藤井正夫『新涯開発百年史』、1967という本を東京・本郷の古書店で入手した。
この本は序文によると「福山市新涯町開墾百年祭を記念して、発展の歴史を回顧しながら、これらの思い出や、物語、または歌や踊りや行事、さては暮らしのしきたりなどを収録して、『郷土百年の歩み』」を広大福山分校の藤井らがまとめたもの(本書1頁)。
わたしが購入した古書には、
何カ所かにボールペンによる破線が引かれている代物だった。以下、線引きのある頁とその個所をすべて列挙してみよう。
6頁ー 山田家所蔵の「新涯村取設原由御届」
川口村庄屋山田本三郎
7-川口村庄屋山田本三郎は御用達席
9-川口村山田本三郎
川口村 山田熊太郎
12-脚注
2)山田家所蔵文書による
7,8,9)山田家所蔵、明治3年田地売払諸記録
23-図表B)熊治郎
25-山田本三郎が13町歩
第七表 山田本三郎
27-山田本三郎、山田熊太郎、山田本三郎に従って
39-脚注)山田家所蔵
41-上納書上責任者は庄屋山田本三郎
山田本三郎・山田熊太郎
42-川口村・山田本三郎(13町56畝27歩)
44-田地名寄御売払代銀上納書上帳、川口町山田家所蔵
56-(明治31年史料) 証、、山田熙殿、奉公人受状之事
65-川口村の多木家の記録
69-同じ川口村山田家の明治30年奉公人請状
79-明治29年山田熙が初めて試みたと言われ、山田はその他乳牛・錦鯉・家鴨・豚の先覚者的導入をはかって多 大な影響を与えた。山田はまた昭和3年にはアメリカから直接鶏の種卵を取り入れ、岡本吉太郎・高橋源一郎 などと企業的な養鶏を試みている。山田自身の農業経営が成功したとは決していえないけれども、すぐれた先 覚者として地域に大きな影響を与え
断っておくが、資料編(206-300頁)、年表(302-313頁)などには線引きはなし。
さてどんなご仁がこの本に線を引いたのだろか。
赤鉛筆とかボールペンとか使って線を引いている場合、前者は学習段階に、ボールペンは?
この本を消耗品として考え、普通は付箋の添付で済ませるところだが、ボールペンを使って論文でも書いているさなかに手っ取り早く同じ筆記用具を用い目印の線を引いたというところだろうか。それにしても訂正の効かないボールペンを使うなんて、無神経と言うか・・・・。蔵書印が不在だが、脚注の史料名にも配慮しているのでその人物は、やはり何らかの研究者かな~。
いやいや、線引き箇所が川口村庄屋で新涯村に13町歩以上の土地を有した山田家関係にほぼ限定され、新涯村全般への関心や併記されている他者への関心(たとえば6頁の
「米掛りは、川口村庄屋山田本三郎、多治米村庄屋猪原保平」、の箇所では下線部だけ破線が引かれ、同じ米掛りとなった多治米村庄屋猪原保平はマークされていない)が全く希薄なので、自分、あるいは自己のルーツ探しを兼ねた、山田家の子孫(身内)の可能性もある。その可能性の方が大きいかな?!
まあ、どこまでも、何の根拠もない、詮索好きの、わたしの勝手な解釈だ(笑)。
解釈と言うのは、自己認識(自分はそう思うという水準の話)・自己了解のことを差す。この場合、現実にボールペンで破線を引いた人物はわたし自身ではない。わたしとその人物との認識(経験・思考様式)の地平が近似しているとは限らないので、所詮わたしの解釈(『新涯開発百年史』の書き込みを取り上げた遊び半分の解釈)は、そうであるかも知れないし、そうでないかもしれないといった可能性(蓋然性)レベルの話に留まるのだ。わたしと彼とが同じ「知の地平」を共有しているとか、患者(犯罪者)と医者(名探偵)といった関係にある場合には蓋然性は限りなく高くなるだろうが・・・・
「過去」とか「未来」といった象限のモノ・ゴトは概ねその種の解釈の快楽の対象にされるのだが、その解釈の中身は当該の関係性の中で、例えばこの大本営のいうことと狼少年のいうこととの間では信ぴょう性に差が生じてくる訳だ。
参考までに目次を紹介しておこう(省略)。
この古書には残念ながら正誤表がなかった。
正誤表の中身は本書329-342頁部分にある新涯町各家の出身地、入植年次(「入村者名簿」)。正誤表では悉皆的に住人すべての宗派・旦那寺名が付記されたものに差し替えられている。
たとえば五十川義一 深安郡大津野村野々浜、明治元年→、五十川義一 真言宗・大門 円寂寺、深安郡大津野村野々浜、明治元年
本書は巻末に「新涯町の発展を担う人々」として町内27組の各世帯の代表者の集合写真が悉皆的に掲載されているが、マルクスーエンゲルス型社会経済史が専門の歴史家が中心となって執筆した関係で「発展の歴史を回顧しながら、これらの思い出や、物語、または歌や踊りや行事、さては暮らしのしきたりなど」を収録を目指した割には社会文化面での記述が乏しく、地域史としては残念な面が目立つ。マルクスエンゲルス的な経済分析は居住者間の支配従属関係とその中での支配する者(または支配される)の側の動向(対立関係)を浮き彫りにするには向いているが、巻末で写真紹介された「新涯町の発展を担った(普通の・・・筆者加筆)人々」やその祖先たちのことは割愛(省略)されたり、概ね沈黙させられてしまいがちだ。
福山市新涯町は幕末期の福山藩の財政再建策の一環として行われた干潟の干拓事業の結果出現したところで、現在は特産物のクワイ等で知られる福山市南部を代表する生産緑地だ。
最後に差し替え部分(入村者名簿)をすべてご紹介しておこう。この史料はこの地方における新涯入植者の出自の傾向を推定(数理解析)する時の、一つの参考資料になりうるだろうと思う。