一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

『ベートーヴェンの生涯』書評 『洪水』第五号より

2010-04-25 22:18:54 | 書評・映画評

 

青木やよひ著 『ベートーヴェンの生涯』
(平凡社新書 920円+税)

詩と音楽のための『洪水』第五号
洪水企画/発売=草場書房(800円+税) P.98掲載の書評より転載
http://www.kozui.net/



        

                                 評者 池田 康

 今もって魔法というほかないベートーヴェンの音楽。それがどれほどの奇跡かは音楽を知る人はみな知っている。音楽の創造になんらかの形で携わる人間はいまだにベートーヴェンに圧倒されつづけているだろう。ひょっとしたらこの状態はあと百年も二百年も続くのかもしれない。

 しかしその力強く巨大で普遍的な音楽がどんな特殊な時代状況と社会体制から、そしてひとつの生涯の独自(ユニーク)形から生まれてきたかは、しっかりした評伝を読まない限り、既成概念の描く模糊とした図解を出ることはない。このたび刊行されたこの『ベートーヴェンの生涯』は、コンパクトな本ではあるが、ベートーヴェンが生きた時代と社会、そして彼の一歩一歩の足取りを、要点を的確に押えながら描き直しており、一読すれば読者の内にあったベートーヴェン像が劇的に刷新されることはまちがいない。
 
 とくにベートーヴェンをめぐる人間関係の解きほぐしが鮮やかである。ハイドン、モーツァルト、ゲーテ、サリエリ、ツェルニー、ルドルフ大公といった我々の耳になじみのある人間たち、そして初めて耳にするような、ベートーヴェンの周囲にいて彼の仕事の形成に非常に重要な役割を果たした人たちと、彼がどう交わり、どんな言葉をかわしたか、著者の眼差しのフォーカスは冴える。父親ヨーハン、甥カールとの複雑な関係もベートーヴェンの人生の陰をなす部分として丁寧に辿られる。更にベートーヴェンと女性たちとの関係には特別の注意が払われていて、ベートーヴェンの情熱のもっとも柔らかい部分にもっともふさわしいタッチで触れることができる。アントーニア・ブレンターノとベートーヴェンとの相思の親密な関係は著者の青木やよひがベートーヴェン研究者として世界ではじめて指摘しその正しさがその後実証された。彼の生涯におけるアントーニアという存在の重要さは本書をひもとけば読者は間違いなく直感できる。

 音楽の生成にまつわることでは、「〈英雄〉概念の音楽的表現」が交響曲第3番等でいかに結実したか、あるいは交響曲第9番第4楽章の奇妙に聞こえる呼びかけ「友よ、このような調べではない……」がいかなる宗教的な背景と見解を踏まえてのものなのか、ピアノソナタ「悲愴」がいかにセンセーションを巻き起こし音楽を志す若い人達を刺戟したか、ロシアの貴族との交遊がどのようにして一連の価値ある弦楽四重奏曲の誕生に結び付いたか、歌劇「フィデリオ」はなぜ世俗的成功から逸れた不運な道を辿ったか、等々、興味尽きない論述が続く。
 
 その他、面白く思われる箇所を挙げれば、父親の年齢操作によりベートーヴェンが「四十歳近くになっても自分の年齢を正確に把握できず誤認していた」こと。モーツァルトが少年ベートーヴェンのピアノ演奏を聴いて、周囲の友人たちに「彼に注目したまえ。いつの日か彼は、語るに足るものを世界に与えるだろう」と言ったが、おそらくベートーヴェンはこの発言を死ぬまで知らなかっただろうこと。1809年、ナポレオン軍の侵攻がオーストリアを脅かし、「包囲されていたウィーンはフランス軍のいっせい砲撃を浴びることに」なって、ベートーヴェンも弟の家の地下室で息を潜め、その後大変な物価高と食料不足に苦しめられたという苦難の事実。ベートーヴェンの耳から聴覚を奪いついには命を終わらせた病気が最新の研究によるとどうやら鉛を原因としていたらしいという知見。ピアノという楽器の発達とベートーヴェンの音楽キャリアとが並行しており、こういう機能をもったピアノがほしいという彼の要望もその発達の方向性に寄与したこと、などがある。フリーメーソンの思想やインドなど東洋の思想の研究がベートーヴェンの世界観をどう変えていったかということは交響曲第9番の話ともかかわってくるのだが、これは面白いという段階を超えて西洋精神史的に非常に重要なことのように思われた。

 「ベートーヴェンに私自身が出会ったのは、いまから五十年以上も前だった。十八歳で戦後の社会的混乱の中に投げ出されて、人生の指針を喪失していた私に、彼の晩年の『弦楽四重奏曲第一五番』(作品132)が、人間として生きる究極の意味を啓示してくれたのだった」と、あとがきでベートーヴェン研究に携わるようになった経緯を語る青木やよひは、惜しくも昨年十一月に亡くなった。憶測や偏見なくベートーヴェンにまみえるための、冷静でしかも情熱のみなぎる、非常にいい本を残してくれたと感謝したい。



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