- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

2024年3月3日のExcursion trails

2024年03月03日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
『西備名区』の編纂者である向永谷の馬屋原重帯(しげよ)のゆかりの地探訪が目的でサイクリングコースはおよそこのようなものだった。神辺での迂回は持参のUSBメモリーから地図をプリント出来るコンビニを探したため(中津原には気づかず)。芦品郡ではアップダウンの多い芦品広域農道に入り込み宣山(むべやま)辺りで大きくコース変更余儀なくされた。
帰途は子供時代の記憶・思い出の地を経由し、次のようなポイントを通過した。この中の馬屋原家が「永世賜」ったところの高増山(馬屋原『西備名区』巻之13、454頁に言う品治郡向永谷村武倍山だとさ。もともとは「古へ日本武尊西征の後、穴の湾にて悪神を誅し給ふに、武倍山(ムベサン)の御陣にて」に登場する自分が創作した「武倍山」に付会した山名(精神構造を含め馬屋原理解には「武倍山陣蹟雑記」「長井斎藤別当実盛墓」「馬屋原包重百回祭記」を読めば事足りる)。近所(駅家町今岡)に「宜山」=むべやま)(399㍍、高増山頂→山麓に高倉/高御蔵社→新庄本郷村の八大竜王/竜王を遷宮したものという説話:『西備名区』巻38,922頁ありが鎮座)は本郷川橋梁からも一部(α)が見え、予てよりマークしていた山だったので感慨もひとしお
  
 嘯雲嶋業『万延元年備後国名勝巡覧大絵図』は一種の読史地図だが、そのベースになっているものは先哲の説:馬屋原『西備名区』によるもの。例えば中津原のところには「日本武尊悪人を退治したる処」と注記。嘯雲嶋業の狙いは(現実には果たせなかったようだが)こちらの完成だった。

『沼隈郡誌』評議員だった神原敬太郎氏(『沼隈郡誌』口絵写真参照、昭和42年刊『赤坂村史』編纂常任委員の一人として口絵写真)は村田静太郎氏(の場合は雑誌「まこと」の配達で毎月来訪)と共に我が家を訪ねてこられた、わたしの幼少期の記憶にある人物の一人で広島県に帰省後は予てより一度お宅訪問をしてみたいと思っていた。其れが叶って本日は誠に充実した一日だった。
神村町須恵の「高島平三郎先生景慕(敬慕)碑」に立ち寄り、たまたま出会った地元のKさんに以前奥田のSさんに額入り写真を送った時にこちらにもそうしたと思っていたが、そういうものは倶楽部にはないということで、明治18年撮影の「高島先生」肖像写真を倶楽部用にと言うことで寄贈する約束をして帰宅した(17時過ぎの帰宅だったので本日は7時間ばかりのExcursion Trailsだった)。高島先生の顕彰碑は綺麗に管理され、わたしとしては一安心だった。
いやはや本日は県道上ではどのルートでも数は多くなかったがサイクリング愛好者とすれ違った。松永史談会3月例会にむけて本日からぼちぼち『西備名区』のテクスト分析に入るが、こちらはこれまでやってきた延長線上で比較的簡単に処理できそうだ(当面、『備後叢書』版を使っていくが、今後に向けては福山城博物館蔵の自筆本なども当然のこととして調査予定・・3月8日に馬屋原重帯調製『文化5年2月・西備図絵』など自筆本数冊を含め閲覧済)。
向永谷の県道157号松永新市線沿線(バイパスが整備され海ヶ峠付近など一部は中国自然歩道化)。馬屋原/光の丘病院(精神科)の背後の丘陵上に馬屋原重帯家のお墓(元禄期のものが最古、参考までに馬屋原『西備名区』は馬屋原氏のルーツについて鎌倉期に「神石郡志麻利荘」[神石郡三和町一帯に立地]に地頭として入部した東国武士なのだと)はある。
撮影時刻は13時54分、赤坂町に出る峠(標高差160㍍、水平距離3㌔)越えに徒歩で1時間を要した。健脚の人なら on a bicycleで20分程度のコースだろうか。
【後日談】『宜山村誌』昭和29、88頁、巻末に「宜山郷土史(むべやまきょうどし)」として「現在の史跡コース地図」を掲載。この図面を頭に入れておいて向永谷公民館辺りから県道157号線を南下すると兜山・実盛塚を見落とすこともないだろう。
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下迫貝塚と馬取貝塚の今昔

2024年01月28日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

柳津町馬取貝塚は、今まで謎だった松永町・山本新さんという人物が大正15年8月段階に発見し、その後昭和7年1月に至って沼隈郡教育会によって実地調査が行われた。大正15年5月6日~9日の太田貝塚調査で面識が出来たのか山本新さんはその3か月後には京都帝大教授清野謙次(医学)に対して、太田貝塚から言えば、松永湾の対岸に当たる沼隈郡柳津で見つけた馬取貝塚の情報を伝えていた。すなわち清野氏は著書『日本石器時代人研究』 、1928の中では、山本新さん発大正15年8月25日付私信から得られた伝聞情報をそのまま紹介している。参考までに「太田貝塚は尾道市の東郊に して、本邦先 史考古學、人類學の最 も重要なる遺跡である備中津雲貝塚 を西に去る直線距離約8里 の所に位する瀬戸内海 に南面 した緩斜地である。最初大正十五年四月十二 日當時長崎考古學會々員たりし佐藤翼穗氏が試掘 し體 を獲、その報 に島田貞彦 氏急行 して同月十五 日には更に5髄 の古人骨が發掘 5された(但 し人骨番號に第8號 迄)。越 えて翌五月六 日より九日に亘る清野謙次、平井隆、金關丈夫3氏の發掘は更に58例 の古人骨を追加 し合計66例 となつた。」という。 露頭部分は花崗岩の風化土(原地形を一部残す。頂部に柿の木、大正15年当時一帯は桑畑)。地形的には低平な丘陵端の上に貝塚層が乗っている。金江・藤江あたりの海岸部は多数の円礫(古い地層の場合は風化し腐り礫化。これはなし)の露頭が目立つ洪積台地。写真中の水路は人工河川の新川で、新川筋の潮汐限界点はこの地点より若干上流側にある。従って、水路の側面石垣の見られる変色位置は満潮時の水位探る有力な手掛かりとなろう。興味のある人は現場で確認してみるとよい。この貝塚での縄文時代の遺物包含層は満潮時の潮位よりたかだか3㍍程度上位に位置するにすぎない(要確認)。  

『福山市史・上巻』に言及が見られるが、倉敷考古館蔵の土偶(福田貝塚 縄文後期)

解説文によれば「(前略)土偶はそのときの調査以外で、採集されていたのである。いずれにしても、当地方としては土偶は大変珍しく、縄文時代も後期の(後略)」。

 


下迫貝塚一帯の現在(水路は新川

柳津町下迫貝塚 。縄文時代後期の地形面は新川筋の堤防道路面の1メートル上位。 地元の人に場所を訪ねたが、下迫貝塚を馬取貝塚と混同する人がいたが、ほとんどが馬取貝塚すら不知だった。あらかじめネット情報と住宅地図で見当をつけていたお宅(坂本順助さんの昭和25年生まれのお孫さんがご当主)を訪問し、それが正解だった。むかし、郷土史家I@神村が訪れたことがあるということだったので、わたしの訪問はそれ以来のことだったのだろう。場所的にはわたしが以前からよく訪れていたところ(柳津町市場組・fake史蹟:「神武天皇上陸碑」「磐井」, 村鎮守:清平大明神の「清平」は地名だが、これを祭神光孝天皇皇子一品式部卿清平親王(要確認)の「清平」と解釈し、ここから虚偽言説の大迷走が始まり、明治初年以後は実在が定かでない祭神「清平親王」/「橘清平」とはせず、一挙に著名な祭神「橘諸兄」へと跳躍。この人を祭神とした橘神社に移項させていく。柳津はそういう支離滅裂のFakeloreがまかり通る愛すべき土地柄・・・『沼隈郡誌』515-516頁参照)の数十メートル南方に当たった。縄文後期の土偶は馬取貝塚発見者でもある松永町在住の山本新さんが、昭和14年に考古学研究者村上正名さんらが訪れる1ヶ月ほど前に、坂本さんの屋敷地内で発見したということに菅原守・吉原晴景『高島宮史蹟』、昭和14年が言及していた。当該土偶は現在、東京国立博物館に所蔵されている。下迫貝塚は宅地だったため坂本さんの屋敷地の北西隅のわずかな面積を掘り下げただけだったようだ。


島田貞彦「備後國沼隈郡高須村太田貝塚に就いて / 島田貞彥/p23~33」、歴史と地理、26-4,1930.

   

太田貝塚の立地環境は、隆起海岸低地(松永湾岸での貝塚はこの地形面上、山陽本線線路以東は干拓地で海抜0m地帯、西国街道は海岸低地上、この地形面の2m上位に隆起海岸低地が拡あり、その地形面上に貝塚が立地)(潮汐限界点よりも2m弱上位・、満潮時の海水位よりも3メートル程度上位・・。この太田貝塚が立地する地形面は松永湾岸の干拓地の背後に形成されていた海岸低地の山側で縁取る形で分布。近世の西国街道の地形面と太田貝塚立地の地形面の高度差=a+b) 場所 

追加調査:明徳4年(1393)の年紀をもつ、『延寿院殿佐藤左馬頭治信大居士』という珍しい戒名の墓石。一見してFake(インチキ)なのだが・・・。家のルーツ関して深い思い(この点が唯一の事実)が込められているこの地方ではまま見かけるものだ。この形式の墓石はこの地方では江戸前半期のもの。数年前から注目してきた史料なのだが、本日はご子孫の消息確認ができた。半歩前進! 懇意にしていた仏壇屋のお婆さんは平成30年没で、2才年上の主人はその三週間後に亡くなっていた。

戒名

室町~戦国期の稲村城主田坂家の戒名@備後・三原 三原市文化課
松永・山本新という人物は実を言うといまだに謎のままなのだ。 『洗谷遺跡』1976、福山市教育員会 水呑町洗谷、洗谷橋南200m、芦田川河口部右岸 占部徳十郎屋敷前、海抜3-7m。馬取貝塚と同じような地形の場所(地山海抜2.4m)。 本谷遺跡は不知だが、その他の貝塚は松永湾岸と同様の地形環境に立地するようだ。 木ノ庄貝塚@木ノ庄町中央時計台の向(城北中学と樹徳小学校の間の道を北上した高校の立地する台地の端(海抜5-6㍍)
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ちょっと「愛知県史研究」を見ていて・・・・

2023年08月26日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

◎村 喜久子「尾張國冨田庄絵図」の主題をめぐって、愛知県史研究5号(平成13)をちょっと読んで見た。
話題①
例えば「近年村岡(幹生)氏は、当絵図研究を総括し航空写真の読解による現地形との対比を踏まえて、この絵図が描かれている内容・主題を再検討し、円覚寺支配説(◎村さんの持論)を補強され、さらに14世紀半ばの土肥氏一族の当地域への進出時期にこの絵図作成年代求める見解を述べられた」のだと。上村さんはその立場に賛意を示しながら、なお「村岡氏は押領を受けている地がことごとく絵図に記載されている事を指摘し」それをヒントに絵図作成年を想定した(村岡 幹生執筆「荘園・公領制下の人々の生活」、所収『新修名古屋市史』 第2巻・第四章,1998)と。8月19日の時点で『新修名古屋市史第二巻』)、207頁をチェック済。
ただ、例えば絵図に関する見解には論旨に矛盾するところ(茶線=「御厨堺」に領域界の意味あり-204頁と指摘しながら、別の個所では萱野相論の詳細が書き込まれているとは期待しがたい性質のもの-224頁という類の矛盾点)が見られ、その点が惜しまれる。
また「航空写真の読解による現地形との対比を踏まえて」と◎村さんが紹介していたので、期待して執筆論攷に目を通してみたが、ご本人は国土地理院4万分の一の空中写真(1968年撮影)の一部をそのまま挿絵風に掲載しただけだった。この辺りの説明に村岡さんは力点を置いているが、和与関係文書(『愛知県史』資料編8,1248号)の解釈(単に、樋口さんの模式図を安田さん推定の旧河道図で修正)を含め苦慮した跡もうかがえ、まあわたしなどは直感的に首を傾げてしまいそうな部分もあるので、いずれ批判/異論が噴出してきそう。

◎村さんは論所の中間部に立地したは村岡論文中の「水落」(語意については村岡・名古屋市史220頁に「川が海に落ち込む地点」と説明、従って明らかに御厨川の当時の河道=水落とは理解していない。村岡さんはそういう理解のまま富田荘・一柳御厨余田萱野相論関係概念図、名古屋市史219頁を作成、それ)を(◎村さんは)さりげなく「水落(現河道)」に変更の上、「村岡氏が正しく読解したように」(◎村 冒頭論文8頁)とやっている。こんな間違った庇(かば)いあいを繰り返していると上村さんは研究者としての良識を疑われかねまい。上記の概念図を見る限り、基本的に村岡さんには相論当事者の地形認識の差異と当時の海浜地形のあり様がよく理解出来なかった感じだ。無論、その「村岡氏が正しく読解したように」という◎村さんの記述は偽り。


話題②
▼貝富士男論文(「円覚寺所蔵尾張国富田荘絵図の成立事情」、大東文化大学紀要. 人文科学 42 A101-A122, 2004-03-31(大東文化大学・機関リポジトリにて論文は公開中・・・内容的には力作)
暦応元年と暦応3年の報告に関して、➊後者は新たに調査を行った結果ではなく、単に暦応元年報告を補足する目的で「詳述」しただけ、➋同年4月16日の御奉書はそのための催促状であった(119頁)。➊➋に関しては疑義が出てきそう。また「全領域図」の「境相論図」への差し替え時期については、絵図が有する主張をまったく脇にやった形で「建武3年末から暦応元年前半期までの間」(120頁)という具合に、(その当否はともかくとして)南北朝期に於ける南朝方と北朝方との勢力基盤の変動と絡めたより広い視野からの理由付けを試みている。そのほか▼貝「円覚寺領尾張国富田荘絵図に見る海水面変動」,大東文化大学紀要. 人文科学 44 A61-A82, 2006-03-31(大東文化大学・機関リポジトリにて論文は公開中・・内容的には読む必要なしの駄作)⇒註1)で後醍醐政権に対して円覚寺が地頭請権の復活申請をした1334年に原図が作成され、その後1336-1338年頃の一楊御厨余田方との萱野境を巡る争論の絵図に記載内容に一部変更を加えつつ転用と説明(なお、▼見が声高に主張する絵図の右下隅の一紙分のズレに関しては一度料紙や顔料の鑑識学的確認作業が必要。その判定結果を待ってから冷静に議論を進めれば済むこと)。


後日談
私自身、尾張国富田荘に関しては愛知県海部郡蟹江町・七宝町から名古屋市中川区にかけて1985年ごろから数年間に亘り、何度か隣地調査してみたことがあるが、そこに立地する旧明力坊・前田速念寺(真宗、名古屋市中川区前田西町1丁目904)の前住職は文化功労者(仏教学)の前田恵学氏。その夫人は旧沼隈郡今津村・長波出身の教育学者川上喜市(旧福山市立今津小学学校校歌の歌詞制作者、松永川上薬局の祖父長市の弟)二女龍さん(1932年生まれ、母親<1896-1970、学習院女子教授・化学>の影響でリケ女:薬学部卒。『旧明力坊・、前田速念寺史稿 江戸時代編』、平成3年)。そのことを知ったのは10年程前のこと(龍さんの甥:姉の子で情報通信工学者▼野〇一郎氏からの情報)だが、考えてみたらという感じで、わたしは尾張国富田荘に対して不思議な縁をかんじたものだ。同じような思いを学生時代にたまたま立ち寄った諏訪市小川が後年(てか数年前に)、武井節庵の故郷だったことを知ったときにも懐いた。不思議なことといえばまだある。尾道文化42(令和6年)に書いた論攷の中で、備中足守の地歴研究家小早川秀雄という人物のお墓が、足守の守福寺(僧侶が戦前段階に不在隣、すっかり御堂が朽ちかけた無住寺)で荘園調査の合間に、ふと思いついて墓石を調べたことがあった。地元の人の話では御当家の人は岡山に転居してここにいないということだった。ここは足守藩家老杉原氏の菩提寺だったが、この中に小早川秀雄(日置流弓道家として知られた足守藩吉田家の祖・吉田源五兵衛経方の末裔)のお墓があったのだ。そのときは小早川のことは知らなかったので気づかなかったのだが・・・、それにしても不思議なことがあるものだ。足守調査は京都からの日帰りを含め、10年前までに拾数回程度は行っているだろう。
隣の蟹江は永井潜の弟子:小酒井光次(東北大学医学部教授・推理小説家小酒井不木)の生誕の地だった。この辺りは海抜0メートル地帯で伊勢湾台風の時は大きな被害を受けた。

参考までに、前田速念寺蔵「蓮如上人御絵像」(1637年)の裏書に、寺の在所を「一楊庄前田郷御厨」となっている(『旧明力坊・、前田速念寺史稿 江戸時代編』、17頁)。名古屋市中村区横井町は速念寺蔵古図では「前田横井」となっているらしい。

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青木茂『新修尾道市史』所収の『長沼文庫版尾道町宗門人別改帳』について

2021年12月19日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
わたしが青木氏を知ったのは京都今出川通りの古書店で『近世日本における富籖の社会経済史的研究』昭和37年刊を入手した学生時代のことで、神戸学院大におられたので、ごく最近までこの人は京都帝大卒の方だとばかり思っていた。
『新修尾道市史』が刊行され始めた頃にわたしが78歳時の青木から貰った礼状がこれだ。昭和51年(1976)年11月4日の消印あり。この葉書のことも私的にはすっかり忘れていたのだが、最近尾道研究に着手して、青木執筆の『新修尾道市史』全六巻を取り出して調べていく中で再発見した。
青木は明治31年3月16日に御調郡三浦村大字椋浦272番地に生まれ、明治45年に御調郡土生村外二ヵ村立因南高等小学校卒の文字通りたたき上げの、異色の経済史、地域史研究者だった。
青木茂「廣島藩における富籤興行」、日本史研究12,1950年、71~78ページ
青木茂「尾道に於ける富籤興業補遺・上下」社会経済史学 1943年3月・4月(該当論文未確認)
富札(富籤)に言及した先行研究:幸田成友(文豪幸田露伴の弟) 『日本経済史研究』、大岡山書店、昭和3年
幸田氏は『大阪市史』(大正4年完成、修史事業自体は明治34年開始)の執筆を一人で担った御仁であり、そういう意味では青木茂氏は”尾道の幸田成友”と言っても良い存在だった。

さてさて、長沼賢海(1883-1980)が広島高等師範学校教授時代に集めた一連の尾道関係の文書(長沼写本≠原本)についてだが、九州大学付属図書館蔵長沼文庫文書の中に収まっていて、いづれも「尾道書類」・「渋谷雑録」などと言う形で再編集されている。なお、渋谷家文書の原本については広島県文書館参照(松井 輝昭・西 村晃 執筆)
これらの中には青木茂『新修尾道市史』などの中で翻刻されたものもあるが、貴重な現物史料だ。『新修尾道市史』と長沼文庫版古文書の記載内容とを校合してみたが、青木が寛永ヵとする尾道町宗門改めについていえば長沼文庫内のそれと比べ、文字列については大きく異なる。と言うわけで誤植や文字列の脱落もあって新修尾道市史中のそれとは結構差異が多い(長沼写本自体の変形はとりあえずここでは不問)。しかも長沼文庫中には宗門人別改帳①②の二種類が存在する。
簡単にその差異について紹介すると、例えば福善寺門徒のあかや孫左衞門家の場合、息子の数が左衞門一人だけの版これが①で:『尾道書類第一分冊』所収。②は息子・娘合計3名の版(寛永拾〇年10月24日と制作年月日の記載、長沼文庫版では〇は数字が訂正されその結果わたしの措置で不明を意味する)だ。こちらは耶蘇宗濫觴記(やそしゅうらんしょうき)→目録60番の方に入ってる。
12月17日の史料調査では①②の照合作業はかなり難航が予想されたので、今後の課題としてそうそうに切り上げたが、もし人口学、家族史を踏まえた中近世移行期の社会研究を行う時には当然入念な比較作業が必要(メモ:前欠文書だが世帯数三百超、人口二千数百人の分量、下準備必要)。

文字列に関して触れておくと『新修尾道市史』・第二巻、49-99頁には前欠文書として安養寺 「おばらや」(ママ)源右衛門から始まり、99頁下段記載の「時宗 念仏堂 (虫食い)・・・・・真宗 常泉寺 (虫食い)、合7人 」で終わるのだが、長沼文庫版では「真宗 浄泉寺 七兵衛」(60頁下段)から始まり、『新修尾道市史』99頁まで行き、そこから49頁の冒頭部へ、そして60頁下段掲載の「時宗 水庵」(虫食い □人)で終わる前欠文書となっている。すでに後期高齢者だった)青木茂は原稿整理の段階で何頁分かがまとまった形で順番が入れ替わったのだろう。こういう誤りは他にもあるように感じられる。まともな研究者なら当然逐一それを再チェックしながら尾道町研究を進めることが必要となろう。再三指摘してきたように公開されている長沼文庫版宗門人別改帳自体が寛永期あるいはそれ以前の時期の原本ではなく、様々の時期に制作されたその写本だということは弁えておくとよい。

今回の校合作業を通じて当時の尾道町においては宗門人別改めが落人・キリシタン対策としてどのように実践されたのか(否、キリシタン政策をどのように渋谷氏の当時のご当主が受け止めていたのかが)判り始めた(後述するα)。そういう意味では九州文化史研究所所蔵古文書目録60番・耶蘇宗濫觴記(やそしゅうらんしょうき)の方はその点に関する言及があり、精読する価値のある興味深いしろもの。

青木茂『新修尾道市史』所収の『長沼文庫版尾道町宗門人別改帳』に登場する真言宗 西国寺門徒の泉屋(松本氏/旧葛西氏)庄右衛門家の場合、登録家族員数34人ーとても大所帯。そのうち西国寺門徒は庄右衛門と血縁族縁関係を有する9人だけで、残余の25人は下人・下女身分の構成員。下人与三郎は真宗浄泉寺門徒の女房・娘の3人、下人甚三郎は真言宗持善院門徒で女房・むすめの3人、真宗福善寺門徒の下人与吉以下の11人はそれぞれ、真宗浄泉寺・時宗三ノ寮・真言宗般若院・真宗福善寺門徒、「うば」2人は下人・下女の記載はないがいずれも真宗浄泉寺門徒、そして最後に「かしや」(借家人の意味)身分の真言宗般若院門徒の喜蔵とその女房・子供ら。最後に記載された左兵衛は喜蔵の親の可能性もある。一家族が複数の宗派の寺院に分割されている点に気づかされる訳(この点は脇坂昭夫「寛永期の尾道町宗旨人別帳について」や近年の吉原睦らの指摘する重層的寺檀関係、or 複檀家状況、つまり一家一寺制ではない)だが、校合作業結果を示すと、この部分での『新修尾道市史』中の誤字は3か所あって、下人助作は下人助蔵が正しく、喜蔵の「養子/とりつち」・「里子/正五郎」の「養子」と「里子」部分は共に「男子」とするのが正しい。『新修尾道市史』にはこういう誤りや脱字が幾つもあるという程度のことは一応念頭においておく必要があろう。ついでに指摘しておくと広大図書館がネット上で公開する広島県内の検地帳だが、わたしが調べた沼隈郡東村・松永村・柳津村についてはすべて掲載ミスありだ。前2者については広大側に連絡し,修正済みだが、最近、柳津村分にも同様のミス(史料が重複、欠落があるかも・・・)があることが判った(広大側にはまだ連絡はしていない)。
なお、下人については庄右衛門下人と下人の記載分けが見られた。同義だと思われるが、慎重を期して、その意味するところはいまのところ不明だしておこう。
このような宗門人別改め制度というか、要するに戸籍制度が広島藩における民衆支配の基盤を成したわけだ。家主庄右衛門は町人層を借家人・下人/下女という形で家父長的支配の中に再編成していた訳だ。「抱え」という語が『文政4年尾道町絵図』中では頻出するが、社会制度として「抱え」という在り方が存在した訳だが、この抱え制下で尾道町の住人の大半がほぼ借家人として、寡占状態にあったと言ってもよいほど、少数の大家(豪商たち)の影響(民衆支配)下に置かれていた訳だ。参考までに触れておくと福山藩では「抱」よりも「受」(例えば受所、中世文書では請所)という言い方が一般的だが、税制(税金徴収)面での意味は同じ。
中世の古典籍『師守記』の中では「うば」身分の女性は相応の教養と人格を有し下級貴族中原師守から成人後も頼りにされていたが、この宗門人別改帳中の「うば」とは公文書の中では匿名化された没個性的な人格として形象化されていた。
ほかにも色々と興味深い事柄が散見された。例えば下人の中には「やまだや二郎兵衛」家の「禅門」(86頁下段)や大工与右衛門家の下人「てんねいほう」(天寧坊?、52頁下段)のように半僧半俗身分を感じさせるもの、浄土宗正授院門徒・笠岡屋少右衛門(尾道本陣小川氏)家では「ばば」(祖母)の名前が「妙法」というように半出家者風だ。それから浄泉寺門徒で京右衛門下人であった作右衛門の女房は「いづみや市右衛門へ入る」とあり、豪商泉屋葛西氏に女房を譲ったのか盗まれたのか不詳ながら、作右衛門自身は別途女房を得たのか最後に二人目の「女房」の記載がある(50頁下段)。この宗門人別改め帳の中に登場した下女の名前として一番頻度が高かったは「やや」であった。沼隈郡神村の豪族和田石井家ゆかりの鬼火伝説に登場する女性「おやや(写真白マークが伝おやや夫婦墓)」理解の上で参考になりそうな事実と言えよう(おやや夫婦の戒名、夫側の戒名は「法林院長覚」で、伝承通りこの人物は出家者だったヵ)。わたしが本日一番興味を持ったのは実は下人としての「禅門」や「てんねいぼう」の存在だった→その理由については松永史談会2023年5月例会レジュメ❼の中で寛永期の宗門人別との関係で解説している(α)。

長沼文庫(昭和8年の長沼写本)蔵の渋谷家文書を見ていていろいろ興味深い記事を見かけたが、これまでわたしが取り上げてきた話題との関係で一つ例示すると正月行事としてご当主大西治兵衛が享保10年の『歳志記』に家のお宝や不動産などのリストを書き上げている中に法華経関係の書物と並んで『太平記18冊』の名前を挙げていた。尾道市立中央図書館には和綴じ本がたくさん、寄贈されているのだが、一度、近世尾道におけるの郷神層の読書空間についてチェックしてみたいものだ。林子平『三国通覧図説/1』(西備奴可郡西城町=現在庄原市内居住の岡崎光興が文政10/1827年に制作した写本)はこんな感じ。今回の話題は長沼氏の写本を取り上げていろいろ、言ってきたが渋谷家文書原本は表装段階にいろいろ改変されているようだが広島県立文書館蔵のものを見てからするべき問題だった

【西国寺門徒の泉屋(松本氏/旧葛西氏)】の別業:賀島園
八幡浩二「備後加島園跡 -近世町人文化遺跡の基礎的研究-」『研究報告書』、尾道大学地域総合センター、2008年3月31日 
どこかの史料で今津(湊)から備後加島園に行ったという記載を目にした(要確認)。
福山藩関係では漢詩を残す菅茶山、そして何度か藩儒伊藤氏が加島園を訪れていた。
参考までに賀島園主松本達夫の外姪(がいてつ)=享和3年「芸備風土記(芸備古跡志)」をあらわした甥:鰯屋勝島惟恭(これやす)

青木茂『新修尾道市史』所収の『長沼文庫版尾道町宗門人別改帳』について
「寛永期の尾道町宗旨人別帳について」(脇坂昭夫,『広島大学文学部紀要』15号,1959年)下人を含む「一家族」が複数の檀家に帰属する在り方に注目
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わたしの手元にある濱野章吉編『懐舊紀事-阿部伊勢守事蹟-』 明治32刊

2021年01月06日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
濱野章吉編『懐舊紀事-阿部伊勢守事蹟-』 明治32刊を岡山市内の古書店から正誤表付き元版と言うことで入手した。

革装で目立つ傷みなどはないが品良く古びていた。
本文は普通に綺麗であったが、裏表紙(見返し)の隅に、福山市内、木綿橋南詰にあった千華堂書店(古書店)のラベルがついていた。いろいろ転蔵を繰り返しながら、遂にわたしのところに辿り着いたといった感じの書籍だった事が判る。とりあえず手持ちの戦前戦後の住宅地図を含む福山市街地図を調べてみたが1938年まで存在した木綿橋南詰(神島地区)にその古書店を見つける事は出来なかった。
奥付ページはこんな感じでその直前にはこんな押印があった。曰く「調査完了・福山市 ふくやま書林」。

探してみたところこんな調子の印影が大小6ヵ所見つかった。すべて紹介しておこう。
表紙裏(見返し)には正誤表と大きめの蔵書印:「研智備徳/図書/小早河家」・・・・これを見て旧蔵者が誰であったのかわたしには直ぐに見当がついた。


後述するとおり「土肥日露之進(古物/古書商で郷土史家だった土肥日露之進[1905-1968])」の名前も記載されており、本書は正しくこの人の旧蔵本だったのだ。「ふくやま書林」というのがご本人の経営した書店名だったのだろう(要確認)。ハワイ大学梶山文庫に雑誌「豊艶」第三号「豊艶文庫主人」(1947年)とあるのがこの御仁である。

おやおやこちらには「土肥小早河家弐拾八・世孫土肥日露之進平篤」と力んだ名前。この御仁は「小早河家」を名乗ったり、こんな力んだ名前を使ったり、1963年に児島書店から出した南郷土史研究=末顕真実= : 第2輯には確か日本刀を脇に正座した肖像写真が掲載されていたような・・・、すこぶるユニークな人だったようだ。参考までに『松永市本郷町誌』の近世史料部分は殆どこの人の研究成果に依拠していた。『松永市本郷町誌』(例えば205-218頁)には「小早川家文書」からの引用が散見されるが、これは土肥日露之進所蔵文書のこと。。 


『懐舊紀事-阿部伊勢守事蹟-』の編纂・校正作業に関わった人物(ジャンボな土肥の印影付き、曰く「弐拾八代・・・」。資料集めの責任者は濱野章吉一人、それに濱野の教え子世代に当たる田辺新七郎(建築家田辺淳吉の親父)・山岡謙介岡田吉顕の兄貴)・関藤成緒(関藤藤陰の養子、京都帝大内藤湖南の秋田師範時代の恩師)が資料提供を含め全面協力。
引用書目(旧幕府要人からの聞取り資料を含む)





全体の構成は阿部伊勢守の年譜(7頁)・事蹟(872頁)・行略(15頁)・弁疏(弁明、14頁)・付録(157頁)。要するに伝記ではなく阿部伊勢守関係編年史料集成だ。
誤植だらけの本なので正誤表が不可欠だ。
この書籍に対する私自身の関心は優柔不断な”瓢箪鯰”と陰口をたたかれながらも幕閣として安政の改革を中心的に断行した、福山藩第七代藩主阿部正弘にではなく、もっぱら編者濱野章吉の方。とりあえず濱野が執筆したと思われる行略(15頁)・弁疏(弁明、14頁)は通読しては見たが・・・・(先ほど「旧福山藩学生会雑誌」第二十二号、明治33を見ていたら「阿部伊勢守行略」は次号で取り上げるという一文を見つけた)。濱野章吉の名前を挙げたので、ここではついでに阿部の指示で蝦夷地探索を行った関藤籐陰(『観国録(1856-57年)・・・阿部正弘の死亡によりお蔵入りした蝦夷地調査報告書(松永史談会2019年5/6月例会にて『観国録』の博物誌的水準に言及)』)・寺地強平(松永史談会2019‐4例会にて一部言及)らについてもこれまで通り注視するつもりだとしておこう。

それにしてもわたしが入手したものはそこら中に土肥日露之進の印影による”汚損”があった。
ネット上に転がっていた土肥情報(みはら玉手箱17号 平成28年9月)⇒土肥日露之進の寄進物@小早川家菩提寺米山寺

『小場家文書 上巻』123-124頁に土肥日露之進「検地説は事実無根なり」からの引用あり(土肥さんは古文書はある程度読める郷土史家だったが、研究者としては素人)。

メモ)阿部伊勢守正弘(1819-1857)福山藩主、幕閣。ペリー来航当時の幕府老中首座=”徳川幕府の首相” 。阿部正弘の死後幕府の実権を握る大老井伊直弼とは対立。阿部は江戸城西の丸の再建の功績で1万石の加増となり、それを元に困窮する領民救済ではなく将来を見据えた領民(士庶に開かれた)教育機関「誠之館」を創設している。

福山・誠之館高校蔵

本書の中の阿部伊勢守についてだが、私的には「藩主信仰」という切り口を絡めた検討を行うことになろう。
阿部正弘事蹟に関しては渡辺修二郎本(人物評伝・史伝)が最良。濱野編集本(編年史料物、誤植が200か所近くあり、正誤表は不可欠)は副次的価値しかない。やはり、渡辺と浜野との間には能力差がある。
最近刊行された後藤敦史『阿部正弘-挙国体制で黒船来航に立ち向かった老中-』、戎光祥選書ソレイユ011、2021年刊、228頁は等身大の阿部正弘像の提示(私信の中で吐露した文面から阿部の人柄批判とか異国船監視のために行った農繁期の農民徴用などの苛政等指摘)ということをセールスポイントした貴重な書籍だが、渡辺修二郎の阿部正弘研究を越えるものではない。
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失われゆく宿駅景観-福山市今津町字「町」編-

2020年11月20日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
今津宿の旧問屋場跡(與左衞門⇒竹本屋村上重右衛門(松永村及び今津村の元禄検地帳に公儀名「重右衛門」、廻船業・高利貸/不動産賃貸業。野取帳には旧今津湊、番屋隣及びタマ土手沿いにも土地建物を所有)⇒明治25年熊田佐助⇒明治27年尾道町十四日町672番地居住天野又兵衛⇒明治33年角灰屋橋本吉兵衛⇒明治34年沖村喜助⇒大正4年沖村徳三郎)の痕跡も昨年(2019年10月27日)の「沖村家住宅」解体によってかつての面影は失われてしまった。下の写真は2017年に撮ったもので、昔の面影が多少なりとも残っていた。旧問屋場の直上には旧郷蔵(井上家住宅)。向こう隣に当たる東隣に725~726番地は木村駒吉⇒明治41年・木村恒松⇒明治41年木村定吉⇒大正3年木村恒松⇒昭和9年木村理人⇒同年井上義郎(柿渋製造所)

隣家の井田惣三郎宅裏(郷蔵直下)は旧「馬屋」
今津村野取帳にみる剣大明神鳥居前の旅籠

山内丈助⇒山内享太郎(旅籠:「田新」、剣大明神祭礼時に馬場両側の薬師寺所有夜店敷地の使用権を持っていた)。馬場を挟んで向いの薬師寺所有地に旅籠:前元楼(前新屋三藤氏)があった。


図中のA=旅籠屋「福喜」(福喜屋)の立地した三島徳七屋敷は明治10年代以後分筆が始まり、一部は一時村上重右衛門へ譲渡、その後明治33年に三島喜十郎の手を経て明治42年に三島徳七の相続人三島茂男が買戻すが、同時に茂男は屋敷地の一部を明治43年に芦品郡府中町の稲田徳太郎に譲渡。これらの土地は大正14年粟村七兵衛(カネダイ醤油経営)、大正15年には779-2番地だけは稲田⇒近田須美子の手に渡っている。粟村七兵衛が昭和35年(競売にかけられ所有権移転)まで所有していた土地には映画館「吾妻館」(779-1,779-5/779~6/779-7)が立地。B・Cは薬師寺所有地で、ここには幕末明治期にかけてB=「田新」C=「前元楼」という2軒の旅籠が立地。今津湊の前新新涯側の堤防には松原が続いていたが、1947年10月10日米軍撮影の空中写真には神社境内(裏御池)となった北端の1本だけが戦時中に伐採されず写っている。


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GoogleMap の左肩三本線:「メニュ」欄を開き、「ストリートビュー」へ


歴史小説家森本『福山藩明治維新史』記載の宿屋「田新」に止宿した福山城攻略のための長州藩部隊の話題は非常に具体的で面白いのだが、森本が想像を巡らして制作した作り話だ。
福山藩では文化期ごろから神辺宿以西には御小休所が何カ所か設置され、例えば今津本陣近辺では西町の入江屋石井四郎三郎屋敷(割烹料理の”大吉”一帯)がその機能を果たした。
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松永史談会2018年4月例会配付資料(解説)

2020年11月16日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

【注記】松永史談会2018年4月例会配付資料
本史料内には執筆者河本四郎左衛門によって仕組まれた偽史言説(田盛大明神祭礼)の一端が含まれている。
京都大学図書館デジタルアーカイブ中の「文化15年当村風俗御問状(幕府の右筆であった屋代弘賢が日本各地の風俗,習慣を知るため配付した調査票)御答書」影写版(谷村文庫 「ト」より入る 全文公開


平山敏治郎「備後国今津村風俗問状答書」解説




















歴史民俗学者平山敏治郎氏は『当村風俗御問状御答書』の史料紹介の労をとられた。それを受け、ここでは若干の注記と解説を行ったが、今後必要な作業としては例えば①この種の作業の徹底と史料批判(言説分析)、②周辺地域の諸事例を視野に置きながら西国街道筋の一藩政村沼隈郡今津村の一年(統治/共同体規制と言う側面から見た藩政時代の年中行事)と③『当村風俗御問状御答書』が書かれた当時の時代的、及び社会的背景等について検討を進めていく必要があろう。

平田篤胤門下で、塙保己一『群小類従』の編纂校訂、『寛政重修諸家譜』などの編纂に従事した幕府の右筆屋代弘賢(1758-1841)情報を得て山崎美成のもとにいる(異界からの帰還者少年)寅吉の談話をまとめた篤胤の異界談『仙郷異聞』。平田篤胤や屋代弘賢、その知人で『南総里見八犬伝』を書いた滝沢馬琴らは仙郷(あの世)に関して、今日的に言えばドクサ(魑魅魍魎・妖怪を実在するものと考えるような臆断の世界)を共有していた。江戸中期人たる賴山陽も同じような虚実混淆の知の地平を生きていた。『当村風俗御問状御答書』はそういう人たちの生きた時代の産物。

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本郷川河岸の環境と開発

2020年04月10日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

松永史談会会報号外(2018年11月)


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それは浦崎梅林だった

2019年08月08日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

安政4年雲山山人作「松永湾岸風景図屏風」(福山城博物館蔵)に描かれた戸崎付近に咲き乱れる花 わたしは桜だと思っていたが、実はどうもそうではなかったようだ。



市立園芸センター(福山市金江町藁江609)から見た松永湾の風景(Xは戸崎)↑


昨日小畑正雄『浦崎村史』、1980を見ていて山路機谷の漢詩「遺芳湾雑景」(浦崎八景)に菅茶山が使わなかった「戸崎梅林」の表現をとっていることを知った(『沼隈郡誌』からの孫引きヵ)。わたしは桜かなと思っていたのだが、屏風絵の作者:雲山山人がそのことを認識していたかどうかは判らぬが、戸崎=梅の名所(風景写真のX地点、その向かって右側、山頂を低く削平した場所が古城跡)+海中につきだした古城跡ということをわきまえていたことが判る。

小畑正雄『浦崎村史』だが、千年藤に関して独自に自説(内容的にはfakelore)を展開していた(論証方法が普通に恣意的)

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遺跡/遺物を通して見た幕末期に活躍した地方文化人を巡る虚と実

2019年08月02日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
遺跡/遺物を通して見た幕末期に活躍した地方文化人を巡る虚と実
August 18 [Sat], 2012, 15:29
京都大に山路機谷の長男球太郎が寄贈した機谷の著書『白雪楼読史記考文』、『白雪楼史記読本』などがあることを知った。
山路機谷とは・・・・・・。池田春美編『山路機谷先生伝』、1933を通じて少々紹介しておこう。


池田春美 編「山路機谷先生伝、 森田節斎と平川鴨里」

[目次]
標題
目次
第一編 山路家總說
第一節 山路家略歷 / 1
第二節 山路系譜 / 6
第二編 山路機谷先生事蹟
第一節 系出 / 16
第二節 漢學者としての山路機谷 / 16
第三節 勤王家としての山路機谷 / 21
第四節 山路機谷と神社佛閣 / 34
第五節 機谷の公共慈善事業 / 60
第六節 山路機谷の殖産 / 70
第七節 機谷の儉約 / 72
第八節 鐵砲所持不仕證文 / 73
第九節 百姓騷動と岡本 / 74
第十節 豐臣秀吉公遺愛の石燈籠 / 76
第十一節 山路機谷の終焉 / 77
第十二節 機谷の贈位運動顚末 / 83
第三編 森田節齋先生事蹟
第一節 森田節齋の修學 / 85
第二節 森田節齋と江渚五郞 / 85
第三節 森田節齋と吉田松陰 / 86
第四節 森田節齋と岡村達 / 87
第五節 森田節齋と杜預藏 / 87
第六節 賴士剛を送る辭 / 89
第七節 森田節齋と魯三郞 / 90
第八節 吉田松陰と江渚五郞、宮部鼎藏 / 91
第九節 森田節齋と藤川冬齋 / 93
第十節 吉田松陰の入門 / 94
第十一節 節齋姫路侯に仕官す / 95
第十二節 節齋の勤王 / 95
第十三節 節齋の文章三戰 / 96
第十四節 節齋無絃女史を娶る / 96
第十五節 節齋山路機谷に寄寓す / 97
第十六節 節齋の晩年 / 99
第四編 平川鴨里先生事蹟
第一節 平川家略歷 / 100
第二節 鴨里の修學 / 100
第三節 鴨里十四歳にして詩を作る / 101
第四節 鴨里高橋氏を娶る / 101
第五節 鴨里寺地舟里に師事す / 101
第六節 藤江村に開業 / 103
第七節 明治戊辰の役 / 104
第八節 榮進 / 104
第九節 笠岡にて徒に授く / 105
第十節 鴨里佐々木東洋に師事す / 106
第十一節 福山に開業す / 106
第十二節 二兒を送るの辭 / 106
第十三節 翁の晩年 / 107
第十四節 翁山陽に私淑す / 108
第十五節 翁と編者 / 108
第十六節 二竹樓記 / 109
第十七節 鴨石 / 112
第十八節 翁の人となり / 112
第十九節 遺著 / 113
第二十節 自製碑銘 / 114
第二十一節 結尾 / 116
第五編 其の他の事蹟
第一節 山路之保 / 116
第二節 山路嘉兵衛 / 117
第三節 山路亀太郞同妻キヌ / 118
第四節 山路重信 / 119
第五節 山路重敏 / 120
第六節 岡本家監松兵衛 / 121
第七節 山路右衛門七 / 122
第八節 山路康次郞 / 124
第九節 其の他 / 125 (以上、「国立国会図書館のデジタル化資料」より)


かれは幕末期に備後国で活躍した豪農兼社会事業家、やや浪費的なB級文化人(=dilettante)だった。

岡本・山路家は明治24年に没落するが、機谷の友人平川鴨里が昭和3年に、そして昭和6年にはこの池田がこの山路の贈位運動を展開するが、いずれも失敗に終わっている。
断っておくが、ここで参照する池田春美著『山路機谷先生伝』(元版は昭和8年、その後昭和60年に内外印刷・出版部より復刻版)はそういう著者の思いの込められた貴重な自費出版書だ。山路機谷のイメージは『沼隈郡誌』と本書に基づいたものが流布しているが、それはあくまでも彼の一面を捉えたもの。

今は立派な石垣を残すだけとなっている岡本山路家邸跡


彼一族の墓地の現在


荒廃した山路家墓地だが、手前左端の空風輪のない五輪塔が山路氏の祖:山路孫三郎の墓、もとは鞆・南光山にあったが、後代に藤江村の念仏院に改葬したものらしい。墓石の風化度等勘案すると後代のもののようだ。
藤江村の山路家は貞享3年嘉兵衛之勝の時代に、藩主水野勝種より松永湾の独占的な漁業権(藩側からみると漁業を巡る一元的な入漁料=営業税の委託徴収権)を得たらしい。
ここは山路一族の菩提寺・念仏院の墓地だが、墓地の中央に機谷の巨大な墓石(慶応2年に妻が没したときに造立した生前墓)があって、山路氏の祖の墓はその左奥に収まっている。墓石の規模・配列などからも、機谷のやや自己中心(=独善)的な性格というか有頂天と言うかそういう気分が読み取れよう。浜本鶴賓は「家富むも自ら奉ずる倹素、孜孜として自ら鋤犁を把って耕す」(序9頁)と述べているが、藤江村民の大半は間脇(430戸)・名子(13戸)・水呑百姓(104戸)で本百姓は明治4年のデータでは585戸中わずか30戸だったし、庄屋・山路家の墓石の大きさはこの地方の庄屋クラスの水準を大きく超えており、機谷の生き様は、周知のこととされる倹約質素のイメージからは程遠い。
特に化政時代:表山路の嘉右兵衛之保ー嘉兵衛之基、之基の弟で吉本山路の忠平重信(剣大明神に玉垣・雁木などを寄付)ー熊太郎重㉀(岡本山路を継ぎ、機谷と号す、歿年53)以後は、過剰なまでの敬神崇祖の念を抑えがたく、藩権力側から与えられた特権に胡坐をかき、村内・村外に民心とは遊離した形での威信財(社寺仏閣を含む)の建造・整備に腐心した。そのため、いまでは念仏院・柳見堂・大神(だいじん)社は倒壊寸前のものを含め相当に荒れている。福山藩内の溜池築造などの公共工事は藩内6郡あるいは関係する一郡の請負で行われたが、岡本山路家の場合はそれを自前で行い、それが地元では美談として語り継がれているが、それは民衆の不満を予防するための一種のガス抜き政策の所産に過ぎないことだっただろ。
これと比較する意味で福山藩の儒官伊藤梅宇(伊藤仁斎の次男)の墓碑(高さが1メートルにも満たない、中央の板碑型石碑)を掲載しておこう。
牛頭天王か牛神か 山路機谷が建造した港を見下ろせる丘陵の一角に打ち置かれていた。地元の人の話では天神さんの一部で、山路家所縁の大神(だいじん)社にこれだけ移転されなかったらしい。


機谷の息子たちは家を再興するためにアメリカの大学に留学し、長男は中退、二男はペンシルバニア工大を卒業し、ボストンにて兄弟で事業(古美術品販売・・廃仏毀釈で叩き売りに出されていた旧寺宝類をアメリカに輸出しそれを現地で販売)を興したが、失敗し、帰国している。山路球太郎の方は日本に活動写真の映写機を輸入し、福澤諭吉等を興味がらせたらしいが、晩年は親類の備前屋を頼り港町尾道に帰っている。そういえば、江木鰐水の息子:外務官僚の江木高遠が外交特権を悪用した美術品密輸に関わったとして大使館の吉田公使から叱責され、ために高遠は1880年6月6日にワシントンの日本公使館で自殺していた(江木高遠は明治の地理学者:志賀 重昻の恩師の一人)。

参考 今は無き山路家ゆかりのモノたち


山路忠平重信は機谷の父親。山路忠平乗時と言う人物が慶応2年「石州戦争」に出兵し、戦死している(森本繁『福山藩幕末維新史』、131頁掲載の「福山藩戦死者の位碑」参照)。この人物は山路一族の系図には出てこないが、おそらく何らかのゆかりの人物だろう。この山路は調べて見る価値はあるかもしれない。当時は士卒身分の藩兵だけが藩領外の戦に参戦していたが、さてさて山路忠平乗時という不運な青年はなにものだったのだろ。

尾道・浄土寺門前の巨大標柱金石文
松永湾の西岸・山波から見た岡本山路氏の拠点

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中世後半期における松永湾北岸域の荘園の分布(ネット公開版)

2019年06月06日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

中世後半期における松永湾北岸域の荘園の分布
January 31 [Wed], 2018, 10:49

神村地区は大字地名と数詞化された大字名とを対照出来るようにした。地名「松永」(寿年)の動機付けとなった地名・松崎は神村・松永にかけて分布する地字だが、神村町で言えば(大字郷倉/8区にある)万福寺境内一帯のそれに当たる。これは中世の沼隈郡神村を考える時も留意すべき事項だ。


室町期の海岸線は現在の潮汐限界点を参考にして線引きした推定線であって学術的な検証が必要である。
吉井川下流の西大寺、芦田川下流の神島市や沼田川下流の沼田荘周辺の塩入荒野(沼田東町七宝)などの臨海型荘園事例など勘案すると、まあこんなもんだろうといういい加減な汀線表現だ
なお、「沼隈郡神村」と「沼隈郡新庄」との総体は竹内理三編『荘園分布図・下巻』(231㌻)の図示通り石清水八幡宮領備後国神村庄と呼ばれたものにあたる。なお『広島県史・史料篇』や『角川日本地名大辞典・34/広島県』は当該神村荘を御調郡神村に比定しているが、この説は単に細川家文書(「明徳4年備後国御料所分注文」)中の備後守護領「神村庄」の記載の仕方から発想されたものだが、この説(例えば後述する岸田裕二氏、51頁)にはそれ以外に確たる根拠はなさそうで、そのように仮定した時点で御調郡神村荘研究は止まってしまう(同様に『福山市史・原始から現代まで』116-119頁記載の「沼隈郡神村荘」説も記載の順序を根拠したもの、御調郡神村荘説と同じ発想で、本書は前掲『広島県史・史料篇』や『角川日本地名大辞典・34/広島県』を批判するも、所詮はどっちもどっち程度の水準の話だ)。さらには『角川日本地名大辞典・34/広島県』のごとく「沼隈郡新庄」及び「沼隈郡神村」を念頭に置くことなく備後国「神村新庄」を言いだしても同様の結果に終わる。そうではなく「沼隈郡神村」/「沼隈郡新庄」が実在した以上、ここを起点にして正しく考察を進めることが肝要。その点が納得出来れば御調郡神村荘説が成立しないことは誰の目にも明らか。
ただ松永史談会としてはそういう次元の問題を越えて「沼隈郡神村」/「沼隈郡新庄」についてはなお、多くの検討の余地を残していると考えており石清水八幡宮領備後国(沼隈郡)神村荘を念頭に入れた新たな視圏の提示や過去に提示した内容に対する検証作業の補強課題に取り組んでいる次第である。
渋谷家文書の分析を通して浮かび上がる解体期の中世荘園(古志氏所領の毛利-渋谷氏による解体事案):沼隈郡新庄と沼隈郡神村の地域像について、その諸相とそれぞれの意味について「中近世移行期における松永湾北岸域の風景点描(2)」の中では考えていく(松永史談会2023年-3月例会において一部報告済み)・・・・・・2024年度市民雑誌「文化財ふくやま」59号に小論攷を投稿済み。研究論文の水準維持のため、この続編をパート2として準備し、この中で「中近世移行期における松永湾北岸域の風景点描(3)」の内容一部に言及するやり方をとり、予定していた「中近世移行期における松永湾北岸域の風景点描(3)」に替えるかもしれない。
「中近世移行期における松永湾北岸域の風景点描(3)」)では石清水八幡宮領備後国沼隈郡神村荘と沼隈郡神村・沼隈郡新庄との関係について論じる。中国地方の中世史研究の動向をよく知らないので、その辺のこともこれからよく学習しつつ分析結果の論理化を図っていくことになろう(学術研究上の秘密事項を含んでいるので、ネット上ではこれ以上言及することはしない)。
松永史談会/拙稿「中近世移行期における松永湾北岸域の風景点描(1)」は「毛利氏の『海の御用商人』渋谷与右衛門の知行地・新庄つる木浦について」として、尾道文化(無査読の市民雑誌)41、2023、73-82頁に掲載。



【メモ】@神村荘・下岩成・津之郷領家職など。半国守護は誤り。半国は削除。細川家が有した和泉国半国守護との錯誤か。


この辺の事柄に関しては岸田裕二『大名領国の経済構造』岩波書店、2001年刊所収の「中世後期の地方経済と都市」47-80頁が言及しているが、
岸田本人は新庄長者ー赤坂長者原ー本郷銅山ーあかさび田ー藁江庄ー備後塩ー国料船ー日明貿易(尾道赤銅積出港)などを手掛かりとしながら中世史家特有の勘を働かせながら「備後守護山名氏が交通の要衝を守護領として受け、また領国内の銅や塩などの特産品をベースとして特権商人を掌握し、さらに専用船という独自の海上輸送手段を有して畿内や大陸との交易(貿易)を行う形で内外の流通経済に積極的に関与したことが確かめられた」と言う。しかし、私的には断片的史料を都合よく連結しただけの岸田流の粗雑な議論には付き合わないつもりだ。岸田の方法は新史料の発掘紹介から始まって体裁上は目を見張るところもあるのだが、中身的には叙上の通りであり、後学のものはこういった部分を逆に残された研究課題として受け止め、事に処す必要がありそうだ。

こちらに記載の内容は天正19年沼隈郡神村打渡坪付のもの。

芸備地方史研究

303	2016.10	600	研究ノート	渡邊 誠 胎蔵寺本尊胎内施入の元版本『大乗妙法蓮華教』について」『歌島の中世文書』消息59、つのあまにせん(尼御前)のかりや→深津の尼御前(という金融業者///渡辺誠P9)の仮屋。荘園文書4記載の、「知栄」が公用銭42貫文を借りた人物の一人:庵室尼御前が深津市の尼御前に当たるか否か今一度要確認。史学研究@広島大学 学術情報リポジトリ (hiroshima-u.ac.jp)

日本史研究日本史研究会 – 京都に拠点を置く日本史研究会のサイトです。 (nihonshiken.jp)

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またしても城北探検

2019年03月28日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

本日は資料取りモードで出かけた。

北吉津の實相寺境内のモクレン。


山門を上ると・・・・  三浦・内藤など福山藩の重臣の墓地が目立った。上田勘解由は水野家の家老の家筋(上田玄蕃の弟)。この玄蕃は本庄重政の嫁の実家の人。副住職の案内を受けて小田勝太郎墓地へ。あとで小田勝太郎の写真帳を見せてもらった。すごく画質の良い簡易製本の写真帳だった。『法鏡山実相寺 復興の秘密』というタイトルの本(寺院観光用限定・・テレビディレクターを称する著者だが、中身はなし)を頂いた。なかなか気の利く住職夫人だった。


この寺でも雨乞行事が行われたようだ。


小田銀八夫婦・その子勝太郎(笠付墓、高島平三郎の友人、柔道家)夫婦の墓。小田勝太郎の弟が融道玄
銀八については『西備名区』に御郡同心として金4両・二人扶持とある(『備後叢書・3巻』、732頁内容的には寛政末年の分限帳のもの)。【追記】「小田銀八」の名前は幕末期に蝦夷地に派遣された福山藩士の中や文化13年改訂版「沼隈郡東村検地帳」(要確認)の検地役人(山林奉行か山奉行のような役職まで出世)の中でもお目にかかったことがある。


江木鰐水(てか、福山藩医家五十川)家の墓地だ。江木千之は5歳で亡くなった鰐水の次男。五十川は福山藩医の家系だが、鰐水の嫁さんの家と繋がる。偶然発見。その後注目して探してみたが五十川訒堂墓はいまのところ未確認。だが、ここにあるらしい(千之墓の隣の五十川某がそれか、要確認)。



近世墓の学習用画像、台座が台形、宝篋印塔の形状、お墓のサイズや形状は今津薬師寺墓地にある神村屋石井家の江戸中期墓と同じだが、戒名が・・・三浦氏は院澱号+大居士、石井家は信士。

実相寺から市内を展望・・・・遠方の山塊の右端部分に最高所:熊ヶ峰


木之庄5丁目の地神


高橋碧山の医学の先生:寺地強平のお墓@仁伍の神道墓地。『備後国名勝巡覧大絵図』に”序文”を寄せた人物だ。福山医学の祖。

仁伍の神道墓地(西端部分)のパノラマ写真。


門田重長墓(儒者墓というよりも神道系の墓石)より河相保四郎家墓地を展望。土塀囲まれた河相墓地の手前に福田禄太郎墓、門田重長墓周辺には墓じまいしたのか空き地が散見されたが、もしかするとまさにその場所を含めて、この一帯には高島平三郎の両親の墓があったか。『得能正通年譜2』にはこのように記述されているので其れで良いのだろうと思う。調査開始からまる4年、やっと高島賢齊墓の場所が判明した。


福山市木之庄町尾ノ上共用墓地全景


塀に囲まれた河相保四郎一家の墓地。外務省事務次官・河相達夫(松永浚明館で高島平三郎と出会った後の東京帝大医科教授永井潜の実弟)のお墓でもある。息子が太郎。




河相達夫の息子:河相 洌⇒孫:河相周夫(外務次官→侍従長→上皇侍従長)河相 洌と河相周夫の親族関係については要確認。



本日の最大の成果は①福山城博物館で『廃藩直前福山城下地図』の復刻版を購入。この中に。東町に高嶋」という苗字の士族屋敷が一軒、そして天神町に1軒あることが確かめられたこと(ただ小田という姓の士族屋敷は不在であった)。②文化期の江戸丸山藩邸屋敷図中に「高嶋」を見つけた。これが高島平三郎とどうつながるのか、つながらないのか今後の検討課題だ(併せて高島が入学したのは福山西町上小学校、天神町生まれの融は当然福山東町小学校 この辺の違いをどう理解するべきか)。
なお、『廃藩直前福山城下地図』中の江木鰐水(繁太郎)屋敷は藩校誠之館の北隣りにあった。
膝の具合がよくないので、効率的に調査活動を進めるため駅前からタクシーで目的地へ。あとは歩行。

北吉津の地神。木之庄でも地神をみた。


実相寺着・・・12時21分~12時58分
地神・・・・・・・13時13分
仁伍の神道墓地で寺地強平墓発見・・・・13時21分
河相保四郎一家墓地・・・・13時30分
城北中学通過・・・・・13時55分
福山城公園到着・・・・14時08分、館長に挨拶し、古地図類を購入し、早々に帰路に就く。・

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沼隈郡今津村にあったもう一つの中世宝篋印塔

2019年03月24日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
相輪部は宝珠・伏鉢部分が欠損、九輪部分も過半が欠失。笠部分の隅飾りは心持ち外側へ傾き、隈取が二重線(2弧)。塔身部の4面に薬研彫りのキリーク(金剛界四仏の種字)・・・東西南北の向きに誤り有。南面する正面側に阿閦如来(あしゅくにょらい)⇒東が来ている。基礎部分の格狭間(こうざま)は花頭曲線の左右方向への張りがあり、内側も彫りこんでいる。現在残っている部分の高さは110センチ。

歴代住職の墓石に交じり、中世の宝篋印塔。この宝篋印塔は事情が判らず、ここに運びこまれたもの。わたしの朧げな記憶では付近のどこかにあった宝篋印塔だ。


法量


これまでルポしてきた今津村の宝篋印塔(この宝篋印塔は現在は削平して駐車場になっている旧岡見山の上にあった。この一帯は中世の金剛寺境内地)



沼隈郡今津村における中世宝篋印塔が薬師寺関係の場所に存在した。
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『万延元(1860)年備後国名勝巡覧大絵図』-古地図研究の面白さ・3ー

2019年03月23日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
保安庁のHPからの引用だが、いかのような記述が目に留まった。
瀬戸内海の浅瀬名(普通名称)
 
 この海域の浅瀬名をその数の多い順に列記すると瀬、石、岩、磯、ソワイ (ソワ)、出シ、州、碆、礁、藻、ツガイ、ソノ、アサリ、喰合などがある。このうち「出シ」「ツガイ」「喰合」はこれら暗礁の位置を探し出す目的で付与された特別な呼び名で、航海・漁業用語ともいえるものである。

この「ぞわい」(隠顕岩=海岸などで干潮時には水面上に現れ、満潮時には水面下に沈んでしまう岩)という言葉自体は国土地理院の地形図にも記載があり、既知の事ではあったが、それが近世絵図にも記載されていた点が今回は注目された訳だ。この点は『備後国名勝巡覧大絵図』の大きな特徴を示すものだともいえよう。
この地図史料は広島県立博物館にも所蔵されているようだが、今回初めて満井石井氏からの紹介で知った。
この穏健岩の所在地を示すと思われる「ソワ」の注記のある『万延元年備後国名勝巡覧大絵図』がこちら。


宮内省書陵部のサイトより直接閲覧されたい→Googleで『備後国名勝巡覧大絵図』を検索。


蛇足ながら


当時一般に流通していたのは今津・剣社(古社)・陰陽石、高須・高諸神社(式内社)ということだったらしい。

こちらに比べると寛永の備後国絵図にみる芦田川の流域は相当に不正確だった。
使用されている地図記号・・・・当時流通していたものを採用しているわけだが、古城址のマークや神社マークなどは今日と同じものだ。

この種の地図史料の研究手順としては①記載された地域に関する情報密度の分布及び②近世地誌類との参照関係のチェックなどだが、第一印象としては比較的簡単に処理可能だ。郷土誌的には貴重な資料の一つだが地図史的には新鮮味はない。



金嶋嘯雲
資料に関する注記
一般注記:
タイトル注記:原題簽存(中央双辺)。内題「備後国御調郡尾道市街地絵図」。
縹色表紙。表紙寸法18.5/12.9。書写者金嶋嘯雲は伝不詳。尾道の人か。
カテゴリ名:無し
資料の種別:地理 地図
資料の分類:一枚物-地理 地図 地方図 山陽道
公開範囲:ウェブ公開
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資料詳細
内容細目:
備後尾道市街の略地図。寺院と神社名、及び僅かの地名を注記する。彩色入り(山は緑、海は藍、道路は代赭色)。亀山士綱編『尾道志稿』(文化11年成)に拠るもので、図の右に尾道の建置沿革、諸方道法、名臣について補訂記事を記す。
(提供元: デジタルアーカイブシステムADEAC)
解題・解説:
冒頭に書写識語「此ノ図ハ文化十三年丙子孟春尾道処士亀山士綱著ハス処尾道志十一冊第十之巻中ニ図スルヲ模写スル所也余地図ノ癖アリテ此書閲センコト既ニ年アリト雖得ル不能一日葛西喜水翁ト閑談ノ折リ其書籍ハ予カ家ニ蔵セリト乃チ借覧ヲ乞フ翁コレヲ赦ス仍テ熟読スルコト再三ニ至リ頗ル地勢沿革ヲ悟リ心欣然トシ老筆ヲ揮ヒ僅カ脱漏ヲ補フ明治廿五年壬辰八月四日六十七歳ノ老夫金嶋嘯雲此日陰雲醸雨嗚呼暑熱難堪」。
(提供元: デジタルアーカイブシステムADEAC)

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断片的歴史情報の連結作業

2019年03月03日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

沼隈郡今津村旧剣大明神境内の寄進(奉納)物と寄進(奉納)者を引き合いに出しつつ、断片的歴史情報の連結作業を行ってみよう。 明治40年に今津村在住の木村浅治郎義光(福山藩では献金の対価として、金額の大小に応じる形で細かく細分化された武家社会の格式をそれを望む農民や商人に「切り売り」した(沼隈郡藤江村あたりでは村民の1割程度が自作農で、彼らはおおむねこういう格式ある名前を取得・・要確認)。木村浅治郎義光は浅治郎がそういう形で得たもの)が寄進した左右一対の立派な狛犬 昭和8年に神村出身・寺岡為次郎(昭和初期に塩田を購入した製塩業者)が寄進した石橋「亀園橋」。為次郎は寺岡七右衛門の子で、寺岡伍一の親族。今津島久井屋浜(現在K"s電機が立地)を没落した石井憲吉より大正4年5月25日に買得し、昭和4年に神村より今津村に転居(通称「柳町」)。同時期に今津島・三谷屋浜を買得するが、ここは昭和5年12月に石井清一(益田屋)に譲渡し、昭和7年2月には河本猛郎は大西浜と合わせて三谷屋浜を買得している。大西浜も三谷屋浜も塩田としては陸水(地下水や雨水)の流入が見られよくなかった。 亀園橋の文字はひょっとするとこの時代蓮花寺住職(1928-1938)をしていた石井友三郎(善学)のものか? 為次郎の場合は今津小学校の奉安澱(天皇と皇后の写真=御真影と教育勅語を納めていた建物)も寄贈したりしていた。 「神村出身」とあるので多少自己顕示&社会的承認の獲得のためといった打算が働いたかもしれぬが、今津に転居し、”どうぞよろしく”といった意味合いを込めた寄付行為でもあったのだっただろう。 明治24年に「式内社」の文字入り標注を寄進した芦品郡有磨村の河邨(河村)秀興(「河村太吉秀興」だったかどうかはいまのところ未確認) 芦品郡有磨村上有地の河村太吉は今津村の通称「沖田」にあった山路右衛門七所有地を没落(明治24年)時に大量に買得していった御仁(上有地村の産業資本家で豪農かがす河村氏)だ。福山町の河村秀行(1853-1918、蚕病消毒用の河村式噴霧器の考案者、福山市住吉町、画家鎌田呉陽第二子、河村秀行のお墓は福山木ノ庄・神道墓地で見かけたことあり)とこの河村太吉との関係及び、河村秀行と今津との関係については目下のところ不明(その後追調査済み・・・無関係)。。かれらと高諸神社に前述の標柱を寄進した有磨村の河邨(=村)秀興との関係についても同様だ。 これらの点は今後の解明していくべき課題だと思うが、山路所有の農地の買得と神社への「式内社」と書かれた標柱の寄進行為との間には何かしら繋がりがあるようにも思えるのだが・・・・残念ながらいまのところ確証は得られていない。 大正2年の境内社殿整備時の献金者芳名碑 文化10(1814)年に尾道の播磨屋松之助(1778-1838)が仲間2名とともに寄進した狛犬一対(@高諸神社)。 同時期に尾道のお寺に寄進された父親の供養塔 天保9年に60歳で没していた御当人のお墓。 関連記事 関連記事 麻生は大坂北浜で株取引をしていた人物(今津・柳町に大正10年に息子源平名義で、ハイセンスな庭園付の新居建設、明治期には吉井石井家の御曹司石井得雄と協働して花筵の海外輸出を手掛けた)、故郷へのUターンを契機にお剣さんにこのジャンボ標注を寄進したもの。当時流行した敬神観念 or 善意の発露という形式を借りた一種の誇示的消費行動(=必要性や実用的な価値だけでなく、それによって得られる周囲からの羨望(せんぼう)のまなざしや社会的承認の獲得を意識して行う消費行動)。典型的には森下仁丹創業者(森下博、沼隈郡鞆出身)や大坂で活躍した尾道出身の山口玄洞による社会事業への寄付行為とか社寺造営。
高諸神社南の前新開堤に植えられた千本松原(戦時中に松脂採取のため伐採)は天然痘封じの大願成就を記念して村民有志が植樹したもので当時の今津村民の敬神観念の在り方を伺わせるもの。 関連記事 【参考文献】 矢野天哉「高諸神社神明記 其の3」、雑誌まこと29-12、昭和14

拝殿西前にあった寛文13年鋳造の釣り鐘には「剣大明神」の社名。史実の改竄事例として高諸神社(式内社)が用いられた初見史料は再三指摘した通り安永期建造の「高諸神社石橋」。この社名変更を強く批判したのが菅茶山編『福山志料』。
高諸神社拝殿の西側前方に複数の岩で構成された「宮島さん」祠があるがその一角に「沼隈郡浦崎・田頭音次郎」寄進の石灯籠がある。寄進者の田頭音次郎は現在の尾道市浦崎町海老にかつて居住した久保屋田頭氏のことで音次郎は浦崎法運寺(曹洞宗)に永代供養料の石碑が立て、他所に転居。地元で聞き取りしたところ「瓦屋」を営んでいたとか(要確認)。

関連記事:三坂幸助(大正4年に現在の松永駅前地区にあった石井四郎三郎所有田地を競売時に買得した尾道土堂の人)
高諸神社境内の力石・注連を寄贈した向島西村及び東村の住人に関しては調査開始(2021年10月~)
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