- 松永史談会 -

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森鴎外の小倉時代

2021年06月24日 | 断想および雑談

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元禄11年備後福山城請取絵図」を探してみよう⇒ヒント:分類としては「城絵図


「従大坂至長崎海岸之図」


航路図だがこの程度の正確/不正確さだ。ことに沿岸地名はヒラカナか、漢字。漢字表記の場合半ばは当て字。「えび」は尾道市浦崎町海老。「阿斧兎」は阿伏兎(あぶと、船乗り達の観音信仰の霊場)、鞆には赤字で「湊」と表記、赤線は航路表現。浦崎半島から分離した島状態の「戸崎」。「新庄」/「藁江」は中世荘園名だが、後者は藁江荘を意識した表記か、浦崎半島にまで及ぶ。湊としての「藁江」の代表的用例は『兵庫北関入舩納帳』(室町時代に摂津国に存在していた兵庫北関の文安2年(1445年)1月から翌年1月までの1年余りの入船及び関銭賦課の記録)中のもの。そういう点を勘案すると記載場所から考えて「新庄」は内陸部にある新庄村=沼隈郡本郷村ではなく、間違いなく湊としての「新庄」=(中世の)つるぎ浦(沼隈郡松永村・柳津村境、現在は福山市柳津町西組)を念頭においたものだったろう。藁江が浦崎半島部に記載された関係で「藤江」の位置は誤って松永湾の外側へズレ込み。「草深」の背後の山(標高438㍍の熊ヶ峰)は海上から山を目標にして船の所在を知る〈ヤマアテ〉用に表現されたものだろうか。「浦上」という地名は心当たり無し(「浦崎・上組」のことか、場所的には常石寄りの浦崎・灘組だが)。モモ(百)島の西隣に無人島を意味する朱筆で「かしま/加島」。
本航路図ではこの程度だが、別の航路図の場合沿岸地名は当て字による漢字表記が目立った。参考までに寛永10(1633)年備後国絵図の沼隈半島~松永湾岸~尾道・三原方面の海岸線。なお、本絵図中の芦田川の流路はかなり間違いあり。

ところで地図の史料批判としては森鴎外の日記(『鴎外全集』35巻)でも見かけた。11月27日と29日条だ。


この日記には鴎外の第十二師団(小倉)軍医部長時代の2歳年下の部下だった沼隈郡浦崎村出身の軍医高橋直門(槇山高橋六兵衛家の分家:古川高橋氏)に言及した箇所があるらしい⇒ちょっと調べてみたところ「小倉日記」(明治34年1月19日分)に「高橋直門予等を偕行社に饗す」という一文を見かけた。偕行社現在の北九州市小倉にあった陸軍将校の社交場。
小倉偕行社@旧岡山大学池田文庫蔵「豊後小倉城下」図⇒現地比定(現在はアップル製品修理サービス所など立地

小倉偕行社の建物

さらに明治34年8月29日分に「高橋直門来話す。曰く五弓久文晩年中風にて書を作ること能わず。述作皆人を傭ひて写さしめきと。潤三郎書を寄せて曰く。寛永9年板ちんてき問答一冊及・・・・」。書画骨董品の話に及んだらしい。機会をみつけて悉皆的に調べてみることにしよう(鴎外と陸軍一等軍医で小倉市西紺屋在住の高橋直門との接点は小倉時代のみ。小倉時代の森鴎外についてはこちら)。
【メモ】39歳当時の鴎外は心理學に関心をもち、自らもその勉強をしていた。井上円了の哲学館からの講演要請、井上の「妖怪学講義」販売の話題、軍医監でありながら小倉時代(12師団に左遷中)は仕事(12師団実施の徴兵検査の監督のため北九州~中国地方西部を巡回)の合間に九州地方の先賢の故地探訪(鴎外は大のcemetery tourism、掃苔 そうたい=墓巡りが趣味)を積極的に展開、柳田国男の兄貴:医者の井上通泰の話題時々(井上は東京帝大医科卒で、鴎外の生涯の友)。

絵図分類名:交通図
豊前小倉沖軍船航海図
瀬戸内海絵図・・沿岸地名は当て字が目立ち間違いも散見される(例えば百貫島を伊豫国/備後国にダブって図示、備後国側の百貫島といえば鞆沖合の別称「弁天島」only)。

森鴎外の伝記小説『伊澤蘭軒』には福山藩士の息子浜野知三郎らが史料収集面で随分協力した。



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松永史談会6月例会中止のご連絡

2021年06月09日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会6月例会中止のご連絡

緊急事態宣言下で県下公共施設も休館状態(6月20日以後、6月末迄)であり、当会も6月25日開催予定の松永史談会6月例会(於今津交流館)は中止と致します。
6月29日 沼隈郡松永村役場関係明治初期史料撮影(約1500コマ)済み
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