- 松永史談会 -

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Maluku地方@IndonesiaにみるGlobal jihadismの残酷 August 03 [Thu], 2006, 17:43

2019年04月20日 | 断想および雑談

インドネシアのマルク(Maluku,モルッカ)地方といえば16-17世紀の世界経済に大きなインパクトを与えた香料(丁子、ナツメグ、メース)産地。18世紀になると英仏によって世界各地の植民地へ盗木移植が進む一方、香料貿易の独占の崩壊と香料価格の値崩れを恐れた、オランダによって香料生産地の制限措置が強化された。南モルッカ地方ではオランダによる植民地支配が長く続き、その間に住民のキリスト教への改宗が進んだ。
  インドネシア独立(1950)後はジャカルタ政府の支配が強化され、ジャワ島やスラウェシ島など外部からイスラム教徒が多数送り込まれた。両者の対立はスハルト政権(1968-98年)崩壊後、周知のごとく一挙に表面化。
写真はアンボン島のパソにおけるイスラム教系住民の警備小屋(Laskar Jihad`Post)とそこに貼り出されたオサマ・ビン・ラデン(Osama bin Laden)のポスターだ。



インドネシアのLaskar Jihad, or ‘Holy War Warriorsは2000年にジャファ・ウマル・タリブによって結成されたもので、彼は1980年代後半にパキスタンでイスラム教神学を学び、1980年代後半にはアフガニスタンのムジャヒディンと共に侵攻してきたソ連軍と戦っていた(Laskar Jihad, or ‘Holy War Warriors,’ was founded in 2000 by Jafar Umar Thalib, who spent several years studying in Pakistan and fighting alongside the mujahidin in Afghanistan in the late 1980s.)
モルッカ地方全域で繰り広げられた民族浄化(Ethnic Cleansing)にもグローバル・ジハーディズム→Global jihadism(聖戦の論理のグローバル化)の影がちらついている
この悲惨な実態を調査した報告書『Indonesia:Poso and Maluku』(2002)がこれ。実に綿密に調べ上げているので感心させられた。
セラム島中部(Maluku州Maluku Tengah県)にTeon Nila Serua郡という奇妙な名前の郡がある。




図中の赤丸が当該郡、紫色の■印はインドネシア内での位置関係 1979年の火山噴火で離島を余儀なくされたTeon島、 Nila島、 Serua島の島民(キリスト教徒、セラム島出身、漁民)たちの集団移住地(Kecamatan Teon Nila Serua 1982年)だ。彼らも1999年以後セラム島で迫害の洗礼を受けた。モルッカ地方の人たちの歴史は災害や戦争などによる定住と移住の繰り返しだったという部分もあるが、その悲惨さはこのレポにあるとおりだ。




バリ島やジャカルタでの爆弾テロといい、マルク地方における民族浄化といい、大義のない抗争を繰り返す、もの騒がせなラスカル・ジハードLaskar Jihadという組織である。
インドネシアの地図
アンボン情報(Ambon Information Website)この島は南蛮貿易時代は日本人傭兵が活躍し、また第二次世界大戦中は日本軍の基地が置かれたところ(敗戦後はオーストラリア軍が日本兵の捕虜収容所として利用)The Japanese Invasion of Ambon Island, January 1942
2001アンボン島におけるイスラム教徒とキリスト教徒との抗争:
A Village in Maluku
AMBON: The Battle of Waai and the Ambon Demo.2001

その他の詳細地図(地形図)はアムステルダム熱帯研究所(KIT)のサイトよりある程度入手可能。検索方法はこのBlog内にて言及している。

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「万延元年備後国名勝巡覧大絵図」中の沼隈郡表現

2019年04月09日 | 断想および雑談
万延元年備後国名勝巡覧大絵図が沼隈郡・御調郡および芦田川流域の芦田郡・品治郡・安那郡・深津郡に軸足を置き、その他の広島藩領・福山藩・天領・中津藩領に関しては情報面で手薄(背景化)であることは誰の目にも明らかだろ。こんごは沼隈郡に焦点を絞りつつ分析をすすめていくつもりだ。というのも本絵図は沼隈郡観光マップといってよいほど当該郡の名勝・巡覧情報が豊富だからだ。




古名として挙げられたのは平安中期の辞書:『和名類聚抄』記載の古代の郡郷名と荘園名(山南庄only)

【解説】竹内理三を中心とした一昔前の荘園研究によれば南北朝・室町期の史料に登場する「長和荘」、平安・鎌倉期に登場する「神村荘」「藁江荘」そして鎌倉時代の史料に登場する「高須荘」、そのほか荘名が存在するものとして()付きで「福田荘」・「山南荘」を挙げている。これが正しいということではないが、現在のところの沼隈郡における荘園分布の一般的な理解として通用しているところだろか。しかし、個々の荘園内部のこととか考古学的な発掘調査が進められた草戸千軒(草出津・神島)と長和荘などとの関係といったこの方面の深く掘り下げた研究というのは史料不足が災いしてほとんど皆無に近いのが現状。
古代の郷名ついては「万延元年備後国名勝巡覧大絵図」は津宇郷と赤坂郷、津宇郷と赤坂郷の4つすべての想定地を図示している。津宇郷と赤坂郷の2つは遺称地名から判断されたものだろ。その点、古代の郡郷・古城址の研究というのは盛んにおこなれていたらしい。
地図記号と文字注記から見た沼隈郡表現の分析


地性(海岸線など)線・河川・道路、郡界線、その他の文字注記には池の名前(瀬戸池)、芦田川の中州地名(草出地)、航路と関係港湾への里程、海底/海中に生息する貝類の説明。島のサイズ(全周)・・・・・若干誤記あり。
【解説】作図者嘯雲嶋業(実名は確認中)自身による絵図の解説文によれば用途としては社寺仏閣の巡拝、名所旧跡の遊覧そして商人の往来用案内図を念頭に置いていたようだが、幕末期のregionalな範囲での巡拝先(社寺)や観光地・遊覧先(名所旧跡)がある程度判明する。寺院の中にも葬式寺と拝観寺とがあり、ここに図示された浄土寺・明王院・常国寺・阿武兎観音(盤台寺)・福禅寺などは拝観寺として近在近郷から多くの参拝客で賑わっていたのだろうと思われる。商人の往来用案内図とあるが、携帯するにはちと大きすぎ(展開時1.4×1.2㍍、A4>折りたたみサイズ>B5サイズ)、地域情報面でも備後国図(regional)の体裁をとりつつも結構局地的(local)である。そういう面では戸外に持ち出したときの、その実用性に関しては限定的なものに止まっただろ。


島嶼部以外の名所旧跡=古蹟名注記の出自分類

神話的内容に実体性を付与するため、例えば芦田郡栗柄の南宮社境内に包摂する形で古墳を「孝霊塚」と命名。
山波の吉備津彦古跡は山波艮神社とその境内の巨大ウバメガシ(吉備津彦命が杖を立てたのが芽吹いたものとされる),直径1㍍程度の盥石(たらいいし)や芸能神事(一種の社会伝承法)などによって見世物化し吉備津彦命神話に可視的実体性を付与。
「磯間の浦」は浦崎ー常石付近(=田島辺り)と山手に記載されている。
『沼隈郡誌』(667-668㌻)によると阿倍継麿の古歌「月よみの/光をきよみ/神島の磯間の浦ゆ/船出す我は/」の故地に関して遣新羅使船が武庫の浦を出港した後で、この古歌の次に「室の木」(鞆)詠んだ歌が来ることから神島と山手との間か、田島辺りを詠んでものかと述べ、最後に『福山志料』のいう山手説を紹介。作図者嘯雲嶋業は松永湾を「遺芳湾」と注記するなど菅茶山らの説を把握できる立場の人物でもあったのだろか。
近世後期漢詩文芸と風景図屏風


備後地方の名所歌枕
一、朝 川・・・・但馬皇女の高市皇子の宮に在(いま)しし時に、竊(ひそ)かに穂積皇子に接(あ)ひて、事すでに形(あら)はれて作りませる御歌一首「人言(ひとごと)を繁(しげ)み言痛(こちた)み己(おの)が世にいまだ渡らぬ朝川渡る」巻二(一一六)で詠まれた朝川は大和国の初瀬川のこと。「見立て」(例えば讃岐富士)が日本各地で横行していた一つの証左。
二、蔀 山・・・・・「万延元年備後国名勝巡覧大絵図」中には複数箇所存在、例えば鞆近辺、深津郡の足利義昭館跡
三、武 倍(ムベ、併せて同山、同泊)
「郷分」あたりの武倍山→「古へ日本武尊西征の後、穴の湾にて悪神を誅し給ふに、武倍山(ムベサン)の御陣にて」。
四、鞆ノ浦
大伴旅人(万葉集)
我妹子わぎもこが見し鞆ともの浦の天木香樹むろのきは常世とこよにあれど見し人ぞなき
鞆の浦の礒のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも

五、密語橋(ささやきばし)→見立てで「能因法師の古歌「熊野なる おとなし川を 渡さばや ささやきのはし しのびしのびに」を引用して、広島県府中市元町の石州街道沿い名もなき川に対し「音無川」と命名し、それに掛かる橋を密語橋と名付けた」だけのもの。能因法師の古歌と府中市のこの川とは歴史的には何の関係もない。
六、室 野
七、口無(ノ)泊・・・・「万延元年備後国名勝巡覧大絵図」では千年の港のこと。
八、風早浦→東広島市安芸津町風早-
遣新羅使詠歌「吾が故に妹嘆くらし風早かざはやの浦の沖邊に霧たなびけり」(万葉集 巻15 3615番歌)
九、引 嶋
付、長 井

なお、鞆にある「小鳥の森」は歌枕とは関係なく南北朝期の古戦場(1349年足利道冬と高師直との合戦)
記紀神話から派生した古蹟:①山波の吉備津彦命旧跡・・・・「要約 沼隈郡の山波村に、吉備津彦命の杖から成長した馬耳の木(国際日本文化研究センターHP)」   
②幕末段階に吉備名方浜宮の伝承地の一つとして神村および今伊勢宮が名乗りを挙げていた→「名方の海」、「穴の海」も同類。
神渡し・・・・本来は出雲大社関連の語で、陰暦10月に吹く西風のこと。「万延元年備後国名勝巡覧大絵図」の神渡は単に芦田川の神島での渡渉点を指したものヵ
作図者嘯雲嶋業が動員したgeographical loreの手法とは、要するに記紀神話や万葉集で詠われた名所歌枕や芸能・芝居等を通じて流布した事柄を捉え、その故地を備後国内のどこかに比定(=重ね合わせ)する作業を行ったり、他者の行った同様の作業結果を受容することであって、その中で横行したのが何でもない備後地方の場所に意味を持たせるための方法としての故事付けだったようだ。託宣とか神のお告げが真に受けられた前近代の日本にあっては当時のgeographical loreにも人々の前論理心性が色濃く反映された。

なお、八日谷・長倉は山南の平家谷(幕末期における社会伝承としての平家落人集落譚の反映)。木下長嘯子(ちょうしょうし,1569-1647)は「九州の道の記」の執筆者木下勝俊のことで、その看月亭@山手。沼隈郡外のことになるが蘇民将来屋敷跡は戸手の素戔鳴神社。「早苗の松」も別当寺「早苗山天竜院天王寺」ゆかりのもので同神社関係(『西備名区』外編・品治郡の2、戸手村)。栗柄の蘇民将来屋敷跡は図中の南宮社(「孝霊塚」が境内にある)関係?(確認中)

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備後特産の「珍ちん麦」

2019年04月08日 | 断想および雑談



根岸 鎮衛『耳嚢』(『日本庶民生活資料集成・16』)より







大麦・裸麦(珍ちん麦ヵ)は炒った上で挽いた粉(はったいの粉)にしたものを携帯食用とした。
甘みと風味があり、それを水で練ったものは徳川家康の好物であったとか。焙煎したものは麦茶用。



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