- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

続・融道玄(1872-1918)

2019年08月09日 | 断想および雑談

参考メモ 融道玄に関しては融道男『祖父 融道玄の生涯』、2003.融ら明治期における古義真言僧侶としての宗教史的な評価は阿部貴子「真言僧侶たちの近代ー明治末期の『新仏教』と『六大新報』から」、現代密教23号、平成24,303-325頁。 思想的には融道玄は海外宗教学の紹介に終わった密教僧侶だが、その底流にはscience(唯物)-art(唯心)を論理化する途中で融自身行き詰ったからだと思う。あえて誤解を恐れずに言えばそれをうまく彼一流のレトリックでインテリたちを納得させてしまったのが物/心、水/油、主/客とかといった価値軸上で相反する両極に位置付けられるようなものを統合することを試みた西田幾多郎『善の研究』ではなかったか。 関連紹介記事(執筆中) 融道玄の東京帝大哲学専攻の先輩に心霊研究で東京帝大を追放された福来友吉(1869-1952)がいた。同年代(融は1872年、姉崎は73年生まれ)の宗教学者姉崎 正治とは第三高等中学-東京帝大哲学科と同じコースを歩む。 融道玄は哲学者(典型的な明治-大正期の御用学者)井上哲次郎門下(だが、明治30年に東京帝大に迎えられる融より5歳ほど年上の高楠順次郎に原始仏教研究面で薫陶をうけていたようだが、高楠自身からは美術史家のような職に就いたらどうかと言われ、誇り高き融は大いに憤慨)。梵語に造詣の深かった高楠(明治34年開講の梵語学講座では印度古文献=原典主義を推進)から見ればせいぜい英語・ドイツ語あたりでインドの原始仏教を研究していたに過ぎない融道玄などやはりどうしようもなくまどろっこしくとるにたらいない存在に感じられたのではあるまいか。 融は井上円了の哲学館(東洋大学)を媒介として、境野哲、渡辺海旭、加藤玄智、田中治六、安藤弘、高嶋米峰、杉村縦横とつながっていた。彼は高野山に妻帯肉食を持ち込んだ紛れもない”破戒僧”だったが同時に当時の停滞した日本仏教に対する改革運動の有力な推進者の一人でもあった。 『祖父 融道玄の生涯』というのを公立図書館に寄贈したが、送り主からは書評を求められている。


融道玄の両親:小田銀八夫婦墓(福山藩の郡方同心,小田家は芦品郡有地村出身)小田銀八の名前は福山藩による蝦夷地探査に携わった役人の中にも認められる。


「旧福山藩学生会雑誌」、明治33年に掲載された融道玄の小論文・・・進化論という当時としてはハイカラな言葉を繰り返し使いつつ、社会の発展に貢献することを通じて自己を磨いていく事の意義を論じたものだが、進化論に対する深い掘り下げはなく、中身は意想外に凡庸だ。

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武者小路実篤『思い出の人々』(repost)

2019年08月08日 | 断想および雑談
武者小路実篤『思い出の人々』、講談社現代新書65、昭和41
November 07 [Mon], 2016, 16:05
尊敬する人々の中に、高島平三郎・徳富蘆花・三宅雪嶺が挙げられている。
武者小路は高島には興味はなかったが、兄貴の影響で強制的に高島邸で開催された「楽之会」に15,6歳ごろから作家としての駆け出し時代を通じ10年程度毎回出席していたようだ。



実篤の兄貴公共は終生、学習院初等科一年のクラス担任だった高島の、高弟であることを名誉に感じていたと述懐している。それは公共の弟である武者小路実篤にとってもそうであったはずだ。多少、つむじ曲がりのところがあった弟武者小路実篤は兄貴公共に関して自分との違いをいろいろ挙げているが、東大中退の時もそうだが、兄貴の了解を取り付けるなど母子家庭で6つ年上の姉も3歳の時に失うといった身の上に置かれた実篤は、若いころ、いろんな意味で兄貴の影響下にあった。

実篤はトルストイ一辺倒で高島の思想には興味を感じなかったらしい。とはいえ、「新しき村」運動は楽之会で受けた感化が契機になったと語っている。そういえば洛陽堂はこの当時盛んに「都会と農村」に関して、天野藤男らを動員して田園再生をテーマとした書籍を多数刊行していたなぁ。武者小路自身は「あたらしい村」運動はトルストイや半農生活を送っていた母方の叔父勘解由小路資承(すけこと)の影響から始めたというような印象の文章を『自分の歩いた道』の中に残していたが・・・・。



武者小路実篤『思い出の人々』、講談社現代新書65、昭和41はその後、『作家の自伝7―武者小路実篤―』1994に所収されている。



これらの本(中古品)はアマゾンでも比較的安価に入手できる。武者小路実篤全集・第十五巻を底本とした『作家の自伝7―武者小路実篤―』の方は武者小路の年譜・編集者による解説付で便利。


「楽之会」の言葉の由来は論語の『子曰、知之者不如好之者、好之者不如楽之者』(子曰く、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず)からきていることに言及にこの年になってその意味が解るようになったと書いている。

意味
あることを理解している人は知識があるけれど、そのことを好きな人にはかなわない。あることを好きな人は、それを楽しんでいる人に及ばないものである。

武者小路の意識の中には高島平三郎からの教えを自らの中では欠落した実の父親に関する記憶&実父からの教えにも匹敵するものとして享受しようとするものがあったのでは・・・・。

①高島が信用できる人を呼んで講演させた
②(自分は)高島さんに敬意を感じている。
③好之者不如楽之者の境地に入ることの本当さ(武者小路にとっては本物・本当というのは最大限の賛辞)を老いてますます感じている。
これらの武者小路の言葉からも高島に対する尊敬の念がいかに大きかったかが判ろう。武者小路の漱石や露伴に対する感情と高島に対するそれとはまるで質が異なる。武者小路という生命体に大きな感化を与えたのは高島だった。
『思い出の人々』は昭和41年、実篤81歳時の作品であり、わたしには人生の晩秋に語られたその述懐には大きな質量(=真実味)が感じられる。

新しい村をはじめ僕の家で「村の会」を開いたのは高島邸で開催された楽之会の影響。そういう意味でも高島さんの僕への影響は無視できないとも書いている。
なお、河本亀之助に関しては楽之会で同席した洛陽堂主人に雑誌白樺の出版を頼んだという下りで触れられるだけだった。河本亀之助に関しては『作家の自伝7 武者小路実篤』所収の「自分の歩んだ道」においては”はげ頭の人の好い洛陽堂の主人はいまも懐かしく思い出す”という形で紹介されている(36-38頁)。雑誌白樺が洛陽堂刊として出版されるようになって予想外に売れたのは河本の営業努力(新聞記者に出版情報を流したこと)の賜物だと武者小路は少しく感じていたか・・・。

武者小路実篤の人柄(心配性タイプの無頼漢)がよくわかる一文

今回取り上げた話題に関する詳細は他日を期したい。武者小路とか志賀直哉の自伝に興味あるかって?
こういう作家連中の人格・人間性に関してもともと興味がない。
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新涯開発百年史』の中の書き込み考ー解釈の快楽ー September 28 [Fri], 2012, 21:42 (repost)

2019年08月08日 | 断想および雑談
藤井正夫『新涯開発百年史』、1967という本を東京・本郷の古書店で入手した。

この本は序文によると「福山市新涯町開墾百年祭を記念して、発展の歴史を回顧しながら、これらの思い出や、物語、または歌や踊りや行事、さては暮らしのしきたりなどを収録して、『郷土百年の歩み』」を広大福山分校の藤井らがまとめたもの(本書1頁)。

わたしが購入した古書には、何カ所かにボールペンによる破線が引かれている代物だった。以下、線引きのある頁とその個所をすべて列挙してみよう。


6頁ー 山田家所蔵の「新涯村取設原由御届」
   川口村庄屋山田本三郎
7-川口村庄屋山田本三郎は御用達席
9-川口村山田本三郎
   川口村 山田熊太郎
12-脚注
   2)山田家所蔵文書による
   7,8,9)山田家所蔵、明治3年田地売払諸記録
23-図表B)熊治郎
25-山田本三郎が13町歩
    第七表 山田本三郎
27-山田本三郎、山田熊太郎、山田本三郎に従って
39-脚注)山田家所蔵
41-上納書上責任者は庄屋山田本三郎
    山田本三郎・山田熊太郎
42-川口村・山田本三郎(13町56畝27歩)
44-田地名寄御売払代銀上納書上帳、川口町山田家所蔵
56-(明治31年史料) 証、、山田熙殿、奉公人受状之事
65-川口村の多木家の記録
69-同じ川口村山田家の明治30年奉公人請状


79-明治29年山田熙が初めて試みたと言われ、山田はその他乳牛・錦鯉・家鴨・豚の先覚者的導入をはかって多   大な影響を与えた。山田はまた昭和3年にはアメリカから直接鶏の種卵を取り入れ、岡本吉太郎・高橋源一郎   などと企業的な養鶏を試みている。山田自身の農業経営が成功したとは決していえないけれども、すぐれた先   覚者として地域に大きな影響を与え

断っておくが、資料編(206-300頁)、年表(302-313頁)などには線引きはなし。

さてどんなご仁がこの本に線を引いたのだろか。

赤鉛筆とかボールペンとか使って線を引いている場合、前者は学習段階に、ボールペンは?
この本を消耗品として考え、普通は付箋の添付で済ませるところだが、ボールペンを使って論文でも書いているさなかに手っ取り早く同じ筆記用具を用い目印の線を引いたというところだろうか。それにしても訂正の効かないボールペンを使うなんて、無神経と言うか・・・・。蔵書印が不在だが、脚注の史料名にも配慮しているのでその人物は、やはり何らかの研究者かな~。

いやいや、線引き箇所が川口村庄屋で新涯村に13町歩以上の土地を有した山田家関係にほぼ限定され、新涯村全般への関心や併記されている他者への関心(たとえば6頁の「米掛りは、川口村庄屋山田本三郎、多治米村庄屋猪原保平」、の箇所では下線部だけ破線が引かれ、同じ米掛りとなった多治米村庄屋猪原保平はマークされていない)が全く希薄なので、自分、あるいは自己のルーツ探しを兼ねた、山田家の子孫(身内)の可能性もある。その可能性の方が大きいかな?!

まあ、どこまでも、何の根拠もない、詮索好きの、わたしの勝手な解釈だ(笑)。
解釈と言うのは、自己認識(自分はそう思うという水準の話)・自己了解のことを差す。この場合、現実にボールペンで破線を引いた人物はわたし自身ではない。わたしとその人物との認識(経験・思考様式)の地平が近似しているとは限らないので、所詮わたしの解釈(『新涯開発百年史』の書き込みを取り上げた遊び半分の解釈)は、そうであるかも知れないし、そうでないかもしれないといった可能性(蓋然性)レベルの話に留まるのだ。わたしと彼とが同じ「知の地平」を共有しているとか、患者(犯罪者)と医者(名探偵)といった関係にある場合には蓋然性は限りなく高くなるだろうが・・・・
「過去」とか「未来」といった象限のモノ・ゴトは概ねその種の解釈の快楽の対象にされるのだが、その解釈の中身は当該の関係性の中で、例えばこの大本営のいうことと狼少年のいうこととの間では信ぴょう性に差が生じてくる訳だ。

参考までに目次を紹介しておこう(省略)。



この古書には残念ながら正誤表がなかった。

正誤表の中身は本書329-342頁部分にある新涯町各家の出身地、入植年次(「入村者名簿」)。正誤表では悉皆的に住人すべての宗派・旦那寺名が付記されたものに差し替えられている。

たとえば五十川義一 深安郡大津野村野々浜、明治元年→、五十川義一 真言宗・大門 円寂寺、深安郡大津野村野々浜、明治元年


本書は巻末に「新涯町の発展を担う人々」として町内27組の各世帯の代表者の集合写真が悉皆的に掲載されているが、マルクスーエンゲルス型社会経済史が専門の歴史家が中心となって執筆した関係で「発展の歴史を回顧しながら、これらの思い出や、物語、または歌や踊りや行事、さては暮らしのしきたりなど」を収録を目指した割には社会文化面での記述が乏しく、地域史としては残念な面が目立つ。マルクスエンゲルス的な経済分析は居住者間の支配従属関係とその中での支配する者(または支配される)の側の動向(対立関係)を浮き彫りにするには向いているが、巻末で写真紹介された「新涯町の発展を担った(普通の・・・筆者加筆)人々」やその祖先たちのことは割愛(省略)されたり、概ね沈黙させられてしまいがちだ。
福山市新涯町は幕末期の福山藩の財政再建策の一環として行われた干潟の干拓事業の結果出現したところで、現在は特産物のクワイ等で知られる福山市南部を代表する生産緑地だ。

最後に差し替え部分(入村者名簿)をすべてご紹介しておこう。この史料はこの地方における新涯入植者の出自の傾向を推定(数理解析)する時の、一つの参考資料になりうるだろうと思う。
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それは浦崎梅林だった

2019年08月08日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

安政4年雲山山人作「松永湾岸風景図屏風」(福山城博物館蔵)に描かれた戸崎付近に咲き乱れる花 わたしは桜だと思っていたが、実はどうもそうではなかったようだ。



市立園芸センター(福山市金江町藁江609)から見た松永湾の風景(Xは戸崎)↑


昨日小畑正雄『浦崎村史』、1980を見ていて山路機谷の漢詩「遺芳湾雑景」(浦崎八景)に菅茶山が使わなかった「戸崎梅林」の表現をとっていることを知った(『沼隈郡誌』からの孫引きヵ)。わたしは桜かなと思っていたのだが、屏風絵の作者:雲山山人がそのことを認識していたかどうかは判らぬが、戸崎=梅の名所(風景写真のX地点、その向かって右側、山頂を低く削平した場所が古城跡)+海中につきだした古城跡ということをわきまえていたことが判る。

小畑正雄『浦崎村史』だが、千年藤に関して独自に自説(内容的にはfakelore)を展開していた(論証方法が普通に恣意的)

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あの井上通泰が柳田国男の兄貴だったとは

2019年08月05日 | 断想および雑談

                        


 



 


柳田国男の著作集は最近更新された。その最新版に別巻1(2019年3月刊)としてこの年譜が入っている。



私の調査旅行経験に照らしあわせて、日本民俗学(Ethnology)の父と呼ばれる大学者柳田国男の行動力のすさまじさには脱帽だ。飛騨では「山窩」の件に関しヒアリング。この辺り(岐阜県郡上八幡、白鳥を経由して石徹白/いとしろの大師堂(岐阜県郡上市白鳥町石徹白祠山 4(中在所))までの郡上街道)を私自身何度か訪れたことがあるのだが、この件(既知の事柄でもあった三角寛のサンカ研究)に関して柳田にその端緒があったことはうかつにもいままで不知だった。明治44年段階の話だが、この段階にすでに京都帝大のばりばりの研究者たちと交流をもっている。柳田を郷土研究(農学者新渡戸稲造が中心となって発足)を介して当初よりアカデミズムの中枢部において浸透を図ろうとしていたことが判る。


 



 


「農村経済と村是」は定本柳田国男集(第十六巻、1-160㌻)に「時代ト農政」に改題の上、所収明治41年に村田露月は沼隈郡書記に任官。明治44年には地方改良運動の郡側の受け皿:先憂会を立ち上げ雑誌「まこと」を創刊


 


 


 


東京帝大卒の医学博士井上通泰の著書『播磨風土記新考』、『万葉集新考』、『上代歴史地理新考』を若い頃何度かひもといてみたことがある。江戸時代の国学の学風を継承していた方であり、その当時のわたしは海外からの新着文献のチェックが日課でこちらのほうは古めかしすぎて活字を追うのもやや苦痛を感じたくらいだ。必要に迫られ森田節斎と武井節庵の勉強をしたことだし今後は井上の著書にも触れる機会を作ってこの香川景樹の傾倒者の誠に古めかしい著書を一度精読しなおしてみたいものだ。香川景樹の弟子といえば近世後期における町医者で松永村きっての文化人だった高橋景張(賴山陽が今津宿滞在時は今津薬師寺で漢詩の会を催し、宿泊は高橋屋敷で)がそうだった。 明治40年5月、柳田国男は兄貴井上通泰の話(「蕃山先生考」)を聞きに帝国教育会主催の報徳講演会に出席


 



 


 柳田国男の研究はソシュールの『一般言語学講義』中の語を使えば、生活者から得た情報を雑誌論文という形で柳田国男が「通訳」「翻訳」する作業を通じてパロール(Parole)としての個別具体的な形での農民生活誌の書記化を行ったもの。柳田国男の後継者たちが『定本 柳田国男集』全36巻と言う形で提示したのは、いわばその総体としてのパロール全集(いまや柳田民俗学の「経典」的存在)。このパロール全集中から果たして、ランガージュ(language)を共有する「郷土」の人々のラング(langue,「辞書」 として、その社会集団の構成員のほとんどがその意味を理解し普遍的に運用できる言葉=folkloreの体系)を抽象可能なのかどうか。科学というカテゴリーからは外れるが三大編纂物として群書類従・古事類苑・国書総目録というのもある。そうではなく、柳田の意識の中にあった「科学」(scienceといった厳密なものではなく、やや情緒的な科学的と言うくらいの”科学”)というカテゴリーの内側において、もし可能とすればラングというのは一体どのようなものになるのかを今一度考えてみる事も必要だ。なお、周知のごとく後藤総一郎編『柳田国男研究資料集成』(日本民俗学を樹立した柳田国男に関する研究論文・評論・随想・座談会・著作解題・書評など1000篇以上を第I・II期/全22巻で集成)という編纂物がある。 関連記事 例えば伝統の発明ー郷土研究の時代ー写真で見る旧沼隈郡の昭和10年代-村田家資料中の古写真たち-あの井上通泰が柳田国男の兄貴だったとは

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王子権現について

2019年08月05日 | 断想および雑談
「郷土研究」創刊号(大正2年3月15日発行


高木敏雄「郷土研究の本領」を読むつもりでなにげに次の川村杳樹(はるき・・・柳田がつかったペンネームの一つ。ほかに久米長目といった筆名も使用)「巫女考」の論攷を見ていて思い当たるところが2点ほどあった。一つは尾道渋谷家文書(広島県史・古代中世資料編Ⅳ所収)に「神子(みこ)」の語が・・・。石見守は石井石見守だろか、それとも寺岡石見守(この場合は伊勢宮さんの神主)?まあ文書が沼隈郡神村の土地台帳なので、石井石見守だろ。そうだったとすれば、近世の地誌類の中では神村石井家の祖でどこかの城主ということになっているが、明らかに、この人物は沼隈郡神村の荘鎮守八幡宮神主だ。神子は職掌の「みこ」を言い、三郎衛門と五郎衛門(男性)という人物だったことが判る。 次に「巫女考」の中の「今日の王子権現若王子はほとんど熊野の信仰であるが、古くは八幡にも王子の神があった」に注目。沼隈郡内には王子神社とか王太子宮(備後国一宮:吉備津神社境内にも摂社としてあり)という呼称のお宮さんがかなり目立つ。大阪辺りの旧熊野街道(熊野古道)沿いには一里塚のような感じで「王子」というものが沢山あった。この語のルーツを考えるヒントが川村の論考を通じて得られたような気がする。そういえば風俗問状答書からのネタらしいが「備後福山領では毎年6月と11月の13日に神酒燈明を供え赤飯と膾とで御子神の祭りする」とも書いていた。ここにも柳田国男執筆の福山情報




熊野信仰においては少年あるいは少女の姿であらわされる神としての若王子/若一王子が(、地方社会において)熊野権現を勧請する際に、多くの場合この神が祀られるということはあったようだが、川村杳樹こと柳田国男の言う「今日の王子権現若王子はほとんど熊野の信仰であるが、古くは八幡にも王子の神(若宮八幡ー筆者注)があった」については、美味しそうな話題だったが、やはりわたしの姿勢としてはすぐに飛びつかず、今後とも確認作業を進めていくことになろう。


旧沼隈郡東村・大谷の「王子権現」。『沼隈郡誌』には大己貴(おおなむち)神社。近世絵図には王子権現(平の王子権現)。同様の事例は高須町阿草の王子社で祭神は大己貴(おおなむち)神、ちなみに高須町大山田の大己貴社の祭神は大己貴神&スクナヒコ神で、通称「瘡/かさ神」。



 なお沼隈郡今津村には町上荒神の東隣に伝承上の「若宮」(これとの関係は不明だが地名「若宮畠」)、字「王子丸」に王子社(現在高諸神社境内摂社)があった。


 

『沼隈郡誌』には山手村・郷分村・瀬戸村・金江村(皇子神社)、浦崎村(無記載だが、高尾に王太子神社、検地帳上は字「わうたいし」)、山南村(皇子神社)、柳津村(無記載だが実在)に王子神社とある。現段階では『元禄13年備後国検地帳』は一部をのぞき、その他は未チェックだが、『備後郡村誌』(沼隈郡分)には藁江の王太子(皇子神社は未記載)、田島及び下山田の王子大明神という形で記載。尾道市向島(旧御調郡)には王太子社あり。


わたしは柳田国男の郷土研究をチェックするためにその復刻版の創刊号を読みだしたところだが、東京高等師範などで教鞭を執ったドイツ語教師高木が執筆した「郷土研究の本領」よりも川村の「巫女考」の方が興味深かった。高木は人類学の父フレーザーの名前をあげていた。こちらは後刻、目を通すことにしよう。まあ、たいしたことは書いていなかったように思う。

 

投稿原稿は潤色をさけ、民話・伝承はその地方の方言でと注文をつけている。
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融道玄(1872-1918)

2019年08月05日 | 断想および雑談

融道玄


April 05 [Fri], 2019, 13:19

参考メモ 融道玄に関しては融道男『祖父 融道玄の生涯』、2003.融ら明治期における古義真言僧侶としての宗教史的な評価は阿部貴子「真言僧侶たちの近代ー明治末期の『新仏教』と『六大新報』から」、現代密教23号、平成24,303-325頁。 思想的には融道玄は海外宗教学の紹介に終わった密教僧侶だが、その底流にはscience(唯物)-art(唯心)を論理化する途中で融自身行き詰ったからだと思う。あえて誤解を恐れずに言えばそれをうまく彼一流のレトリックでインテリたちを納得させてしまったのが物/心、水/油、主/客とかといった価値軸上で相反する両極に位置付けられるようなものを統合することを試みた西田幾多郎『善の研究』ではなかったか。 関連紹介記事(執筆中) 融道玄の東京帝大哲学専攻の先輩に心霊研究で東京帝大を追放された福来友吉(1869-1952)がいた。同年代(融は1872年、姉崎は73年生まれ)の宗教学者姉崎 正治とは第三高等中学-東京帝大哲学科と同じコースを歩む。姉崎(高島平三郎と懇意)とよりも朝永三十郎(ノーベル賞受賞の物理学者朝永振一郎の親父)とは昵懇だったようだ。 融道玄は哲学者(東京帝大文科に籍を置いた典型的な明治-大正期の御用学者)井上哲次郎門下(だが、明治30年に東京帝大に迎えられる融より5歳ほど年上の高楠順次郎に原始仏教研究面で薫陶をうけていたようだが、高楠自身からは美術史家のような職に就いたらどうかと言われ、誇り高き融は大いに憤慨)。梵語に造詣の深かった高楠(明治34年開講の梵語学講座では印度古文献=原典主義を推進)から見ればせいぜい英語・ドイツ語あたりでインドの原始仏教を研究していたに過ぎない融道玄などやはりどうしようもなくまどろっこしくとるにたらいない存在に感じられたのではあるまいか。 融は井上円了の哲学館(東洋大学)を媒介として、境野哲、渡辺海旭、加藤玄智、田中治六、安藤弘、高嶋米峰、杉村縦横とつながっていた。彼は高野山に妻帯肉食を持ち込んだ紛れもない”破戒僧”だったが同時に当時の停滞した日本仏教に対する改革運動の有力な推進者の一人でもあった。 『祖父 融道玄の生涯』というのを公立図書館に寄贈したが、送り主からは書評を求められている。わたしは仏教史の専門家ではないのでその辺は丁重にお断りし、代わりに当該書籍を福山中央図書館に寄贈しておいた。


 

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「近代日本における知識人宗教運動の言説空間 ―『新佛教』の思想史・文化史的研究」 The Discursive Space of an Intellectual Religious Movement in Modern Japan : a Study of the "Shin Bukkyo" Journal from the viewpoint of the History of Culture and Thought 科学研究費補助金基盤研究B 研究課題番号 20320016 2008 年度~2011 年度 代表:吉永進一(舞鶴工業高等専門学校)
 

◎融 道玄(とおる どうげん) 生没年 未詳 (1)略歴 広島県福山の生まれ。真言宗僧侶。高野山大学教授。生年・家族構成共に不詳であるが、高島平三郎と同郷であり、かつ融の実家は高島の家の「すぐ向ふ側」にあったという。融の実母が高島家に世話になっていたとしているので、父小田銀八(福山藩の下級藩士だったが、同名の親父は山林奉行、阿部正弘の時代は関藤籐陰らと蝦夷調査に派遣されるなどの、能吏)を早くに亡くしている可能性がある(「他人の疝気」4-11)。 1883(明治16)年から84(明治17)年にかけて備中の寺にいたとあるが、詳細は不明。しかし融の師僧である葦原寂照(1833~1913)が岡山県出身であり、岡山では東雲院や性徳院にあったという(『密教大辞典』)。 1888(明治21)年に第三高等中学校に入学する。当初は宗像逸郎の家に寄宿していたが、その後中沼清蔵の家に移ったという。中沼家には有馬祐政も寄宿していたと回顧している(「山のたより」13-3)。 1894(明治27)年に東京の誠之舎という旧福山藩人の寄宿舎に入り、1895(明治28)年に東京帝国大学文科哲学科に入学。1896(明治29)年頃には本郷台町の北辰館に下宿しており、北辰館では三島簸川と同室であった。またこの頃から釈尾旭邦と交友があったという(「一日一信」8-9)。1898(明治31)年に同大学を卒業。同窓生に朝永三十郎、近角常観、吉田静致らがおり、朝永とは手紙のやり取りを続けていたようである(「一日一信」8-9)。同年、 同大学院に進み「密教ノ教理及其発達」という研究題目で1903(明治36)年まで在籍。 仏教清徒同志会の設立に際して創設者の一人であるが、当時の活動については明らかではない。『新佛教』上には宗教・宗教学に関する論説を多く翻訳しており、この時期にケアードの『宗教進化論』を訳出している。 1909(明治42)年末に、融が高野山大学の教授兼教務主任として現地に赴くことになったことを受けて送別会が行われているが、既に1905(明治38)年頃に高野山の大学林に関係しているような文章がある(「南山の一月」6-2)。なお送別会には同志会の中心的な人物の多くが参加しており、融の同志会における交友関係が窺われる。 送別会の段階で融には既に妻子があったようであるが、1912(明治45)年頃に高野山中の準別格本山自性院にて一家五人で暮らしていると述べている(「山のたより」13-3)。 1913(大正2)年2 月に融の師僧である葦原寂照が死去。葦原が京都高尾山神護寺の住職であったため、融は神護寺の住職となるべく京都に向かったという(「人、事、物」14-4)。 後、同年7 月には藤井瑞枝(=妙頑禅尼)を高野山で案内しており、その際に藤井は融のことを高野山新派の驍将であるとしている(妙頑禅尼「高野山奥の院と融先生」14-9)。なお、この藤井の紀行記において、東寺の総黌(現、種智院大学)に高野山大学を合併するという動きがあることが述べられているが、おそらく藤井の訪高野山後に融はこの問題に関連して文部省に陳情している(「人、事、物」14-8)。 その後の消息は不明であるが、1917 年の『現代仏教家人名辞典』に神護寺の住職を勤めていること、権小僧都であることが述べられており、かつ高野山大学教授として高名であるとされている。 (2)年譜 未詳 広島県、福山に生まれる。生年・家族構成共に不詳。 1883-4 この頃備中の寺(未詳)にいたという。 1888 第三高等中学校に入学。在学時にはまず宗像逸郎の家に寄宿し、その後中沼清蔵の家に移ったという。 1894 「東京丸山の阿部伯爵の前にある誠之舎と云ふ旧福山藩人の寄宿舎に入った」という。 1895 東京帝国大学文科哲学科入学。 1896 この頃本郷台町の北辰館に下宿し、三島簸川と同室であったという。 1898 東京帝国大学文科哲学科卒業、東京帝国大学大学院進学。研究テーマ「密教ノ教理及其発達」。 1903 東京帝国大学大学院に在学していた最終年度(翌年は名簿に名前がない)。 1905 この頃、高野山に滞在して学林に関係していたようであり、日露戦争戦勝祝賀の式を高野山小田原天神で挙げたという(「南山の一月」6-2)。 1909 高野山大学に教授兼教務主任として招かれ、現地に赴くことになる。12 月9 日に神田で送別会が行われ、同志会の主要な人物が集まった(「融道玄君送別会の記」11-1)。 1912 この頃、高野山中にある準別格本山自性院にて一家五人で暮らしているとのこと(「山のたより」13-3)。 1913 2 月19 日に師僧である葦原寂照が死去。これを受けて葦原が住職であった京都高尾山神護寺の住職になるべく高野山から京都に向かう(「人、事、物」14-4)。 7 月に藤井瑞枝(=妙頑禅尼)が高野山を訪れ、融はこれを案内(「私信の公開」14-8、妙頑禅尼「高野山奥の院と融先生」14-9)。 その後(7 月から8 月にかけての頃)上京して文部省に高野山大学問題について陳情(「人、事、物」14-8)。 その後の消息は未詳。 (3)著作 訳書としてエドワード・ケヤード著、融道玄訳『宗教進化論』(帝国百科全書、第128 編)

博文館、1905 がある(原本、Caird, Edward The Evolution of Religion, 1894)がある。

また河南休男、越山頼治との共著で『註解英文和訳辞典』東華堂、1909 年を出している。(4)『新佛教』との関係 仏教清徒同志会の創設者の一人。融道玄、(融)皈一/帰一、(融)希山、(融)友世といった筆名で『新佛教』には70 本近くの寄稿をなしているが、やはり高野山に移った1910 年以降は寄稿が少なくなり廃刊号にも寄稿がない。 寄稿の多くは宗教学に関する論説の翻訳であり、宗教学に強い関心を持っていたことが窺われる。その集大成的なものとして11-1 に融道玄編述『宗教学』という全79 頁の冊子が附録として付けられている。これは融が編述したものであるが、冒頭でチーレ『宗教学綱要』(Tiele, Cornelis Petrus Elements of the science of religion, 2 vols. 1897-1899)、ジャストロウ『宗教研究』(Jastrow, Morris The study of religion, 1901)、プライデレル『宗教哲学』(Pfleiderer, Otto The Philosophy of Religion, 4 vols. 1886-1888)、ケヤード『宗教進化論』(前掲)、マックス・ミュラーの著作などを参考にしたとあり、当時の宗教学受容の一端を見て取る事ができるだろう。 融自身の著述としては、例えば2-5 の六綱領の解説では「迷信の勦絶」を担当しており、「平安時代の日本人は、加持や祈祷をよろこんでをッた。吾々にはこんなことでは満足ができぬ」としている。融が真言宗の僧侶であり、かつ後に高野山に招かれるように宗門との関係を保ち続けていくことを考え合わせると興味深い。 その一方で、「原始仏教と新仏教」(6-7)では『新佛教』で論じられている汎神論を「頗る自由なる進化論的汎神観」であると指摘した上で、しかしそれに基づいた「健全なる信仰」が「果して仏教なるや否やに疑なき能はず」として根本的な疑義を呈しており、同人の間での見解の違いが明らかになっている。 (5)関連事項藤井瑞枝は高野山の紀行文において、融の見かけが高野山の阿闍梨風であるとしながら「これがどうして野山で公然たる肉食妻帯を主張された青年文学士であるなどと思へよう!?」としており(14-9)、かつてそのような主張を公にしたことが窺われる。 また関樸堂は融と田中治六の名を挙げて両者共に学究肌で真面目であると評している(「人物漫評(一)」7-11)。 (6)参考文献 『シリーズ日本の宗教学(4)宗教学の形成過程』クレス出版、2006 年(訳書の『宗教進化論』 所収) 東京帝国大学編『東京帝国大学卒業生氏名録』東京帝国大学、1926 年 『現代仏教家人名辞典』現代佛教家人名辭典刊行會、1917 写真が「新仏教編集員」写真(『新佛教』5-1)内にある。(星野靖二)  以上は全文引用(261-263頁) 同年代(融は1872年、姉崎は73年生まれ)の宗教学者姉崎 正治とは第三高等中学-東京帝大哲学科と同じコースを歩む。 融道玄は井上哲次郎門下(だが、明治30年に東京帝大に迎えられる高楠順次郎の薫陶をうけていたのだろか)。 融は井上円了の哲学館(東洋大学)を媒介として、境野哲、渡辺海旭、加藤玄智、田中治六、安藤弘、高嶋米峰、杉村縦横とつながっていた。後年高楠や高島平三郎は東洋大学の学長を務めた。阿部貴子「真言僧侶たちの近代ー明治末期の『新仏教』と『六大新報』から、現代密教23号、明治維新前後の廃仏毀釈により衰弱していた仏教者の意識を鼓舞し、仏教の近代化に邁進したものとして、大谷派の境野黄洋、本願寺派の高島米峰、浄土宗の渡辺海旭らによって明治三十二年に結成された「新仏教徒同志会」がある。その活動は吉田久一や柏原祐泉といった近代仏教研究者により論究され、綱要である「健全なる信仰・社会改善・自由討究・迷信勦断・旧来的制度儀式否定・政治権力からの独立」の六カ条は、今日でも明治仏教の特徴として語られている。 なかでも同会が特に強く主張したのは、非科学的迷信と利己的欲望に基づく「祈祷」の否定であったが、その「祈祷儀礼の排斥」運動が仏教界全体の主流だったわけではない。少なくとも古義・新義の真言僧侶が、都会で開催される演説会の議論に大きな影響を受けることはなかったと言ってよい。明治期の真言宗は、明治五年の一宗一管長制、明治十一年の分離独立(西部大教院・真言宗・新義派)、明治十二年の再統合、明治三十三年の分離独立(御室・高野・醍醐・大覚寺・智山・豊山)、明治四十年の四宗独立(東寺・山階・小野、泉涌寺)に直面し、これに拘わる内部論争で紛糾していたという事情が大きいだろう ) 1 ( 。しかし、一部の若き真言僧侶―毛利柴庵、融道玄、古川流泉、和田性海、小林雨峰―が、宗団権力と離れたところで、「新仏教徒同志会」として活動していたことは注目すべきである。社会主義者で後に僧籍を剥奪された毛利柴庵以外に、学界で彼らの名前が挙がることは少ないが、いずれも明治三十三年七月に発刊された同会の会報誌『新仏教』において大きな役割を担っていた。 そのうち、融道玄、古川流泉、和田性海は、古義真言宗系の会報誌『六大新報』を創刊して学者や布教師として活動し、豊山派の小林雨峰は『加持世界』を創刊する。」 「○融道玄(皈一、帰一、希山) 融道玄は、これまで近代仏教研究者にほとんど注目されてこなかった。生没不詳であるが、明治三十八年にエドワード・ケヤード『宗教進化論』の翻訳を出版し、明治四十四年より高野山大学の教授となった人物である。「新仏教徒同志会」の評議員として活躍し、『新仏教』創刊号(明治三十三年七月)の「所謂根本義」では、輪廻転生や厭世観を排して中道に徹するべきであると示す ) 4 ( 。また、翌年の「迷信の勦絶」では、「宗教の心髄は、理想を渇仰し発現するにありといってよい。…平安時代の日本人は加持や祈祷をよろこんでをッた、当時の性情には、これでもよかッたのである。吾々にはこんなことでは満足ができぬ。時代の精神といふものがあッて、時代に相応する理想を立てさしてをる…彼等を導いて吾々と同様に時代相応の理想を立てさせようといふのが、迷信勦絶の真意である。」と、迷信祈祷の排斥という新仏教運動の綱要を説明している。 ) 5 ( しかし『新仏教』誌上では、最初期にこそ自らの主義を唱えるものの、その後は西洋の宗教哲学や神秘思想の紹介に徹しており、後述するように、一貫してこの姿勢を保持したわけではなかった。」 tek_tekメモ:「西洋の宗教哲学や神秘思想の紹介」という部分だが、高野山には元東大助教授福来友吉が[物理的検証といった方法論を放棄し、禅の研究など、オカルト的精神研究を行なった。1921年(大正10年)、真言宗立宣真高等女学校長、1926年(大正15年)から1940年(昭和15年)まで高野山大学教授。]


融道男(道玄の長男で医師の紀一の子:精神科医で国立大学医学部名誉教授) 著 『祖父 融道玄の生涯』 勁草書房 平成25年。 この本は書店購入は出来ず、創造印刷 白井担当、TEL 042-485-4466(代)より購入可能だ(¥3000)・・・・実際に読んでみたが、道玄の著書(英語辞書や翻訳書など)や主な投稿雑誌の抄録など掲載するなど貴重な内容を含んでいるが史料としては”融道玄日記”など翻刻されていないなどやや残念な部分が目立つ。本書が融道玄研究の出発点となることを願う。 わたし? ①融と高島平三郎との関係、②融の父祖;福山藩士小田(おだ)家のルーツが芦品郡有地・字迫出身の迫氏で、本姓は小田(『備陽6郡誌』外篇・芦田郡之2・小田家系、『備後叢書・1』、536-39頁)と言う点、そして③融が新仏教運動に参加した当初の思想を曲げて加持祈祷を肯定するようになった経緯:福来の高野山大学への招へいが何か影響していたか否か、以上3点には興味があるが・・・・・・雑誌「新仏教」CDーROM版 下有地の小田氏に関しては『備陽6郡誌・外篇 芦品郡の2』(備後叢書1、536-538頁に系図を掲載)

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高島平三郎と誠之舎(予察) June 26 [Wed], 2019, 16:50

2019年08月04日 | 高島平三郎研究

高島平三郎と誠之舎(予察) June 26 [Wed], 2019, 16:50

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病める国を憂いてこれを医せんとするものは

2019年08月03日 | 断想および雑談

雑誌「広島医学」10-7(1957-7)に「永井潜先生を憶ふ」という特集が組まれている。その中に「利を求めて病を追わざる者は下医、病を究めてこれと闘うものは中医、病める人を知ってこれを癒さんとするものは上医、病める国を憂いてこれを医せんとするものは大医」という東京帝大名誉教授永井潜(一八七六-一九五七)の言葉(医道観)を紹介したのが永井の教え子、沼隈郡高須村出身の医師:三島粛三(丸山鶴吉と同年代、関東大震災時に一家被災、ご本人は東京帝大に提出予定の法医学関係の学位論文用のデータなどを失ったことがもう一つの大きなダメージ)だった。

 

 

この言葉のルーツを最近になって知った。 唐代の名医、孫思邈(そんしばく)の著書『千金方』にある「上等の医者は国を治す、中等の医者は人を治す、下等の医者は病気を治す」という言葉がそれだったようだ。

永井は竹原の出身で,幼少期長谷川桜南を慕って,松永浚明館という漢学塾(明治16-18)で勉強していたときに、高島平三郎(写真は明治18年初秋/旧暦7月撮影、椅子に座るむかって左側の男性が永井に出会った当時の高島)と出会い、その才能を惜しんだ高島が、漢学塾をやめて師範学校付属の小学校に行くように説得。その後誠之館⇒第一高等学校(独語)から無試験で東京帝大医科に入学し、生理学教室の第二代目教授になった御仁。ドイツ・優生学の我が国への導入者として戦前の国家主義に魂を売った医者だが、著書には純粋な医学関係よりも哲学関係のもの,今日風にいえば生命倫理学方面のものが多い。終生高島平三郎を恩人として慕った。永井は岡山県井原出身の日本のビール王馬越恭平の甥に当たり、沼隈郡水呑村出身の帝室制度研究の権威で古典籍研究者(東京帝大史料編纂官・教授)だった和田英松の親族。永井の実弟が河相達夫(元外務省事務次官・・外交政策面では大蔵官僚の池田勇人の後塵を拝す。墓地は福山市木ノ庄町仁伍墓地・河相家墓地)。

 

 

永井潜にかんし,江川義雄『広島県医人伝』(第一・第二)、第一巻分の46-47頁に紹介記事

 


最近永井の医学史研究の集大成『哲学より見たる医学発達史』、杏林書院、1950、1033+20頁の大著を入手した。古書店から届いたがまだゆうパックを開封していない。医学史研究では富士川游がとくに有名だが・・・・
町医者で広島県医学史研究家江川義雄(松永町出身)の場合、永井潜にかんし,江川義雄『広島県医人伝』(第一・第二)、第一巻分の46-47頁に紹介記事。
沼隈郡松永村出身の医者江川は富士川游に比べ永井は医学的業績面でこれはというものはないという言い方をしていたが、それはまったく正しい指摘なのだが、私などには、ドイツの優生学を我が国に根付かせようとした永井の精神(geist)には孫思邈の教えに忠実に足らんとしてちょっと力みすぎた印象を禁じ得ない。

大沢謙二述 東大生理学同窓会編『燈影蟲語』、昭和54年4月復刊(初版昭和3年)。

この本では大沢の後継者:永井について永井先生は恩師をまねて毎日乾布摩擦をしていると編集後記で。昭和53年段階には東京大学生理学教室では東条内閣に文部大臣をつとめた実験生理学の権威橋田邦彦の著書の宣伝を掲載。哲学史と生命倫理(優性思想)方面を主として研究した永井はいまの生理学教室では異端児・あだ花視されている対象か。

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「縄の比喩」のこと

2019年08月03日 | 断想および雑談


ヴィトゲンシュタインの「縄の比喩」とはギアツによれば以下のようなものだ。「縄というものは一本の縦糸端から端まで繋がってその独自性や特異性を定義し何らかの全体をつくっているのではない。重なり合うさまざまな糸が交錯しもつれ合う、一本の糸が終わるあたりに、別の糸が絡み、すべての糸がお互いに緊張を保って複合体をつくりあげ、部分的には途切れても全体的には繋がることになる」。ギアツはそうした糸をほぐし、複合体の複合性、つまり深い多様性を探ることこそ文化の分析が要請されているものだという。


ギアツの言う「縄の比喩」の原文をヴィトゲンシュタインの著書の中で探そうとしたが、いまだに果たせず。


ヴィトゲンシュタインの名言集

⇒「私たちが見ているのは、多くの類似性 ー 大きなものから小さなものまで ー が互いに重なり合い、交差してできあがった複雑な網状組織なのである」は雰囲気的には『縄の比喩』に似ている。

ウィトゲンシュタインにおける言葉の意味と哲学の意義



【メモ】この比喩を使った最初の論攷(1995年福岡アジア文化賞創設5周年記念フォーラムでの講演内容)で、クリフォード・ギアツ(小泉潤二訳)「文化の政治学-分解する世界におけるアジアのアイデンティティ-」、みすず416,1995,2-10㌻(クリフォード・ギアツ、小泉潤二訳編『解釈人類学と反=反相対主義』、みすず書房、2002,44-58㌻に転載)だ。むかし、事のついでに『ヴィトゲンシュタイン全集』の中にちょっと探してはみたのだが、そのときは発見できなかった。小泉はギアツの日本への紹介者として大いなる貢献をした人だ。ただ残念ながら、クリフォード・ギアツ、小泉潤二訳編『解釈人類学と反=反相対主義』、みすず書房、2002に関してだが、英語タイトルはGeertz著”The politics of culture:Asian identities in a splintered world and other essays”,2002という奇妙なものである。講演原稿など所収する形で小泉が「解釈人類学と反=反相対主義」なる独自のタイトル(英語版とはまったく異なるタイトル)のもと編集出版したものだ。本書において惜しまれるのは書名を『解釈人類学と反=反相対主義』とした根拠を説明するような小泉自身による説明が簡単な「注釈」「おわりに」で済まされ、しっかりとした論文解題が付されてはいないところ。Geertz研究者の中から彼を超えるような人は出ないとの印象を振りまいてきたのがまぎれもなく小泉潤二さんだった。

思うに、ギアツとの付き合い方だが、かれは自らの実証研究の至らなかった部分を文化人類学以外の学知(今回の場合は哲学者ウィトゲンシュタイン)を動員して補強しようとした人なので、まず、そうした実証研究中の問題点を洗い出しつつ、誤りを正していくことが先決だ。それが正しいGeertzとの付き合い方。  
ちなみにインドネシア・バリ島のNegara/伝統的小国家(藩国)をTheatre State(「劇場国家」)として措定したGeertzの在り方はビクトリア王朝期における英国(大英帝国)の国政の在り方を論じた.Bagehot(1826-1877)の”The English Constitution”(中公クラシックス『イギリス憲政論』、小松春雄訳)風の切口からインドネシア伝統的小国家Negaraを捉え、そこから透かし見えてきた儀軌を重んじ儀礼的細部に拘る社会的論理を必要条件としながら成立していた(人心を引きつけるための)Rajah/藩王の権威的側面だけをもって、これこそNegaraの本質だとしたもので、私などは、Geertzをかなり真剣に学習してきた人間だが、この人には古今の国家論を正面から捉え直すといったスケールの大きな学知的構えはまったく不在で、逆にインドネシアの離島に閉じこもって重箱の隅をつつくといった傾向が強く、そういうこともあって、Geertzのインドネシア研究には時として大いなる行き詰まり感を覚えさせられたものだ。

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「松永史談会」からのご挨拶 

2019年08月02日 | 松永史談会関係 告知板

永らく活用してきたyaplogが2019年(正確には2020年1月末日)をもってサービス停止となります。 そのためこの度、松永史談会を開業致しました。本ブログにはお引越し分として公開分・非公開分の合計2494記事を収蔵しています。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 


何卒、ご理解の上、今後ともよろしくお願い致します。




松永史談会の関連サイト

松永史談会2019年度8-9月例会のご案内 第一報


1)8-9月例会は9月末に合併させた形で実施


2)7月例会の続編(石井家蔵史料の紹介-④)ということで、引続き石井氏に文化13年改正元禄検地帳控およびその関連簡略村絵図など石井家文書についてご紹介していただきます。


3)開催場所は石井さんのお宅。




松永史談会7月例会案内(第一報)


June 22 [Sat], 2019, 8:04


松永史談会7月例会のご案内(第一報)

日時:7月26日、午後1時。
場所:石井様宅
話題はご当主による「天保11年御公用日記・文化13年改正元禄検地帳控およびその関連簡略村絵図(文化13年)ー石井家蔵史料の紹介(3)ー」/その他の話題:武井節庵に関する追加情報ほか(一例 沼隈郡東村における史料の残存状況及びその研究の進め方→藩政村としての沼隈郡東村の領域構造の解明は比較的短期間に可能)




松永史談会5月/6月例会


May 14 [Tue], 2019, 8:01


松永史談会6月例会

開催日時・場所  6月21日 (金曜日) 午前10-12時、於『蔵』(開催場所については変更の可能性あり)
話題 「近世福山城下絵図」及び「藩領分地図」(いづれも仮題)の研究  
我が国において独自に発展を遂げてきた上記の地図類やその文字情報版たる地誌(郡村誌類・探検記などを含む)を17-19世紀における世界のnatural history(自然史・博物学)やそれと連動した世界経済の歩みの中にどう位置づけうるのか。そのあと、史料自体の表象するところに注目しながら読図作業を試みる。その中ではとくに環境/防災面や権力配置(政治経済+神仏活用=イデオロギー操作)と言う点で福山藩領や福山城下というのはどのような問題点を胚胎しつつ形成されていたのかを解説していく。


 


松永史談会2019‐4例会のご案内(重複)


March 25 [Mon], 2019, 19:42


松永史談会2019‐4例会のご案内

日時と場所
4月26日(金曜日)、午後1時半
3月例会と同じ、東村・石井さんのお宅

晴天時には15:30~16:30をめどに小学校の屋上より「屏風絵に描かれた『遺芳湾』」の実景を展望。

話題 福山の嘯雲嶋業編「備後国名勝巡覧大絵図」について。 





 

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遺跡/遺物を通して見た幕末期に活躍した地方文化人を巡る虚と実

2019年08月02日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
遺跡/遺物を通して見た幕末期に活躍した地方文化人を巡る虚と実
August 18 [Sat], 2012, 15:29
京都大に山路機谷の長男球太郎が寄贈した機谷の著書『白雪楼読史記考文』、『白雪楼史記読本』などがあることを知った。
山路機谷とは・・・・・・。池田春美編『山路機谷先生伝』、1933を通じて少々紹介しておこう。


池田春美 編「山路機谷先生伝、 森田節斎と平川鴨里」

[目次]
標題
目次
第一編 山路家總說
第一節 山路家略歷 / 1
第二節 山路系譜 / 6
第二編 山路機谷先生事蹟
第一節 系出 / 16
第二節 漢學者としての山路機谷 / 16
第三節 勤王家としての山路機谷 / 21
第四節 山路機谷と神社佛閣 / 34
第五節 機谷の公共慈善事業 / 60
第六節 山路機谷の殖産 / 70
第七節 機谷の儉約 / 72
第八節 鐵砲所持不仕證文 / 73
第九節 百姓騷動と岡本 / 74
第十節 豐臣秀吉公遺愛の石燈籠 / 76
第十一節 山路機谷の終焉 / 77
第十二節 機谷の贈位運動顚末 / 83
第三編 森田節齋先生事蹟
第一節 森田節齋の修學 / 85
第二節 森田節齋と江渚五郞 / 85
第三節 森田節齋と吉田松陰 / 86
第四節 森田節齋と岡村達 / 87
第五節 森田節齋と杜預藏 / 87
第六節 賴士剛を送る辭 / 89
第七節 森田節齋と魯三郞 / 90
第八節 吉田松陰と江渚五郞、宮部鼎藏 / 91
第九節 森田節齋と藤川冬齋 / 93
第十節 吉田松陰の入門 / 94
第十一節 節齋姫路侯に仕官す / 95
第十二節 節齋の勤王 / 95
第十三節 節齋の文章三戰 / 96
第十四節 節齋無絃女史を娶る / 96
第十五節 節齋山路機谷に寄寓す / 97
第十六節 節齋の晩年 / 99
第四編 平川鴨里先生事蹟
第一節 平川家略歷 / 100
第二節 鴨里の修學 / 100
第三節 鴨里十四歳にして詩を作る / 101
第四節 鴨里高橋氏を娶る / 101
第五節 鴨里寺地舟里に師事す / 101
第六節 藤江村に開業 / 103
第七節 明治戊辰の役 / 104
第八節 榮進 / 104
第九節 笠岡にて徒に授く / 105
第十節 鴨里佐々木東洋に師事す / 106
第十一節 福山に開業す / 106
第十二節 二兒を送るの辭 / 106
第十三節 翁の晩年 / 107
第十四節 翁山陽に私淑す / 108
第十五節 翁と編者 / 108
第十六節 二竹樓記 / 109
第十七節 鴨石 / 112
第十八節 翁の人となり / 112
第十九節 遺著 / 113
第二十節 自製碑銘 / 114
第二十一節 結尾 / 116
第五編 其の他の事蹟
第一節 山路之保 / 116
第二節 山路嘉兵衛 / 117
第三節 山路亀太郞同妻キヌ / 118
第四節 山路重信 / 119
第五節 山路重敏 / 120
第六節 岡本家監松兵衛 / 121
第七節 山路右衛門七 / 122
第八節 山路康次郞 / 124
第九節 其の他 / 125 (以上、「国立国会図書館のデジタル化資料」より)


かれは幕末期に備後国で活躍した豪農兼社会事業家、やや浪費的なB級文化人(=dilettante)だった。

岡本・山路家は明治24年に没落するが、機谷の友人平川鴨里が昭和3年に、そして昭和6年にはこの池田がこの山路の贈位運動を展開するが、いずれも失敗に終わっている。
断っておくが、ここで参照する池田春美著『山路機谷先生伝』(元版は昭和8年、その後昭和60年に内外印刷・出版部より復刻版)はそういう著者の思いの込められた貴重な自費出版書だ。山路機谷のイメージは『沼隈郡誌』と本書に基づいたものが流布しているが、それはあくまでも彼の一面を捉えたもの。

今は立派な石垣を残すだけとなっている岡本山路家邸跡


彼一族の墓地の現在


荒廃した山路家墓地だが、手前左端の空風輪のない五輪塔が山路氏の祖:山路孫三郎の墓、もとは鞆・南光山にあったが、後代に藤江村の念仏院に改葬したものらしい。墓石の風化度等勘案すると後代のもののようだ。
藤江村の山路家は貞享3年嘉兵衛之勝の時代に、藩主水野勝種より松永湾の独占的な漁業権(藩側からみると漁業を巡る一元的な入漁料=営業税の委託徴収権)を得たらしい。
ここは山路一族の菩提寺・念仏院の墓地だが、墓地の中央に機谷の巨大な墓石(慶応2年に妻が没したときに造立した生前墓)があって、山路氏の祖の墓はその左奥に収まっている。墓石の規模・配列などからも、機谷のやや自己中心(=独善)的な性格というか有頂天と言うかそういう気分が読み取れよう。浜本鶴賓は「家富むも自ら奉ずる倹素、孜孜として自ら鋤犁を把って耕す」(序9頁)と述べているが、藤江村民の大半は間脇(430戸)・名子(13戸)・水呑百姓(104戸)で本百姓は明治4年のデータでは585戸中わずか30戸だったし、庄屋・山路家の墓石の大きさはこの地方の庄屋クラスの水準を大きく超えており、機谷の生き様は、周知のこととされる倹約質素のイメージからは程遠い。
特に化政時代:表山路の嘉右兵衛之保ー嘉兵衛之基、之基の弟で吉本山路の忠平重信(剣大明神に玉垣・雁木などを寄付)ー熊太郎重㉀(岡本山路を継ぎ、機谷と号す、歿年53)以後は、過剰なまでの敬神崇祖の念を抑えがたく、藩権力側から与えられた特権に胡坐をかき、村内・村外に民心とは遊離した形での威信財(社寺仏閣を含む)の建造・整備に腐心した。そのため、いまでは念仏院・柳見堂・大神(だいじん)社は倒壊寸前のものを含め相当に荒れている。福山藩内の溜池築造などの公共工事は藩内6郡あるいは関係する一郡の請負で行われたが、岡本山路家の場合はそれを自前で行い、それが地元では美談として語り継がれているが、それは民衆の不満を予防するための一種のガス抜き政策の所産に過ぎないことだっただろ。
これと比較する意味で福山藩の儒官伊藤梅宇(伊藤仁斎の次男)の墓碑(高さが1メートルにも満たない、中央の板碑型石碑)を掲載しておこう。
牛頭天王か牛神か 山路機谷が建造した港を見下ろせる丘陵の一角に打ち置かれていた。地元の人の話では天神さんの一部で、山路家所縁の大神(だいじん)社にこれだけ移転されなかったらしい。


機谷の息子たちは家を再興するためにアメリカの大学に留学し、長男は中退、二男はペンシルバニア工大を卒業し、ボストンにて兄弟で事業(古美術品販売・・廃仏毀釈で叩き売りに出されていた旧寺宝類をアメリカに輸出しそれを現地で販売)を興したが、失敗し、帰国している。山路球太郎の方は日本に活動写真の映写機を輸入し、福澤諭吉等を興味がらせたらしいが、晩年は親類の備前屋を頼り港町尾道に帰っている。そういえば、江木鰐水の息子:外務官僚の江木高遠が外交特権を悪用した美術品密輸に関わったとして大使館の吉田公使から叱責され、ために高遠は1880年6月6日にワシントンの日本公使館で自殺していた(江木高遠は明治の地理学者:志賀 重昻の恩師の一人)。

参考 今は無き山路家ゆかりのモノたち


山路忠平重信は機谷の父親。山路忠平乗時と言う人物が慶応2年「石州戦争」に出兵し、戦死している(森本繁『福山藩幕末維新史』、131頁掲載の「福山藩戦死者の位碑」参照)。この人物は山路一族の系図には出てこないが、おそらく何らかのゆかりの人物だろう。この山路は調べて見る価値はあるかもしれない。当時は士卒身分の藩兵だけが藩領外の戦に参戦していたが、さてさて山路忠平乗時という不運な青年はなにものだったのだろ。

尾道・浄土寺門前の巨大標柱金石文
松永湾の西岸・山波から見た岡本山路氏の拠点

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