- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

教育研究所 編「児童研究法」(児童研究文庫 ; 第2編)、明治33

2014年06月25日 | 教養(Culture)
書名は隷書体。隷書体といえば右文館刊『教育的心理学』がそうだった。



②教育研究所 編「児童研究法」
[目次]
目次
第一部 家庭に於ける児童研究
第一 児童精神発達誌に関する注意 / 1p
第二 児童観察の要項 / 5p
第二部 学校に於ける児童研究
緒論 / 84p

児童研究文庫 ; 第2編
明治33年、右文館



河本蔵書の印。河本が「かわもと」なのか「こうもと」なのか判然としないが・・・・。明治41年の日本児童学会名簿には日本女子大の学生に「かわもと(河本)」という女性がいる。この蔵書印がいつ押されたものなのかということも判然としないのだが、かりに明治33年に本書が刊行された直後に押されたとすると・・・・・。「こうもと(河本)」の可能性も・・・・・ある。押印の場所が見返し部分とか遊び部分等の目立った所ではなく、「帝国図書館」と同じ、本文の最初の頁なのでかなり特徴的。こういう類の本に蔵書印を押す個人の神経がわたしにはよく理解できないのだが、ま、まさか・・・・・・この「河本」とは高島平三郎の近隣にいた集書家だった河本亀之助?
それは分からないが、亀之助は蔵書を売って洛陽堂の創業資金の一部に充てたらしい。

それはそうと・・・・
いやはや綴じ部分が割れ、緩み、製本しなおさないといけない状態の古書だった。本書は児童研究の方法を具体的に例示した我が国最初のものだ。

内容的には新生児の育児記録(児童精神発達誌)が大部分を占めている。高島平三郎の長男文雄の育児記録(「文雄日記」)が福島四郎経営の「週刊婦女新聞」(明治33-昭和17年)に掲載されたのが明治34年~35年度(25回)ということもあるので、記述内容面での両者のチェックをしてみる必要がありそう。





婦女新聞での育児日記の公開は高島が最初ではなかったが、「文雄日記」などは、親側の育児の姿勢とか親の子供に対する眼差しを転換させる役割を果たしたんだろうか。
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帝国通信講習会 文科講義録 明治31

2014年06月22日 | 断想および雑談





明治34年段階の心理学担当講師は塚原孝次(→広島高等師範教授)へ。高島の夏期講習の講義は大変な人気であったことが想像される。

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ティーデマン氏「児童観察録及びその批評」、明治32

2014年06月21日 | 断想および雑談
①高島平三郎・塚原・松本らが設立した教育研究所が明治32年出した翻訳書


松本らが中心となって翻訳したものであるか、否かを含め、後日検討予定。



「・・・そもそも児童を精確に研究せんとせるはドイツを以て始めとす。1782年「マールブルグ」の哲学教授ディートリッヒ・ティーデマンが『児童精神の発達』を著はせる。これ小児童研究の嚆矢にして、この書はフランスの「ペレー」氏が『ティーディマンと児童学』と題する著書を、1881年において公にしたるより、広く世に紹介せられたり。1851年「レービッシ」氏の著『児童精神の発達史』と題するものを公にせられたるが、実際上著しき勢力を世に与ふることなかりき。その後1856年「シギスムンド」の『児童及び世界』といへる観察録あらはれたり。氏の観察ははなはだ精密なるものとして一般に承認せられたるが、この後「クッスモール」「ゲンツメル」「フィールオルト」などの生理者及び医師が、ますます精確なる研究をなすに至れり。 1880年「フィリッツ・シュルツェー」氏が公にしたる児童の言語に関する研究も、また有益なるものなり。この頃「ストルムペル」氏は、その心理的教育学を著し、附録として初二年間における、女児の精神発達に関する注意を載せたり。

1882年「プライヤー」氏は『児童の精神』と題する著述を公にし、すこぶる精密なる児童の研究をなせり。而してプライヤー氏の著述が、ドイツにおける学術界に及ぼせる影響は、これを外国に及ぼせる影響に比すれば、かえって少なるの傾きあり。

この故に児童研究は、もしその起源をドイツに発せるも、現今もっとも隆盛の域にあるものは、反りて米国なるを見る。しかれども、ドイツにおいても1896年より「コッホ」「チムメル」「ウーフェル」及び「トルゥペル」などの諸氏の尽力によりて、「ディー キンデルフェーレル」と題する研究報告を発行せられ、以て児童心理学のために、大いに貢献するところあるに至れり。・・・・」(全文引用

〇松本孝次郎「実際的児童学

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高島平三郎『教育的心理学』右文堂、明治38

2014年06月20日 | 断想および雑談

『師範学校教科用書心理綱要』に始まってこの『教育的心理学』三訂をへ、やがて『心理学綱要』に至るのが心理学者高島平三郎の歩み。ブント流の哲学的心理学を実践したが、大正15年『心理学綱要』が出されたころには我が国心理学学界の趨勢としてブントの時代は終わっていたようだ。しかし、こういうものは多かれ少なかれはやりすたれのあるもので、学者というものはよほど腹が据わっていないと目先の真新しさに振り回されてキョロキョロさせられる。その点高島は一貫して科学性(実験・観察重視)を標榜しながらも哲学的心理学の花園にとどまったのは一つの見識というか学者としての一つの姿勢であり、(あくまでも善意に解釈すればの話だが)それはそれで全然立派なこと。



訂正21版・・・教科書としてはベストセラー? 高島の文章は記述が平明で、論旨明快




覚性の心理/悟性の心理/理性の心理・・・・カント流の哲学を心理学的に追求することを、意気揚々と、心理学的研究の課題(=方法論)にした時点で高島は深刻な哲学的難題(アポリア)を抱え込んだことになるのだろ。
心理学の応用編として狂人の心理(精神病学)、犯罪者の心理(刑事心理学)、児童の心理をあげ、教育的心理学では児童を扱うと・・・・・
本書は大正5年には三訂版が出される。そして最後のバージョンが「心理学綱要」(大正15年)ということになる訳だ。こちらは『高島平三郎著作集・第六巻』に所収されている、文字通り高島心理学の集大成版だ。
覚性の心理/悟性の心理/理性の心理というのはやや大風呂敷だとは思うが、本書が目指しているところはエドワード・ホール(Edward Twitchell Hall, Jr.、1914年5月16 日 - 2009年7月20日)というアメリカ合衆国の文化人類学者著「かくれた次元( The Hidden Dimension (1966) 」やパノフスキーが主著「イコノロジー」において指摘した「絵画の意味の三つの層」などとも共通するところだが、高島の場合多様な人間の感覚とか意識(高島はアリストテレスが使った「知・情・意」の概念を援用)をひとつの統合へと導く指標を提供するものであったといえようか。
小宇宙(たとえば人体)から大宇宙(コスモス)→大中小、上中下型思考あるいは特殊から一般(普遍)、個別具体的事例(具体)から普遍的セオリー(抽象)へと至る段階的カテゴリーについての3分法は、天国/煉獄/地獄に纏わる宗教的ドグマとは同形の三位一体的統辞法の所産だが、この種の統合モードはフェルナン・ブローデルの重層する3層の時間のカテゴリー(地球時間、世界時間、生活時間)の中で地域史を再構成しようとする営為の中にもみられるもので、高島平三郎がカテゴリーとして挙げた覚性の心理/悟性の心理/理性の心理というのも方向性としては同じものなのだ。

本書には「法則」とか「原理」とかといったきわめて魅力的な言葉が躍っているわけだが、明治30年代の初期段階にこんな魅力的な心理学の教科書が上梓されていたとは・・・・
当時京都府女学校の学生であった西川文子(旧姓志知)、与謝野晶子の妹:鳳さとらはそんなハイカラな高島の講演に耳を片むけていた訳だ。

大泉は『教育的心理学』(1900)が刊行された時期の代表的な心理学概論書:元良勇次郎『心理学』(1890)、牧瀬五一郎『新編心理学講義』(1892)と目次(内容)の比較を試みているが、やはり断トツにバランスよくかつ意味深く構成されているのは高島平三郎のものだな~。

参考までに
松本孝次郎
児童心理学講義


[目次]
目次
緒論 / 1p
児童研究 / 10p
児童心理に関する著書 / 20p
新生児 / 24p
意識 / 33p
注意 / 36p
感覚 / 43p
(感覚の発達) / 46p
視覚 / 46p
触覚 / 58p
聴覚 / 61p
味覚及ひ嗅覚 / 64p
知覚 / 67p
概念 / 71p
児童の言語の発達 / 81p
観念の連合 / 85p
記臆 / 118p
想像 / 120p
童謡 / 128p
(情緒) / 136p
快不快 / 136p
慾情及ヒ恐怖 / 142p
道徳的感情 / 148p
宗教的感情 / 162p
感情ノ表出 / 171p
意志 / 175p
児童研究に関する注意 / 189p
結論 / 199p

松本孝次郎「実際的児童学」

[目次]
標題紙
目次
緒論
児童研究の必要 / 2p
本論
第一 家庭及学校と児童 / 16p
第二 児童の精神活動 / 33p
第三 感覚教育 / 61p
第四 遊戯及玩具 / 94p
第五 童話に関する研究 / 115p
第六 児童の情育 / 143p
第七 児童の類別或は典型 / 174p
第八 青年期に就きて / 208p
第九 児童の教授及び訓練に関する注意 / 220p
第十 学校観察 / 258p


高島が早くから注目したたとえば児童画について、ここにあるような1)覚性レベル、2)悟性レベル、3)理性レベルで分析し、3つのレベルの総体として児童画の意味を再構成するというあり方は、ある程度、今でも刺激的な研究として成立するかもと思うのだが・・・・さてさて




わたしが最近購入した『教育心理学』の古書には細かい文字で鉛筆の書き込みが・・・随所に。原因を「元因」と書いているのはお愛嬌だが、旧蔵者はまじめな、てか心理学の講義が面白くてほとんど講義には出席していた感じ・・・。


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東京市区調査会「東京市及接続郡部地籍台帳」明治45

2014年06月18日 | 教養(Culture)
東京市及接続郡部地籍地図 上卷
[目次]
標題
目次
東京市全圖
麴町圖
神田圖
日本橋圖
京橋圖
芝圖
麻布圖
赤坂圖
四谷圖
牛込圖
小石川圖
本�圖

明治維新後、勤皇の志士の子供の時代を迎えたころの東京の土地台帳。明治維新後も藩主層は広大な江戸屋敷の所有者となり、その後は不動産(借地借家)業を興業出来たが、江戸住まいの藩士たちは藩邸内の長屋から追い出され、高島平三郎の父親などは故郷の福山へ。江戸から国元へ移住した旧士族たちは高島賢斎(国元に生活基盤を持たず、かつ生活力のない失業士族)の事例が示す通り、明治の世の中で極貧生活を余儀なくされたようだ。
版籍奉還後の福山の詳細にかんしては不知だが、江戸が東京に変わって、土地所有の面で何がどう変わったか、この史料を通じて分かってくるものが多い。

東京市及接続郡部地籍台帳. 1
東京市及接続郡部地籍台帳. 2

東京市及接続郡部地籍地図. 上卷
東京市及接続郡部地籍地図. 下卷

出版者:東京市区調査会
出版年月日:明45

復刻版が出されているが、出版社では品切れ
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国土交通省「霞ヶ関の歴史を紹介する活動」の紹介

2014年06月17日 | 断想および雑談
「霞ヶ関の歴史を紹介する活動」(単なる紹介・メモ)
東京市及接続郡部地籍地図. 上卷,大正1年の掲載図:麹町区域図


柴田徳衛「江戸から東京へ」江戸から東京へ

多分同じ柴田の論文
柴田徳衛の論文だが予察的考察水準にとどまる。
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西川文子 等『新らしき女の行く可き道』洛陽堂T2

2014年06月16日 | 断想および雑談
西川文子 等『新らしき女の行く可き道』洛陽堂T2
文才のない西川文子らの著書の出版を洛陽堂に持ちかけたのは夫西川光次郎?
それとも高島平三郎の紹介や洛陽堂主人河本亀之助自身の勧めだったのか・・・・・





西川らは平塚らいちょうの「青鞜」の向こうを張って、新真婦人会を結成。文芸中心の「青鞜」より、婦人問題・修養(倫理道徳)といった面に比重を置いた同人誌「新真婦人」を発行。
洛陽堂は西川光次郎・西川文子に生活支援だけでなく、高島の提唱した心的革命路線とは無関係に婦人問題(婦人をめぐる意識改革)に加担。
西川は大正3年に『女性解放論』を中央書院より発行。

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高島平三郎の会心作

2014年06月12日 | 教養(Culture)
『高島先生教育報国60年』に猪瀬乙彦の執筆で高島が心血を注いだ著書として『児童心理講話』、『体育原理』、『心理学より観たる日蓮上人』、『心理学綱要』、『家庭・婦人・児童』など、また会心作として『師範学校教科用書内国教育史略』、『師範学校教科用書心理綱要』、『日本教育史』、『児童を謳える文学』、『現代の傾向と心的革命』、『心理と人生』、『修養20講』、『児童の精神及び身体』、『女心と世の中』、『家庭における子女の教育』等だと・・・。

体制改革論者は体制改革を口にする前に修養を積み自己の内面を改革してほしいという思いから「心的革命」という言葉が使われた。100年以上前に出版されたものだがカバーの痛みも少ない。


何故か二冊入手した。本書は児童研究者高島が多兎を追い始めたころに書かれたもの。


天金


本文関係はGoogleBookにて公開されている。
通読してみたが、徳富蘇峰のもの(文体)ほど洗練はされていないが、彼の著書より平易な記述で、現在読んでも中々どうして、驚くほど示唆に富む内容。何より、明治末期(日露戦争後)の社会史の一端が伺える点が助かる
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高島平三郎が長男文雄に宛てた旅先からの一通の手紙(明治44年)

2014年06月07日 | 教養(Culture)
高島平三郎は筆まめだったとみえ、よく井上哲次郎に絵葉書を送っている。ここで紹介するのは『高島先生教育報国60年』に収録された平三郎46歳時の息子に宛てた旅先(名古屋の志那忠旅館→信忠閣)からの一通の手紙だ。
東京帝大医学部教授永井にとって高島は恩人だった。高島は10歳違いのこの人物を幼少期(神童ぶりは長谷川櫻南経営の浚明館@松永では有名だった)から自分の身内のように思って親身に接してきたらしい。
高島の長男文雄(1895-)は東京高等師範付属中学時代、永井の自宅に下宿し、そこから学校に通っていたようだ。手紙はその永井宅宛てに出されたものだ。当時永井の家には東京帝大の法科の学生だった弟河相達夫(1889-1966)が同居していた。高島にしてみれば長男文雄が永井・河相らの感化を受けながら育つことを期待していたのだろか。超多忙な高島ではあったが、高島が思春期にある文雄にいかに神経を使っていたかが透かし見えてくる、実に情愛に満ちた感動的な内容。しかし、息子に「第二の高島平三郎」を目指せというわけだから息子としてはやはり心の負担になったかも(『高島先生教育報国60年』で文雄は自分たちはのびのびと育てられたと述懐)
当時高い学閥の壁に幻滅させられることが頻発していたのか、高島自身の言葉では学歴のない自分は容赦なくアカデミズム圏外の人間として疎外されていると(だから文雄は最高学府を目指せという話になる)。牧野富太郎と高島の差は片や専門分野一筋、片や自分のイメージしている十分の一も専門領域の事が出来なかったとこぼさざるを得なかった辺りだろか(「自分の思っていることの10分の1」発言は『高島先生教育報国60年』において晩年に至っても高島自身が繰り返している。高島の謙虚さの発露だと思われるが、若いころ文雄に宛てた手紙の中でのその言葉は、おそらく将来自分の思っていることを思い通りに実践するためにも今はしっかりと勉強を!といった親心の込められたものだろか)。その点で多兎を追い日蓮研究に嵌ってしまっていた高島だったが、心理学関係者からの陰口を気にかけつつも、文面からは日蓮の生き方に学者としての高島のそれを重ね合わせた時に共感するところが大きいと書いている。当時一部の知識人の間では国柱会等への入会が流行するなど日蓮思想の再検討が進められている。
写真は長男文雄(当時13歳、長じて1964年東京五輪・聖火空輸派遣団の団長を務めた東京帝大卒の弁護士、文雄の子弟:岩崎家・豊田家といった我が国財界を代表する名家との姻戚関係を構築)と平三郎(明治41年3月頃)
 


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高島平三郎の旧宅「梅屋敷」ー一枚の家族写真を巡る雑感ー

2014年06月06日 | 断想および雑談
高島平三郎の母親加寿子の追悼録に掲載された一枚の写真を巡って、あれこれ想像をめぐらしておこう。
この写真は高島夫婦と母親、そして夫婦の子供(4人)の7人よりなる高島家の家族写真だ。抱かれた赤子は明治40年8月30日生まれの第四子(武雄)。長男文雄(明治28年7月1日生まれ)、長女ゆりこ(明治32年12月10日生まれ)、梅の小枝を持った二女すみこ(明治36年5月23日生まれ)。服装から判断すると文雄はまだ高等小学校の生徒?。
高島平三郎の母親加寿子は翌明治41年9月28日に逝去(墓地は池上本門寺)なので、本写真は明治41年の梅花季節(3月)撮影されたものだろ。
葛原しげるの文章に「・・・・間もなく高島家は大崎の梅屋敷へ転居された。それは名の示す通り広い梅畠の大きな屋敷(468坪)、南に傾いた丘陵、梅は何百本あったろうか。丘のふもとの平屋が先生の住家で、梅林の中の一軒家には先生の知人が住んでいた。・・・(中略)・・・・丘の上にも別の風雅な1棟があった。先生が瞑想や読書に耽ったりされる所であり、私たちは、楽之会の講演の前後の小時を、そこで富士の遠姿を楽しんだりした。」とある。
老婆はお出かけ姿風に藤製の手提げ籠をもっているが、わざわざ他所の梅林に記念撮影に出かけたとは考えられないので、この写真はおそらく高島の屋敷地内にある梅林でショットされたものだろ。
「南に傾いた丘陵」とは目黒川北岸の台地端の緩傾斜地を指し、「丘の上に」ある風雅な一棟より「富士山」が遠望できたようだ。屋敷内の一軒家に住む先生の知人の「井口老人」は写真術が上手だったらしい。葛原しげるのいう「井口老人」というのは地籍図に記載された井口栄治。当時高島家には平三郎の母親の異母弟猪瀬伝一が同居中。この人物は明治43年12月に病死したようだが、晩年は平三郎の屋敷に移り住み医療看護を受けている(「高島先生教育報国60年」、11頁)。

「東京府荏原郡品川町大崎町」(東京逓信管理局 編、明治44年)での高島平三郎の「梅屋敷(面積は468坪、この付近では比較的大きな屋敷:大崎町長で資産家立石知満旧宅)


明治45年「東京市及接続郡部地籍台帳. 2」によると高島邸は下大崎183番地に住んでいた旧大崎町の町長の後年府会議員となる米穀商にして大崎信用組合の創立者立石知満(1870-1945)の所有地(旧宅)であったが、ここを中古購入という形で入手したものだろうか、それとも家屋敷全体を立石から借りたものだったのだろうか。地籍図には183番地の土地に対して「高島平三郎邸」「井口栄治」と注記があるが、土地台帳上、当該地所の所有者は「立石知満」なので後者だったと思われるが、この辺の問題はなにぶんにも品川区史に不案内なためなお調査が必要だ。

東京市及接続郡部地籍地図. 下卷」大正元年 →荏原15 字坂下183番地が高島平三郎邸、雉子宮・宝塔寺(品川区東五反田1-2-29)の南隣(現在は清泉女子大西方に当たり、宝塔寺墓地の隣のマンション(「藤和島津山コープ」)敷地





高島の児童研究は子育てと同時進行で行われた。
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西片町界隈ー赤門前の「学者町」ー

2014年06月05日 | 教養(Culture)

東京帝国大学から西片町一帯は戦災に会わなかったようだ。それに対して後楽園一帯は広範に焼け野が原状態。

柴田徳衛によれば、
江戸の大名屋敷は維新以後になると自己の邸宅用に広大な地所を確保し、残余の土地は細かく再分化して多数の借地借家にあて、旧大名たちはそれを収入源とした家計の維持をはかるようになった。それに対して福山藩主阿部は藩士の長屋を区画整理し、有識者や学者を優先的に入居させ、銭湯、下宿、店舗の開業を禁止し、その代わりに公園、学校を設けたと。こういう阿部家の方針が「学者町」の誕生を促進させた訳だ。


本郷西片町の歴史
西片の年表(以下全文引用)
江戸時代
1610 慶長15  阿部家2代正次 将軍秀忠より「本郷丸山」10万余坪拝領。
1697 元禄10  5代正邦 丸山下屋敷の内、13,000坪を幕府に上地(現丸山新町)。
1725 享保10  6代正福 丸山下屋敷の内、6,850坪を幕府に上地(現丸山福山町)。
1818 文政01  9代正精 丸山邸内藩校(福山藩文武教習所)創立し、孔子像礼拝。
       同   5月丸山邸内に天文測量場創立(石坂常賢が管理。常賢はこの年『分度星図』を完成、文政8年             に幕府「天文方」に採用される)。

1827 文政09   同    6月正精逝去し、8月天文測量場廃止。
              8歳の阿部正弘 江戸城西丸下の老中役宅より丸山邸内に移る。
1833 天保04  10代正寧 15歳の阿部正弘 丸山邸内滝五郎御殿跡に住む(~天保7)。
1843 天保14  11代正弘 阿部正弘老中に(25歳)。
1845 天保16   同   阿部正弘老中首座に(27歳)。
1852 嘉永05   同   全焼の江戸城西丸普請の功績により1万石が加増、藩校誠之館設立費用に充てる(嘉                 永6年、邸内の藩校を誠之館と改称)。
1854 安政01   同   日米和親条約。江戸丸山誠之館開講。翌年福山誠之館開講。
1855 安政02   同   江戸大地震で辰の口上屋敷倒壊のため、正弘と奥方は丸山中屋敷に仮住まいし、正弘                 は馬で江戸城に通う。
1857 安政04   同   春に丸山中屋敷にて甲冑調練(大小砲空発。本陣は誠之館)。
                 6月正弘逝去(享年39歳)。
1867 慶応03  13代正方 大政奉還
明治時代
1868 明治01  江戸城開城 慶応から明治へ改元。
1869 明治02  版籍奉還で14代正桓氏、福山藩知事となって赴任。
1871 明治04  廃藩置県。正桓氏は丸山の地を本邸とする。邸内で養蚕事業開始。
1872 明治05  西片町誕生。貸地貸家経営始める。「(西)御殿前通り」(現阿部通り)開通。
1875 明治08  誠之小学校開校。「大通り」(現学校通り)開通。 町内に養蚕室を建築。
1878 明治11  本郷区誕生。
1880 明治13  清水橋(から橋)が架けられ、橋下を通る「清水通り」開通。
1883 明治16  阿部家の貸地に有斐学校建つ。(明治23年返地)。
1884 明治17  「桑の小路通り」開通(養蚕のための桑畑を住宅地にした)。正桓氏伯爵に。
1885 明治18  田口卯吉邸「へノ14」洋館建築(現在国登録文化財)。久徴館新築(加賀藩学生寮。館長桜井錠            二。28年廃止)。
1887 明治20  誠之小学校内に幼稚室設置(後に誠之小学校付属幼稚園)。旧「新坂」開通。
1888 明治21  西片町十番地内に「いろは番号」をつけて、各戸に木札配布(300戸)。十番地以外の1~22は             表組とする。
1889 明治22  上田敏(詩人、小説家、翻訳家、東大教授)が田口卯吉宅「へノ14」に寄宿(→明治32年に7番→            10番にノ44→明治42年京都へ転居)。
1890 明治23  阿部家本邸新築工事着工。 旧養蚕室を改造して誠之舎竣工(福山藩学生寮)。
1891 明治24  阿部家本邸完成。門前の「大椎の木の広場」を整備し、大椎の木の周囲に柵。
           樋口一葉は上野図書館からの帰途、から橋の下を通る(日記)。
           鈴木大拙が久徴館に下宿。
1892 明治25  樋口一葉の師・半井桃水が河村重固宅「はノ1」に寄宿(河村の妻は桃水の従姉妹)。この家を樋           口一葉が数回訪ねる。
1894 明治27  中根重一(福山藩士で夏目漱石の妻鏡子の父)貴族院書記官長に(鏡子は明治29年に熊本で            漱石と結婚)。武田五一(後に清水橋や阿部邸洋館を設計)誠之舎に入舎。町内に街灯設置。
1895 明治28  滝廉太郎、西片町九番地に住む(31年に麹町へ転居)。
1897 明治30  誠之小学校付属幼稚園が現在の第一幼稚園の地に新築移転(「ほノ7」)。
1898 明治31  新「石坂」開通。田口武次郎宅「へノ4」に水道設置。電灯線設置。
           木下杢太郎が西片町に住む(昭和12年「はノ8」へ転居)。
1899 明治32  町内に水道鉄管敷設。
1900 明治33  寺田寅彦、西片町「いノ16」へ(明治35または36まで居住)。
1903 明治36  二葉亭四迷、西片町「ろノ14」に住む(2年後に「にノ34」へ転居)。
           町内にガス管敷設。
1906 明治39  夏目漱石が12月に千駄木より「ろノ7」に転居

夏目金之助 本郷西片町十ロノ七(地図参照) 、明治40年9月14日書簡


           このころ清水橋(から橋)架け替え工事行われる(武田五一設計)。
1907 明治40  漱石『虞美人草』執筆。9月早稲田に転居。
1908 明治41  4月魯迅が漱石の西片町旧居に友人5人と住み、「伍舎」と称す。10か月後
           「はノ19」に転居し、翌年8月帰国。
           誠之小は「東京市誠之尋常小学校」と改称。
1912 明治45  佐々木信綱「いノ16」に住む(昭和19年熱海へ転居)。
大正時代
1913 大正02 「大椎の木」暴風により衰弱が始まる。
1914 大正03  阿部正桓氏逝去。正直氏15代当主となる。
1915 大正04  史蹟名勝記念物「大椎樹」の石碑を大椎の木のそばに建立(現在も存在)。
1917 大正06  阿部家16代当主正道氏誕生。阿部家は馬車をやめ自動車にかえる。
           正道氏は元西片町会会長。平成23年に亡くなられるまで西片町会名誉会長。
1923 大正12  関東大震災発生。阿部家本邸の一部を被災者に提供。誠之小学校と椎の木広場にも被災者。            町の人々は救援活動をし、これを機に旧西片町会創設。初代町会長は阿部家の家令大森ケン之           介氏。婦人会会長は正道氏祖母。

昭和時代
1928 昭和03  阿部家は本邸を外庭に新築して移り、「い」の新開地「いノ21~62」設立。
           白山神社に阿部家旧応接間および土蔵(現神輿庫)寄贈。
1929 昭和04  旧町会建物を現在の会館の地「いノ24」に移築、模様替え。
1930 昭和05  椎の木広場を児童遊園とし「阿部公園」が誕生(元旦に開園式)。町の人々は「阿部さま公園」と            呼ぶ。公園東端に公園詰所あり。
           福山坂(新「新坂」)開通。
1931 昭和06  葛原しげる「ろ‐5」より「い‐43」の新居に転居。
1937 昭和12  誠之舎「はノ23」に新築(現在の日銀寮地)。木下杢太郎「はノ8」へ転居。
           このころ、木造の清水橋(から橋)はコンクリート造橋に架け替えか?
1940 昭和15  阿部公園に「世継ぎの椎」植樹(皇紀2600年祝賀西片町記念事業)。
1941 昭和16  誠之小は「東京市誠之国民学校」と改称。
1942 昭和17  阿部公園の一部を本郷消防署に貸す。公園詰所は「警防団詰所」になる。
1943 昭和18  町内の家々で防空壕。隣組組織・防空防火体制が強化。町内の出征者多し。
1944 昭和19  東京空襲に備え阿部家は公園の南側を国に寄付。公園に本郷消防署の西片町出張所招致。8             月~11月西片町の出陣学徒を町会として見送る壮行会(誠之小講堂)。8月佐々木信綱作詞・             朝永研一郎作曲『西片町に住める学徒諸氏の出陣を送る』歌が壮行会で発表される。誠之小の            学童疎開開始(~20)。
1945 昭和20  8月ポツダム宣言受諾、9月降伏文書調印
1947 昭和22  旧西片町会解散(5月新憲法施行。連合軍総司令部により全国町会解散)。
            6月西片会館建設委員会が設立される。 新教育制度導入により東京市誠之国民学校は文京             区立「誠之小学校」と改称。 終戦直後から町内で青年たちを中心にサッカー部(西片町クラブ)・            西片町合唱団・ジャズバンドなどの活動盛ん。

1949 昭和24  「ほノ30」にあった交番廃止(佐々木信綱が桜の木を詠んだ交番)。阿部家は公園をすべて文京            区に無償貸与し、公園は区の管理となる。



版籍奉還後、阿部家の江戸屋敷は阿部家による養蚕業から,不動産業への転換の中で大きく変貌を遂げる。
本郷区西片町10番地図



東京市及接続郡部地籍地図. 上卷,コマ番号618/647


明治43年日本児童学会の会員名簿を見ると東京帝大のお膝元西片町を中心として本郷区に学会員が目立って多かったことが判る。因みに本郷区(45名)、四谷区(6)、小石川区(35)、牛込区(11)、赤坂区(11)、麻布区(6)、芝区(6)、麹町区(18)、京橋区(19)、日本橋区(8)、神田区(33)、下谷区(12)、浅草区(5)、本所区(3)、深川区(3)、東京府(郡部・・26)、京都府(55)、大阪府(35)、広島県(24)など

高島平三郎は大正2年4月27日 本郷西片町の誠之舎舎長を委嘱され、府下荏原郡大崎町字谷183番地(のちに東京市品川区)より舎内に転居。現在誠之舎跡には日本銀行本店・誠之寮が建つ。



参考文献:
柴 田 徳 衛「江戸から東京へ――土地所有の変遷――」

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一時期、雑誌「児童研究」を私物化した高島平三郎

2014年06月04日 | 教養(Culture)
私物化というのは語弊のある言い方だが・・・・
サービス精神旺盛なうえ筆まめ(いや能筆家)な平三郎の事ゆえ、どさくさに紛れついつい私事に亘って記述してしまうといったこともあったようだ。
じつはその部分が私的には大変有難いことになっているのだ。
ところで京都府高等女学校の校友誌「鴨沂会雑誌」第十二号(明治32年12月)に高島平三郎の講演要旨「女子の天職」が掲載されていた。

是と関係する記事が「児童研究」2-8(明治32年6月)に「高島平三郎氏の九州行」という形で掲載されている。こんな記事だ




高島曰く
「明治32年3月盡日の九州出張はこの地方での中等学校における倫理教育の実態を視察するためだった。
東京を出発し、途中名古屋(師範学校で講演)・大坂(一泊)、故郷福山(4月3-5日には父兄の墓参)に立ち寄り、船で尾道から愛媛県今治ー日向細嶋経由で4月7日に細嶋につき、直ちに宮崎へ。宮崎には3日間滞在し、神武天皇社の大祭を見て、教育品展覧会および種々の産業会に。宮崎県師範学校の要請で教職員生徒を対象とした講演会。4月11日に宮崎を立ち、「鵜戸の勝概」(現日南市鵜戸神宮?)を訪ね、轉じて油津(日南市)より飫肥(日南市)に出て、「牛嶺の険」(上熊峠?)を越えて都城へ。同地に新設された中学を一覧して鹿児島入り。2日滞在し、各学校を視察し、「女子工業学校」(鹿児島女子興業学校→現・鹿児島市立鹿児島女子高等学校)にて講演。汽船で長崎に。ここで2泊し、その間師範学校・中学を視察。ただし、師範学校では講演会。4月18日九州鉄道で門司へ。ここで1泊し、山口県徳山へ出て、ここから山陽鉄道で広島へ。20日広島県師範学校で講演。夜福山へ。翌日と翌々日は沼隈郡(福山近傍)内の2か所で講演。4月22日夜、京都へ向かい、翌日京都府教育会の招待で、総集会場にて講演。翌4月24日府教育会の講習会にて一週間講師として児童心理学を講じ、4月盡日に帰京した」と。

同氏「」という、という形で高島以外の人物が執筆した体裁を装っているが、以下で紹介するように漢詩や短歌を目いっぱい掲載するなどしている点など、間違っているかもしれないが、高島自身が、良い意味での話だが、編集者としての特権をフルに活用した記事だとわたしには思えてしかたない。この辺の事は高島のユニークな性格がそうさせるのだと思われるが私的にはとてもありがたい公私混同

忙中の閑事として詩歌を得たので幾つか摘録するとして旅先で読んだ短歌・漢詩を13首掲載。
わたしにとって大変にありがたい公私混同とは、「幼き折、植えおきたる櫻の花咲ければ」として福山での墓参をしたときの歌を次の様に詠んでいる点。なお、父親の賢斎は明治25年3月23日没。
むかしわれ、植えてし桜、花咲きぬ、折りて手向けん父の奥津城


参考)高島の姉は当時、福山の土屋某家に嫁いでいた。
高島は来福時には福山市木之庄の高島家の墓地(父親賢斎墓)、その近くの恩師門田重長(1848-1915)の墓地(城北木之庄墓地)へのお参りをした(安部諭吉記述、188-192頁)。門田は古武士の如き風貌だったようだが、『現代の傾向と心的革命』の中では旧態依然とした儒学を高島が徹底的に批判するときに、それはむかしながらの門田の授業方法を念頭に置きながらのものであったと思うが、高島は江戸の阿部藩邸生まれの門田重長に対しては父親賢斎や自らの境遇と重ね合わせて、別の意味で心から敬愛していたようだ。


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丁酉(ていゆう)倫理会

2014年06月03日 | 断想および雑談
丁酉倫理会
以下全文引用
□「日本で最初の倫理学研究会。1897(明治30)年に姉崎正治・大西祝・横井時雄・浮田和民・岸本能武太らが設立した丁酉懇話会を母体として、1900年に発足した。「保守的国家主義に対して人格主義を主張し、宗派争いや神学や教理論争以外に人間の道を求める」(姉崎)★をモットーとした。月1回の研究会や講演会を開催し、さらに全部で535集にも及ぶ講演集を発行した。02年の哲学館事件では罷免された中島徳蔵の弁護をするなど、穏健な立場を維持していた。47年(昭和22)に解散したが、会員の多くは50年設立の日本倫理学会に引き継がれた」(日本思想史辞典[2009:674])

「イデオロギー的には国家権力による忠君愛国思想の国民への注入に呼応する姿勢をしめしながら、しかしそれを単に受注するだけではなく、「人生の本然に稽(かんが)へて」国民個々の《自然支配》の自律的要求へと切り換えていこうとする日本の知識階層の姿勢を示しているという点である」(宮川透、1980『日本精神の課題 〔新装版〕』紀伊國屋書店. 137頁)
茅野 良男 「井上円了と東洋大学(1)」、井上円了センター年報16,2007

「丁酉倫理会は明治三十年一月に姉崎正治・大西祝等により、「宗派に拘泥しない倫理運動〔56)」を起そうとして発会し、三十三年五月卜一、百から講演会の記録を「倫理講演集」として発行、三十七年以来監事を中島徳蔵に委託、中島は同年一月以来、毎月講演集を編集、昭和五年一月末まで編集主任(57)を続けた。丁酉倫理会の倫理講演集は昭和二十年度第五一六輯まで続き、昭和二十二年度から丁酉倫理、昭和二十二年三月から倫理と改題、少なくとも昭和ニ十四年三月号の第五四八輯までは発行されている。」(本論文、17頁)



高島平三郎は丁酉倫理会の発足時からのメンバーのようだ。


明治32年丁酉倫理会のメンバーとの集合写真(『藤井博士全集・第三巻』扉写真)

彼の論文(「満36年の思い出」)は後日ゆっくりと検討してみよう。
葛原しげるの述懐によれば「姉崎正治、木下尚江、洋行帰りの誰やらも、新学説のだれやらも」高島平三郎の家(荏原郡大崎の「梅屋敷」)で催された楽之会の集いに招かれて講演(スピーチ)をやらされていたようだ(『高島先生教育報国60年』、275頁)
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明治31年当時の高島平三郎家における言葉使い

2014年06月02日 | 教養(Culture)
児童研究1-2(明治31年12月)を見ていたら幼児の妖怪イメージに関する記事(無記名だが高島平三郎執筆)が載っていた。これは連載されていた「児童と猿族と」(ヒトとサルの個体発生上の特徴の比較を行い、サルの嬰児はヒトの児童に近いが成長するにしたがって両者の差はとてつもなく大きくなると指摘)に関連した記事として掲載されたものだ。


ある母とは高島の妻・寿子のことで、長男文雄(明治27年7月1日生まれ)の育児日記を平三郎の指示でつけていた。高島はわが子の事例を抽象化して、満三歳の幼児が想像する妖怪とはどんなものなのかを例示している。
31年7月20日とは日記の日付。満三歳のお誕生日が終わった時期である。
坊・・・・文雄のことを”坊”と呼んでいる。文雄も自分自身のことを”坊”と表現。母上とは平三郎の母親:加壽子(カズ)
平三郎は江戸っ子風の人物だったらしいが、育児日記の文面はこんな感じだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
坊がおばけがいると言いしに、母上がおばけというものがいるかね~と、お尋ねなされしゆえ、坊は「いるよ、坊、長野にいるときに見たの」と答えぬ。母上、またどんなものでしたと仰せられたれば「顔がお猿のようで、首が赤くて、手がなくって、あんよばっかりで、しっぽに毛があるの」と申し上げたり。


満三歳の文雄が答えた妖怪は、おそらく平三郎の解釈も加えられ前掲のような前肢のないサルでイメージ化されている。3歳の幼児が異類(動物)のイメージを持ちだし、身体の一部が一つ目小僧のように欠落したフリークスを妖怪と答えたわけだが、「顔がお猿のようで、首が赤くて、手がなくって、あんよばっかりで、しっぽに毛があるの」という答えはちょっと三歳児のものとして構文が整いすぎ、相当に大人染みているので母親寿子の脚色が加わっているか、母親or父親あるいはその他の家族から刷り込まれた童話中のイメージを文雄が単に模倣/変形(加工や添削)し答えただけの可能性もある。
それはともかく、当時高島家では広島弁ではなく、こんにち我々が使っている標準語(東京方言、山の手言葉)が流通していたことがわかる。
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東洋大学学術リポジトリ

2014年06月01日 | 断想および雑談
東洋大学学術リポジトリ

東洋大学の中での高島平三郎に対する記憶は・・・・

教員名簿を見ながら「高島平三郎は心理学の先生」(上原 恒治(東洋大卒、東洋大職員)「大正期の学園」東洋大学1,1883)

 郷さんとか、境野先生とよく話をしました。私は境野先生にかわいがられまして、着物をつくってくれたり、よく雑誌など買ってくれたりなんかして、とてもお世話になりました。アメリカへ行かれたときなんか、絵はがきを私が好きだということを知っておられたのかして、旅行中になんども絵はがきの便りを送ってくれたんですよ。
 (教員名簿をみながら)先生方だな。石川義昌、これは時事新報かなんかの記者をしていた人だな。田部重治先生、みんなとよく話される、静かな先生でした。和辻哲郎、哲学の先生か。尾上八郎、柴舟という先生。得能文、この先生も古いんだよな。高島平三郎は心理学の先生だよね。高桑駒吉というのは何の先生だったかな、「おれは学問やったから馬鹿になった」なんていう、面白い方だったね。



「偉い先生というのでわたしが覚えているのは・・・・中島徳蔵、高島平三郎、吉田熊次先生たち」(西義雄(東洋大教授)「昭和初期の学園」、東洋大学史紀要3、1985、P.124

 「そういったら、皆約束しますということだったので、こういう学校だ、学祖は護国愛理を説いたということを話したら、大倉さんは私の趣旨に全く同じだということで、内諾を得たんです。あとでまた四人やってきたので、私もそのときは出ない、君たちも出ないで偉い先生達に交渉に行ってもらってくれということにしたんですが、偉い先生というので、私が覚えているのは、中島徳蔵高島平三郎吉田熊次先生達です。この当時の偉い先生が三、四人で正式交渉をされて、十二年から大倉さんが事務員を連れてきて学長になられました。」

関寛之(高島平三郎の弟子)時代、東洋大学子供会が出来、キャンパスに3000人もの子供が集まったことがある(P.118)。

「 社会事業科とこども会
  ーさっきの文化学科と並んで、社会教育社会事業科というのがあったんです。
 西 朝原梅一さん(卒業生で、当時、教授で理事をやっていた)という人が熱心で、その人が社会事業科を始めたと思います。それは大正時分からあったんですよ。
   大正十三年三月から卒業生が出ていますね。
 西 やっぱり文化学科と同じぐらいじゃないんですか。夜学です。私の友人でいまでも生きている野村徹翁というのは、そこの第一回の卒業生で、伏見の地蔵院(油懸山地蔵院西岸寺)にいます。まだ元気でいるはずですが、寮に一緒にいました。
その時分の社会事業科の女性にもなかなかいいのがいましたよ。珍しい学科ですからね。朝原さんのときの東洋
大学の子供会は有名で、たいへんな子供が坂の下のほうからもやってきました。
    子供会というのは東洋大学子供会ですね。白山でやったんですか。
 西そうです。この上で。
    『観想」なんかにそのプログラムが載っています。
 西 そうですか。私も一、二回出たことがあるけれども、たいへんな子供でした。記憶に誤りがあるかもしれませんが、講堂が建ったときにやったのなんかは、小さい子供が三千人ぐらい来て、二階でもなんでも鈴なりになって、満員なんです。たいへんな子供がこの辺にいるもんだなと思いました。(笑)東洋大学の子供会はたいへんなものだと外部でもいっていましたよ。
  ー社会事業科と関係があるんですか。
 西 朝原さんに聞いてもらうとよくわかります。子供会の会長か何かでしょう。
  ー昭和九年ですと、もう大講堂は落成しているころですね。
 西 その前から子供会をやっていたんですが、ぼくの覚えているのはその頃のこと。
    昭和三年の子供会のプログラムがあります。
 西なかなか盛んでした。関寛之さんも知っています。始めたのは飯田尭一さんだと思いますよ。
    そうですね。大正十二、三年ごろから始まっているわけですから。ところで塚本哲さんも十五年に社会事業科を出ておられます。」



 「西 ええ。各県から出ている軍の協力者になったんです。そこで、陸海軍の中将以上を大倉山に呼んだりする
という会がありました。研究所はだんだんやめることになって、そのときいま日本大学の教授になって活動している古田紹欽、死んだけれども国学院大学の教授をしていた神道の西田長男といった連中が私の下にいたんですが、原田君が首を切ると言い出したんです。
 古田と西田は私の下だったものですから、こういうことで困ったと報告するから、私は「首を切ってはいかん。」
と申し出た。「首を切るなら私も辞める。」と言って、「首を切るということではなくて、研究ということにしたらどうか。私は大倉精神文化研究所の研究の看板を持っておりる」と大倉先生にいったら、「それはしょうがないだろう」というわけです。それで十八年の十 月ごろに私は大倉山を辞めたんですが、そのとき西田と古田も辞めました。ほかの研究員はもう辞めてしまっていたんです。
 そのころ、橘高君が東洋では大いに頑張っていたんですが、十九年の三月に米峰氏が辞めたんです。和歌山県かどこかに動員に行っていた学生が騒いで、卒業式のときに坂本幸男などが殴られたということがあったらしい。私は卒業式に出ていないんでよく分りませんが、二之宮が加わっていたとかなんとかいうことを、あとで聞きましたが、それは知りません。
 それで高嶋米峰が「おれは命にかかわるから学長は辞める」といってどうしても再選に応じない。そのあとで選考したのが高島平三郎なんです。高島平三郎学長の幹事長が橘高氏で、「ぼくは今度幹事長になったんだが、君は学生主事長になってくれ」と頼まれました。」

結論 東洋大学では大学として学祖:井上円了の研究には熱心。その他はなし。
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