辞典』で「ぼた」と検索すると、「萩の異称」と記されていて、松尾芭蕉の「哀いかに宮城野のぼた吹凋るらん」という句を例として上げています。そうすると考えられることは、まず初めに「萩の餅」という名前があり、萩の異称である「ぼた餅」が派生し、萩という花の名前に合わせて「ぼた」に「牡丹」を当てて「牡丹餅」という名前となった、ということです。そうだとすれば、1604年の『日葡辞書』に萩の花は載っていても、牡丹餅は記載されていなかったことも合点がゆきます。
最後にこの仮説を裏付ける史料を御紹介しましょう。前掲の『俚言集覧(りげんしゆうらん)』という国語辞典で「牡丹餅」と検索すると、『屠龍工随筆』を引用して次のように記されています。「かひ餅をほた餅といふ。牡丹餅といふ事なりとおもひしに、さにはなく、はぎをほたといへは、直にはぎもちと云事にて、おはぎの花といふと同し事なりと、上達部(かんだちめ)の娘の今は老女となられしが語られし」、というのです。「上達部」とは公卿などの上級公家のことですから、公家の家に育った女性が、「ぼた」とは「萩」のことであるから、「ぼた餅」とは「萩の餅」のことであると言ったというわけです。
これが事実ならば、萩の餅がぼた餅となり、さらに牡丹餅となったが、「ぼた」には上品ではない意味の同音異義語があったので、上流階級では昔ながらの「萩の餅」と呼び、庶民は「牡丹餅」と呼んだ、という辺りに落ち着くのではないでしょうか。この仮説に誤りがあるとしても、少なくとも季節による呼称の使い分けがあったという流布説は、明治期以後に作られた誤解であるという結論は動かないでしょう。
これだけ文献史料を上げながら、通説がいかに出鱈目であるかを論証してみました。これを読んで下さった方は、きっと納得していただけたことと思います。しかし世の中ではまだまだ通説がまかり通っています。それらの責任は、原典を読みもせずに、現代の事典類を摘まみ食いしている伝統的年中行事解説書の著者にあり、またろくに研究もしないで安易に事典の解説を書いた著者にあります。このまま黙っていれば、それが歴史事実となってしまうでしょう。誤った歴史が定着しないように願うばかりです。
これでもなお納得できないとするならば、春は牡丹餅、秋はお萩という呼称が共有されていたという文献史料を見せて下さい。私は多くの証拠・根拠を提示して主張しているのですから。もしそのような根拠が提示されるなら、潔く自説を取り下げます。しかし提示できないというなら、日本の良き伝統を捏造しないでいただきたいのです。
民
彼岸の行事食は、牡丹餅(ぼたもち)とお萩ということになっています。実態はほぼ同じようなものでありながら、呼称が異なる理由として、一般には春の彼岸の頃に咲く牡丹の花に似ているから牡丹餅、秋の彼岸の頃に咲く萩の花に似ているからお萩、ということになっています。中には夏には夜舟、冬には北窓と呼ばれたというという説明まであります。また粒餡(つぶあん)と漉餡(こしあん)によって区別するという説もあり、その他にも地方によって様々な呼称とその理由があり、何が本当なのかすっかりわからなくなっています。しかし秋の彼岸の頃の萩の花は時期としては問題ありませんが、春の彼岸の頃には牡丹の花は咲きません。普通は4~5月にかけて咲くものですから、牡丹と萩が咲く時期に合わせた呼称であるという説明には無理があります。江戸時代の歳時記には、一つの例外もなく牡丹は夏の花とされています。「牡丹の花の咲く頃に食べるので牡丹餅という」と説いている人にお尋ねしたい。江戸時代の人は、誰一人そんなことは考えていないことを、どの様に説明するのですか。また現在は春の彼岸と秋の彼岸に食べるものと理解されていますが、そもそも江戸時代には、彼岸に牡丹餅やお萩を食べる風習が記録されている文献は、江戸後期の天保年間に執筆された『守貞謾稿』『馬琴日記』が最初で、それ以前には彼岸の行事食ではありませんでした。ただし江戸時代初期に、彼岸に菓子を贈答する習慣があったことは、当時の歳時記で確認できます。
そこでこの謎を解くために、牡丹餅やお萩について記述されている江戸時代の文献を古い順に並べ、手当たり次第に読んでみました。
まずは慶長八年(1603年)から翌年にかけて長崎で出版された『日葡辞書』(日本語とポルトガル語の辞書)には、Faguino Fana(萩の花)の見出しに続いて、「中に碾(ひ)きつぶした豆の入っている一種の小さな米の餅。これは婦人語である。」と記されています。残念ながら牡丹餅は収録されていません。当時はまだ「牡丹餅」という名前がなかったのかもしれません。餡を中に入れるというのが、実際にその通りなのかどうかはわかりません。とにかく季節による使い分けはは記されていないことを確認しておきます。
元禄五年(1692年)以後、改訂されながらも幕末まで出版され続けた『女重宝記』という女性用教育書には、巻一に「女ことばつかいの事」と題して、女言葉の一覧表が記されています。その中に「一、ぼたもちは、やわやわとも、おはぎとも」と記されているのです。ここでは、季節により呼称が異なるのではなく、話す人の性別により呼称が異なっていたことを確認しておきましょう。
元禄十年(1697年)に出版された江戸時代の日本の食物大事典とも言うべき『本朝食鑑』(巻二、餅附録「母多餅」)には、「擂鉢で擂って団子状にし、小豆餡かきな粉をまぶして食べる。「萩の花」とも呼ぶ。その様は半ば(米の?)粒が残り、白萩の花房に似ている。また赤豆餡をまぶすと、紅紫色の萩の花房のようであるので、「萩の花」と名付ける。一名「隣知らず」ともいうが、搗いたか搗かないか隣家ではわからないという意味である。また一名「夜舟」ともいうが、暗くて着いたか着かないかわからないことによる。またこの餅は庶民の食べ物であって、貴人はあまり食べない」、と記されています。ここではきな粉をまぶすこともあったこと、米粒が半ば残っていることが、白萩に似ていること、餡をまぶすと紅色の萩の花に似ていること、上流階級の食べ物とは見做されていないことなとを確認しておきます。また『本朝食鑑』は江戸時代最大の食物事典ですから、これに季節の使い分けが記載されていないということは重要なことです。
史料「牡丹餅」
①「母多餅、糯粳を用ひて相合せ、蒸熟して飯を作り、擂盆(すりばち)中に入れてこれを磨る。取出し手を摸して団餅に作り、蒸小豆の泥(餡のことか?)を抹(まぶ)し、或は炒豆粉(きなこ)を抹(まぶ)して食す。一名萩花(はぎのはな)、その状半泥半粒、白萩の花の窠(はなぶさ)を作るに似る。その蒸赤豆の泥を抹すは、紅紫の萩花の窠を作るが如し。故に名づく。一名隣知らず、言(いい)はこの餅搗がごとくして搗かず。故に隣家この餅を造るを知らず。故に名づく。一名夜舟。言は暗中舟の著くや著かざるやを知らず。・・・・およそこの餅ただ民家の食にして、貴人の食となす者少し。」(『本朝食鑑』巻二、餅附録)
正徳二年(1712年)に出版された大百科事典とも言うべき『和漢三才図会』には、牡丹餅の見出しのもとに、「萩花と書いてはぎのはなと読むこと。きな粉か小豆餡をまぶすこと。牡丹餅や萩花という呼称は、その形と色によること。また隠語で夜舟・主(との)の連歌とも言うこと。「主の連歌」とは、(前句に)付いていなくても(家来達は「ツイている」と言って)これを用いるという意味である。」と記されています。「着く」「付く」と「搗く」を掛けていることはすぐにわかります。またネット上には牡丹餅が漉餡で、お萩が粒餡であるという解説がありますが、『和漢名三才図会』の挿図には、稚拙な図ですが粒餡のように見えます。
史料「牡丹餅」
②「牡丹餅、保太毛知、萩花、波岐乃波奈、按ずるに牡丹餅は粳糯の米を以て相襍を、柔なる飯に炊き、雷盆(すりばち)を以て略(ほぼ)これを擂(す)り擣(つ)き、手を摸(さぐ)りて円餅と為す。炒豆の粉(きな粉)を糝(まぶ)して黄と為し、或は赤小豆の泥を糝して紫色と為す。所謂(いわゆる)牡丹餅及び萩花は、形色を以て之を名づく。今人、名を隱し夜舟と為す。言(こころ)は、其の着くことを知らざればなり。また主(との)の連歌と名づく。言は、附かずと雖もこれを用ふ。」(『和漢三才図会』巻百五)
天文暦学者である西川如見が享保四年(1719年)に著した『町人嚢』という町人のための教訓書には、現在持てはやされている料理でも、昔は賤しい物とされていたり、またその反対の物があるとして、ぼた餅について記されています。それによれば、「今のぼたもちと言うものは、公家方は萩の餅と呼び、女房衆も食べている。昔はかい餅とも呼ばれていた。当世では大切な客人にはぼた餅などは下品な食べ物であるから、恥ずかしくて出すこともできない。」というのです。つまり牡丹餅と萩の餅は同じものなのですが、萩の餅は上流階級の使う言葉であって、牡丹餅は庶民の言葉であるというわけです。公家衆は萩の餅なら食べるのでしょうが、同じ物でも、牡丹餅と呼ばれると、賤しい物と見做されていたことがわかります。これは牡丹餅の呼称について、重要なヒントを示しています。つまり「ぼた」と言う言葉が本来は賤しいことを意味するものであり、それを「牡丹」という字を宛てて、隠しているということなのです。牡丹餅が賤しい物と理解されていたことを示す史料は他にもあり、見過ごすことはできません。
史料「牡丹餅」
③「今のぼたもちと号するものは、禁中がたにては萩の花といひて、女中などもきこしめすと也。いにしへのかいもちといへるも萩の花の事也。・・・・今の世に少慇懃なる客人などには、ぼたもちなどは中々恥かしくて出されぬ事におぼへたり。」(『町人嚢』)
享保十三年(1728年)に出版された『軽口機嫌嚢』という書物には、春は黄色い物を菜種・赤い物を土筆、夏は牡丹餅、秋は萩の花、冬は丸めるので雪礫(つぶて)。その外、妹背の仲(契ると千切るを掛ける)、奉加帳(寺社への寄付を記す帳面、付く家もあり、付かない家もあるという意味)、大坂では夜舟と言うと記されています。話の筋は、物知りの客が牡丹餅を振る舞われた際に、蘊蓄を傾けて語ったという設定です。もともとこの書物は、面白可笑しい小話を集めた書物ですから、あくまで言葉遊びとしての呼称であって、実際に広く共有されていたなかったことを逆説的に証明しているようなものです。
史料「牡丹餅」
④「ものの名も所によりて。ぼたもちを振舞たれば、客人はしをとりなおし、子細らしく、此もちにはいろいろの名がある。御ぞんじか。春は黄なれば菜種、赤ひをつくし(土筆?)、夏はぼたもち、秋ははぎのはな、冬は雪つぶて、まるめろといふ心。その外、いもせ(妹背)の中とはとなりしらずにちぎる。寺がた(方)では奉加帳、ついた所もつかぬところもあるによっていへり。聞へたのは、大坂で夜ふねといふのじゃ。心はの、はて、となりしらずにつくと。(『軽口機嫌嚢』)
享保十九年(1734年)に出版された『本朝世事談綺(ほんちようせじだんき)』(世事談)には、賤しい庶民的な食べ物であるから、客人には振る舞えない。「牡丹の形に似ているので牡丹餅と名付け、また萩の花、かい餅ともいう」と記されています。もちろん季節の使い分けは記されていません。堂上方、つまり公家衆は今でも食べてはいますが、どうも牡丹餅ではなく、萩の餅と称しているとも解釈できそうです。
史料「牡丹餅」
④「ぼた餅はむかしははなはだ賞翫せし物なれども、今はいやしき餅にして、杉折提重には詰がたく、晴なる客へは出しがたし。牡丹のかたちに似たるにより、牡丹餅と名付。又萩の花、かい餅ともいふ。堂上方には今とても御賞翫あるよし也。」(『本朝世事談綺(ほんちようせじだんき)』)
安永四年(1775年)に出版された『物類稱呼(ぶつるいしようこ)』という全国の方言辞典には、「お萩」という呼称は、女性が使う女言葉であり、粒の残っている餡をまぶした様子が、萩の花が乱れ咲いているように見えることによる呼称であると記されています。また半殺し程度に搗くので、周囲の家に餅を搗く音で気が付かれることもなく、「夜舟」「隣しらず」「奉加帳」ともいうと記されています。ここでも季節による使い分けは記されていません。奉加帳とは、寺社の造営や修繕に際して、寄進をした人の名前を書き連ねた帳面のことで、印をついて寄進する人と、しない人がいる、という意味です。また漉餡ではないことも確認できます。
史料「牡丹餅」
⑤「牡丹餅、ぼたもち、又はぎのはな、又おはぎといふは女の詞(ことば)なり。関西および加州にてかひもちと云。豊州にてははぎ餅と云。・・・・ 今按ずるに、ぼた餅とは、牡丹に似たるの名にして、・・・・萩のはなは、その制煮たる小豆を粒のまま散しかけたるものなれば、萩のはなの咲みだれたるが如しとなり、よって名とす、・・・・或は夜舟といふは、いつの間につくともしれぬと云意なり。又隣しらずといふも同じ意なるべし。奉加帳とは、つく所も有つかぬ所も有といふ心也。」。(『物類稱呼(ぶつるいしようこ)』)
天保十四年(1843年)に出版された『世事百談(せじひやくだん)』という随筆には、大皿にたくさん盛り付けた様子が、大きな花びらが重なって咲いている牡丹の花に似ているので牡丹餅というと記されています。また「萩の花」は丸めるのではなく、器に盛って小豆餡をかけただけのものとしています。つまり団子状の牡丹餅と、器いっぱいに盛られた萩の餅の形状を区別しています。
史料「牡丹餅」
⑥「ぼた餅は牡丹餅と書けるが正字にて、かのあんをつけたる餅を、盆に盛りならべたる形の、牡丹花のごとくなれば、見たてて名をおふせしなり。一名を夜舟といへり。その意(こころ)は、いつ着くやらしらぬといふことなりといふ隠語なり。また円めずに器にもりてその上に小豆のあんをかけたるを萩の花といふ。女詞にはおはぎともいへり。これは萩の花に似たればなり。下総の辺にては俗にかい餅といふ。これは餅のうちにてことさらにやはわかなるをもて、粥餅(かゆもち)の訛(あやま)れるなりといへり。」(『世事百談(せじひやくだん)』巻四)
天保年間から幕末に執筆された『守貞謾稿』には、前掲の『本朝世事談綺(ほんちようせじだんき)』を引用して、はっきりと「牡丹の形に似たるにより牡丹餅と号(なづ)けり」と記されています。また同書にはさらに「今江戸にて彼岸等には、市民各互にこれを自製して、近隣音物(贈り物)とするなり」と記されていて、彼岸に牡丹餅を贈り合う風習があったとされています。この記事は、牡丹餅と彼岸が結び付く史料として大変重要です。
史料「牡丹餅」
⑦「牡丹餅、世事談には賤品として折詰にならずと云へり。今は却て此精製ありて折詰にもすることあり。名賤く製美なるを興とする。これも奢侈の一つなり。また今江戸にて彼岸等には、市民各互にこれを自制して、近隣音物とするなり。蓋これは凡製のみ
」(『守貞謾稿』後集巻一)
旧暦10月(亥の月)の最初の亥の日に、亥の子餅を作って食べ、子孫繁栄を祈る「亥の子」という行事があったのですが、この亥の子餅を詠んだ川柳は数え切れない程あるのですが、牡丹餅はあっても萩の餅は見つかりません。旧暦10月は冬なのに、全て牡丹餅ばかりです。現在に伝えられている川柳は夥しい数ですから、私の見落としもあるかもしれません。しかし現代流布している季節による呼称の使い分けが正しいのなら、冬の行事ですから牡丹餅であってはならないはずです。このこと一つ取っても、季節による使い分け説は、誤りとしか言いようがありません。
史料「牡丹餅」
⑧「ぼた餅も精進落をゐのこ(亥の子餅)にし」(『誹風柳多留拾遺』11-23)
一方、季節による使い分けの史料的根拠を探しに探して、ようやくいくつか見つけました。まずは谷川士清(たにがわことすが)の著した『和訓栞(わくんのしおり)』がよく知られています。それによれば、「かいもち・・・・一縉紳(身分の高い公家)の戯談に、牡丹餅は春の名也、夜船は夏の名也、萩の花は秋の名也、北窓は冬の名也。夜船は著くを知らず。北窓は月入らずとぞ。賤者は隣知らずといふ。」と記されています。北窓は「月入らず」と「搗き要らず」を掛けているわけです。江戸時代の和本で直接確認していますので、間違いありません。しかし知識人が戯れに言葉遊びとして紹介したということは、逆に四季による使い分けが普及していなかったことの傍証になっています。誰もが知らないことだからこそ、蘊蓄を傾け得意顔で解説するからです。ネット上には、いかにも自分で読んだかの如く、「和訓栞には・・・・と記されています」と書いてあるのですが、実際に自分で確認している人はほとんどいないでしょう。ネットで写真版を閲覧できますから、「かいもちひ」の項を検索してみて下さい。「一縉紳の戯談に、」という部分を読まないから、季節による呼称の使い分けが普通に行われていたと、勘違いしているのです。原典に当たって確認するという手間を惜しみ、出鱈目な知識を振り回すことはして欲しくありません。
また18世紀半ばに山口幸充という神道家が著した『嘉良喜(からき)随筆』という随筆に、「ぼたもちは、牡丹餅の略也。扨其(さてその)牡丹餅、萩の花、今通称すれども、春は牡丹餅、秋は萩の花と呼べし。」(『日本随筆大成』第一期21巻、384ページ)と記されていました。しかし、春秋の呼称を区別すべしというのは、これも逆にそうは呼ばれていなかったことを示唆しています。また『鶉衣(うずらごろも)』という俳文集に「お萩の花に秋もたけて」という記述があり、秋とお萩が結び付いていました。
明治時代以後になると、季節の使い分けが普通になります。明治三十四年(1901年)の『東京風俗志』には、彼岸には「萩の餅」を食べることが記されています。明治四十四年(1911年)に出版された『東京年中行事』には、春の彼岸には「牡丹餅」、秋の彼岸には「萩の餅」を食べるという記述があります。また同書には「餅の名や秋の彼岸は萩にこそ」という子規の俳句が収録されていますから、江戸時代最末期から明治時代の間に、季節による使い分けが始まった可能性があります。ただ明治期の両書には「萩の餅」とは記されていても、「お萩」ではありません。
さて散々に史料を読み散らかしてすみません。そろそろまとめてみましょう。江戸時代の史料によれば、春と秋の季節による呼称の使い分けは、一部の隠語としては存在しても、広く共有されていたことを裏付けられませんでした。牡丹餅や萩の花という呼称は、ほとんどの史料が色や形や盛付け方などの見た目によるとしていました。また「萩の花」、特に「お萩」は女詞であるとされ、また下賤な食べ物という理解も少なくありませんでした。また小豆餡だけではなく、きな粉をまぶす場合もありました。史料の解読にだいぶ手間取ってしまい申し訳ありませんでしたが、「春は牡丹餅、秋はお萩」という流布説があまりにも普及しているため、これくらいくどい程の史料的裏付けをしなければ、信じてもらえそうもなかったからです。
ただこれでもなお大きな疑問が残ります。それはなぜ下賤なものと理解されていたか、ということです。それを解くヒントは、『守貞謾稿』の「名賤く製美なるを興とする」という表現にありそうです。つまり名前が賤しいと言っているのです。そこで「ぼた餅」の「ぼた」を江戸時代の分厚い『俚言集覧(りげんしゆうらん)』という国語辞書で調べてみると、
「ぼた・・・・物の円(まろや)かに柔らかく重き意」と記されていて、まさに牡丹餅の形を形容しています。また『誹風柳多留』の第五編-5に、「ぼたもちとぬかしたと下女憤り」という川柳があり、『日本国語大辞典』の「ぼたもち」の説明文「顔が丸く大きく不器量な女性をあざけっていう語、牡丹餅顔、お多福」を裏付けています。また原典をまだ直接確認していないのですが、同辞典には、「ぼたもちを算盤で押えた面(つら)」という句の説明として、「あばただらけのみにくい顔のたとえ」と説明し、出典として「洒落本 嘉和美多里」を上げています。また「ぼたもち顔」の例として、「歌舞伎・芽出柳緑翠松前」の「声はあんなにいい声だが、顔はぼっちゃり牡丹餅顔」という台詞を上げています。私はまだ確認できていませんが、同辞書の権威を考えれば、間違いないところでしょう。
これで漸く牡丹餅が下賤しい食べ物とされていたことの理由がわかりました。『本朝世事談綺(ほんちようせじだんき)』に、「いやしき餅にして、杉折提重には詰がたく、晴なる客へは出しがたし。・・・・堂上方には今とても御賞翫あるよし也。」と記されていましたが、賤しいにもかかわらず公家衆が今も食べている理由も推測できます。彼等は賤しい「牡丹餅」という呼称では食べませんが、いかにも雅な「萩の餅」なら食べていたのでしょう。味が賤しいのではなく、名前が賤しいだけですから。そして女房衆はさらに「お萩」と呼んでいたと理解できます。
これで漸く一段落と思いきや、なお疑問が残っています。『日本国語大辞典』で「ぼた」と検索すると、「萩の異称」と記されていて、松尾芭蕉の「哀いかに宮城野のぼた吹凋るらん」という句を例として上げています。そうすると考えられることは、まず初めに「萩の餅」という名前があり、萩の異称である「ぼた餅」が派生し、萩という花の名前に合わせて「ぼた」に「牡丹」を当てて「牡丹餅」という名前となった、ということです。そうだとすれば、1604年の『日葡辞書』に萩の花は載っていても、牡丹餅は記載されていなかったことも合点がゆきます。
最後にこの仮説を裏付ける史料を御紹介しましょう。前掲の『俚言集覧(りげんしゆうらん)』という国語辞典で「牡丹餅」と検索すると、『屠龍工随筆』を引用して次のように記されています。「かひ餅をほた餅といふ。牡丹餅といふ事なりとおもひしに、さにはなく、はぎをほたといへは、直にはぎもちと云事にて、おはぎの花といふと同し事なりと、上達部(かんだちめ)の娘の今は老女となられしが語られし」、というのです。「上達部」とは公卿などの上級公家のことですから、公家の家に育った女性が、「ぼた」とは「萩」のことであるから、「ぼた餅」とは「萩の餅」のことであると言ったというわけです。
これが事実ならば、萩の餅がぼた餅となり、さらに牡丹餅となったが、「ぼた」には上品ではない意味の同音異義語があったので、上流階級では昔ながらの「萩の餅」と呼び、庶民は「牡丹餅」と呼んだ、という辺りに落ち着くのではないでしょうか。この仮説に誤りがあるとしても、少なくとも季節による呼称の使い分けがあったという流布説は、明治期以後に作られた誤解であるという結論は動かないでしょう。
これだけ文献史料を上げながら、通説がいかに出鱈目であるかを論証してみました。これを読んで下さった方は、きっと納得していただけたことと思います。しかし世の中ではまだまだ通説がまかり通っています。それらの責任は、原典を読みもせずに、現代の事典類を摘まみ食いしている伝統的年中行事解説書の著者にあり、またろくに研究もしないで安易に事典の解説を書いた著者にあります。このまま黙っていれば、それが歴史事実となってしまうでしょう。誤った歴史が定着しないように願うばかりです。
これでもなお納得できないとするならば、春は牡丹餅、秋はお萩という呼称が共有されていたという文献史料を見せて下さい。私は多くの証拠・根拠を提示して主張しているのですから。もしそのような根拠が提示されるなら、潔く自説を取り下げます。しかし提示できないというなら、日本の良き伝統を捏造しないでいただきたいのです。
民
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