- 松永史談会 -

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旦過寺@東広島市西条町(山陽道安芸・四日市)駅裏

2023年11月24日 | repostシリーズ

広島県文化財ニュースという雑誌のバックナンバーをチェックしてみた。この埋蔵文化財調査関係の分野は予算が潤沢なのか情報が豊富だ。ちょっと目にとまった情報・・・・・旦過寺@安芸・四日市
吉野健志「御建遺跡の発掘調査」、広島県文化財ニュース204号、平成22.10-15頁。
『芸藩通志』に秀吉が泊まった四日市(東広島市西条町西条、JR西条駅北側)の旦過寺(現在は旦過寺観音堂)の記事を確認予定(12月03日に確認済み)。安芸国分寺跡は土地割でもそのジャンボな範囲の痕跡が追跡できる。上道(うわみち)は近世の西国街道の古道(古代山陽道の遺構と考えられてきたもの。道幅は側溝を除くと150センチ程度のかなり細いものだったようだ。この上道は南東方向に直線的に伸びて、近世の山陽道と同様、松子山(まつごやま)峠に向かうことが想定できるようになったらしい、前掲論文12頁。古代の官道としては道路幅が狭すぎるので先行研究に当たるなど、要注意。現在御建公園野球場になっている一帯の円形のくぼ地はなんだったんだろう。戦時中の軍用施設?実は大正13年造営の御建神社付属の神苑付属馬場:

「御建(みたて)馬場」だった(現在は公園化され野球場)

旦過寺跡南側を南東-北西方向に土地の起伏を無視した形で伸びる直線路は「上道」(うわみち)。古代の山陽道の痕跡だと見られている。

四日市(JR西条駅)を西に通過すると山陽道及び山陽本線線路わきにひろがる田園地帯(古代条里制の痕跡が明瞭→田園部に見られる碁盤目状の土地区画)に石見瓦こと西条瓦(赤瓦)の印象的な民家が散居する農村風景となる。現在は東広島市駅前周辺の都市化が進み、市街地化している

『芸藩通志』賀茂郡 四日市・五郎丸村図中にある御茶屋は旧西国街道沿いの本陣(現在賀茂鶴酒造↓)を指す。
御茶屋は豊田郡本郷村図中にもある。なお、沼田庄の故地、本町図中には「風呂小路」。
参考文献:例えば
足利健亮:吉備地方における古代山陽道⇒内容的には全くダメ。(藤岡謙二郎編『古代日本の交通路Ⅲ』、大明堂、1981,99-105頁に転載)

高橋:『古代交通の考古地理』、大明堂、1995(備後地方は手薄で隔靴掻痒)及び『広島県史』(こちら要確認、高齢の米倉二郎執筆の場合は内容の確認が必要・・・ちょっと見、真正面からは扱っていない)
国土地理院地形図
GoogleMap松永史談会

◎旦過ついては

  1. 松永史談会記事➊
  2. 松永史談会/拙稿「尾道の『丹花(たんが)』について」、尾道文化40(2022)、63-71頁。
  3. 平泉澄『中世に於ける社寺と社会との関係』、国史研究叢書第二篇、1934、至文堂→卓越した学知的感性。
  4. 服部英雄『中世景観の復原と民衆像-史料としての地名論-』、2004→豊富な事例を掲載
  5. 榎原雅治『地図で考える中世: 交通と社会 』、 2021/3/27→思考面で上滑りや論理の飛躍が目立つ。
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松永史談会11月例会のご案内-第一報-

2023年11月01日 | 松永史談会関係 告知板

松永史談会11月例会のご案内-第一報-

開催の日時と場所
11月24日 喫茶「蔵」2階
話題 網野善彦ほか編『瀬戸内の海人文化』(『海の列島文化・9』小学館、1991)及び地方史研究協議会編『海と風土』、雄山閣、2002を中心にこれまでの地域の風土性を炙り出そうとしてきた様々な瀬戸内研究(写真紹介文献類は一例)を回顧(成果及び課題の整理)しながら、松永史談会が行ってきた地域史研究をIntra-regional(地域内的)及びInter-regional( 相互地域的)な視角から再論理化していく方途を探っていく。その試みの手始めとして、11月例会では 環シナ海経済文化圏に関わる問題を提起。

○渡邊 誠 「胎蔵寺本尊胎内施入の元版本『大乗妙法蓮華教』について」芸備地方史研究303 2016の吟味を兼ねて、瀬戸内地方でのInter-regional( 相互地域的)な視角のあり方について考えていく。渡辺には本論攷の続編:渡邊 誠  「備後国の臨済宗法燈派(安国寺・常興寺・善昌寺)についての補訂」芸備地方史研究309,2018、1-16頁がある。ここでは宗派図を増補し、招来した経典類を一般輸入品としてではなく留学僧の持ち帰りもの(一種の土産物)と言いたげである。なお、山手三宝寺(伝杉原一族の墓が少々)の話題は登場するが、大檀那杉原氏(坊さんたちのスポンサー達)自体の動向に関しては沈黙。

参考事項)福山市北吉津町・胎蔵寺胎内施入物 

真言宗大覚寺派胎蔵寺(地図)について(全文引用↓

「胎蔵寺は、正式には「松熊山(しょうゆうざん) 阿釈迦院(あしゃかいん) 胎蔵寺(たいぞうじ)」と称し、京都・嵯峨野の 大本山大覚寺を本山とする、真言宗大覚寺派の寺院です。現在の広島県庄原市西城町に創建された寺で、中世には七坊を数える大寺院であったとされています。現在その地は「胎蔵寺跡」として庄原市の史跡となっています。胎蔵寺山門の屋根を支える蛙股の中に刻まれている紋は、西城に居城した宮氏のもので、胎蔵寺が西城より移建されたことがうかがえます。江戸時代初頭の慶長年間(1596~1615)、福島正則の時代に西城町から福山市神辺町へ寺地を移転し、福島丹波の祈願寺とされました。」『水野記』(寛永期社寺温改めの結果)には吉津に移転し、そこでは一向宗・成興寺、本尊は釈迦三尊と記載、その後寺の名称が胎蔵寺に変更され現在に至るようだ。本堂にまつられる本尊は、胎蔵寺の本尊ではなく、福山城地に築城以前にあった「常興寺」の本尊を胎蔵寺の本尊として移されたもの。毛利氏以後の大名たちによる寺院つぶしの強引なやり方が痛感されよう。つまり、現在の胎蔵寺の本尊は今はなき常興寺のご本尊という謎(転用・廃物利用)を秘めた代物だ。なお、鞆安国寺のご本尊(善光寺式阿弥陀三尊)は1273年に造られた元金宝寺のご本尊。ここでは胎蔵寺のケースと異なり、足利尊氏の時代(1339年)に寺の名前だけを安国寺に変更したらしい。松永史談会の関連記事、例えば「新庄つる木浦新考」(2022年11月例会)
中世塩浜考-「文安3(1446)年備後国藁江庄社家分塩浜帳」を巡る比較文化論-(2020年1月例会)
(「法人類学視点から見たオランダ領インドネシアの中国銭についてーインドネシアの慣習法典(Buku awig awig subak)を読むー」2023年2月例会)

続「中世歌島荘研究の成果と課題」(2023年5月例会)庵室考-中近世移行期の沼隈郡新庄および神村における社会史の一断面-(2023年6月例会)
古くは「『戊子入明記(ぼしにゅうみんき)』を読む”」(2018年8月例会)

◎宮本常一「瀬戸内海文化の基盤」、民族学研究26-4、1962、237-257頁(→貴重な成果だが、かなり陳腐化)。

草戸千軒遺跡から出土した舶来陶磁器事例と胎蔵寺(旧深津郡椙原保・常興禅寺本尊)仏像胎内施入経典の印刷先(浙江省杭州)、寧波は尾道発の日明貿易船(15世紀)の中国側入港先。

杭州龍興寺の刊経活動

杭州@googlemap、天台山国清寺
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