- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

河本亀之助死後の洛陽堂

2018年12月30日 | 河本亀之助と東京洛陽堂
国井通太郎『救いを要する人々』、洛陽堂、大正10年  


国井通太郎は新渡戸稲造 『人生雑感』 国井通太郎 編、講談社〈講談社学術文庫 611〉、1983年8月。ISBN 4-06-158611-4。 - 新渡戸&國井編(1915)の再刊。に関わった人物だが、戦時中は地元で地域社会のために働いた人らしい。若いころは新渡戸稲造の感化を受け、クウェカー教に傾倒したこともあったようだ。その辺りがキリスト教との関係を深めつつあった当時の洛陽堂との接点を作り出す契機となったのだろう。
洛陽堂から上梓された国井通太郎『救いを要する人々』は博愛主義乃至はキリスト教社会主義系のものだ。この路線は早稲田大学の帆足理一郎と昵懇だった河本哲夫経営の新生堂に引き継がれていく。

参考までに、当時洛陽堂が手掛けた国家主義者の出版物:
上杉慎吉『暴風来』洛陽堂、大正8
右を向いたり、左を見たり・・・。国井通太郎の本書などは、早稲田史学の津田左右吉『文学に現われたる我が国民思想の研究』 洛陽堂、1917-21 /を出版した後、出版社としての洛陽堂のおやおやぶりを象徴するような出版物だという気がする。




大正10年当時の洛陽堂刊の修養・キリスト教関係図書


国井通太郎に関しては年譜が
町政雑記 : 抄 3 (1946年-1947年1月)
国井通太郎 著

発売: 茨城図書;国井通太郎略年譜: p316~320

[目次]

町政雑記 抄三
昭和二十一年(承前) / 221
第四輯(昭和二十一年七月) / 247
国井通太郎略年譜 / 316
解説 国井信義 / 321
にあるようだ。

新渡戸稲造の『人生雑感』は新渡戸著『自警録』、『武士道(Bushido The Soul of Japan)』と共に当時の修養関係の思想書として読むに値する作品だろ。そういう意味では高島平三郎とか西川光二郎などは歴史的使命を終えた人たちだ。
むろん新渡戸『武士道』については問題がないわけではない。
ただ本書執筆の時代背景:日清戦役後の日本に対する欧米の関心の高まりの中で、西欧人の疑問(日本人の倫理観のベースにあるもの)対する、新渡戸の構築主義的(日本人の道徳意識が実際にどうであるかという本質主義な立場ではなく、日本人の道徳意識のベースに新渡戸流の武士道観を持って来るべきだといった立場:構築主義的)考え方を、西洋人に理解可能な形で論理化したという性格を有する書籍だという面は押さえておく必要があろう。



『武士道』オリジナル版の目次


昭和13年 新渡戸の高弟:矢内原忠雄訳の日本語版『武士道』











新渡戸稲造全集 教文館
全25巻

第1巻  武士道 東西相触れて

第2巻  農業本論 農業発達史

第3巻  米国建国史要 建国美談 ウイルリアム・ペン伝

第4巻  植民政策講義 論文 時評 そのほか

第5巻  随想録 随感録 偉人群像

第6巻  帰雁の蘆 内観外望 西洋の事情と思想

第7巻  修養 自警

第8巻  世渡りの道 一日一言

第9巻  ファウスト物語 衣服哲学講義

第10巻 人生雑感 人生読本

第11巻 婦人に勧めて 一人の女 読書と人生

第12巻 「Bushido, the Soul of Japan」 「Thoughts and Essays」

第13巻 「The Japanese Nation」 「The intercourse between U.S. and Japan」

第14巻 「Japan:Phases of Her Problems and Her Development」 「The Japanese Traits Foreign Influences」

第15巻 「Lectures on Japan」 「Reminiscences of Childhood」 「What the League of Nations Has Done and Is Doing」 「The Use and Study of Foreign Languages in Japan」 「Two Exotic Currents in Japanese Civilization」 「Lao-Tzu and Kojiki」

第16巻 「Editorial Jottings」

第17巻 日本国民 日米関係史

第18巻 日本―その問題と発展の諸局面 日本人の特質と外国の影響

第19巻 日本文化の講義 国際連盟の業績と現状 日本における外国語の効用とその研究 幼き日の思い出 日本文明における外来の二潮流

第20巻 編集余録

第21巻 日本土地制度論 随想録補遺 札幌農学校 泰西思想の影響 日本の農民解放 中国は共和国になれるか 日本の植民 日本における国際連盟運動 日本の経済と財政

第22巻 「フレンズ・レビュー」寄稿文 「インターチェンジ」寄稿文 英文大阪毎日寄稿文 宮部金吾宛書簡 エルキントン家宛書簡 H.B.アダムズ、W.E.グリフィス、A.C.ハーツホーン、R.S.モリス、W.H.フォーンス、N.M.バトラー、M.E.ドイッチュ宛書簡

第23巻 第21巻、第22巻の英語原文 編集余録の未収録原文 宮部金吾宛書簡の新資料「6通の原文と翻訳」

別巻1  新渡戸博士追憶集

別巻2  月報・新資料



明治32年刊行の横山源之助の名著『日本の下層社会』 は当時の東京在住者を捉え、華やかに栄える東京だが、生活に苦しんでいない人は少なく、貧民が多数派だとしてその具体相をルポしたもので国井通太郎の本書に先立つこと20数年だ。帝都のもつ社会的病理については雑誌『都会と農村』洛陽堂刊で丸山鶴吉らも指摘していた

大正11年当時の洛陽堂の出版目録

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おやおや やっぱり-松永地区における宅地造成時の石炭燃焼滓利用状況調査-

2018年12月21日 | 断想および雑談
この間から線路わきの斎藤商店倉庫の敷地(本郷島旧鞆往還北側)を更地化。本日はその作業現場に潜入取材だ。目的はもちろん製塩業から排出された産業廃棄物:石炭燃焼滓(炭ガラ/石炭ガラ)の有無の確認だ。


場所はこちら
となりはかつて松永小学校敷地のあった土地の西隣だ。道路を隔て斜め向かいには大正期まで沼隈郡役所があった、そんな場所だ。



この写真を取るために作業現場に近づいたが、石炭燃焼滓独特の臭いが立ち込め鼻を突く。





本郷島の明治~大正期にかけての町場形成は産業廃棄物としての石炭燃焼滓を埋立用土として使うことで成し遂げられていたことが確認できた。これまで町内各地の埋立用土を調べてきたが、どうも松永町内の戦前からの市街地(正確に言えば宅地化された場所)の地下には、東京都の豊洲埋立地で問題(この地域での土壌汚染は、かつての石炭から都市ガスを製造する過程において生成された副産物などによるもので、7つの物質:ベンゼン、シアン化合物、ヒ素、鉛、水銀、六価クロム、カドミウムによる、土壌及び地下水[六価クロムを除く]の汚染が確認されている)になったような石炭燃焼滓が大量に存在しているという点だ。断わっておくが、石炭には成分比に差こそあれ,必ず微量成分として土壌汚染対策法で規定する重金属類9物質を含む重金属が含まれている(一般財団法人環境イノベーション情報機構HP)。
科学的調査の結果を待っていうべき事柄ではあるが、問題は広範囲にわたり、相当に深刻そう


火力発電所の土壌汚染
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岡本山路氏(忠平・熊太郎父子)が建造した「王城楽土」の今

2018年12月16日 | 断想および雑談

今日は近くに行ったついでに岡本山路氏(忠平・熊太郎父子)が建造した誠にささやかだった「王城楽土」の今を訪ねてみた。この親子は京都などで勉強をし、沼隈郡内では並ぶものなしの豪農の子弟として、教養と共に散財することも覚えてしまったのか、文化交流(道楽・社交/信仰)の場を盛んに藤江の地に移植・建造し、近在近郷の村々に対しても様々の施設や物材等を奉納・寄進(ある種のheroic consumption /英雄的消費)した。

テレビのアンテナ(山路一雄の夫人が平成3年まで居住)。念仏院跡。




背後から見た山路家墓地・・・山路家の系図との照合作業を行うと何かが判ってくるかもしれない(わたし?当面予定なし)。
幼児死亡率高さが判る風景だ。


おやおや手向けられた菊が・・・打ち捨てられているぞ こりゃ烏の仕業だぁ?! 地元には山路家ゆ・かりの家筋の人がたくさんいて、山路のことに関しても一切沈黙を守るというのがこの部落の暗黙の了解事項のようだ。地域活性化のためにとか、何とかいう理由ではなく、唯々後世の為に、文化財とか文化資源のたゆまぬ保存発掘の努力を期待するばかりだ。町つくり協議会名で阿弥陀寺には啓蒙所(1872-1882)という石柱(2003年建立)が建てられていたが、廃墟がすっかり整理された栁見堂跡には山路家の個人のものとみなされたのかそれを記した標注は不在


山路一雄一家は東京より、疎開で、念仏院脇の小さな建物に住んでいた。この一雄氏が寄贈した山路機谷家資料は尾道市立図書館にある。数量的にはかなり少ない。『未開牡丹詩』関係のものとか森田節斎監修の史記研究書などが主なところ。なお、この方面での、わたしの山路機谷研究はすでに終了している。


巨大な山路機谷夫婦墓の墓誌。岡本山路家墓地の中心に自分たちのジャンボな墓石を配置。これは機谷の考え方とか人柄を反映したものだろうと思う。なお、夫人ミチは多くの文化人を輩出した旧沼隈郡山南村の名門・何鹿桑田氏(桑田次郎兵衛遜学の妹、広島に嫁いでいたが、離縁し(一説には離縁させられ)山路機谷=熊太郎重済と再婚したもの)。慶応2年11月はミチの外にも親族の不幸が相次いだ。
書字は宮原潜叟(節庵)

亡き友機谷の死を悼んで作った坂谷朗蘆の漢詩(屏風写真の向かって左端)を今津町のMさん宅で見たことがある。


機谷処士夫婦碑(生前墓)

意地悪く福澤諭吉(旧旧福山藩阿部家家令岡田吉顕の青年時代からの知人)のと比較しておこう。諭吉の墓は本堂脇。明治30年代のものとしては普通サイズ。
柳見堂(やなみどう)。こういうものは世話人「松兵衛」名義で山路機谷が建立した。現在は再建された荒神さんだけ。数年前まで廃墟状態のお堂が立っていた。このお堂から北側に大神社(だいじんしゃ)。僧侶の墓が4,5基(安永の年号が彫られたものがあった)


柳見堂跡地より見た太田神社&之保社の社叢林。




阿弥陀寺(安芸国海田の出身の僧侶:蘆萩が開基)境内の石塔。隣の神社(荒神さん)には新しい注連縄が張られ、この石塔には菊が手向けられていた。おなじような菊はこちらにも


阿弥陀寺は管理人を務めてきた神原さんが高齢でリタイア。いまは今津・蓮花寺(広田さん)が管理。


阿弥陀寺@御堂山
山路家の番頭:松兵衛の墓所・・数年前に墓じまい。あり。在りし日の生田(松兵衛)家墓地


中央に之保神社の祭神:山路之保墓・・・岡本山路家家の墓石はサイズ的には福山藩の家老クラス。尾道辺りの豪商の墓石など舟形光背墓だが相当にジャンボ。


之保墓の墓誌、塩田開発・帆布生産の奨励など民生面で尽力した人物だったのだろう。今日地元住民が20人くらいが「之保社」の祠に注連縄を掛けていた。新年に備え町内の注連縄をすべて架け替えるとか。但し太田神社はしないらしかった。之保という人物は桑田家の出らしい。あとで『沼隈郡誌』で墓誌銘全文を確認しておこう。写真の正面の大きな拝殿が太田神社(旧黄幡社)、向かって左側の小さな社が山路之保を祀った之保社。


こちらは機谷のお墓に比べるとかなり小ぶりの山路機谷の親父山路忠平(重信,鳳鳴)墓。山路家墓地ではご先祖を敬うというよりも万事、自分(=機谷)が中心で、それは間違いなくこの人物の意識の反映とみられる。なお、親父山路忠平の墓誌は彼の恩師、江戸後期に活躍した儒学者篠崎小竹(大坂在住)


山路機谷の息子:延太郎墓墓誌は森田節斎撰



矢印辺りが作田高太郎家の旧墓地

森田節斎夫婦が滞在した居宅は岡本山路屋敷の東にある溜池脇付近だった。


讃岐地方の名族・山路(山地)氏のルーツに関しては香川県多度津町内、(旧)白方村史編集委員会 編『白方村史』第三章、1955に詳しい。白方は丸亀平野西端・弘田川河口部/屏風ヶ浦一帯に立地。

「山地氏は系図によれば、敏達天皇より出る橘姓楠木氏流楠木正成の三世孫正則は十津川に居ること十余年、後ここを出て讃岐に来たり香川と氏を改め、後細川管領に属して氏を山地と改め、延徳元年三月廿一目卒した。その子元弘は山地左衛門督と称し、後土御門天皇の御宇、将軍足利義尚の文明年間讃岐に生れ、多度郡東白方に住し、細川管領に侍るその子元正は山地右京進と称し、文亀年中東白方邑に住し、細川管領家に侍り澄元の一字を賜い、多度郡東西奥三白方、那珂郡今津津森中府、三野郡庄内八箇村及び豊田郡伊吹島を領した。」→讃岐守護細川氏被官(守護代香川氏)。応仁の乱頃、伊予国弓削島荘に乱入した記録あり。

すなわち、東寺百合文書 『日本塩業大系史料編』古代・中世一 〔弓削島庄押領人交名案〕に
一、弓削島押領人事、①小早川小泉方、③能島方、②山路方此三人押領也、此三人内小泉専押領也、以永尊口説記之、寛正三年(1462)五十七。
橋爪茂「室町期讃岐国における港津支配」四国中世史研究(2)、1992
別伝では南朝方の北畠氏一族の子孫だというもの。菅茶山は藤江山路氏を「南朝ノ遺民」と詠っているが両伝承共にそれに合致した内容ではある。



本日の収穫
藤江一番・賀佐屋大本家の井戸、藤江の井戸はすべてお金のかかるこんな感じの石井筒。






金江の「樋之堂跡」


山路之保らによって造成された藤江新涯、の樋門




才戸川の樋門


才戸川の潮留(河床の段差部分・・・海水の遡行終点はこの潮止より100メートル程度上流側)




山路理解の面では中山富広『近世の経済発展と地方社会』、清文堂、2005が参考になる。
山路鳳鳴・機谷らは「敬神崇拝の念が篤く、藩主には忠誠、庶民には仁恵を尽くした」(中山、70頁)といえるのであろうか。

 

 

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松永史談会12月例会のご案内

2018年12月09日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会12月例会のご案内

12月14日(金曜日) 午前10-12時
場所:『蔵』の二階

話題:「福寿庵」と「金堀堂下池」ー地名が物語る土地の歴史ー


















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『自白法鑑』の序文?!

2018年12月06日 | 断想および雑談

人生の最晩年、てか死を悟った本荘重政が当時の心境をつづった序文だが・・・。
「予が倅悔ゆべし」と序文の前段で書いていた。息子自身が過去に犯した過ちを自ら悔いなさいというものだ。その点に関しては親として自分としても責任を感じていたのだろう。本庄自身「我もまた悔いてかくなむ」と。これに続けて、子として親の死体を路上に遺棄したりしていると世間から嘲笑されることにもなりかねないとの危惧の念までも記している。本庄重政父子の間には終生解消できない大きな心の溝(=わだかまり)のようなものが横たわり続けていたのだろうか。
それにしてもこんなことを書き残した親父本庄重政を息子はどういう思いで受け止めて来たのだろう。傷ついただろうな~。参考までに津田永忠の場合、馬鹿息子八助永元(梶坂左四郎)には大いに手を焼かされている
こどもの世話にもならぬ孤高の晩年状態にあったことを感じさせる内容で、文章全体は上手くはない(=ぎこちなさすらかんじさせる)が力み少なくやや自嘲的ともとれるユーモアが込められている。本荘は自らの戒名を定め逆修塔を建てて亡くなった訳だが、自嘲的ともとれるユーモアという点に関して若干付言しておくと、自分の死後を他人に託せないという自分でもどうしようもない本荘の性分(本荘自身が多用した言葉で言えば「妄想心」)が心理的な反動形成としてそういう表現を選ばせたとしか思えない。
平仮名で書かれたことには読み手を意識したちょっとした配慮とか、いな逆に何か深い意図が込められているとかそういう部分があるのだろうか。戒名は如風院澱前本庄憐情露石居士(大居士にあらず)。如風は禅的な響きをもつ語だが、自分がそうありたいと願う理想の境地を示したものだろか。高橋景張の戒名「風月庵・・・・」も同様。






ひとまず誤植からはじまって、誤解の有無をチェックすることが先決・・・・原史料には当たっていないが特に問題はなさそうだ。

『松永町誌』366頁。

この文章は「書き集めて置きあらわせる反故」と謙遜表現をした本文=『自白法鑑』の序文とされてきたものだが、序文自体は逆修墓を建てた時の心境を吐露したものと考えた方がよかろう。
『自白法鑑』の文体とはかなり懸隔がある。

自白法鑑


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重森 賴山陽の風景観批判(変・妙・絶・佳→賴山陽の風景に対する美意識はありふれていないこと、つまり珍しいもの=特化係数の「特大」に注目、本庄重政のいう「変」・「妙」は詩語 or NOT)

【メモ】全然関係のない話に飛ぶようだが、本荘重政の子孫に関しては『沼隈郡誌』中の浜本鶴賓の説明で納得するか、一大決心をして自分で徹底的に追究するかだが、私のように無関心のままでいるという第三の選択肢もありだ) 
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この水路表現は

2018年12月02日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
松永村古図に描かれた悪水に接続した水路表現の断片(β)。その正体を突き止めた。
結論的にいえば神村羽祢尾池(https://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/212382.pdf#search=%27%E7%A5%9E%E6%9D%91%E7%BE%BD%E7%A5%A2%E5%B0%BE%E6%B1%A0%27)方面から流れてくる余水が悪水に流れ込む流水路だった。



東島地区では千間悪水の北側と南側とでは写真に示したように、コンクリートブロック2,3段分(50センチ)程度高低差があることが判ろう。


羽原川にある千間悪水の取水口。河床に汐留用に長石が置かれている。この地点一帯が本庄重政が湾岸干拓を行った近世初期からの潮汐限界点に当たる。国道2号線下の河床はコンクリートの壊れ方から判断して若干低下が見られる。

国道二号線脇の古い民家の集積地、ここが「おややの鬼火伝説」に登場する三原(小早川以後、入部してきた福島氏の一族福島丹波の居城のあった当時の三原ヵ)から連れ戻されたおやや達の上陸地:地福地(ちふくじ・・・鬼火伝説では「血吹く地」として流布?)。当時の海岸線のあった辺りだ。そのすぐ陸地側に千間悪水の取水口があった訳だから地形学的には理屈は通る。
β一帯は悪水の南北で地面高に50センチ程度の高低差があるので、微高地を形成するβ一帯と例の斜交地割との関係性は今のところ不明。この種の斜交地割あるいは斜め通路はすでに言及済みのことだが西町(元禄検地帳上では字「悪水賈上」)にもあった。



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RE)宮原直ゆき(ゆきは人偏に知識の「知」)(1702~1776)筆「松永図」

2018年12月01日 | repostシリーズ
宮原直ゆき(ゆきは人偏に知識の「知」)(1702~1776)筆「松永図

どちらが誤っているかは簡単に解ることだが、宮原直ゆき(ゆきは人偏に知識の「知」)(1702~1776)筆「松永図」中では悪水が立入川に接続する南北の2水路と交差する場所に樋門が描かれ、松永村古図のケースと大きく異なる。

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