- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

木島平治郎(1890-1970)による「高島平三郎先生の思い出」

2020年02月10日 | 高島平三郎研究




文中の高島家の家族写真とはこれ(母親の追悼録『涙痕』明治42口絵写真)を指すのであろう。

梅屋敷などについてはこのBLOGで詳しく紹介している通りだ。

木島平治郎は児童文学書などの翻訳を行った人物で1890年、京都に生まれ、三高時代に「海潮音」の著者、上田敏に師事。1917年、東京帝国大学英文化卒業。東京高等商船学校(後の東京商船大学)で十九年間教鞭をとった。高島の教え子で高島家に長く下宿していた。この文章は木島にとって高島平三郎(形ばかりの東洋大学第十三代学長)は生涯忘れえぬ人物であったことが感じられる寄稿文となっている。ここでは部分的引用紹介に留めたが、興味のある方は全文を探し出し読んでみて欲しい。

高島平三郎という人はアカデミックな分野での児童学・心理学の推進者というだけでなく、その理論を教育実践の中にリンクさせていくことにも腐心し、人間教育における知育、徳育及び体育の必要性に自覚であった我が国最初の教育者であった。体育教育面では体育原理 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)という古典を執筆。そういう角度からこの人にフォーカスして行ける若手研究者の登場が待たれる。

 

 

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高島平三郎と誠之舎(予察) June 26 [Wed], 2019, 16:50

2019年08月04日 | 高島平三郎研究

高島平三郎と誠之舎(予察) June 26 [Wed], 2019, 16:50

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パソコンでは無理だった高島平三郎家探し

2019年03月29日 | 高島平三郎研究

融道玄の記述から自分の実家から言えば「すぐ向こう側にあった」高島の家。


明治21年に帰省した融道玄の実家というのは恐らく小田勝太郎の生家のあった天神町内のそれを指すだろう(徹道男『祖父 融道玄の生涯』、勁草書房制作部、2013、27頁 「福山市深安郡福山町安西」とあるのは大いに誤りで”福山城下”位にしておこう)。
浜本鶴賓『福山藩の文人誌』に小田包貞として天神町居住とある(173頁)。濱野徳蔵(親父は小川某、息子は漢学者浜野源吉)の一族と思われる濱野文造(浜野知三郎の親父)として東町居住。
『慶応元年福山城下絵図』(同類の『廃藩直前の福山城下絵図』)を見るとその辺りには2,3軒ほど高島姓の武家屋敷が存在(昭和55年写本では一軒は高島ではなく島)。当然江戸屋敷住まいの高島錡之助(高島平三郎の親父)家はそこには記載されていないはずだが、本家を含め高島平三郎の親戚が2軒(東町の高島猪平と天神町の高島半蔵)の中には含まれていたのだと思う。小田勝太郎屋敷の近辺には(天神さんに至る道路沿いを)「すぐ向こう側にあった」高島の家という感じで大正8年以前、高嶋辰之助所有の居宅(天神丁南乙130番地)があった。これを『廃藩直前の福山城下絵図』記載の屋敷に合わせると、そこは高島半蔵の屋敷だったところで、この図面の中には小田という名字の付いた屋敷はない。小田勝太郎が天神町生まれだったことに間違いがなければ、おそらく「士長屋(敷)」内に生家があったのだろう。東町の高島猪平と天神町の高島半蔵
もしそうだとすれば明治21年当時の高島平三郎の実家は福山西町上小学校の学区から天神町の方へ転居していたことになる。また、小田勝太郎の母親小田芳(明治5年に夫銀八死亡後は未亡人、芳は明治38年歿)は天神町界隈にいた高島一族の人間からいろんな形で世話になっていたことは十分に考えられる。
銀八家は典型的な下級武士(「西備名区」記載の阿部家中の中では俸禄:金4両、2人扶持の御郡同心-小頭、勝太郎の親父銀八はやり手だっただろう、阿部正弘時代に蝦夷地探査のメンバーの一人)で、明治5年に三代目銀八が亡くなると次男・三男(坊の融道玄)は寺に預けられ、長男勝太郎は家族を養うために17歳の時(明治11年)には松永小学校(当時の校長は高橋新太郎、史伝作家高橋淡水の親父)の教員として働き始めている。
もし高島平三郎さんの戸籍謄本が入手できれば、以上述べてきたことの点の真偽を含めて、より一層事実解明が進展することだろう。

高嶋平三郎の姉・鎰子(イツ)は吉津(天神町の隣村)の寺尾三千助に嫁いでいた。その息子の一人が寺尾辰之助(明治12,3年頃の生まれ・・『高島先生教育報国60年』、171-172ページに寺尾の寄稿文)。高島辰之助と寺尾辰之助とは意外と同一人物であったかも・・・(一つの検討課題として、そう口にしてしまった私だが当時は親戚間でそんなことがよく見られたというだけで確たる証拠はない

【メモ】「阿部家中系図纂輯」という手稿本に小田原時代からの足軽:高島四郎左衛門定儀の子孫の記載がある。ただし、高島平三郎家は曾祖父が信義、祖父が信賢となり、通字が「信」、高島四郎左衛門定儀の子孫家の場合は「定」。家筋が異なっていることが判る。高島平三郎の系統は曹洞宗泉龍寺(広島県福山市霞町4-2-3)の門徒(確認済)。現在は古い墓石は郊外の某所(神辺・新市方面)に移転と住職。いまは檀家に高島姓はないとのことだった。高島平三郎の父親の墓は泉龍寺境内ではなく、城北の木ノ庄墓地(城北中学北側・・・現存する門田重長墓近くだった)。
曹洞宗・真宗など最近は個人情報ということで坊さんは檀家のルーツに関してはほぼ沈黙(最近ある人物の墓石を調べてみたが、寺の住職は過去帳をPCで管理していて、私の目の前で正しく情報提供してくれたので、この辺は個人情報云々というよりもその寺院のPCなどを導入した最新の情報管理の存否の問題も影響していそう)。

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パソコン上で行う高島平三郎の旧居宅探し パート2

2019年03月25日 | 高島平三郎研究
今回は「パソコン上で行う高島平三郎(1865‐1946)の旧居宅探し」の続篇だ。
高島平三郎の友人小田勝太郎(1862‐1935)の弟:融道玄(1872-1918)が雑誌「新仏教」に掲載したエッセイの中にそれを考えるヒントがある。

融皈一という筆名で雑誌「新仏教」に投稿した文章の一部だ。この文の前に高楠順次郎のところに本を返しに行ったときに、高楠から密教の教理を研究するより、博物館がスタッフ不足で困っている仏教美術史家を目指したらどうかと言われ、融道玄は仏師の倅じゃあるまいし、こんなご時世に骨董品いじりなどしている暇などない、バカバカしいと憤慨していた。そういうプライドをもった鼻っ柱の強いところがあったのだろうか。そして最後に高島平三郎のことに触れ、つぎのように記述していた。
1903年、道玄41歳のことだった。


明治22年の夏休みといえば高島25歳の事。その数か月前に当たる明治21年10月22日に学習院幼稚舎取締になったところで、我が国における児童教育界のリーダー的存在に就き始めたころのこと。このとき融は18歳で第三高等中学校に入りたて。家が近所で、親同士が懇意で道玄の兄小田勝太郎と高島とが友人関係にあったことから融は高島とはすぐに仲良くなれたらしい。お互いにインテリ同志だという意識が強かったのか相当の英語かぶれだったようだ。参考までに高島と融の身長差は25センチ位はあっただろか。融道玄はいわゆる永井潜同様の神童で、典型的な山椒は小粒でもピリリと辛い&歯に衣を着せぬ人だった。
この文章から高島の家は道玄の実家の「すぐ向こう側」にあったらしい。ってことは高島は城北にではなく士族屋敷の一角を占めた天神町辺りに住んでいたのか。この辺の問題は徹底的に追究していくつもりだ。まず最初に

いずれにせよ「パソコン上で探す高島平三郎の旧宅探し」は前回提示の仮説の修正を急がなければなるまい。

参考までに融道玄(後年高野山大学教授)は東京帝大初代梵語学講座教授(1897年)の高楠順次郎(三原時代の長谷川櫻南の教え子)に盾を突くくらいの人間だったので姉崎正治のように東京帝大における高楠の後継教授にはなれなかったし、当時流行していた留学経験がなかったために3年先輩の鈴木大拙のように国際的な活躍をすることなく46歳の若さで亡くなってしまう。高楠も姉崎も留学経験が豊富で、相当の語学の達人だった。


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高島平三郎の執筆活動の特徴

2018年02月01日 | 高島平三郎研究
高島平三郎(1865-1946)は我が国における心理学・児童学のパイオニアの一人だった。終生旺盛な文筆活動をつづけた人であった。文部事務官西村茂樹が編集長を務めた「教育時論」に投稿した彼の論考は50本近くある。最初のものは明治19(1886)年5月25日発売の教育時論40号に掲載された蜻州生(高島平三郎のペンネーム)「新体の詩:春野」。明治19年5月といえば沼隈郡金見尋常小学校校長(明治17年9月ー明治21年4月)時代に当たる。高島の特徴は専門的な論考の外に、漢詩とか新体詩などもあり、そもそも文筆家気質否投稿魔(自制できないほどの投稿好き)風のところがあったのだろうか。非常に社交的で、物事に対して万事意欲的に取り組める青年校長だった。



高島の論考は帝国大学出のライターのように外書を駆使した海外学会動向の紹介とかはなく、自分が教育現場で経験したことや見聞したことを整理した感じのものが多い(高島の限界①)。従って、大隈重信のように我が国の教育界全体に対して号令するといった高尚なものや高楠順次郎のように国民教育全般に対してそれを論評するということはなく、終生児童教育に関わる分野で蜷局をまいていたたようなところがあった。その辺は高島の分を弁えた称賛すべき態度というよりもやはりもう一つの限界②といってよい部分だ。ライターとしての高島は徳富蘇峰(高島の長男文雄結婚時の仲人)世代の人で論旨を読み取りやすい、中庸を弁えた論理的な思考のできる人だったが、徳富のような天下国家や頼山陽の全体像を論ずるといったスケールの大きな議論、世論を形成してしまうくらいの迫力ある大風呂敷を拡げるということはできなかった。

教育時論363(明治28.5.15)
社説「新領土における教育的施設の順序」

教育時論375(明治28.9.15)
社説「朝鮮留学生」

教育時論381(明治28.11.15)
高島平三郎「心理漫筆」の投稿始まる。
教育時論382・383・384・385

高島平三郎「続心理漫筆」
教育時論405・406・407・408、409(明治29.8.25)

このころ高島平三郎・西田幾多郎(”西田神学”を代表する『善の研究』の第一編 純粋経験 辺りは高島平三郎と類似の用語体系/ターミノロジー)がともに投稿。

教育時論504(明治32.4.15)
松本孝次郎「児童研究におけるフレーベルの位置」

明治34-36年ごろの面白論題
校風(生徒の群集心理)の研究
教科書検定について
英国の領土教育を記述し我が国の領土教育を論ず
士風の頽弛

教育時論664(明治36.9.25)
朝河貫一「海外における東洋史教授の困難」(上下)

教育時論667(明治36.10.25)
教科書事件を特集
教育時論667(明治37.8.25)
国民思想の健全を期す
クロパトキン「進化と相(相互扶助ヵ)」⇔要確認


明治39-40年ごろ大隈重信は教育時論にしばしば投稿

教育時論783(明治40.1.15)
山本瀧之助「青年団体雑感」

教育時論785(明治40.2.5)
元良勇次郎「低能児児童教育の一法」

教育時論800(明治40.7.5)
高楠順次郎「国民教育者に望む」

教育時論815
元良勇次郎「心理学上より見たる品性の修養」

教育時論833(明治41年6月5日)
高島平三郎「児童の感化」
下田次郎「都会の児童」
吉田熊次「ドイツ児童教育の新生面」
元良勇次郎「精神の操練」

教育時論818(明治41.1.5)
山本瀧之助「昨年の青年団体」
大隈伯爵「教育論」

教育時論844
留岡幸助「感化教育談」

教育時論848
高島平三郎「児童道徳教育の発達」

教育時論860
高島蜻洲「漢詩」

教育時論1052(大正3年5月25日)
大隈重信「全帝国の教育家に告ぐ」

教育時論1121(大正5.6.5)
高島平三郎「精神生活の対比現象」

教育時論1151
高島平三郎「家庭における新入学児の取扱」

教育時論1175
高島平三郎「日本児童の道徳意識」

教育時論1424
後藤新平「少年団運動の使命」
此の少年団(ボーイスカウト・ガールスカウト)運動を通じて高島平三郎ー三島通陽ー後藤新平ー二荒芳徳伯爵(ー例えば金光教)などは繋がっていた。

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関連資料(PWD=taka)

教育ジャーナリズム史研究会 編教育関係雑誌目次集成 第1期(教育一般編) 第1巻 (教育時論 1号~245号)~第8巻

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高島平三郎・松本孝次郎共訳のフレデリック・トレシイ 『児童心理学』、明治32年

2017年10月28日 | 高島平三郎研究
高島と松本の共訳の『児童心理学』、明治32年

二人は嫁さん同士が姉妹(大垣藩士黒田某の息子で陸軍大学教授[外国語]黒田太久馬の妹たち)である。


寿子の夫が高島平三郎。雑誌「児童研究」の編集など仲良くやっていたが、松本が東京高等師範教授の職を捨てて中国の師範学校の幹部教師になり、直後に辛亥革命。失意のうちに帰国したが、失職後のご両人の関係は疎遠になっていたようだ。しかし、高島はいまではすっかり忘れられた存在(といっても著作集が最近出された、明治・大正期に我が国の児童研究を先導した"大先生")だが、東京帝大出の松本孝次郎の方は早稲田大学で心理学の種を蒔いた人として記憶されているようだ。高島はああいう性格だったから、「木枯し紋次郎」化していく松本とはうまくやっていけなかったかな~。松本は黒田繁子とは離縁したのか、子供はすべて黒田姓。この子供たちは高島からいろんな形で支援を受けたはずだ。


その10年後、明治44年に東京帝大の心理学教室が中心となり学会誌「心理研究」が発刊された。これはその創刊号。当時の心理学は実験心理学(京都帝大→東京帝大教授松本亦太郎)の方にシフトしつつあり、富士川游は生理学+心理学の蜜月時代を象徴するように本誌に執筆している。文豪ゲーテが好んで使ったphysiognomy(骨相術、人相学あるいは観相学)=前科学的思考批判を行っている。催眠術師の名前が出てくるのはその前科学的部分を肯定的にとらえた福来つながりのことか。
翌年には高島平三郎ー富士川游が中心となって日本児童学会「児童学綱要」 大正1年 洛陽堂が上梓されているが、当時、心理学者としての高島は相当に学閥の壁に苦悩させられ、結果的に自分を生かす方途として内務省嘱託の講師(御用学者)として全国を講演して回ったり、日蓮宗+日蓮研究にのめりこんでいく道を選択。こういう行動は高島側の心情としてはある種の防衛機制が働いた結果ではあったが、かえって心理学者の仲間からはますます白眼視される結果に。その点富士川游(医学史)は終始在野の学者として自らの道を歩み続け(大家の域に達するという意味において)大きな成果を得ている。

『心理研究』創刊号には元良勇次郎による発刊の辞が巻頭を飾っているが、とくにどってことはない内容で、創刊に際しての熱気とかは皆無。そういう意味では・・・・・


東京女子高等師範の倉橋惣三は幼児教育のパイオニアだが樋口一葉の名作「たけくらべ」を素材に児童研究
高島による小林一茶の俳句を使った児童研究の二番煎じ。ぽんち画の分析をした久保良英は広島高等師範の教授になるが、子供の落書き画の研究をした高島の影響は歴然。いまいうところの図像学研究の端緒は彼らが作った。方法論的にまとめあげたのはなんと関寛之・関敬吾の兄貴関衛だった。


関衛
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三遊前田貞次郎編著『聾画人二承(つんぼがじんじしょう)・十方舎一丸』洛陽堂、大正5

2017年09月17日 | 高島平三郎研究

編著者前田貞次郎(1869-1923)京都府生まれの明治・大正期のジャーナリスト,差別者側の目線で被差別問題解決に取り組んだ部落解放運動家 芸備日日新聞主筆からヘッドハンティングされ広島毎日新聞社長・主筆、文筆家。広島在住30数年。西川國臣の息子(長男)芳渓(一郎、明治17-大正14、享年42)の同僚だ。西川も高島が編集主幹した「児童研究」等の影響下で児童文学に目覚め、東京に出て岩谷小波・久留島某らとの交流をもったが、芥川龍之介や『赤い鳥』の鈴木三重吉らのような大学出がうごめく若手作家仲間の中には入り込めなかったようだ。



山縣二承と十方舎一丸という広島在住の一茶風のユーモア俳句に通じた戯画作家の人と作品を紹介(論評)したジャーナリスト前田貞次郎の書籍だ。前田自身も風刺作家気質の人だった。若いころから高島平三郎編集主幹「児童研究」にいろいろ投稿していたようだ。
参考までに雑誌「まこと」へ前田の評論文が1,2本程度掲載されている。













山縣二承の画風

十方舎一丸の俳画


富士川游は雑誌「飽薇」を出す前に、こういう形で広島県人に対する支援・底上げ運動を始めていた訳だ。洛陽堂は高島の口利きでこの前田三遊編著を出版した。

前田三遊の生まれた「納所村」と言えば京都・大阪堺の、秀吉時代の古戦場「天王山」とか、京都の外城:淀城、石清水八幡宮のご近所。わたしの住んでいた伏見とは目と鼻の先でなんだかこの前田には不思議な親しみを感じる。この人を研究した論文を最近(令和5年10月段階)みつけたが、同和(部落解放)問題には古くより取り込んできたようだ。

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岡本織之助(1869-1936)と高島(1865-1946)との接点 めっけ!

2017年09月03日 | 高島平三郎研究

備後史談10-2、昭和9



備後史談10‐3

岡本織之助(大木屋岡本)は同志社・神学部出身だが、ティーンエイジャのころより高島と交流を持ってきた仲だったことが判る。
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「飽薇」に登場する大正14-15年当時の高島平三郎

2017年06月29日 | 高島平三郎研究
明治期に復活する京都の豊国神社と豊国祭(豊臣秀吉の慰霊施設とその関連行事)には旧広島藩主浅野氏が大きくかかわっていたことが判る。

陣屋町・備中足守藩主の木下氏もそうだ。(参考までに、浅野・木下の両家は関ヶ原合戦後もお家取り潰しとならなかった秀吉ゆかりの家筋。徳川時代は京都の方広寺は幕府から言いがかりを付けられ潰され、豊国神社及び京都駅の東側に位置する阿弥陀寺山山頂の秀吉墓(豊国廟)も同様の措置がとられていたが、方広寺以外は明治維新後旧広島藩主浅野氏らは中心となって京の地にその再興が図られた。)
丸山鶴吉の口利きが成功したと丸山自身は書いていたが、阿部家の老家令岡田吉顯を動かして誠之舎舎長になった高島平三郎の消息が伝えられている。旧福山藩領内出身の学生たちのために二十年間以上も舎監として高島夫妻は献身した。


広田理太郎といえば加藤タキの祖父。小田勝太郎は加納治五郎門下の柔道家で誠之館中学で教鞭をとった人だが、高島とは幼馴染だったようだ。 宗教者(高野山大学)融道玄の実兄。沼隈郡高須村出身の医師(法医学専攻)三島粛(肅)三の名前もある。阿部正直は旧藩主の息子で丸山鶴吉が一時家庭教師をつとめた。蛇足ながら、阿部正直が持っていた渡辺修次郎『阿部正弘事蹟』、1910は現在私の手元にある。
誠之舎記念祭はいろいろ余興に工夫が凝らされていたようだ。小此木為二という名前を見かけたのでちょっとgoogleしてみたら東京商大(専門部)教授(商業英語)だったようだ。丸山鶴吉や三島粛三と同じ年ごろの人物だった。逐一調べていけば旧福山藩領出身の当時のエスタブリシュメントたちの生き方が判ってくるかも。

神田駿河台カフェブラジル・・・・沼隈郡神村出身の名方担一経営。


高島は小田勝太郎『阿部正弘公』を摂政宮に献上することを助言している。高島は学習院幼稚舎・初等部の教員時代に華族の人たちとのコネを得たようだ。二荒伯爵(旧宇和島藩主伊達宗徳の九男)とは、少年団(ボーイスカウト)日本連盟等(総長は後藤新平)を通じても昵懇だった。後藤新平と広田理太郎は親戚。丸山鶴吉などは後藤新平(朝鮮総督斎藤実とは幼馴染)の世話になった。後藤の女婿が鶴見祐輔で鶴見は丸山と昵懇だった。高島は高松宮妃の花嫁教育に参画している。


高島の外遊壮行会を兼ねた飽薇同好社集会・・・・参加者の中に作田高太郎も。旧広島藩重臣小鷹狩翁はペギー葉山の曽祖父。挨拶は花井卓蔵。花井と高島とは共に長谷川櫻南の門下。高島の長男文雄(明治28生)は東京帝大出身の弁護士になるがもしかすると大物弁護士花井の影響があったかも

高島の教育家としての生き方には首尾一貫したものが感じられる。ただ、かれの生きた時代は日清・日露から第二次世界大戦までと戦時教育への貢献が求められた。そういう意味では人一倍(良い意味での)忠君愛国思想に傾倒し、報国精神旺盛だった高島の人柄からみてまことに気の毒なことであった。高島を終生恩人とした東京帝大名誉教授永井潜(一八七六-一九五七)は東京帝大医科生理学教室の第二代目の教授だったが、「利を求めて病を追わざる者は下医、病を究めてこれと闘うものは中医、病める人を知ってこれを癒さんとするものは上医、病める国を憂いてこれを医せんとするものは大医」というの医道観を持ち出して「広島医学」誌上では自己の生き方を合理化したりしているが、東京帝大医科内部では「狭義の生理学者として最近堕落した研状態にある」という形で、自己批判を迫られていた。
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武者小路実篤『思い出の人々』、講談社現代新書65、昭和41

2016年11月07日 | 高島平三郎研究
尊敬する人々の中に、高島平三郎・徳富蘆花・三宅雪嶺が挙げられている。
武者小路は高島には興味はなかったが、兄貴の影響で強制的に高島邸で開催された「楽之会」に15,6歳ごろから作家としての駆け出し時代を通じ10年程度毎回出席していたようだ。
実篤の兄貴公共は終生、学習院初等科一年のクラス担任だった高島の、高弟であることを名誉に感じていたと述懐している。それは公共の弟である武者小路実篤にとってもそうであったはずだ。多少、つむじ曲がりのところがあった弟武者小路実篤は兄貴公共に関して自分との違いをいろいろ挙げているが、東大中退の時もそうだが、兄貴の了解を取り付けるなど母子家庭で6つ年上の姉も3歳の時に失うといった身の上の置かれた実篤は、若いころ、いろんな意味で兄貴の影響下にあった。

実篤はトルストイ一辺倒で高島の思想には興味を感じなかったらしい。とはいえ、「新しき村」運動は楽之会で受けた感化が契機になったと語っている。そういえば洛陽堂はこの当時盛んに「都会と農村」に関して、天野藤男らを動員して田園再生をテーマとした書籍を多数刊行していたなぁ。武者小路自身は「あたらしい村」運動はトルストイや半農生活を送っていた母方の叔父勘解由小路資承(すけこと)の影響から始めたというような印象の文章を『自分の歩いた道』の中に残していたが・・・・。


武者小路実篤『思い出の人々』、講談社現代新書65、昭和41はその後、『作家の自伝7―武者小路実篤―』1994に所収されている。


これらの本(中古品)はアマゾンでも比較的安価に入手できる。武者小路実篤全集・第十五巻を底本とした『作家の自伝7―武者小路実篤―』の方は武者小路の年譜・編集者による解説付で便利。


「楽之会」の言葉の由来は論語の『子曰、知之者不如好之者、好之者不如楽之者』(子曰く、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず)からきていることに言及にこの年になってその意味が解るようになったと書いている。

意味
あることを理解している人は知識があるけれど、そのことを好きな人にはかなわない。あることを好きな人は、それを楽しんでいる人に及ばないものである。

武者小路の意識の中には高島平三郎からの教えを自らの中では欠落した実の父親に関する記憶&実父からの教えにも匹敵するものとして享受しようとするものがあったのでは・・・・。

高島が信用できる人を呼んで講演させた
②(自分は)高島さんに敬意を感じている。
③好之者不如楽之者の境地に入ることの本当さ(武者小路にとっては本物・本当というのは最大限の賛辞)を老いてますます感じている。
これらの武者小路の言葉からも高島に対する尊敬の念がいかに大きかったが判ろう。武者小路の漱石や露伴に対する感情と高島に対するそれとはまるで質が異なる。武者小路という生命に大きな感化を与えたのは高島だった。
『思い出の人々』は昭和41年、実篤81歳時の作品であり、わたしには人生の晩秋に語られたその述懐には大きな質量(=真実味)が感じられる。

新しい村をはじめ僕の家で「村の会」を開いたのは高島邸で開催された楽之会の影響。そういう意味でも高島さんの僕への影響は無視できないとも書いている。
なお、河本亀之助に関しては楽之会で同席した洛陽堂主人に雑誌白樺の出版を頼んだという下りで触れられるだけだった。河本亀之助に関しては『作家の自伝7 武者小路実篤』所収の「自分の歩んだ道」においては”はげ頭の人の好い洛陽堂の主人はいまも懐かしく思い出す”という形で紹介されている(36-38頁)。雑誌白樺が洛陽堂刊として出版されるようになって予想外に売れたのは河本の営業努力(新聞記者に出版情報を流したこと)の賜物だと武者小路は少しく感じていたか・・・。

武者小路実篤の人柄(心配性タイプの無頼漢)がよくわかる一文。


今回取り上げた話題に関する詳細は他日を期したい。武者小路とか志賀直哉の自伝に興味あるかって?
こういう作家連中の人格・人間性に関してもともと興味がない。
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高島平三郎先生の苦学に学ぶ

2016年10月02日 | 高島平三郎研究
タイトル
日本が産んだ最初の苦学生
著者
大塚季光 [著]
出版者
医科大学民衆医学社
出版年月日
大正13



駒番号34-38 高島関係・・・・・松永浚明館(長谷川櫻南)での話題が出てくる。石井友三郎とか新良貴徳兵衛は塾生。高島はこの塾の秀才であった。長谷川櫻南は高島の境遇を理解し、激励の漢詩をプレゼントしている。
浚明館時代のもう一つのエピソードといえば、神童永井少年の一件。



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土屋堯編『母を語る』明治書房、昭和13年

2016年10月02日 | 高島平三郎研究
昭和13年刊、二等国民(17-21歳、学徒出陣年齢の若者)向けの修養書として編纂されたものだ。


朝鮮総督時代の書が我が家にあったので、岡山県出身のこの将軍の文章から・・・・・
ちょっと脚色されたような部分もあるが、宇垣大将の人間性の一端はうかがえる。








本書に万年筆でマークが付けられていた唯一の箇所


高島平三郎節全開というか、高島は若いころから自らの極貧・武士の子としての誇りをバネに刻苦勉励したことを口にした。長男文雄への手紙の中でもこの点に触れ、(しっかりと勉強するようにとの)父親からのメッセージとして伝えている。高島はやや自ら頑張りすぎるところが強すぎて、大樹(有名人としての高島平三郎)の陰に若木が育たないという状況を作り出していた。
ワンチャンスを捉え、全面展開。その見事な例が文部省体育遊戯取調委員を委嘱された時の一件だ。
高島の義弟(高島の妻壽子の妹婿)・松本孝次郎(心理学)とも明治30年代には親密な関係を持ったが、後年は没交渉だった。高島平三郎の生涯は「とと姉ちゃん」の主人公以上にドラマ化に向ているかも。





丸山鶴吉の文章は『50年ところどころ』などの自著に掲載のもの。


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永井潜『医学ト哲学』における高島平三郎の序文

2016年09月01日 | 高島平三郎研究
永井潜と高島平三郎の関係が語られている。永井潜の母方の叔父:馬越恭平(1844-1933、岡山県井原出身の実業家)
序文の中では浚明館において従兄馬越篤太郎がよく高島のそばに来ていたことにも言及。こういう自分が表に出てしまう序文を書いたのは高島のやや特異な性格を反映してのこと。しかし、一人の神童(永井)をまっすぐに育て生涯を通じて友人として交流を続けた教育者高島の手腕と永井の人柄には恐れ入る。
蛇足ながら子弟教育という面では高島は3人の息子を帝大(2人は東京帝大の法科と文科、一人は東北帝大・医科)に進学させたが、どうも永井のところの息子たちは親を超えることはできなかったようだ。あとで紹介する富士川游のところは息子・孫とも外国語・文学関係だが東京帝大と東京大学の教授になっている。






医学史研究の大家で同郷同学の先輩:富士川游の序文









永井『医学と哲学』は明治41以後、吐鳳堂書店版(向かって右端)→洛陽堂版(大正11年、中央の書籍)→文化生活研究会版(大正14年、向かって左端)






経営面で行き詰まりしつつあった当時の洛陽堂を支援するためにだったのだろうか、永井は名著『医学と哲学』の版元に関してわざわざ吐鳳堂書店を引き払い、大正11年洛陽堂に委ねている。永井の『生命論』洛陽堂、1913、『生物学と哲学との境 』、洛陽堂、1916に続きこの本も洛陽堂からということになった。これら永井の著書出版を通じて洛陽堂の評価が一挙に高まったとされる。

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亀岡豊二 編『久遠の寿 : 高島寿子夫人追悼録』、大正11

2016年08月31日 | 高島平三郎研究
久遠の寿 : 高島寿子夫人追悼録
亀岡豊二 編
[目次]
標題
目次
誄辞 医学博士 永井潜 / 1
幼き子供等に 高島平三郎 / 5
追悼会講演 医学博士 片山国嘉 / 34
追悼会講演 法学博士 山田三良 / 45
追悼会講演 宮田脩 / 57
追悼会講演 法学博士 松井茂 / 69(丸山鶴吉の先輩)
悼詩 蜻州 高島平三郎 / 77
悼詩 古愚 清水竜山 / 77
悼詩 向井教遠 / 78
悼詩 古愚 清水竜山 / 78
悼詩 逸見直也 / 78
悼詩 烟崖 荒浪市平 / 79
悼詩 横田新九郎 / 79
悼詩 天民 木内柔克 / 80
悼詩 如海 登原猪之助 / 81
悼詩 犀東 国府種徳 / 82
弔句 渡辺光徳 / 83
弔句 中野秀穂 / 83
弔句 岳水 田和芳三郎 / 83
弔句 矢島鐘二 / 83
弔句 横井竜顕 / 83
弔句 折井太一郎 / 84
弔句 松井拳 / 84
弔句 守屋序平 / 84
挽歌 佐々木信綱 / 85
挽歌 岡田てつ子 / 85
挽歌 高田恵忍 / 85
挽歌 百百三郎 / 86(福山藩)
挽歌 氏恭 赤沢乾一 / 87
挽歌 横田新九郎 / 87
挽歌 村上純祥 / 88⇒長女百合子の婿、高嶋が舎長時代の誠之舎寮生で田島出身、尾道商業から東京高商 
挽歌 西川国臣 / 89
挽歌 八杉貞 / 89
挽歌 島嶺子 / 89
挽歌 千年 松尾雄三郎 / 90
挽歌 上条衣恵 / 90
挽歌 田辺善知 / 91
挽歌 満川とし子 / 91
挽歌 藤井乾助 / 92
挽歌 柴田万吉 / 92
挽歌 真田鶴松 / 92
挽歌 竹内薫兵 / 92
挽歌 野崎勝輝 / 93
挽歌 辻優 / 93
挽歌 飯沼舒雄 / 93
挽歌 加藤きのへ / 94
挽歌 福島四郎 / 94
挽歌 高橋商士 / 94
挽歌 山田致康恵 / 95
挽歌 田村亀四郎 / 95
挽歌 天野治助 / 95
挽歌 五弓安二郎 / 95
挽歌 黒住宗武 / 96
挽歌 鈴木善建 / 96・・・国風短歌の会:詠揮会講師で、機関誌「鶴のしづく」などに執筆、B級歌人
挽歌 宮岡直記 / 97
挽歌 遠山椿吉 / 97
挽歌 相沢玉子 / 97
挽歌 堀尾金八郎 / 98
挽歌 星果 宮西一積 / 101
追悼文 村上百合子 / 105⇒長女
追悼文 長滝智大 / 111
追悼文 上条衣恵 / 112
追悼文 剣持確麿 / 114
追悼文 早崎春香 / 116
追悼文 伊知地ハナ / 117
追悼文 智鑑 志村伊三郎 / 117
追悼文 小杉吉也 / 119⇒学習院時代の教え子
追悼文 阪本修一 / 126
追悼文 飯塚正一 / 131
追悼文 横山玄秀 / 132
追悼文 奥田大三 / 133
追悼文 石神八重 / 135
追悼文 岡田定次郎 / 137
追悼文 角倉しめの / 139
追悼文 志田原重太郎 / 142
追悼文 片桐佐太郎 / 144
追悼文 石津こう / 145
追悼文 吉田きみ子 / 147
追悼文 村島雄一 / 150
追悼文 和田常太 / 151
追悼文 和田照子 / 152
追悼文 板原良槌 / 155
追悼文 野崎吉郎 / 156
追悼文 山川智応 / 160
追悼文 三輪田元道 / 171
追悼文 木島平治郎 / 176

心理学会関係者は義弟の松本孝次郎を含め皆無だ。高島は心理学者として逆風の中にさらされてきたことが判る。
高島は心理学と生理学との協働路線を推進した。東京帝国大学の心理学は実験心理学を推進した。この辺の路線対立は元良勇次郎の死後鮮明化。庇護者を失った高島心理学は急速に陳腐化し時代遅れのものとなった。日蓮宗への接近は心理学会からは疑問視されていたし、高島の関心領域の拡散などその陳腐化に拍車をかけた。
高島の全盛期は雑誌「児童研究」の主幹時代であり、その間に一時代を築くほどの大きな成果を上げている。

下線部はわたしにとって既知の人物。「追悼文 角倉しめの / 139」は現在の広島県府中市上下町出身の角倉一族の人物(確認済)。だとすれば角倉志朗(1903-1992)→角倉一朗(バッハ研究)の一族だ。
読んで見たが追悼文 木島平治郎(児童文学) / 176-244は追悼文学の名作だ。

高島平三郎の「幼き子供らに」




足立区江北図書館の旧蔵本だ。大阪の古書店経由での入手。






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児童研究29-3(大正14)

2016年08月14日 | 高島平三郎研究
雑誌「児童研究」の当時の編集兼発行者は高島平三郎(西片町あった女子高等学園校長)


宗教教育の方面は高島の弟子:関寛之が盛んに研究活動を行っていた。「建国祭」は赤尾敏だが、高島との関係でいえば丸山鶴吉が中心的に取り組んでいた。東京市内の女学校での講演では心理学の高島とその弟分東京帝大・教授の永井(生理学)とがタッグを組む。

高島の懐舊瑣談1-11をチェックするために「児童研究」を紐解いているといろいろ発見がある。
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