9月9日は重陽の節句であるが、「菊の節句」とも言われ、平安時代以来、菊の花を飾って長寿を祈るさまざまな行事が行われていた。その行事の一つに、「菊の被せ綿」というものがある。前日の8日、菊の花に真綿を被せておく。そして翌朝、夜露に濡れ花の香の移ったその綿を取って身体を拭い、長寿を祈るのである。この場合の綿は、もちろん真綿のこと。木綿の綿が日本に伝えられるのは室町時代のことであるから、それ以前に綿と言えば、真綿しかなかった。また菊の花の色も白菊ばかりである。菊の花の色のわかる古歌では、私の経験では99%が白菊である。「しろがねとこがねの色に咲き紛ふ」という歌(夫木和歌抄05906)があることから、極めてわずかに黄菊があったことがわかるが、それ以外の色の菊は、どうしても見当たらない。
白菊の上に真っ白い真綿を乗せたのであろうか。白梅に積もる白雪のようで、それはそれで美しいとは思う。しかし『夫木和歌抄』に「いろいろに菊の綿きぬそめかけてまだきうつろふ花はなとこそ見れ」という歌があるから、赤に近い色に染めた真綿があった可能性もある。白菊は霜に当たって赤紫に変色するが、そのことを「菊の花が移ろふ」として賞することがあった。被せ綿をのせた菊を、早くも花が色変わりしていると詠んでいるからである。
この菊の被せ綿について、『枕草子』は次のように記している。
「正月一日、・・・・九月九日は暁がたより雨すこし降りて、菊の露もこちたうそぼち、おほひたる綿など もてはやされたる。つとめてはやみにたれど、曇りて、ややもすれば降り落ちぬべく見えたる、をかし。」
夜明けに雨が降り、濡れた被せ綿が花の香に一層よく香る。早朝には止んで曇っているが、綿がずり落ちてしまいそうに見えるのが面白い、という意味である。
また『紫式部日記』にも次のような記述がある。
「九日、菊の綿を兵部のおもとの持て来て、「これ、殿の上の、とりわきて。いとよう老いのごひ捨てたまへと、のたまはせつる」とあれば、
菊の露わかゆばかりに袖ふれて花のあるじに千代はゆづらむ
とて、かへしたてまつらむとするほどに、あなたに帰り渡らせたまひぬとあれば、ようなきにとどめつ。」
これは、紫式部が藤原道長の妻の倫子から「老いを拭いとって捨てなさい」と菊の被せ綿を贈られたのであるが、「被せ綿の露で身を拭えば、千年も寿命が延びるということですが、私は若返る程度に少しだけ袖を触れさせていただき、千年の寿命は、花の持ち主のあなた様にお譲りいたしましょう」という意味の歌を添え、遠慮して花をて返したという話である。
『弁内侍日記』の1246年(寛元4年)9月8日の条にも、次のように記されている。
「中宮の御かたより菊のきせわたまいりたるが、ことにうつくしきを、朝かれゐの御つぼの菊にきせて、夜のまの露もいかがとおぼえわたされて・・・・」
重陽の節句の前日、被せ綿を頂いたので、清涼殿の朝餉(あさがれい、天皇の日常の食事)の間の西側の小庭の菊に載せたが、夜露が置くだろうかと思われて・・・・、という意味である。
被せ綿を詠んだ歌は大変少ないが、次の歌がみつかった。
①垣根ねなる菊の被せ綿今朝見ればまだきさかりの花咲きにけり(夫木和歌抄 05991、新撰六帖)
旧暦9月9日、新暦ならば10月上旬頃の重陽の節句でも、菊の花の盛りにはまだ少し早い。それで被せ綿を載せた菊を、早くも盛りとなったと詠んでいるのである。この歌の場合は、被せ綿の色は白であった可能性が高い。なぜなら先程も述べたように、当時の菊の色はまずほとんどが白と考えられるからである。
その後の菊の被せ綿の史料をを見たことがないが、17世紀の『後水尾院当時年中行事』には被せ綿の色やその載せ方などについて、いろいろと述べられている。宮内庁書陵部の写真版で確認したが、白菊には黄色の綿で、黄色の菊には赤い綿で、赤い菊には白い綿で覆うとされていた。さらに花を覆った真綿の中心に、小さく丸めた綿をちょこっと乗せて蘂(しべ)とすると定められている。江戸時代までには様々な色の菊が品種改良され、被せ綿の色についても、それこそ色々な仕来りができたのであろう。
この記録をもとにして、東京都杉並区の大宮八幡神社では、毎年新暦の9月9日頃、菊の被せ綿の行事が復活されている。ただ写真で見る限りでは、花が大きすぎるように思う。品種改良が進み、現在は大きな菊が当たり前になっているが、平安時代にはなかったはずである。また個人的な趣味の問題ではあるが、色の取り合わせが強烈すぎるので、もう少し淡い色に染めた真綿を使った方が、上品に見えるのではないかと思う。
なお、京都の上賀神社・貴船神社・市比売神社でも菊の被せ綿の行事が行われているという。(現地でまだ確認していない)。五節句のうち、菊の節句には特に何も特別な行事や食べ物がなく、伝統的行事が復活するのは大いに結構なことだと思う。脱線話であるが、9月9日が敬老の日であったらよかったのにと思う。菊を飾り、菊酒を飲み、菊の被せ綿で拭い、菊をかたどった和菓子を食べて長寿を祈る。重陽の節句と敬老の日の趣旨がうまく合致してよかったのにと思うのである。まあ今さらどうにもならないのであるが・・・・・。
白菊の上に真っ白い真綿を乗せたのであろうか。白梅に積もる白雪のようで、それはそれで美しいとは思う。しかし『夫木和歌抄』に「いろいろに菊の綿きぬそめかけてまだきうつろふ花はなとこそ見れ」という歌があるから、赤に近い色に染めた真綿があった可能性もある。白菊は霜に当たって赤紫に変色するが、そのことを「菊の花が移ろふ」として賞することがあった。被せ綿をのせた菊を、早くも花が色変わりしていると詠んでいるからである。
この菊の被せ綿について、『枕草子』は次のように記している。
「正月一日、・・・・九月九日は暁がたより雨すこし降りて、菊の露もこちたうそぼち、おほひたる綿など もてはやされたる。つとめてはやみにたれど、曇りて、ややもすれば降り落ちぬべく見えたる、をかし。」
夜明けに雨が降り、濡れた被せ綿が花の香に一層よく香る。早朝には止んで曇っているが、綿がずり落ちてしまいそうに見えるのが面白い、という意味である。
また『紫式部日記』にも次のような記述がある。
「九日、菊の綿を兵部のおもとの持て来て、「これ、殿の上の、とりわきて。いとよう老いのごひ捨てたまへと、のたまはせつる」とあれば、
菊の露わかゆばかりに袖ふれて花のあるじに千代はゆづらむ
とて、かへしたてまつらむとするほどに、あなたに帰り渡らせたまひぬとあれば、ようなきにとどめつ。」
これは、紫式部が藤原道長の妻の倫子から「老いを拭いとって捨てなさい」と菊の被せ綿を贈られたのであるが、「被せ綿の露で身を拭えば、千年も寿命が延びるということですが、私は若返る程度に少しだけ袖を触れさせていただき、千年の寿命は、花の持ち主のあなた様にお譲りいたしましょう」という意味の歌を添え、遠慮して花をて返したという話である。
『弁内侍日記』の1246年(寛元4年)9月8日の条にも、次のように記されている。
「中宮の御かたより菊のきせわたまいりたるが、ことにうつくしきを、朝かれゐの御つぼの菊にきせて、夜のまの露もいかがとおぼえわたされて・・・・」
重陽の節句の前日、被せ綿を頂いたので、清涼殿の朝餉(あさがれい、天皇の日常の食事)の間の西側の小庭の菊に載せたが、夜露が置くだろうかと思われて・・・・、という意味である。
被せ綿を詠んだ歌は大変少ないが、次の歌がみつかった。
①垣根ねなる菊の被せ綿今朝見ればまだきさかりの花咲きにけり(夫木和歌抄 05991、新撰六帖)
旧暦9月9日、新暦ならば10月上旬頃の重陽の節句でも、菊の花の盛りにはまだ少し早い。それで被せ綿を載せた菊を、早くも盛りとなったと詠んでいるのである。この歌の場合は、被せ綿の色は白であった可能性が高い。なぜなら先程も述べたように、当時の菊の色はまずほとんどが白と考えられるからである。
その後の菊の被せ綿の史料をを見たことがないが、17世紀の『後水尾院当時年中行事』には被せ綿の色やその載せ方などについて、いろいろと述べられている。宮内庁書陵部の写真版で確認したが、白菊には黄色の綿で、黄色の菊には赤い綿で、赤い菊には白い綿で覆うとされていた。さらに花を覆った真綿の中心に、小さく丸めた綿をちょこっと乗せて蘂(しべ)とすると定められている。江戸時代までには様々な色の菊が品種改良され、被せ綿の色についても、それこそ色々な仕来りができたのであろう。
この記録をもとにして、東京都杉並区の大宮八幡神社では、毎年新暦の9月9日頃、菊の被せ綿の行事が復活されている。ただ写真で見る限りでは、花が大きすぎるように思う。品種改良が進み、現在は大きな菊が当たり前になっているが、平安時代にはなかったはずである。また個人的な趣味の問題ではあるが、色の取り合わせが強烈すぎるので、もう少し淡い色に染めた真綿を使った方が、上品に見えるのではないかと思う。
なお、京都の上賀神社・貴船神社・市比売神社でも菊の被せ綿の行事が行われているという。(現地でまだ確認していない)。五節句のうち、菊の節句には特に何も特別な行事や食べ物がなく、伝統的行事が復活するのは大いに結構なことだと思う。脱線話であるが、9月9日が敬老の日であったらよかったのにと思う。菊を飾り、菊酒を飲み、菊の被せ綿で拭い、菊をかたどった和菓子を食べて長寿を祈る。重陽の節句と敬老の日の趣旨がうまく合致してよかったのにと思うのである。まあ今さらどうにもならないのであるが・・・・・。
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