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改訂版 「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな」 

2024-04-16 06:29:30 | 短歌
      いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな   (詞花集 春 29)
 
 例年より遅れて咲いた今年(令和6年)の桜も、私の住む埼玉県ではそろそろ見納めですが、続いて八重桜の見頃を迎えます。そこで八重桜を詠んだ歌として余りにも有名な「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな」の歌について、思うところを書いてみました。
 この歌には、「一条院の御時、奈良の八重桜を人の奉りて侍りけるを、そのおり御前に侍ければ、その花をたまひて、歌詠めと仰せ言ありければ詠める」という詞書きが添えられています。作者は伊勢と呼ばれた女房で、奈良から宮中に届けられた八重桜を、御前に献上する役目を、紫式部から突然に譲られました。その時、藤原道長から八重桜を題にして即興の歌を詠むようにと命じら、即座に詠んだ歌ということになっています。道長にしてみれば、新参の女房の腕試しという程の悪戯心もあったのでしょう。
 古に栄えた奈良の都の八重桜が、今日はこの宮中で美しく咲いています、という意味で、歌の内容そのものは至極単純なものです。目の前に八重桜があり、上皇様の御前ですから、桜にこと寄せて賀意を表す歌を詠むとしたら、「八重」であることに焦点を当てて詠むことは、当時の人なら十人が十人、皆同じように考えたでしょう。そう言う意味ではこの歌には新鮮さはありません。しかし賀の歌とはえてしてそのようなものなのです。何を詠むかということについては、最初から答えが出てしまっています。ですから問われているのは、何を詠むかではなく、どのように詠むかなのです。
 悪く言えば技巧的な歌なのですが、それがあまりにも美事に決まったので、皆があっけにとられたのでした。その技巧とは、まず「いにしへ」と「今日」を照応させ、「奈良」の「な」に「七」の音を響かせ、「八重」「九重」というように七八九と数を並べ、宮中を意味する「九重」に「ここの辺」を懸け、しかも「八重」という言葉によって賀意を表しています。
 この歌の講釈をいろいろ読んでみると、「八重」と「九重」を並べた面白さには触れていますが、「奈良」が「七」を響かせていることには全く触れられていません。当時は歌は声を出して披講するものでしたから、耳にどのように聞こえるかという視点を、誰もが持っていました。ですから聞いていた人は皆「七(奈)」「八」「九」という数が並んでいることに面白さを聞き取ったはずなのです。そもそも即興の歌なのですから、聞いていた人の手許にこの歌を書いた文字などなかったはずです。現代人は歌を声に出して歌うことをしなくなってしまいましたから、「奈」が「七」に通じる面白さを素通りしてしまうのです。
 松尾芭蕉が「奈良七重七堂伽藍八重桜」という、漢字だけで書き表せる句を詠んでいます。もちろん多少は遊び心があって詠んだのでしょう。芭蕉は明らかに伊勢の歌を下敷きにして、naの音が重なることと、七の字が重なることと、七と八が連続することを意識して詠んでいます。芭蕉は耳にどう聞こえるかという視点をしっかり持っているのです。ところが、現代短歌は耳にどう聞こえるかという視点を失ってしまっているように思います。投稿して入選を狙い、短歌集を出版し、みな文字になった短歌をいじってばかり。即興で溢れるままに詠むことはなく、また歌として声に出して朗詠することがなくなってしまったのです。伊勢の歌について、七・八・九の連続することに言及解説が見られないのは、それを傍証していると思います。
 『古今和歌集』以後、桜を詠んだ歌は夥しくあるのですが、八重桜の歌は極めて少なく、私が数え漏らした可能性もありますが、伊勢のこの歌も含めて、八代集には4首しかありません。その理由ははっきりとはしませんが、『徒然草』139段がヒントになりそうです。「家にありたき木は、松・桜。松は五葉もよし。花は一重なるよし。八重桜は奈良の都にのみありけるを、この比ぞ世に多く成り侍るなる。吉野の花、左近の桜、皆、一重にてこそあれ。八重桜は異様(ことやう)のものなり。いとこちたく、ねぢけたり。植ゑずともありなん」。花は一重が風情があってよいこと、八重桜は奈良にだけあったが、近年は広く見られるようになったこと、八重桜はねじけたように見えるので、わざわざ庭に植える程ではないと述べています。つまり八重桜は平安時代には奈良の花という理解があり、風情を解する心ある人にはあまり好まれなかったようです。確かに八重桜の枝振りは、捻れているように見えますし、花吹雪のように散ることに風情を感じ取るという感性には、好まれないのも理解できます。しかし八重桜には一重にはない艶やかさがあり、「八重」という呼称に賀意を感じ取ることが出来るからか、宮中では大層喜ばれた花だったようです。それは八代集の4首の八重桜の歌のうち、3首が宮中や離宮で賀の歌として詠まれていることに表れています。
 ①九重にひさしくにほへ八重桜のどけき春の風と知らずや(金葉和歌集 賀 308)
 ②千歳すむ池の汀の八重桜影さへ底に重ねてぞ見る(千載和歌集 賀 613)
①には「禁中に花を翫ぶといへることを詠める」という詞書きが添えられています。九重と八重が意図して詠まれているのは、伊勢の歌と同じで、伊勢はこの歌を知っていた可能性もあります。②は堀河院が鳥羽離宮に行幸した際に、池の端の八重桜が水面に映っていることを、堀河院を寿ぐものとして詠まれたものです。
こうしてみると伊勢の歌は、奈良から取り寄せられたことによって古の奈良の都を思わせ、幾重にも重なることを意味する八重という呼称の花を、九重の宮中で賞することによって賀意を表す歌であったと言うことができます。
 
 伊勢の歌については、古語辞典を片手に逐語訳のように解説したものが多いのですが、深く理解しようとするならば、八重桜を詠んだ他の歌と比較しながら理解する必要があると思いました。
 なおこの歌が縁となっているのでしょう。八重桜は奈良県と奈良市の花に選ばれています。
 


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