- 松永史談会 -

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天野藤男『鎮守の森と盆踊』

2014年09月26日 | 断想および雑談
タイトル:鎮守の森と盆踊、著者:天野藤男、出版者:文原堂書店、出版年月日:大正6

[目次]
標題
目次
鎮守の巻
第一章 鎮守の森と故郷 / 1
第二章 鎮守の森と愛卿心 / 9
第三章 鎮守の森と年中行事 / 28
第四章 鎮守の森と若衆 / 39
第五章 鎮守の森と娯楽 / 63
第六章 鎮守の森と豊年祭 / 81
盆踊の巻
第一章 寺院と愛郷心 / 103
第二章 寺院を中心とする行事及娯楽 / 117
第三章 盂蘭盆会の由来及精神 / 132
第四章 趣味津津たる盆踊 / 142
第五章 理想の自治卿 / 183
第六章 盆踊唱歌及口説集 / 190
小説の巻
一 氏神境内の楽しき団居 / 231
二 寺院と床しき敬老会 / 252
三 幼き思ひ出より / 274
四 鎮守の森の送別会 / 287








社叢と類義語との比較による神社の屋外空間に対する緑地空間概念に関する研究

藤田 直子[東京大学大学院農学生命科学研究科],熊谷 洋一[東京農業大学地域環境科学部造園科学科],下村 彰男[東京大学大学院農学生命科学研究科]

35歳で亡くなった天野藤男(1887-1921 )は旺盛な文筆活動を展開した御仁で、生涯に10冊以上の著書を刊行している。青年団運動や地方青年の啓蒙活動のパイオニア:山本瀧之助の同志としての側面と疲弊しつつあった農村の再生論者(農村問題研究者)としての顔を持つ。児童文学の宮沢賢治(1896-1933)のちょっと前の世代の人物だが、「農村社会学」者のパイオニア:天野は残念ながら世間からはほぼ忘れ去られた存在だ。

これまでに集書した加藤の著書たち。洛陽堂刊が多い。

地方青年団と農村処女会に関する2著書が主著。明治末から大正期の故郷としての農村(=ruralityに関する日本的特質)に関して包括的な論究を行った人物だが、今日的にみると私的には『鎮守の森と盆踊』と『農村と娯楽』に関心がある。

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婦女新聞(明治33-38年)

2014年09月13日 | 教養(Culture)
福島四郎が発行した週刊『婦女新聞』の創刊号から5年間分の復刻版だ。
長野で生まれた高島平三郎の長男:文雄の生後1年8か月頃の動静(=行動)を母親寿子が文雄の視座から記述した(観察)日記が連載されている。
ざっと見たところ初回は明治30年2月14日の記録で「婦女新聞」72号(明治34年9月23日)に掲載。以後第105号(明治35年5月12日)まで25回ほど連載されている。幼児の日常を記したもので山上憶良モードのまことに取り留めない内容だが、江戸時代とは異なる新しい子供に対する視線が何となく新鮮だ。
記事自体は読者からクレームがついたか、執筆者本人がその親ばかぶりを自覚したか、あるいはその他の理由で「断ち切れ」状態になり終焉。
「文雄日記」は本紙における育児日誌の最初のものではなく、明治33年8月27日(「婦女新聞16号」)にはすでに玉成綱(福島四郎の友人)の名前(ペンネーム)」で「小児発育日記」が登場していた。この話題は福島の執筆依頼に答えたものらしい。
玩具の話題で高島が記者訪問を受けているが、長男文雄に与える「おもちゃ」のこととも関連して、世界中のおもちゃを収集してみたいとの抱負を語っている。この頃の高島の場合、小児の研究対象として長男文雄の存在がとても多きかったことが判るのである。高島の偉いところはわが子の事例を小児一般に止揚する研究者としての客観的な目というものを同時に作動させていた点だろか。


高島平三郎執筆の記事が散見される。この時期は児童心理学の一大ブーム期であったようだ。

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東京帝大教授永井潜の講義内容(大正3-4年度)

2014年09月03日 | 教養(Culture)
1914-15年度の東京帝大医科での生理学講義のノートで、永井は40歳。丁度助教授から教授に昇進する時期のもの。ノートの持ち主は戦後労働基準法の制定に寄与し、昭和25年5月24日58歳で死去した東京大学医学部教授(労働衛生→公衆衛生)石川知福のもの。公衆衛生院時代は環境生理学部門のトップを務めた。まさに永井潜の直弟子の一人だったのだ。一年間の講義ノートの分量が凄い。永井の講義も一年間で一冊の著書分のボリュームの代物だったようだ。私の経験では大学ノート2~3冊分(プリント配布の場合はクリアーブック60枚一冊)が一年分だが、こちらはボリューム的にはその数倍、大学ノート10冊超/年分はあるだろか。

大学ノートのままではなく製本されているが2冊で厚さ13センチ。下側の小型の方には順序正しく付箋が張られており、これら講義ノートが生理学の教科書として折に触れ参照され活用されていたことが伺える。



学者向きの優秀な学生は共通して几帳面。石川はその典型。
むかし、鎌倉にある県立史料館にて外務大臣となる陸奥宗光のアメリカ留学時代の講義ノートを見たことがあるが、彼の場合は毎日講義ノートを家で清書していたようだ。無論講義の中身はすべて英文。明治時代の留学生たちの学力の高さには敬服させられたものだ。横文字の多さではわたしの時代(1970-80年代)の講義でも見受けられたが、東京帝大学生だった石川のドイツ語の力にも舌を巻く。明治・大正期には口述本が数多く書籍として活字化され出版されているが・・当時の東京帝大(医学)生の筆記能力の高さには脱帽

永井は明治18年ころ、松永の漢学塾浚明館(長谷川櫻南館長、石井竹荘設立)で神童といわれた。ここで松永小学校の教員だった高島平三郎と出会い、漢学塾から広島師範付属小学校へ転校。以後誠之館から第一高等学校(ドイツ語専修)、無試験で東京帝大医科に。


永井の講義風景(昭和10年)、手前最上段席の学生はノートも取らず居眠り状態


昭和10年 東京帝大を退官する前年の肖像(医学部長)


昭和6年会の面々の卒業記念写真(銀座有賀写真館製)、中央の学長の隣に生理学教室の橋田邦彦(後年文部大臣)、その右隣が学部長の永井。


永井の科学的生命論・・・・・永井は実のところ当時わが国最高の哲学者の一人でもあったことが判る。


橋田の贐の言葉は西田風で禅問答の文句そのもの・・・・意味不明


永井の教え子の一人に小野田寛郎の兄貴:敏郎がいた。かれは卒業アルバム制作委員会のメンバーであり、第一高等学校出身の指導力抜群の医学生だったようだ。ポジショニングで前列中央に小野田敏郎(1911-2012)



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