- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

松永史談会8月例会

2018年07月30日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会8月例会

日時 8月26日(日曜日)  午前10-12時
場所:川本氏のお宅
話題:今回(8月例会)は秋季例会の予備例会としての位置付けから”『戊子入明記(ぼしにゅうみんき)』を読む”と題しての話題提供。





取り上げる史料は、論点を大きく増やすために、『戊子入明記』・『笑雲入明記』・『享徳2年・外官西忍唐船日記』(大乗院)を中心に、以下で紹介するような各種の史料も援用し、全体としては、『戊子入明記』の、相互テキスト的な読解(「身の回りの出来事の世界史的読み替え」)作業の結果をお話しする。

話題の焦点:①『戊子入明記』や『笑雲入唐記』に記載された中世尾道(尾路)港及び、②尾道周辺で準備された渡海船。③長州藩士高須氏に伝わる日明貿易旗(16世紀末)。④渋谷家文書中の慶長5年沼隈郡神村打渡坪付帳(代銭納・・・・畠方年貢は中国銭で行われた)だが、グローバルな視点から問題を掘り下げ、かつ同時にそれを世界的なスケールから意味付け(=俯瞰し)ていく

なお、秋季例会は浄土寺宝物館(or尾道市立図書館では近世古地図類)にて江戸中期の尾道町屏風絵(「安永の屏風」)を熟覧予定。(その後、2021年3月段階にすべて史料調査済み)
日明貿易旗・・・・・赤間ヶ関代官高須(沼隈郡高須村杉原氏の末裔。尾道を拠点に杉原氏がかつて日明貿易に従事していたことを示唆)氏に対し「大明国の泉州府晋江県(現、 中華人民共和国の福 建省泉州市)の商船が来年6月にこの港口(赤間関) に来航するので、 その時に旗印を照合して一致すれば、 貿易すべし」 と、記述。
 喫茶室

字「つるぎ下」・「明神」(柳津町)・・・・中世のつる木浦付近


勘合貿易について

『戊子入明記』(応仁2 、1468 年将軍足利義政の命によって天与清啓が遣明正使として渡明したときのことを,天文期、1532~55に 周良が現地にて抄記したものだとされてきたが最近の研究(2001)ではかかる通説に疑問符が付けられている。勘合符・船中祈祷の作法、荷物・商品・乗船に関することなどを含め過去の日明貿易の前例に関わることが色々と記されている)

















籌海図編(ちゅうかいずへん、1562年に中国,明の鄭若曾によって編集された倭寇対策用の海防研究書)日明貿易上の利害対立から大内氏+博多商人×細川氏+堺商人の現地での武力衝突と略奪事件が発生(寧波の乱、1532)後、中国の対日感情は悪化し、その結果1529年には市舶司大監(貿易事務所)が廃止される。その結果寧波に近い双嶼や、舟山諸島など沿岸部で日本人商人との私貿易、密貿易が活発化し、倭寇(後期倭寇)の活動となってゆく。

高須家伝来の日明貿易旗に記載されたに普江の現在(泉州湾岸の普江)

東南アジア島嶼部・北東アジア諸地域に分布する銅製品(例えば中国銭・銅鼓など)のいろいろ

『海東諸国記』には長門国赤間関→竈戸(上関)→尾路関→兵庫関という港町をあげ、備中国・備後国は銅を産出と記述している。

これまでも再々、言及してきたことだが、地方史上の問題を世界経済の動きの中にリンクさせていく作業を行っていく。

釈笑雲入明記(旧名允澎入唐記)』(1452年)に天龍寺船が温州の育王寺住職によって鐘鼓を鳴らしで大歓迎をされたとあるので平安中期の年中行事絵巻に描かれたチンドンの風景は明時代の温州あたりにもあったことが判る。


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・・・・・・・・・・・・・・?

2018年07月19日 | 断想および雑談


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裏技を使って国会図書館のRDFファイルの読出し

2018年07月18日 | 断想および雑談
頼山陽が書いた桑田橘叟の墓誌情報。墓誌の本文紹介は『山南村誌』327-328頁にある。
やり方は方法さえ見つかればとても簡単。
すなわち、DLしたRDFファイルを「メモ帳」(windowsに標準装備)で展開し、その展開したものをHTML上にコピペ。その結果が以下に表示したもの。中身は亀山聿三編「近代先哲碑文集 / 第3集: 山陽頼先生碑文集、支峰頼先生碑文集」夢硯堂、 1965のコンテンツ。

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宮原節庵の墓誌は「支峰頼先生碑文集」中のものだろうか。

『山南村誌』収録の墓誌


桑田橘叟が備後地方における一流の文化人の交流圏(菅茶山ー頼山陽ー北条霞亭ら)のメンバーであったことが判ろう。
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薇山三観 薇山三観 (びざんさんかん)

2018年07月17日 | 断想および雑談
北条霞亭「薇山三観 (びざんさんかん)」,文政3(1820)。リンク切れ状態につきこちら:東京大学鴎外文庫「霞亭小著鈔(カテイ ショウチョショウ)」参照

桑田翼叔と霞亭との交流状態が判る。
『山南村誌』325-335頁に何鹿桑田家出身の文人紹介。
以下の画像は前掲の国文学研究資料館サイトからの引用。
2089-390~2089-394までが文化11(1814)年初春の「三原観梅記」。神辺から西国往還を山手→伊勢宮(神村)経由で松永に出て、ここから船で糸崎・三原へ。「松永買舟」という漢詩を掲載。
2089-394から2089-397までが文化13(1816)年初夏制作の「山南観漁詩」。草戸から山田経由で山南の(何鹿桑田の分家・戸次桑田氏)桑田翼叔宅に一泊して草深→横島に鯛網見物にいったときの道中往復の漢詩紀行。



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石工 藤原亦三郎

2018年07月14日 | ローカルな歴史(郷土史)情報


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石見街道の終点:長江・十四日町界隈に拠点を置いた尾道・宇津戸屋一族

2018年07月06日 | 断想および雑談
京都在住だった20年ほど前にたまたま尾道を訪れていて、宇津戸という地名を屋号にした人物を、久保三丁目にある勇徳稲荷社の玉垣の中に見つけた。そのご、同じ屋号を有する人物を『新修尾道市史』などでも見かけたことがあった。先般入手した古地図を見ていて文政期当時、長江町に宇津戸屋の拠点があったことを知った。



やはり、彼らは石見街道沿いに立地する御調郡宇津戸出身の家筋なのだろう(地図中のUは宇津戸屋抱の屋舗)。→石見街道沿いの宇津戸

尾道・本陣を担った笠岡屋小川氏の墓地

むかし撮影した画像の中に文政7年の墓石が写っていた。これは小川家ご当主のものではないようだ。作右衛門を襲名した人物の墓石は夫婦一対の五輪塔とか、大型の舟形光背墓・笠付墓など。比較的ジャンボだが、時代が下るほどサイズ的には小ぶりになる感じ。
笠岡屋小川氏の墓石群の隣に秋田屋小川氏の墓石群。文政4年尾道町全図には秋田屋の名前は不在。御本陣・笠岡屋作衛門屋敷の左右両隣には油屋(亀山氏)本助抱の屋舗。




十四日町内の古い倉庫


笠岡屋小川家の菩提寺・正授院(浄土宗)

尾道本陣(α)笠岡屋小川家屋敷の現地比定


灰屋橋本吉兵衛家の菩提寺:慈観寺(時宗)・・ここの住職だった恩師のお墓に参拝。なんと56歳で亡くなられていた。定期的に大阪から出張販売にくる業者から得体の知れぬ高額薬品にご執心だったので、もしかしたらその薬害のせいだったかも。30錠入風邪薬用小瓶に入れられた高貴薬と称する得体の知れないものが2万円だった。そんな薬を常用したために亡くなられたなというのがわたしの直感。
慈観寺と正授院の間の通り沿いに「花町」(花街ではなく、仏前に備える花屋に由来する町名とのこと)。天保9年橋本竹外を頼って尾道に来た当時の宇都宮龍山(御年36歳)の塾舎が立地したのが十四日町花町東側角だった。なお、文政4年尾道町絵図中、慈観寺の東隣に当時小さな堂祠を残すだけだった時宗寺院の旧「正覚寺」が図示されている。天保期に橋本竹外によって慈観寺本堂の再建が行われているが、これは橋本氏による尾道町内や後地村あたりの失業者に対する失業対策あるいは恤救事業の一環として行われたもの。
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7月4日の史料調査

2018年07月04日 | ローカルな歴史(郷土史)情報


油屋(亀山)本助が町年寄り時代に制作された「文政4(1821)年尾道町全図」・・・・この古地図はいわゆる藩・町方の権力装置及び比較的少数の家主(寺院を含む豪商)たちによって寡占状態にあった町屋群の配置図(類型的には支配図)で、その中より透かし見えてくる生活する民衆の息遣いなどごく限定的だ。
浄泉寺に葬られた播磨屋松之助生前の居宅を探すのが本日の調査のテーマの一つだったが、松之助は借地人だったのだろう、本史料には無記載だった(黄線で囲んだ区域は灰屋(橋本)吉兵衛抱の歓楽地区:新地。このあたりが播磨屋松之助の活動拠点だった可能性もあるが今のところ確証は得られていない)。また機会があったら橋本家史料の中に茶屋関係の記事の有無や播磨屋松之助の名前を探してみよう。

森岡元久「ええじゃないかが尾道へ来た日」(尾道文学談話会会報7、2017、34頁))曰く、「 文政四年(一八二一)の『尾道町絵図』を見ると、 右の橋本町の場所に、大型の家屋が五棟東西に軒を 連ねている。おそらく遊廓の建物と思われるが、「灰 屋吉兵衛抱」とのみ表示されている。その南側は 「灰屋吉兵衛畠」とあり、その中に「芝居小屋」が 経っている。海岸沿いには二十棟ほどの家屋がある が、ほとんどすべてが「灰屋吉兵衛抱」であり、そ れらは料理茶屋や別荘として使われていたのではな いか。そして、その中のどれかが、芸長両藩の用談 場所となった「竹亭」だったと思われる」(要確認事項)。

厳島社ー尾道八幡さんの参道周辺は「新開」と呼ばれる歓楽街だった。「新開」の海側に拡がるより新しい埋め立て地=「新地」。


厳島社の背後の段差。低いところがより新しい埋め立て地(新地)、一帯は豪商灰屋(=橋本)吉兵衛抱、その一角に芝居小屋があった。幕末期長州藩兵たちが屯した料亭の「胡半」(帆影楼)や何処?


高札場の隣は「役方抱」とあるが現在の橋本家別邸「爽籟軒(そうらいけん)」の一角。
文政7年より灰屋吉兵衛抱になった地所の海辺側に「庭」が立地。


暗渠化された防地川とその上を通行する乗用車

突き当りに制札場があった。文政期には写真に写った界隈を大宮崎町と呼んだ。


尾道町の外に置かれた浄土寺・海龍寺とその門前に布置された漁師家地区:尾崎。吉和町の漁師たちは2年に一度浄土寺に太鼓祭りを奉納する。




前掲した森岡元久「ええじゃないかが尾道へ来た日」(尾道文学談話会会報7、2017)によれば「文政4(1821)年尾道町全図」をみて当時の尾道町が
「最も所有家屋が多かったのは灰屋(橋本氏)で百十一戸、つ いで住屋(葛西氏)の六十六、島屋(島居氏)の四十八、油屋(亀山氏)と富吉屋 の四十六、伊予屋三十四、金光屋三十二、金屋の 二十四戸とつづいている。それはそのまま当時の尾 道商人の資産家順位と考えていいのだろう。驚く のは、それら上位八家の所有する家屋数は四百六戸 にのぼり、絵図に描かれた総数千二十四戸の実に四 割を占めるのだ。富の寡占状態である。そうした豪 商たちは問屋業のほかに不動産投資で持ち家を増や し、貸家にしたり、商人仲間に金融をして担保とし てとった家屋が、相手の破産などで所有権が移って「抱」物件が増加したのであろう」とし、一部町方による富の寡占化に言及。この点は正しい。同様のことは阿部藩領(少数の在方扶持人による農村経済の支配)でも言えそうだ。その場合税制面での芸備両藩における「受(請)」(請負のこと)「」制自体がそういう富の寡占化を生み出す温床になっていたわけだ。受所の典型が栄華を極めた藤江山路氏

荒神堂浜脇に「年預会所」

ニシテラ小路(尾道久保町は西国寺参道入口付近)に医者山口須的が居住。医者の家系に生まれた山口玄洞の親族だろうか。



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